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○公述人(山口二郎君) 山口でございます。 今日は、こういう機会を与えていただきまして、まずお礼を申し上げます。 私は、行政学、日本の官僚機構について勉強してまいりましたので、全般的な政策決定の在り方について意見を申し上げたいと思います。あとはお手元のレジュメ、資料に沿いましてお話をいたします。 二月の中旬にちょっとアメリカに行ってまいりました。ちょうどオバマ政権の最初の課題であります経済対策法案の議会審議をしている真っ最中でありました。そこでの議論を聞いておりまして、日本人として誠に情けないというか、ある意味では興味深い議論を目撃いたしました。 そこにありますように、オバマ大統領は日本の経済対策はツーリトル・ツーレートであったゆえに我々はその轍を踏まないと言って、日本円にして数十兆円単位の大規模な財政出動を行うということを主張いたしました。これに対して野党共和党の方は、一九九〇年代の日本の景気刺激策は財政赤字を増やしただけで効果がなかったと。要するに、大統領も野党共和党も両方とも日本のことを引き合いに出しまして、自分たちは日本と違うんだということを一生懸命言っていたわけであります。誠に日本人としては悲しい思いをしたわけであります。この二つの主張というのは、ぶつかっているようで実はある事実の側面をついているわけであります。 そこで、バブル崩壊以後、一九九〇年代の政策決定の教訓をここで振り返ってみたいと思います。なぜ赤字を増やすだけで効果が薄かったのか。私は次のようなからくりがあったと考えております。 補正予算というのは、やはり年度の途中で作るものですから時間が限られておりますし、特に総枠、例えば十兆とか二十兆とかというその外枠が決まりますと中身を埋めるのが大変な作業になってまいります。そういたしますと、当初予算でおっこちたような筋の悪い案件にどんどん金が付くということになります。要するに中身は問わない、ともかく予算を使えということで、予算消化がそれ自体として目的になってしまうという問題が起こります。 バブルが崩壊してから、宮澤政権、細川政権以降約十年間で、総額百四十兆円もの追加景気対策を行ったわけでありますが、しかし、他方で、例えば国土の基幹インフラであります高速道路網もあるいは整備新幹線もできていないと、あのお金は一体どこに消えたのか。北海道なんかで実態を見ておりますと、結局その当時の建設省の道路局、それから河川局、あるいは旧運輸省の港湾局といった縦割りで事業を上げさせてそこにお金を付けるということで、言わば穴の空いた水道管にどんどん水を流すという結果に終わったわけであります。 そこから私は、次のような教訓を引き出すわけであります。第一、財務官僚の近視眼的な健全財政主義は経済を悪化させるということであります。第二、政策の優先順位に踏み込んだ政治的な指導力が不可欠であるという点であります。あの時代の景気対策を見ますと、政治の方は総額例えば十五兆円とか枠は示すわけでありますが、その中身についてはやはり各省から要求を上げさせるという手法を取っていたわけであります。 返す返すももったいない話でありますが、例えば最初から百兆円を景気対策に使うということを政治的にきちっと方向付けをし、その中で、例えば高速道路に十兆回すとか整備新幹線に五兆回すとか、そういったことが政治主導で決められていれば、今の日本の経済社会はうんと違ったものになっていたのではないかと悔いが残るわけであります。したがいまして、各省庁に政策対応を指示しても良い知恵は出てこない。要するに、既存の優先順位の低かった事業にただお金が回るという結果に終わるだけであります。 そういう意味で、今回、当初予算が成立をした後、早速補正予算を組むということを内閣の最高指導者がおっしゃっているようでありますが、これは言わば十数年前の失敗を繰り返すということになると私は憂慮しております。どうせやるなら、当初予算の段階からもっと大掛かりな財政出動などを行って現在の経済危機に対応していくという、強い政治的な方針あるいは指導力というものが必要であるというふうに考えるわけであります。 さて、そういうことで、今までの政策形成システムには大きな問題点があったと思うわけなんですけれども、現在のこの経済社会の大変な危機に対して政策はどのように取り組むべきかということについて、次に私見を申し上げたいと思います。 日本の場合は、戦後長い間、繁栄そして平等を実現してきた。つい十数年前までは日本の経済社会の安定について私たちは大変強い誇りと自信を持っていたわけであります。そのからくりについて一言説明をしておきますと、お配りしたレジュメの二ページ目に図がありますので、ちょっとこれを御覧ください。 縦軸にリスクの社会化、リスクの個人化と書いておりますけれども、これは失業とか貧困とか病気とか自然災害とか、そういった人間の生活を脅かす様々な危険や災難、問題というものをリスクというふうに総称するわけで、リスクの個人化というのは自己責任型の社会ということであります。リスクの社会化というのは、要するに病気とか自然災害とかというのは個人の責任によらない問題であって、その種の災難や問題については国民全体がお金を出し合って、社会全体として対応していくべきだという考えであります。言うまでもありませんが、先進国の中でリスクの個人化路線を徹底しているのはアメリカであります。これに対して日本やヨーロッパの先進国は、程度の違いはありましてもリスクの社会化路線を取ってまいりました。 日本とヨーロッパの違いはどこにあるかと申しますと、これは横軸にかかわる点でありまして、左側に裁量、右側に普遍的と書いてあります。裁量型政策というのは、例えば公共事業補助金の箇所付けとかあるいは護送船団方式の行政指導とか、そういったルールや基準のない利益の配分、利害の調整、これを裁量型政策と申します。普遍的政策というのは、公的年金とか義務教育みたいにルール、基準がはっきりしている、同じ問題を抱えている人にはひとしく政策的な恩恵が及ぶというのが普遍的政策であります。 日本の場合は、確かに普遍的政策もあるにはありましたが、その下にありますように、社会保障給付費というのは経済規模に比べて著しく小さいわけであります。確かに、かつての自民党政治というのは心優しい保守政治でありまして、地方や弱者に対してお金をちゃんと配分をしていた。しかし、それが、例えば補助金とかあるいは護送船団方式の業界に対する行政指導とか、そういった形で、不透明な中で官僚の裁量によって個別的に地域や業界に対して保護の手を差し伸べてきた。したがって、この図で言えば、左上のところにかつての再分配政策というか日本型の平等志向的政策が位置付けられるわけであります。 このような政策によって社会の安定が実現されたわけなんですけれども、大体こういう仕組みがバブルの崩壊、それから冷戦崩壊以後のグローバリゼーションの中で急速に揺らいできたわけであります。そして、財政赤字が増えるとか、あるいはグローバリゼーションでもって規制緩和とか民営化とかそういった大きなルールの変更を余儀なくされるとかいったことで、九〇年代後半から二十一世紀にかけて政策が大分変わってまいりました。それがまさに小泉政権の下で行われた構造改革というものでありまして、言ってみればこの構造改革というのはリスクの個人化路線に大幅にかじを切るということを意味したわけであります。 さて、さっきの図に戻りますと、すっきりルール、基準を当てはめて競争原理を徹底するというのならまだしも救いがあるわけですが、日本の場合は昨今の郵政の財産の売却問題に見られるように非常に不明朗な世界が残存しておりまして、新たな裁量型の利益配分、あるいは利権の政治というものがまだまだ根強く残っているということも言えるわけであります。 さて、現在の日本経済の危機、レジュメに戻りまして、私は二重の問題だというふうに考えております。確かにアメリカ発の金融危機で日本は巻き込まれたという側面もないことはありません。しかし、もっと根本的な問題があると私は考えております。すなわち、小泉構造改革以降日本の経済社会が大きく疲弊してまいりました。まさに社会の基礎体力が消耗していたところに今回の金融危機が襲ってきたわけであります。雇用の危機あるいは地域経済の崩壊というものは、まさに小泉政権における社会保障支出の削減、地方交付税の削減、公共事業の削減、あるいは労働の規制緩和、こういった政策がもたらした結果であり、人災であります。 私は非常に不思議に思うんですが、本来雇用の規制緩和というのは、不景気のときに企業が労働者を合法的かつ容易に首切りできるようにするために行われたわけであります。したがいまして、昨今の非正規労働者のいわゆる派遣切りなどという現象は、まさに小泉構造改革の成果が上がっている証左であります。私はあえて竹中さんや小泉さんにおめでとうと申し上げたい。あなた方が目指した社会はこうやって実現したんだというふうに思うわけであります。 そういうことで、まさに社会保障費をどんどん削減すれば医療崩壊が起こるのは当たり前でありますし、地方の自治体に対する交付税や公共事業費を削減すれば地域経済が疲弊するのは当たり前であります。そういう原因をきちんと踏まえて今後の経済対策というものを立てることが、まさに有効な政策をつくるための必要不可欠の手順であると私は考えております。 経済対策を立てていく手順として、まず第一に、先ほどの繰り返しですが、構造改革の誤りを率直に認めるということから始めるべきだと思います。小さな政府というのは国民を不幸にするわけであります。小さな政府の言わば総本山でありますアメリカにおいてさえ、今回の経済危機に対応してオバマ政権は大変大きな政府資金の投入、財政出動を行っているわけでありまして、アメリカでさえ新自由主義の時代は終わったわけであります。小さな政府の時代は終わったわけであります。 アメリカは先ほどリスクの個人化の社会だと申し上げました。医療の世界なんというのはその典型でありまして、アメリカには国民皆保険などという発想がなかった。しかし、オバマ政権はようやく国民に対する普遍的な医療サービスの保障ということを始めようとしている。それぐらいリスクの個人化路線というものが特に力の弱い普通の人々、弱者に過酷な結果をもたらしたということが現実であります。 政策を立て直す際の二つ目の手順としては、基本的な価値観というものを明確にするということだと思います。何といっても人間の尊厳を守るということ、それから基本的な平等、私はあえて結果の平等とは申しません。基本的な平等と公平を回復するということ。例えば、今日、親の金がないために中等高等教育を受けることができないという若者が大量に発生しております。あるいは、昨年、秋葉原の連続殺人事件、あるいは大学進学の夢を絶たれた若者が岡山駅のホームで人を突き落としたとか、福岡市で発達障害の子供を抱えた母親が子供を殺したとか、そういった悲惨な事件が相次ぎました。 およそ日本の政治を論じる者は、我々学者もまた先生方も、このような事件に対して、社会的なサポートがもっとしっかりしていればこういった事件を防ぐことができた、死なずに済んだ人を死なせてしまったという慚愧の念を持つことから始めるべきであると思います。そういう意味で、政策によってどのような社会を目指すのか、その基本的な価値観をもう一回明らかにしていく必要があると考えます。 それから、政策立案の手順の三つ目としては、必要な政策に十分な資金を投入するということであります。言ってみれば、従来の構造改革路線というのは、財務省の理屈で歳出をカットしてきたわけであります。ギリシャ神話にプロクルステスのベッドという話がありまして、このプロクルステスという追いはぎが旅人を捕まえてきて自分ちのベッドにくくりつける、そのベッドからはみ出す手や足をちょん切るという大変残虐な追いはぎの話であります。言ってみれば、平成日本では財務省がプロクルステスでありまして、国家財政という狭いベッドに国民をくくりつけ、そのベッドからはみ出す手や足を財政再建とか財政健全化という名目でちょん切った、まさに医療費の削減なんかはその典型例であります。 逆に、やはり国民生活を支えるためにはこれだけの資金が必要なんだということを医療でも介護でも教育でもきちんと測り、それに見合うだけの歳入を確保していくということこそが本来の政策論議の手順であります。言うまでもなく、私は、そういった必要を賄うためには、もちろん中長期的には増税は不可避であると思っております。しかし、いずれにしても、やっぱり議論の手順として、私たちはこのような社会をつくりたい、国民生活を支えていきたい、そういう理念をはっきりさせた上で負担について国民に議論を問うていくということが必要であると思います。 最後に、多少具体的にこれから何をなすべきかというテーマについてお話をしていきたいと思います。 もう一度先ほどの図に戻っていただきたいんですが、今の日本に必要なのは普遍的政策によるリスクの社会化であります。従来、普遍的政策としてありました公的年金、公的医療保険、地方交付税、こういった仕組みがまさにプロクルステスのベッド状態で切り刻まれているわけであります。そこにもっと資金を投入していくこと、これが緊急の課題であると私は考えます。 したがいまして、お役所の裁量の入る余地のない制度的な再分配の部分にもっと財源を投入していくということ、これがまず第一の課題でありまして、それから二つ目の課題といたしまして、人への投資ということを申し上げたいと思います。 景気対策の中で公共事業というのはどれくらい必要かというのは、これはいろいろ議論があります。例えば北海道なんかにいますと基幹的なインフラは大分できてまいりまして、従来型の建設公共事業というのはもはや余りやる余地がないという問題もあります。これからはやはり人への投資にもっとお金を掛けるということが必要になってまいります。 したがって、教育と労働をセットにした能力開発や就労支援の政策でありますとか、医療、介護を中心とした新しい社会サービスの創造でありますとか、そのような分野にもっとお金を投入していくということこそが中長期的に日本の経済社会の活力を回復していくかぎになるはずであります。 そして最後に、もう一つ申し上げたいことは、改革と自己責任の呪縛を断ち切るということであります。 およそ政策というものは利害関係の変更であります。小泉時代には、例えば労働の規制緩和のように強い者に弱い者から富を移転する、労働者の取り分を減らして経営者の賞与を増やすという、これが改革と称賛されてきました。他方、地方に対してもう少し交付税を増やそうとか公共事業を回そうかと言うと、それはばらまきというふうに批判をされました。これは誠におかしい話であります。これからやはり改革という言葉は極力避けて、中身に即して政策を論じていく必要があると思います。 それからもう一つ、リスクの社会化ということを考えていくときに、自己責任の呪縛を断ち切る必要がある。やはり人間というのは自分の責任によらない理由で様々な災難に遭うわけでありまして、そういうものを救済するためにこそ政治があるわけであります。そういった観点から、今後の経済財政政策についてしっかりと議論をいただき、現在の危機を救済すべく果敢な行動を取っていただくようお願い申し上げて、私の話は終わりといたします。 ありがとうございました。 |
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