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日本の悲劇の原因のひとつは、まちがいなく政治の機能不全であると思う。
成熟した民主主義国家(イギリス、アメリカ)において二大政党制政治が行われている。この二大政党制なる議会の形態が必ずしも正しいとは限らないのだが、日本においては、政権交代を伴う理想的な二大政党政治には程遠い状況である。
私は、社民党や公明党共産党が消滅して、保守二大政党制が望ましいとは思い、小沢一郎が自民党から袂を分かって以降、常に小沢一郎の党に希望を託していた。
新進党の時、自由党の時、そして今回の民主党もそうだが、小沢一郎を取り巻く国会議員の志の低さには悲しくなるほど情けないと思っています。大きな理想を掲げる小沢を親方として信じきれずに脱落していくことを繰り返してきている。小沢の政治家としての資質に問題があると指弾する論があるが、私には議員自身の損得勘定で、脱落していった議員達の醜さばかりが眼につく。特に連立短命内閣羽田政権を引き摺り下ろした村山社会党の裏切りには激怒するよりあきれ返った記憶がある。
政治の停滞は野党議員の「志」、政治家としての「レベル」の低さに他ならないと思う。もちろん小沢がそういった、利己的で概念論に凝り固まったレベルの低い連中を制御できなかった責任は大きいと思う。
今回に関しては、国策捜査による政治的な秘書逮捕騒動であった可能性が高く、そのことを一切忘れ自分の選挙のことしか考えられない、民主党議員の愚かさには、愛想が尽きる。当然次の選挙には自民党には投票しないのだが、民主党議員に投票するのもためらってしまいます。
選挙を棄権するのも選択肢だが、選挙に行かなければ公明共産の得票率が上がってしまい、結果不毛な選択肢としての民主党もしくは国民新党に投票せざるをえない。まったく政治の貧困、日本の悲劇である。
小沢は党首のまま衆議院選挙に臨むべきであった。辞任すること自体秘書の非を認めることとなる。
小沢一郎は、辞める必要はなかった、ここで辞めるということは、首相になりたくないというに等しい。
政治家と言う生き物である以上、目の前に首相の座が見えていながら、それを放棄することは、政治家として不自然である。小沢は度々チャンスがありながら首相の座に就けなかった、就けなかったのではなく、就こうとしなかったのである。これは政治家の基本原則に逆らうことを意味する。要するに小沢は真の政治家ではなかったのかもしれない。
政治家とは元々悪魔であり強盗なのである。悪徳政治家という言葉があっても、悪徳暴力団や悪徳強盗という言葉は無い。暴力団でも強盗でも、自分がしている事は世間に許されない犯罪行為だとの認識を持っている。
ところが、政治家とは権力を獲得する為には、国のため国民の為と称しどんな事でも正当化され、無制限に悪と暴力を行ったとしても正しいとされてしまう恐れがある生き物なのである。
近代デモクラシーにおいては、政治家とは、「元々悪魔であり強盗」のような危険な生き物であることを認識した上で、成り立つべきものである。西欧のデモクラシーが成立する過程においては、政治家とは権力を用いる「取り扱い注意」の生き物という前提でデモクラシーが醸成されてきた歴史がある。
ところが、日本は儒教の悪い影響を受けている。儒教の理想では、政治とは聖人君子が行うべきものであるとされ、日本人にはその思想の影響を強く受けている。近代デモクラシーと反対の政治家像である。
政治が悪ければすべてが悪くなり、政治が悪いのは政治家が聖人君子ではないことが原因と考えてしまう傾向にあると、私は思う。なんでもかんでも政治のせいにしてしまうのはデモクラシーではない。
また、何でもかんでも、世の中が悪いのは政治家と、その裏にいる官僚が悪だかからであるという発想は、儒教デモクラシーといえるのではないか・・・。
例えば、鴻池議員が68歳で不倫をしようがいいではないか、JRの無料パスを私用使用した点は大いに糾弾されてもしかたがないが、不倫問題は、中国公安の関係濃厚な女性と不倫をした橋龍とは違い、私は問題にしたくはない。逆に、68歳にもなって恋する姿勢はすばらしいではないか、とも思ってしまいます。(異論はあるとは思いますが・・・)
鴻池議員を糾弾するのは、鴻池氏の奥さんと相手方の旦那で十分だ。例え公人であろうと他人がとやかく言うのは余計なお世話である。マスコミが取り上げるのは儒教デモクラシーといえよう。わたくしも、冷静に反省すると「政治家が悪いから世の中が悪い」と思いがちである。日本国民は私も含め儒教デモクラシーの影響下にあるといえるのではないか。
オバマを大統領に選んだ米国国民の民度はけっして高くは無いと思うが、儒教デモクラシー信者の日本人の民度は、もっと酷いと思っています。日本の場合、稀有の政治家であった田中角栄を抹殺した。田中逮捕の呪縛はますます政治家に聖人君子像を求める儒教デモクラシーを強くしたと思う。
儒教デモクラシー が田中角栄のような悪魔であり強盗でもあるが、政治家としては有能な政治家の出現を阻み続けたのだろうと思う。小沢が大成できなかった理由の一つとして、田中角栄逮捕の呪縛から逃れる事はできず、儒教デモクラシー に流され、悪役に徹することが出来なかったことではなかろうか?と思う。
私は政治家小沢に希望を託してきた人間であるけれど、小沢は政治家であるより君子たらんとすることを選択する人間であったのかもしれない。小沢は政治家が悪魔で強盗であることを自覚できていなかったようだ。小沢は、儒教デモクラシーの信者であった事が、今回判明したような気がします。
野党議員、そしてマスコミも国民も、小沢一郎に聖人君子像を求めていたのだと思う、そして小沢自身もその聖人君子の虚像を求めていた一人であったのだろう。
【Ddogのプログレッシブな日々】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/26855628.html
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