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http://www.magazine9.jp/karin/090311/
3月8日、午後2時から新宿で「麻生を倒せ! ないかくだとうデモ 2ndトライ」が開催された。しかも、デモの様子はネットで生中継されるという。ということで、私は生中継の「レポーター」として、このデモに参加した。 いやー、楽しかった!デモグッズとして準備されたのは、麻生でも読めるようにひらがなで書かれた「ないかくだとう」ののぼりや横断幕。プラカードに踊る言葉は「選挙を待つな! このデモで倒せ」「官僚の天下り先はぜひ派遣業へ!」「政治家と経営者から減給。で」「21世紀だって政権は倒せる」「麻生が辞めたら俺の勝ち」などなど。そして麻生のお面をかぶったニセ麻生が「定額給付金」(なぜか3000円だけ)を持って登場。 なんでこんなひどい状況なのにデモが起こらないのか、なんて声がよく聞かれるようになった。だけど、実際こうして起こっている。第一弾の「ないかくだとう」デモは2月8日。「なんでデモが起こらないのか」なんて嘆くより、勝手にさっさとデモをしてしまえばいいだけの話だ。この日のデモのチラシにも、「あなたもアクションしてください!」というタイトルでこうある。 「仲間とデモを主催する。カンタンです。通るコースを管轄する警察署に『デモやりたいんですけど』と届けに行くだけ」。また、07年の「自由と生存のメーデー」のサイトには、「デモへの道」というタイトルで、デモのやり方が詳しく書かれている。 私も自分自身がデモの実行委員になるまで、「デモ」についてまったく知らなかった。というか、知らされていなかった。だけど、デモは誰だってどんなテーマだっていつだってやることができる。しかも、もちろんタダで。異議申し立てをする当たり前の権利として保障されている。それなのに、多くの人が、「デモ」をするのは何か特殊な人たちで特別の「許可」をとってやっている、と思い込んでいる。で、「やり方」自体も知らされていない。そうなるとデモへのハードルは高くなる。だけど、使える権利は使っていかないとなくなってしまう。選挙権があるのに、投票の仕方が巧妙に隠されているようなものだ。 ということで、プレカリアート運動にかかわるようになってから、私の日常に当たり前に「デモ」が組み込まれるようになった。それはこの世界の「息苦しさ」をかなり緩和させてくれるものだった。この世界の大いなる「矛盾」に対して、何を思おうとどんなことを言おうとどうせ何も変わらないし自分は死ぬほど無力だ、と常に感じている状態は相当辛い。しかし、デモをすれば、少なくともそこを通り過ぎる人たちには訴えることができる。何かを感じさせることができる。その日その時間にデモ隊とすれ違わなければ絶対に考えもしなかった何かを、デモ隊と遭遇してしまった人たちはきっと、考える。そうして路上で様々な化学反応が起きる。デモに飛び入り参加したり、デモ隊に怒鳴ったり、「一体何のデモなんですか? 」と思わず私に話しかけてきたり、その後の飲み会にも参加しちゃったり。普段絶対に出会わない誰かと、奇跡のように路上で出会える。 デモをやってると、時々「馬鹿野郎!」とか怒鳴られる。その瞬間、そんなふうにその人の「怒り」に火をつけられたことを嬉しくも思う。普段隠されている怒りをなぜかデモ隊の前で露出させる人々。なぜ怒ったのか、デモの何が気に食わなかったのか、ぜひ「言語化」してほしいと思うのだ。そこには「うるさい」「迷惑」という意見もあれば、プレカリアート系のデモだと「ちゃんと働け」的なものもある。デモ隊に「ちゃんと働け」的なことを怒鳴る人の背景には、「俺はこんなに必死で頑張って働いてきたんだ」というような、そんな切実な「自己承認」が垣間見える。「働く」ことに関して、突然ヒステリックになる人々の豹変ぶりを見るのも面白い。「働くこと」からは誰も逃れられないからだ。とにかく、普通、人は路上で出会っても、怒鳴ったり怒鳴られたりしない。だけど、デモという空間では、何かが「剥き出し」にされるのだ。沿道の人も含めて。 「迷惑」という意見には、「デモをしないことから発生する迷惑」について考えてほしい。例えば今の状況は、「多くの人がマトモに声を上げ、行動してこなかったこと」によって作られている。だからこそ、「何もしてこなかった人」たちは、多くの人に多大な迷惑をかけているとも言えるのだ。特に24歳以下の非正規雇用率が50%という現状を見るにつけ、派遣法成立やその後の改正の時に投票権を持っていた人たちに、若い世代が多大な迷惑を受けているということになる。もっと早くから多くの人たちがデモなんかをバンバン起こして声を上げていれば、今のような「派遣切り」などは起こらなかっただろうと思うのだ。1時間程人や車の通行に影響を与える「迷惑」と、その手の「迷惑」を考えれば、どっちが大迷惑かは一目瞭然だ。 はからずもデモの前日、湯浅誠さんと話した。彼は「自己責任」について、「こんな社会はおかしい、と訴えることこそが個人の責任」と言った。そういう意味では、デモに参加する人々は、限りなく「自己責任」を果たしている。 秋葉原事件の加藤被告は、無差別殺人事件を起こす前、工場の門をトラックで閉鎖することを夢想していたという。しかし、「トラックの門を閉鎖する」ことよりも、無差別殺人をしてしまうことの方が彼にとっては「リアリティがある」ことだった。 しかし、デモが当たり前の光景になれば、自暴自棄な犯罪よりも、「デモで叫びまくる」ことの方が、きっとリアリティがあることになる。そんなふうに、「デモが日常的にある光景」は、絶対にこの国の人々の「気分」を知らないうちに、変えるのだ。 と、ここで緊急の情報。アムネスティの人からの連絡で、この連載の73回で触れた池袋通り魔事件の造田博氏に、「差し迫った処刑」の可能性があるという。 数々の社会的排除を受けて彼が冒してしまった殺人。そしてその人間を究極の形で排除する「死刑」という制度。詳しいことは、こちらのサイトを御覧頂きたい。 |
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