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2009年4月16日 (木)
「週刊新潮」4月23日号掲載記事について
「週刊新潮」4月23日号が「高橋洋一教授の窃盗報道が少ないと怒る植草元教授」と題する記事を掲載することが判明した。
週刊新潮記者を名乗る軽部元(かるべはじめ)氏から、以下の文面による取材要請がFAXで送信された。
前略
突然のご連絡にて失礼いたします。
弊社では、植草様が元東洋大教授・高橋洋一氏の窃盗事件についてブログで何度か言及されている件について、現在取材をしております。つきましては、以下の質問について、お電話もしくは直接お会いしてご回答をいただきたく存じます。
質問
@高橋氏と面識はございますか。
A高橋氏が逮捕されず書類送検となった点について、「逮捕すべきだった」など、改めてご意見を伺いたく思います。
B警察の「裁量権」について、改めてご意見を伺いたく思います。
C各紙報道で高橋氏に「容疑者」という呼称があまり使われないことについて、改めてご意見を伺いたく思います。
D弊誌と「週刊文春」での高橋氏についての記事が小さいという言及がございましたが、どのようにすべきだったとお考えでしょうか。
Eブログを始められたのは08年4月16日の控訴審判決の日からでお間違いないでしょうか。
F近況(現在どのような仕事をやられているか、等)を可能な範囲でお教えいただければと思います。
質問は以上です。突然のお願いでまことに恐縮ですが、12日(日)の午後6時までにお返事頂けますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
早々
本ブログでは、
3月31日「高橋洋一氏窃盗事件・検察警察の裁量とマスコミ報道」
3月31日「少ない高橋洋一氏報道と「かんぽの宿」疑惑」
4月1日「森田健作氏公選法虚偽事項公表罪で当選無効か」
4月2日「高橋洋一氏窃盗事件文春新潮記事が小さい理由」
などで、高橋洋一氏窃盗事件についての感想を記述してきた。
「週刊新潮」は事件報道が少ないと「怒る」と記述しているが、私は「怒って」いない。疑問を感じて問題提起をしているだけである。
取材依頼を読んだうえで私は取材に応じないことを決めた。「取材を受けない」ことを表明しても、「取材への回答」と解釈されかねないため、「取材を受けない」ことを通知もしなかった。理由は以下の通りである。
@取材に応じても、最終的な記事内容をチェック出来ない。当方の考えが正確に伝えられるとは考えられない。見出しタイトルを含めて当方の意図に反する報道が行われても修復の方法が基本的にはない。中途半端に取材に応じて、記事が本人の意志によるものであると誤解を受けることを避けるには、取材に応じないことを選択するしかない。
A取材の質問事項から判断できる取材姿勢に同意できない。私はブログ記事において、「日本の警察権力のあり方」、「メディア報道と政治権力との関わり」、「事件報道のあり方」、などについて問題意識を持ってブログ記事を通じて意見を公表している。
しかし、取材は、私が高橋氏の窃盗事件について言及していることについて質問するもので、「高橋氏の窃盗事件を考察する」、「警察権力行使のあり方を考察する」、あるいは「事件報道における「呼称」のあり方を考える」、といったものではない。
高橋氏窃盗事件にかこつけて、ブログ記事を執筆した私個人を取材対象にしていることが伺われた。そのような問題意識に基づく取材に応じる考えはない。
B雑誌媒体が信頼のおける媒体であれば取材に応じる考えはある。しかし、大変申し訳ないが「週刊新潮」に対して、私はそのような信頼を置いていない。
「週刊新潮」4月23日号には、朝日新聞阪神支局襲撃事件について、「週刊新潮」が本年、4週にわたり、「実行犯」による「実名告発手記」を連載したことについて、そのすべてが誤報であることを認め謝罪する記事が掲載される。
「週刊新潮」は誤報の原因を「言うまでもなく裏付け取材の不足にある」とし、「雑誌ジャーナリズムへの信頼を大きく傷つけたことは慙愧(ざんき)に堪えない」としていることが報道で明らかにされた。編集長の交代も明らかになった。
残念ながら、「週刊新潮」は「雑誌ジャーナリズムへの信頼」を十分に確保していない。取材に応じるには、取材協力者の意向に沿って記事が執筆されるとの「信頼」が必要である。「週刊新潮」には、その「信頼」が不足していると思う。
「週刊新潮」の取材陣は4月11日から13日までの丸三日間、私の自宅前に車を停車するなどして、待ち伏せ取材体制を取り続けた。自宅を何度も訪問し、近隣住宅にまで聞き込みを行う「過剰な」取材姿勢を示した。近隣の子供にまで質問をして所在等を尋ねるのは、行き過ぎた取材姿勢であると言わざるを得ない。
多くの人が「過剰取材」で迷惑を蒙る。取材にあたっては良識をもった対応が望まれる。
このブログを通じて、取材要請書にある質問に言及しておく。
@まず、私が高橋氏と面識があるのかどうかは、私が提起した問題とは関係がない。
A警察が「逮捕するべきだった」との意見を有するのかどうかとのことだが、私はブログ記事でも「逮捕するべきだった」などとは一行も記述していない。
一般に逮捕するべき事案であれば逮捕するのが適正であり、その点における実情がどのようなものであったのかについて疑問を提示しただけである。「週刊新潮」が問題意識を持つなら、これまでのさまざまなケースを検証して、客観的視点から警察の対応を評価するべきである。それが「信頼されるジャーナリズム」の役割ではないのか。
B警察の「裁量権」についてだが、警察・検察の「裁量権」について考察することが極めて重要である。この問題については、拙著『知られざる真実−勾留地にて−』(下記参照)第一章第7節「摘発される人・されない人」にも詳述したので、ぜひご高覧賜りたいが、警察・検察の「裁量権」を「法の下の平等」の視点から、じっくりと検証する必要があると考える。
小沢代表の秘書が「虚偽記載」の罪で逮捕、起訴されたが、まったく同じ事務処理をした、森喜朗氏、二階俊博氏、尾身幸次氏をはじめとする多数の自民党議員の事務処理は、これまでのところ、まったく捜査すらされていない。
2004年に私が巻き込まれた冤罪事件では、被害者とされた女性側から、「被害届を出した覚えもないし、起訴して裁判にしないでほしい」との上申書が検察庁に提出されたにもかかわらず、私は起訴された。
このような問題を考察することが、日本の望ましい警察・検察制度を構築する上で不可欠であると私は考える。個人的な恨みや怒りから問題を提起しているのではない。
C報道における被疑者等の「呼称」について私は従来から関心を寄せている。報道機関は「呼称」について、「内規」を有しているはずである。高橋氏を「容疑者」と表現した報道機関もあるが、「教授」の敬称を付して報道した機関も多数存在した。報道機関は「中立公正」な報道を実現するために、その基準を明らかにするべきだと考える。
3月31日付記事「高橋洋一氏窃盗事件・検察警察の裁量とマスコミ報道」に記述したように、SMAPの稲垣吾郎氏、小室哲哉氏、堀江貴文氏の報道などで、通常とは異なると感じられる「呼称」の使用があった。「週刊新潮」が「ジャーナリズム精神」を発揮するなら、このような問題について、掘り下げた「調査報道」を行うべきではないだろうか。
高橋洋一氏について、「時事通信」は当初「容疑者」と表記していたのを「教授」に切り替えた。この問題について、私は時事通信社に問い合わせしたが回答が現時点で得られず、
4月8日付記事「政治権力に歪められる警察・検察権力の行使」
に記述したように、質問を「公開質問」に切り替えたが、現時点で、時事通信社からは、まだ回答が示されていない。
D「どのようにすべきだったとお考えでしょうか」とあるが、そんなことは「週刊新潮」が自身で考えるべきだ。「こうすべき」と考えを述べたときに、その意見に従うわけでもないのだから、無意味な質問である。
日ごろの熱心な事件関連報道が高橋氏の事件では影をひそめているように感じられた点について、感想を示したにすぎない。
Eブログがいつ始まったのかはブログを見れば分かる。2006年4月16日付記事が第1回投稿である。このことは、
4月3日付記事「3月アクセス解析と本ブログ執筆の目的」
にも記述している。本ブログ執筆の目的と併せてご高覧賜れればありがたく思う。
F私の「近況」も本題とは無関係だ。小規模ではあるが、スリーネーションズリサーチ株式会社という経済金融調査分析企業を経営し、優良な経済金融分析情報の提供に努めている。
ブログでの情報発信を継続しているが、その最大の目的を、4月3日付記事に記述したので、以下に転載する。
「本ブログ執筆の最大の目的は、日本の政治をすべての国民の幸福実現を目指す方向に転換させることに、微力ながら力を注ぐことにある。無論、自分の力が微少であることは認識している。
しかし、明治の維新は当時3000万人の人口のなかの3000人の力で成し遂げられたと言う。志を重ねることのできる人々が力を合わせて、ネットから真実の情報を発信することによって、あるいは大きな仕事を成し遂げる、成し遂げるとは言わなくとも、大きな仕事を成し遂げる一助になることができるのではないかと考えた。
私は日本の政治の現状を嘆かわしく感じる者の一人である。政治屋、特権官僚、大資本、外国資本、電波屋の利権つながり連合を「政官業外電=悪徳ペンタゴン」と呼んできたが、特定の人々が政治を私物化し、特定の人々の利益ばかりを追求していると思う。
(中略)
私が巻き込まれた冤罪事件をも念頭に置きながら、警察・検察・裁判所のあり方、報道のあり方についても、メディアが伝えない真実と真相・深層をネットから発信したいと考えた。」
ブログ情報の領域でも、有料での情報提供が広がり始めている。情報発信者を支援する意味で、有料化は適切な方向であると思う。しかし、私は本ブログ「植草一秀の『知られざる真実』」については、無料での情報提供の方針を貫く考えである。その最大の理由は、本ブログ執筆の目的が、草の根の国民の力による日本政治の刷新=国民の側に立つ政権の樹立に、微力ながら貢献することにあるからだ。
「週刊新潮」の私に関する記事については、必要に応じて本ブログで情報を提供したい。したがって、本ブログの読者が「週刊新潮」をわざわざ購入して読まれる必要はないと考えるが、営業妨害をする考えは毛頭ないので、判断は読者に委ねたい。
このブログ記事についても著作権が存在することについては、「週刊新潮」も十分理解されていることと考える。「週刊新潮」4月23日号の私に関する記事について、私は一切の取材に応じていないことを明記しておく。
私が高橋洋一氏の窃盗事件に関連して提起したのは、「法の下の平等」、「政治権力による警察・検察権力の不正利用」という極めて重要な問題である。その問題意識の淵源はフランス人権宣言(1789年)の第6条にあるので、以下に引用する。「週刊新潮」には、少なくとも「フランス人権宣言」について言及したうえで記事を記述してもらいたいが、発売後にどのような記事が掲載されたかのかを確認したい。
フランス人権宣言(1789年)
第6条(一般意思の表明としての法律、市民の立法参加権)
法律は、一般意思の表明である。すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参与する権利をもつ。法律は、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、かつ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位階、地位および公職に就くことができる。
(太字は本ブログによるもの
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