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一日一言(三日に一回かも)。
清澤洌(きよし) 彼は正木ひろし、桐生悠々、あるいは石橋湛山
とともに昭和前期における稀有のリベラリスト、独立派の言論人で
あろうか。
長野県南安曇郡北穂高村の人、1890年明治二十三年生まれ、
1945年昭和20年5月21日敗戦の直前、急性肺炎で聖ルカ病院で急逝。
生涯の仕事は外交史研究と評論
昭和17年12月から死ぬ直前まで
昭和20年5月5日までの戦中日記は英訳され米国で出版、日本版は橋川文三と北岡伸一が解説と構成に当たり評論社から出版され、ちくま学芸文庫にも入っている 清澤洌の『暗黒日記』である。
この昭和19年1月4日のところに熱海の岩波茂雄別荘でニ男坊岩波
雄二郎(当時東大西洋史科学生)に会い、「中々頭が確かである。」
と書いている。彼は旧制成城高校新聞部の私と同じよき仲間で先に
書いた。1941年夏の北軽井沢の岩波別荘での合宿や小海線沿線での
小旅行などわれわれ青春の思い出がある。清澤の日記に書かれているときは、私は既に兵隊にとられて、軍隊にあった。
さて私は山田風太郎の戦中日記についで、この『暗黒日記』にとり
かかった。かねがね読みたかった本である。
彼自身述べている。「私は全くの独学者です。正式に学校の門をくぐ
ったのは、ほんの暫くの間だけでした。しかし、今から顧みて、学問
というものは、学校に行くということではないと考えます。物を学ぼ
うという精神のことなのです。三ヵ年、学校へ行って勉強するよりも
、三十ヶ年、たえず知識を吸収する方が、結果がいいことは確かです。}
彼のきわめて広い国際的関心は彼の米国はじめ世界を股にかけた生き方と切り離しては考えられない。彼が影響を受けた井口喜源冶の形成義塾は内村鑑三に共感した無教会派の井口が北穂高に開いた私塾であった。
日本と世界と神との三位一体の信念の上に立つならば、日本が世界から孤立して独善の知識をもち、独断の行動を行うことは不可能でもあり、許されることでもない。その精神において 世界についての無知と戦うことが、彼の生涯の仕事となる。日記はその戦いの記録となる。
清澤は昭和4年のころからすでに自称愛国者たちの攻撃目標にされ、のちには非国家主義的リベラリストとして言論報国会からボイコットされている。事実、当時の政治指導者に対し忌憚ない批判を続けたし、
国民に対しても痛烈な批判を行っている。冷然と日本を批判するかの
ような姿勢の根底に あったものは,国士ともいえる烈々たる愛国者の
気概である。時局を冷眼視するだけの口舌の徒ではなかった。
彼は刻々迫るデッドエンドを悲痛な気持ちで見守りながら、それを
克明に記録してゆく。
○ 「現代史」を後日、書くために記録に止めおかんとするにすぎず。
○ また、後日の資料にくだらない雑書類も買い集めておく。
清澤は一貫して、日本の戦争指導に含まれる巨大な暗黒のシステムを、「すべて<教育>の歪みから生まれたものと考えている。自ら日本の高等教育過程をふまなかった清澤には、日本の教育システムの決定的な歪みがより冷静にリアルに感知されたのであろう。
迫りくる敗戦で日本の国民はより賢明になるだろうか? 彼はむしろ
敗戦と亡国を体験してもなお、日本人の真の覚醒は望めないのではなかろうか、という疑念を抱いていたと思う。彼がまず指摘したのは、官僚主義(お役人への感覚)、形式主義、あきらめ主義(いい加減さ)、権威主義(おえらいさん)、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性等々。日本人の劣性(負の側面)の余すところない指摘。敗戦後日本の真の再生を 祈念する愛国者の厳しい自己反省。
以下、部分引用を少し試みるが、ぞっとし、絶望するのは、この暗黒日記で指摘されている日本の指導者・政治家、主権者たるべき国民、それら総ての今日における負の側面がそこここに見受けられると思わざるを得ないということである。
私自身の課題から言うと、教育は敗戦後どう再建されたのか。教育システムはどうなってきたか。私たちの国際感覚はどう改造されたのか。世界認識、世界史認識は果たして健全に創造されたといえるのか、という問題である。
(以下 部分引用)
清澤洌の『暗黒日記』橋川文三編集、
昭和17年12月9日ー昭和20年5月5日、評論社・復初文庫1979
★ 昭和17年1942年12月9日以降
○政党の弊害、役人の弊害、結局教育だ。
○ラジオの低調はもはや聞くにたえぬ。
○それにしても政府の権限強化驚くべし。しかもその政府は何等統一せず。
★ 昭和18年1943年
○ モラールの問題だ。日本は全く行き詰まったのだ。
○形式主義は総てに表現す。外交に,統制に、政治に。
○議会はただ自己欺瞞のみ。不思議なる国民である。かかる自己満足で満足しうるとは、信ぜんと欲することは信じ得る国民だ。
○歴史を正直に書けぬ国だ。
日本人の美徳はあきらめにあり。しかし積極的建設は到底不可能である。
馬鹿な国民に非ざるも、偉大な国民に非ず。
○毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国においてかくのごとく貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要な時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
ただ予の場合は「現代史」を後日,書くために記録を止め置かんとするに過ぎず。
○だが改まるだろうか。紙の上で形式主義の政治と観念遊戯と、他人の事を考えない国民の悪風は改まるまい。近頃、日本人というものが、ほんとに情けなくなった。
兵務局長が小学校教育のことを指導しているが、国民学校に配属将校をつけるとなると全く軍国政治だ。今でも専門学校以上は配属将校に非常な力があるのだkら。
○朝のラジオを聞いていると、昨今は知識というものを全く侮辱している。こうした平凡にして下らんことを全国的に聞かせようとしているのだ。聞いていても腹立たしい。こんな低級な時代がかつて、また世界にあったろうか。
満州事変以来、特に一九三六年前後は対支外交は経済問題まで総て軍これを行う。
★ 昭和19年1944年
帰りに岩波成雄君を訪う。・・夕食をご馳走になり泊めてもらう。
長男雄一郎 芝浦の研究所 次男雄二郎 東大の西洋史科・・・朝・・
僕と二男坊と一緒に食事す。中々頭が確かである。
東条は官吏を昔の士族と心得ている。したがって民間を一歩下の被統治階級と心得ている。大東亜戦争ー満州事変以来の政情は、軍部と官僚の握手である。戦争を目的とする者と、一部しか見えない事務家、しかも支配意識を有している者とが混合妥協した結果生まれたものである。
陸軍と海軍の感情的対立は,既にボイリング・ポイントに達している。
日本の前途はこれに表徴されるところが多い。
教科書は出来ない。燃料は行かぬ。漁業用油の配給では出漁が数日しかできぬ。交通関係はいうまでもなでーそれ等がようやく切迫して来たのである。戦争そのものの結果ではあるが、同時に無茶な徴用、徴兵、所謂重点主義等の経済関係のデリカっシーを知らざる政府のためにここに至ったのだ。日本はいよいよ国内的に行きつまって来た。これが次にどこにどう出るかが次の問題だ。
○官僚主義、統制主義の欠点は、日本のおける数年の実験によって完全に明らかにされた。・・統制主義、官僚主義は日本を亡ぼす。
日本は泥棒国となった。「神国」である国は、しかし泥棒であっても
差し支えないのである。・・泥棒は常時の姿となった。今後ますます
ひどくなるであろう。
ラジオや新聞にあh、戦争観につきーたとえば米国の戦力につき
「楽観も悲観も禁物である」といった表現が流行している。
なにも考えるなということなのだろう。
○日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、
交渉に当たったのだろう。おそらく数十人を出でまい。秘密主義、
官僚主義、指導者原理というようなものがいかに危険であるかがこれでもわかる。来るべき組織においては言論の自由は絶対に確保しなければならぬ。また議員選挙の無干渉も主義として明記しなければならぬ。
官吏はその責任を民衆に負うのでなくては行政は改善できぬ。・・・
我国における弱味は将来、この戦争が国民の明白な協力を得ずして、
始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実戦争を欲し
たのであるが。この時代の特徴は精神主義の魔力だ。米国の物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は「自由主義」「個人主義」
で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本には日本精神があって
数学の上では現わし得ない奇跡をなし得ると考えた。それが戦争の大きな動機だ。
重臣と閣僚の間でも真実を話さない。日本には正直に政治を語る機会は全くないのである。これが大東亜戦争以前から日本の特徴だ。
日本を動かしっつあるは憲兵と警察である。そしてその背後にあるは
軍部である。
七月二十九日号の『東洋経済』は石橋君の筆として「東条内閣は民心を喪い、広く天下の人材から見放された」と書いている。これだけ書けるのは石橋君以外にはなし。
米内は組閣終了の当日,記者との会談で「軍人は不具の教育を受けて
きた」といった。
総理大臣が軍人、満州大使、朝鮮総督、台湾総督は何れも軍人、実際
政治を運用しているのが軍人、これで日本が旨くいく道理なし。
無智が指導しては。
日本の重要職業、会社、官吏は全部軍人で占領。首相,海相、東京市長、翼賛会,翼壮団長、総て、然り。
陸軍の発表が出鱈目であることは左の数字でも分る。すなわち本土襲来のB29を百二十機を撃破したというのである。
東京の制空権は今や敵軍に渡った。敵はいつでも日本を襲うことが
できる。しかも極めて安全である。
昭和20年 1945年 敗戦の年 亡国の年
○日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だ
とか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだっ
た。僕が迫害されたのは、「反戦主義」だという理由からであった。
戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか、それを今、彼等は
味っているのだ。あが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどう
かは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、
戦争は不可避が、なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的
であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。。知識の欠如は
驚くべきものがある。当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間
に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも
必要だ。日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界の一等国となることはできぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。日本が、どうして健全に進歩するようにーそれが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るようにー。「仇討ち思想」が国民の再起の原動力になるようではこの国民に見込みはない。
僕は文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。
本年も歴史を書き続ける.・・後世を目がけて努力しよう。
○教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ「技術」だけを習得した結果
だ。彼等の教養は、義士伝以上に出でぬ。とくに「軍人」という中産
階級以下の連中が大量に押し出したのである。
戦争というものの「力」を思う。一晩の内に何十万戸を焼き尽くし、
さらにその残ったものを一通の命令書で取りこわすのである。
米国の戦後処分案を待たずに、日本はすでに日清戦役以前の資産状態にかえりつつある。
・・・戦争は文化の母であるか?
○官僚と軍人の政治というものが、こうも日本を滅茶にさせてしまった
のだ、ああ。
どこに行っても戦争は、いつ終わるだろうかという点に話題が向けられ
て行っている。誰も戦争に飽いたことが察知される。
○この火事を見、火事と戦って、僕は何か憎くて痛憤した。怒り心頭に
発すというのはこの事だろう。・・・
「こんな戦争をやるのは誰だ」と、僕はこの愚劣な政治と指導者に
痛憤していたのである。
沖縄の戦争は、ほとんど絶望であるのは何人にも明瞭だが、新聞はまだ「神機」といっている。無論、軍部の発表によるものだ。国民は、
愚かな田舎人でもこれを信じまい。誰も信じないことを書いているのが、ここ久しい間の日本の新聞だ。
日本は近代戦などをしうる状態ではなかった。軍人は最後まで、
「東京へは絶対に敵機を入れない」とか「麹町区には飛行機を入れない」
といっていた。いま彼等は何という? しかし国民の軍人に対する反感は、嘘のように少ないと思う。軍部に関する批判派一切させないからである。
そしていわれなければ気がつかないほど低劣だからだ。しかし永遠に
気がつかないだろうか?
ああ、今日といかに似ていることか!!!
2009.04.27 記。
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm
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