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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu192.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本の閉塞感は政治家や公務員にいたるまで特権階級が固定化され、
子供の時から教育から差別化されてエリートの子がエリートになっている
2009年5月17日 日曜日
◆作家・佐藤賢一さん、茂木健一郎さん対談 今の日本は革命前夜の仏にそっくり 1月27日 IZA
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/216267/
「今の日本は革命前夜のフランスにそっくり」。作家の佐藤賢一さんが、脳科学者の茂木健一郎さんと行った公開対談で、現在の社会情勢を独自の視点で語った。佐藤さんは『小説フランス革命』(集英社、全10巻)を執筆中。対談は第1、2巻の刊行記念として「日本はうまく変われるか」をテーマに、18日に東京都内で開催された。
佐藤さんは「フランス革命が起きたおおもとには、国家の財政破綻(はたん)があった。(革命を指導した)ミラボーが『国家の赤字こそわれわれの財産』といったが、変革は国家に弱みがないとできない。今の日本と同じ」と持論を述べた。
興味深い共通項があるという。一つは、革命前に作家志望者が増えた点。「ミラボーは作家だったし、(政治家の)ロベスピエールやナポレオンも若いころ小説を書いている。革命前は、親が何だったかで自分の人生が決まったが、唯一の例外が芸術や学芸。小説家になりたがったのは、それしか突破口がなかったから」。一方、日本については「頑張ったら報われるという希望が薄れてきている。それでは満足できず、ブログで自分を発信したいという要求が社会の中でものすごく強い。非常に似通っている」という。
そして、革命前の凶作と現在の金融危機。「誰が頑張ってどうなるというものではない。絶望感は場合によっては引き金になりうる。日本は革命が起きてもおかしくないところまで来ているのかなと思う」と続くところへ、茂木さんが「麻生さんがルイ16世ですか?」と冗談交じりに切り返し、会場をわかせた。
佐藤さんは海外の歴史を知る意義にも触れ、「明治維新という成功体験だけで物事を考えるのは危険かなと思う。違う成功パターンを知ることは、自分たちの行動の選択肢を広げる」と締めくくった。
◆「下流の子は下流」は本当か? 格差世襲社会の現状を徹底分析 2008年08月25日 ダイヤモンドオンライン
http://diamond.jp/series/newdw/08_08_30/
「下流の子は下流?」 かなり刺激的なサブタイトルですが、現実にいまの日本は、そう言わざるをえない状況となっています。
特集では、子どもの教育にはカネに糸目をつけない富裕層の話の一方、父親がホームレスになったために施設で暮らし、高校卒業後に施設を出たら自分もホームレスになってしまった青年の話など、対照的な事例が数多く出てきます。
親の経済状態、生活状態によって受けられる教育が違い、それが最終学歴の差となり、職業、収入の差になっていく──。貧乏をバネに格差を乗り越えるどころか、まさに格差が「世襲」される社会になりつつあることがわかるはずです。自由主義社会の絶対条件である「機会の平等」は、いま風前の灯火です。
学歴や資格、地位を得るには、試験など各種の選抜システムを経るだけに、本人は「自力で得た成果だ」と錯覚しがちですが、生まれつき手にしていた親の学歴、収入の差という「既得権」を元手につかんだ実績なのであれば、それは最初から公平な競争ではなかったのではないでしょうか。こういう競争を「出来レース」と呼びます。「世襲」とは、言い換えれば「出来レース」ということです。
日本全体を見渡せば、政治家、高級官僚、経営者といった社会のリーダー層も、世襲にまみれています。選挙を勝つのに欠かせないのは「地盤、看板、カバン(おカネ)」といいますが、世襲議員が増殖する理由はまさにその点でアドバンテージがあったからにほかなりません。政治家というのは、「選挙」という一見、公平な競争を勝ち抜いて、自力でつかんだ地位のように思えますが、決してそんなことはないわけです。
自らを明らかな特権階級と自覚するヨーロッパの貴族は、「ノブレス・オブリージュ(高貴な義務)」を素直に実践することができますが、自分は公平なレースを勝ち抜いてきたという誤解と奢りは、弱者の存在を見えなくします。そして、「貧しいのは自己責任」と勝者の論理を振りかざすようになります。リーダー層は、なぜいま自分がその地位にいるのか、自らに問い直す必要があるでしょう。
現代の日本社会において、格差が存在することは仕方がありません。しかし、本人に原因のない格差の責任を本人に負わせるべきではない。産まれたばかりの赤ちゃんに、逆転不可能の人生を背負わせるような社会であってはなりません。
そんな問題意識を込めた特集です。解決策は容易には見つかりませんが、まずはだれもが事態を自覚し、考えることにこそ意義がある。ぜひ、ご一読下さい。
(私のコメント)
一昨日の日本テレビの「太田総理、秘書田中」で「二世議員は立候補を禁止します法案」を審議していましたが、それくらい日本の国会議員は世襲議員が多くなってしまった。昨日決まった民主党にしても小沢前代表も鳩山新代表も世襲議員だ。世襲議員は困難に直面すると問題から逃げてしまう。自民党の安倍内閣も福田内閣もそうだった。
宮沢内閣以来の内閣総理大臣は、驚く事にほとんどが世襲議員であり1年ごとにクルクルと総理大臣が代わった。日本の総理大臣となると国会答弁から外遊に至るまで毎日が非常にハードな日程をこなさなければならない。世襲の国会議員の多くがこの職責に耐える事が出来なくて総理大臣の座を放り投げてしまう。
公務員にしても、公務員の子が公務員になるケースが多くなってきている。昔は公務員は安月給だったのですが、今は民間の倍近くも給料が良くなっているから公務員の世襲化が進んでいる。特に地方公務員など議会選挙や首長選挙の手伝いなどで公務員は大きな影響力を持っているからコネで固めてしまう。
民間企業でも経営幹部が世襲だと他の社員のモラルが低下して優秀な人材が集まらなくなりますが、国会議員でも同じ現象が起きているのだ。選挙で選ばれるのだから何が悪いのかという意見もありますが、小選挙区制では世襲候補が党で公認されてしまうと党の支持者は選択する事が出来なくなってしまう。
公務員にも公務員試験がありますが、試験に受かるには教育レベルが高くなければ受からない。それには私立学校や塾通いが出来る裕福な家庭でなければ出来ないわけで、東大に入るには親が裕福な家庭がほとんどだ。一見公平な競争に見えますが格差社会は目立たないが出来上がって来てしまった。
フランス革命前の社会も親の職業で子の職業が決まってしまった社会であり、それから逃れるには小説家になるくらいしか方法がなかった。日本でも選挙区で世襲政治家が地盤を築いてしまうと新人の政治家が育たなくなってしまう。選挙区ではそれなりのメリットはあるのでしょうが日本全体では議員の質が低下して日本は沈没してしまう。
二世議員たちは選挙で勝ち抜いているのだからと身分を正当化しますが、地盤看板かばんで当選している不公平さに気が付いていない。日本社会が閉塞感で溢れてしまったのは無能な世襲議員の総理大臣が続いているからであり、今太閤的な田中角栄が総理大臣になった頃と時代が変わってしまった。
アメリカに支配されていたという点ではフィリピンは日本の先輩ですが、フィリピンを見れば日本の将来が見えてくる。フィリピンは1950年代まではアジアで一番豊かな国だった。しかし民主政治も腐敗すれば世襲に近い政治体制になり政治が堕落して二流国家になってしまった。アメリカの没落もブッシュという世襲の大統領がなったためであり、日本も世襲の総理大臣が日本を没落させている。
◆世襲大統領を強制する「民主主義」
http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/3/01sesyu.html
エストラダがフィリピンの大統領に当選したとき、それはフィリピン社会の「漂流」の始まりであった。そしてエストラダがその腐敗と汚職に対する広範な人々の怒りの告発を受けて辞任においこまれた今は、フィリピンの「遭難」のはじまりである。エストラダというような、無能かつ下劣な人物がなぜ選ばれたのか、それは、大統領選挙というシステムそのものに根本的な問題があり、おそらくは避けることのできない事態であっただろう。しかし、フィリピンにおける真の問題は、エストラダではなく、アロヨである。
アロヨの登場は、マカパガルの娘であるという一点に基づいている。それは先のアキノと同様である。アキノはマルコスに殺されたアキノの妻という資格だけで登場し、農地改革を中心とする数々の改革を約束しながら、何一つ実現させようとせず、一家とともに国家を私物化し、フィリピンを単なるメイドとダンサーの供給地に転落させた。それが「黄色い革命」の内容である。
十五年前の「市民革命」の再演などと騒いでいるマスコミも、ではなぜこのエネルギーあふれる市民の皆さんが、かくも下劣な大統領を選ぶにいたったのかを明らかにしないのか。エストラダは単に映画界のスターとしての人気だけで大統領になったのか。そうだとすれば,フィリピンの市民はなんという愚か者であろうか。その愚か者が、裏切られたといって怒り、自分が選出した大統領をひきずりおろして、「ピープル」の力だの何だのと自画自賛し、しかもこれに追随するマスコミの醜怪さ。これこそが「民主主義」の本質なのか。「民主主義」とはかくもくだらないものなのか。
このような事態は「おくれた」フィリピンだけのものなのか。もちろんそうではない。全世界に醜悪な「民主主義」を押し付けてはばからないアメリカがその手本を見せているではないか。アメリカ大統領選挙の混乱は、投票システムとか、読み取り機とかの問題なのか。そうではない。そこにあるのは「誰が大統領になっても何も変わらない」アメリカであり、「それなら同じ家族、家系から何人大統領が出ても問題ない」社会である。
共和党と民主党という党派間の闘争はあり、どの党が政権を取るかによって、利権を得る部分と失う部分はめまぐるしく交代するが、寄生的帝国主義としての政治そのものはいささかの変化もない。ブッシュ家の二代目の後には、あるいはケネディ家の何やらが登場するかもしれない。(後略)
(私のコメント)
日本も1980年代までは、がんばれば総理大臣にだってなれる社会でしたが、宮沢内閣以降は世襲議員でないと総理大臣になれない国になってしまった。これは日本だけではなく「民主主義」のお手本のアメリカでも世襲の大統領が生まれるようになり、二代目のブッシュ大統領の後もクリントン元大統領の妻が大統領の座を狙っている。アメリカといえども日本やフィリピンを笑えないわけだ。
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