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プレカリアートの憂鬱。の巻
またまたフリーターユニオン福岡のフライヤーより。
2月下旬、講談社から「プレカリアートの憂鬱」という本が出る。
これは07年1月から、08年6月まで、文芸誌『群像』で連載していた原稿をまとめたものだ。月に一度、「プレカリアート」な人に会いに行き、総勢16人の人にインタビューした。
それはあまりにも刺激的な体験だった。およそ月に一度のペースで、一人の人の話をじっくりと聞く。ニート、元ひきこもり、製造業で派遣で働き、組合を結成した「ガテン系連帯」、シングルマザーの方、障害年金を受けて暮らす男性、「革命的非モテ同盟」、そしてまるで「債務奴隷」のような新聞奨学生の過酷な生活、偽装請負を告発した人。フリーランスの人がうつ病となり、生活保護を受けている話を聞いた時にはまったく他人事ではないと思った。
そんな連載には毎回タイトルをつけるのだが、タイトルをつけるのがやたら楽しみだった。ここにちょっとそのタイトルを紹介したい。
「障害者枠での就職は、ニートの希望となり得るか」、「労働を拒否して立てこもるひきこもりは、何を希望に外に出るのか」、「世界に復讐するために、彼はマルクス『資本論』を読む〜あるボンクラ男の闘い〜」。つか、蟹工船ブームの1年以上前から派遣社員たちで「資本論研究会」なるものが開催されていたことは、あまり知られてはいない。
まだまだある。「万国のフラレタリア団結せよ!『革命的非モテ同盟』、参上!」。そういえばつい最近、革命的非モテ同盟が「三大白色テロル」と定義するイベントのひとつ、「バレンタインデー」があったわけだが、彼らは無事「バレンタイン」を「粉砕」しただろうか?ちなみに三大白色テロルのあとのふたつは「クリスマス」と「ホワイトデー」だ。
そしてこの連載で一番気に入っていたタイトルは「真夏の死の行進 彼は茨城・大洗から東京・飯田橋まで10日間かけて歩いた 生きるために」だ。現在「もやい」のスタッフのTさんは、札幌のフリーター生活でお金が尽き、「とにかく東京都のホームレス自立支援事業に乗れば生きていける」と思い、北海道から茨城までのフェリーに乗る。その時点で残金1000円ほど。そうして茨城についた彼は、とにかく「もやい」を目指して10日間かけて真夏の夜を歩くのだ。食料はリュックに詰め込んだ「ミックスナッツ」だけ。が、10日かけて辿りついた「もやい」はよりによってその日は休み。仕方なく新宿駅にいると「小指のないオジサン」に「仕事あるよ」と言われ、1日1000円で焼き鳥屋で働き始める・・・という、なんだかもうそのまんまロードムービーにしたいような素晴らしすぎる経験をしてやっと「もやい」に辿りつくのだ。
もうひとつ気に入ってるタイトルは「まるでアメリカの映画から飛び出してきたようなB-BOYの『19歳・元ホームレス』。どこに行っても『特例』扱いだった彼」。彼の話も衝撃だった。17歳の時、突然母親にいきなり「実は里親」だと告げられ、もう18歳になるんだから施設に入りなさい、と言われてその4日後には施設にいたという、まるで不条理小説のような展開。が、肉親が一人でもいれば20歳までいられる「自立援助ホーム」は、肉親が一人もいないと18歳で出なくてはいけない、というこれまた不条理な決まりがある。で、施設を出されてしまった彼は一人暮らしをするものの、友人とのトラブルから家を追われ、そこから約2年間、様々な場所を転々とする。身分証明がないので仕事も鳶職などに限られ、時には牧場や山奥に飛ばされる。警察や病院などの大人たちに助けを求めるものの、誰もマトモにとりあってはくれない。そうして彼はやはり「もやい」の助けによって生活保護を受け、無事に「ホームレス」状態から脱出するのだ。生活保護のことすら知らなかったという彼が口にした「社会的排除」という言葉が非常に印象的だった。
そんなふうに、毎月いろいろな人の話を聞いた。この場を借りて、お話を聞かせて頂いた人たちに御礼を言いたい。ありがとうございます!!
この取材をしたのには理由がある。常々、私にはちょっとした不満というか、思うところがあった。それはメディアなどに登場する「貧困」「不安定雇用」の当事者の人々に「顔がない」ということだ。それはもちろん、モザイクで顔を隠されているということもあるが、顔を隠されていなくても、取材者の意図する物語の中にどうしても閉じ込められてしまう感がある。それはある程度は仕方のないことだとも思う。が、人は「派遣切りされてホームレス」「氷河期世代で不安定雇用を転々としてネットカフェ難民」という典型的で理解されやすいパターンで窮地に陥ることもあれば、こちらが思いもつかないような経緯を辿っている場合もある。また、大手メディアではどうしても「不幸で貧しい人」という一面だけで語られがちだが、私は彼らと接してその逞しさに時に驚愕し、斬新すぎる発想に驚き、そして社会のシステムの不備に気付かされ、何かまだ言葉になる以前の「新しい文化」の原石を見るような思いに何度も目を開かされてきた。
なんだかいろいろな人と接して、プレカリアートの世界はとてつもなく「豊か」だと思うことの方が多いのだ。そこには信じられないほどの「優しさ」や「助け合い」があったり、人間が人間でいるために必要なあまりにも純粋な「怒り」があったり、それを全身で表現する人々がいたり。ものすごく「人間臭い」と言い換えてもいいかもしれない。そして彼らの一部は、既に自分たちこそが「新しい社会」を自由に思い描き、発信する主体だという確信に満ちてもいる。というか、「こっち側」から変えることにこそ意味があるのだ。だからこそ、「ないかくだとう」実行委員会が出来ちゃったり、麻生邸ツアーをしたり、麻生に団体交渉申し込んじゃったり、バイトなのにストライキしちゃったりと、もう思いつくことすべてを行動に移してしまう。そういえば、熊本KYメーデーの「KY宣言」には、「お先真っ暗で貧乏なKY(くまもと よわいもの)には、絶望の他に失うものなどないのである!」というあまりにも力強い一文があった。
そう、「絶望の他に失うものなどない」貧乏人ほど無敵な存在はいない。
そんなプレカリアートの、貧乏だけどあまりにも「豊穣」な世界を取材しまくり、書き綴った。27日頃には書店に並ぶ予定なので、めくるめくプレカリアートの世界に酔いしれてほしい。
http://www.magazine9.jp/karin/090218/
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