東京ユニオン島崎由喜男書記長に聞く(上) 昨年九月、アメリカのリーマンブラザーズ倒産に伴い、アメリカ発の金融危機は全世界化した。日本において、リーマンブラザーズの子会社(サンライズファイナンス)が京品ホテルを従業員の全員解雇と土地を更地にすることを条件に買取り転売しようとした。京品ホテルの従業員たちは、この暴挙に、東京ユニオン京品支部を結成して、解雇撤回を求めて、ホテルを占拠し、自主営業を始めた。「京品ホテルを守れ」とする支援が品川一帯から全国にまたたく間に広がった。東京地裁の「ホテル退去」の仮処分決定を受けて、一月二十五日、暴力的強制執行が行われた。京品支部と支援はスクラムを組んで闘ったが、ホテルから退去を余儀なくされた。こんな理不尽な解雇を許さないと闘いは続けられている。京品支部に付ききりで指導している東京ユニオン島崎由喜男書記長に闘いの経緯を聞いた。インタビューは二月六日に行った。(編集部) 労組結成に いたる経過 ――京品ホテルの闘いはリーマンブラザーズの倒産によって大きく報じられるようになりましたが、実は昨年の五月に、廃業・全員解雇の話が出され、組合結成に至ったようですが、その間の事情を聞かせて下さい。 昨年四月半ばに、京品ホテル従業員の方が「どうも、会社の状況がおかしい、営業譲渡されてしまうのではないか。賃金とか退職金は大丈夫か」というのが最初の相談でした。 ――それは飛び込みですか。 そうです。たぶん、東京ユニオンをインターネットで調べたか、誰かが知っていたのかも知れません。それで、組合をつくりましょうとなりました。 最初、五月一日に会社に組合結成を通告し、五月八日に第一回の団体交渉を行った。その時に、小林誠社長が「実はきのう、京品ホテルの売買が成立した(後から出してきた証拠によると本当は5月1日)ので、十月二十日で廃業して、みなさんには辞めていただきます。就職のあっせんなどはします」ということを、いきなり言われた。ここから闘いが始まりました。 団交は七月までに四〜五回行いました。組合側の「五年分の経理資料を出してくれ、それに基づいて、どういう経過で売却せざるをえなくなったのか、まず説明してくれ」という要求に対して、小林社長は「それは全部ダメ。それから売買契約についても守秘義務があるから一切明かせない」というひどいもの。誰が買い主なのか、すべて明らかにしない。とにかく、結論ありき(ホテルの売却と全員解雇)だった。 われわれが調査をして次のようなことが分かった。京品実業がホテルの所有者。あの中にテナントで入っていたのは、京品グリルとワカバ産業と小林管理(小林誠と一族の地主に家賃を払うための会社)、ワカバ産業の関連の不動産会社の合計五社と地権者八人。それとの間に売買契約が結ばれていた。 こちらが調べて、これはどうだと聞いていって、少しずつ明らかになってくるが、最終的に全貌は全然分からない。のらりくらりと逃げるわけですよ。組合員の人たちも、まだ組合に入っていない人たちも、団体交渉を聞きにきた。団体交渉の場所はホテルの二階の寿という広間でした。社長の対応が非常におかしいということで、団交一回やるたびに、組合員が十人ずつ増えていきました。 京品ホテルの従業員は京品実業という会社に雇われていた。正面にあったマメゾンというレストランは小林一族なんだけど、京品グリルという会社がやっているところでした。そこの従業員たちも組合に入ってきました。それで最初は十七人の組合員でしたが最終的に七十人ぐらいになりました。 七月十五日の団交で、小林社長が「京品実業と債権者のサンライズファイナンスと地権者の八人で、廃業と従業員の解雇を決めたこと」を明らかにして議事録に署名した。それが一つの根拠となって、実質的に経営権を持っているのは債権者のサンライズファイナンスだと分かった。その後、六本木のサンライズファイナンスに抗議行動に行くようになった。サンライズファイナンスがアメリカのリーマンブラザーズの子会社です。 60億の借金 のカラクリ ――京品ホテルの経営は黒字だったのに、六十億円もの借金を抱えるようになった。そのカラクリ? 債権の話をします。元々、三菱UFJとか三井住友などから借りていた。それが不良債権化して、RCC(整理回収機構)に譲渡されていった。別の東京相和とか東日本銀行に借りたカネは不良債権化して、東京信用保証協会に譲渡されていった。そのRCCに譲渡された債権が一時オランダのファンド会社に譲渡された。後は普通の銀行から借りられないのでノンバンクから借りた。二年ぐらい前に、大量に根抵当つけて十八億円くらいを借りたのが、新生銀行の新生ファイナンス。いろんな所に不良債権があった。 元々元本で四十六億円ぐらいでしたがそれに不払い利息、遅延損害金をつけられて、六十七億円ぐらいまで膨らんだ。二〇〇七年六月、それをリーマンが買い集めて一本化した。それで小林社長に売買話を持ちかけた。売買契約したLCホテルズはリーマンの意を受け、昨年の二月にこの譲渡劇のために作られたペーパーカンパニー。そことの間で結ばれた売買契約は土地・建物合わせて五十三億円です。 廃業して従業員解雇して、社長の言い方だとあの建物をガランドー状態にして、土地・建物を引き渡す条件で、売買代金五十三億円、残りの十四億円は免除してもらえる。すべて小林社長としてはチャラとなってしまう。さらにテナントして入っている京品グリルとかワカバ産業とか、建物は京品実業、土地は京品実業を含めて。地権者八人が分割して持っています。それも売買契約の当事者になっているから、立退き料とか地権者に払うものとか含めて、総額で五億九千万円が小林一族に入るという中身になっている。 ――それで五億九千万円が小林一族の所に入ると言われているのですね。 そうです。リーマンはそういう担保付の不良債権をあさって、まとめて乗っ取って高く売却して利益を上げて投資家に配当するという商売をずっとやってきた。ところがいままでは労働組合なんかできてこなかったので発覚しなかった。 ずっと後ろでリーマンがついていて、リーマンに全部握られているから、最終的にリーマンと闘わなければダメだとわれわれは分かっていった。リーマンの責任を追及するためには、債権者で決めたという議事録が必要だった。団体交渉ではそれをとるためにがんばった。単なる債権者だと団交の相手にしにくい。リーマン・サンライズファイナンスが実質的な責任者だということで、団交要求しているし責任追及の行動も行ってきた。 ホテル経営は なぜ破綻した ――小林社長はなぜ巨額の不良債権を出すようになったのですか。 もともと京品ホテルは品川駅ができる前の年の明治四年(1871年)に、とんかつ屋の名前にもなっている七兵衛さんが旅籠として始めた。二代目の人が昭和五年(1930年)に京品ホテルを建てた。戦後一時GHQに接収されたこともあるらしい。今の経営者は創業者の七兵衛さんから数えると四代目にあたる。 小林社長はバブルの時、新しい店を出店したりして、ことごとく失敗した。例えば北志賀に温泉付のホテルをやろうとした。温泉を掘削したけれど温泉がぬるい。温泉の前にスキー場があるがなかなかお客が来ない。結局、ホテルに一億五千万円、掘削費一億円かかったが五千万円で売り、二億円の借金ができた。 また、高輪の近くにエグゼクティブなんとかという会員制の高級ホテル(24部屋)を作ったが、六年間で会員が二組しかとれなかった。そこも大赤字を出して転売することになった。嵯峨野というお店の支店をあっちこっちに出したが、なにも面倒を見ないから、業績がどんどん悪化しやめてしまった。それがバブル崩壊の頃から始まって、なにかやるたびに新しい借金をつくった。 それが積もり積もって、最終的に遅延金も含めて二〇%ぐらいの金利がつくようになり四十六億円の借金になった。それがわずか一年で二十億円ぐらい増えて六十七億円になった(サンライズがその債権を30〜40億円で買い取ったと言われている)。 リーマンは取り立てをしながら、「こういう形で寄こせば、借金はチャラにしてあげるよ、おまけに地権者などあなたたちにもおカネをやるよ」と売却話を持ちかけた。小林社長にとっても一族にとってもこんなおいしい話はないわけですよ。 リーマンにとってネックになるのは、組合が居たり商売があったりしたら、高く転売できないわけです。建物付で買うという相手でもよいし、建物を壊して買いたいという相手でもすぐ壊せる状態にしておけば、どちらかに高く売れる方でやる。とりあえず、ペーパーカンパニーに持たせておいて、品川駅前再開発(進んではいないが)もにらみながら、一番高く売れるタイミングをねらっていた。 ところが、いまから思えば、債権を一本化した時が一番高かった。自分たちがアメリカで破綻したあおりがもろこっちにもきてしまって、どんどん下がっていった。結局描いた商売をリーマン自身もできない状態になった。 ただし、小林社長としては借金地獄から抜け出すためには、なんとしてもリーマンに買ってもらうしかないということで、話し合いで労使紛争を解決しようということがないんですよ。 露骨きわまる 労働者無視 ――一族経営では労働者を対等なパートナーと見ない場合が多いのですが。 一切ないですね。団交では「百パーセント皆さんのためです」とオブラートに包んだような言い方をしましたが、TBSの記者が取材で「私の物を私がどう処分しようが私の勝手ではないか」と社長はしゃべっている。その記者は「従業員を働く者として見る考えがまったくない」と驚いていました。 ――団交の様子などもマスコミ報道されましたが、意識的にマスコミに取材させることを考えていたのですか。 最初、六本木のサンライズなんかに抗議に行っていた。その最中にリーマンが破産した。われわれは本格的にリーマンと闘っていきますとメッセージを発信した。そうするとそれを見て、リーマンの破綻に関連してあそこで闘いが起こっているということでマスコミが取材にきた。 いままで説明してきたように破綻したから京品ホテルの売却問題が起こったわけではなくて、破綻する前からリーマンが国内でこういういかがわしい商売をしていた。そこにたまたま労働組合ができて、廃業反対、不当解雇撤回の闘争をやったからカラクリが明らかになったわけです。 マスコミの勘違いを正して、中身を説明した後でも引き続き取材をしてくれるようになった。十月二十日で廃業になってしまうということで、十日前に二十四時間体制で現地闘争本部をつくり、私もずっと常駐するようにしました。 ――その後もマスコミでは組合に好意的な報道がされました。それが運動にとって良い方向に働きましたね。 そうですね。職場で集まっている内部の会議なども差し支えない限り撮ってもいいですよと公開した。ある熱心な若い記者は現場に張り付き、今回の売却劇のカラクリを理解し、「ガイアの夜明け」(東京テレビ)のドキュメンタリー番組を一本作ってしまいました。 自主営業に 踏み切った ――自主営業を決めた経緯は? 組合をつくる時に、われわれがやった経験を出した。社長が逃げてしまった会社で工場を占拠して、自主生産をやって銀行に再建資金を出させて、自分たちで会社をつくったことなどいくつかあった。皆さんがどういうふうにしたいのか、給与・退職金をとって終わることもできるし、自主営業をする中で再建の展望を見つけ出す闘い方もある。皆さんが選んでくれればいいと提起した。 いっしょに交渉したり、行動しているうちに、強行閉鎖されたら、自主営業でいこうとだんだんになっていった。私もここだったら自主営業で闘えると判断できるようになった。 たまたま組合員の中に調理の人が多かった。ホールの人だけが残ったらやりたくてもできなかった。そうした条件がそろっていたので自主営業に踏み切れた。 ――自主営業が京品闘争を形で見せる、支援者がそこに参加するという重要な闘い方でしたね。ホテル前の署名がたくさん集まったと聞いていますが、地域の反応はいかがでしたか。 シンボリックなものがあった方が闘いはやりやすい。署名は年末までに五万筆集まり、いま五万三千筆です。まだまだ全国からきます。署名は廃業になって十月二十三日から始めました。マスコミで報道されたということで、署名運動をやったら結構いけるという判断とただビラを配っているだけより長持ちするんです。周りの人たちも参加できるという利点が署名にはあります。 当初、大量に地元の人たちが署名してくれた。後は旅行で来る人たち。一番すごかったのは十一月三日。一日千人以上街頭で署名してくれた。私もいっぱい署名運動やってきたがこんなの初めてでした。赤の信号で止まっている歩行者が青になると、ドドドッと来てあの歩道の周りが署名する人でバアーッと黒山の人だかりになった。 ――京品ホテルの品川の駅前で、垂れ幕やたくさんの檄布が張ってあり、闘っているということがすぐ分かりました。道行く人が「マスコミで報道されたホテルだね」と話しながら、行き交っていました。 地元の人は小さい時から見慣れていたということと、ホテルに入社試験や受験の時泊まったことがあるとか、そういう方がいた。署名しているとそういう人の思い出話を聞いた。そういう人で、署名用紙を地元に持って帰って集めて送ってくれた人もいた。いままでに経験したことのない署名活動でした。 上部組織の 枠を越えて ――ホテルの外で二回、ホテルの中で四回の支援集会が開かれました。ナショナルセンターの枠を超えて労組が集まった。労組の支援の広がりはどうだったのですか。 廃業される日に一回、その八日後くらいに一回駅前でやりました。人数がどんどん増えていって、警察との関係で無理もできない。そこでビアガーデンで使っていた屋上が空いていたのでそこでやりました。 ナショナルセンターの枠を超えて労組が集まったのはたまたまです。われわれの全国ユニオンという単産が弱小な小さな単産だということ。反エグゼンプションの運動をやった時に、ナショナルセンターとどうするという思考をしないんです。同じことを運動するために、やっていける単組の人たちと付き合ってというやり方でやっている。いろんなところに所属しているけど、全国ユニオン傘下の東京ユニオンとのお付き合いでということで自発的に皆さんが支援してくれた。 連合にも支援要請した。鴨会長が連合の中央委員会で提起した。反対は一つも出なかった。これで公式に支援決定が出たとなりました。十月三十日に連合の高木会長が職場集会に来て「みなさんのやっていることは生存のための正当な活動です」と激励した。 最初いろんな組合の有志の人が来たんです。私と表で話をして居酒屋で飲んで、うちでも上部に上げて組織決定してもらいますと。小田急バス労組や都バスの人たちもそうです。 ――全労金は労組委員長が来ていて、全国組織をあげてカンパも取り組むと表明していました。 全労金はもともと非正規の人たちを組織化するために、正社員の人たちの賃上げは定昇のみで、ベアの分は全部非正規の雇用確保に回わそうと運動をしていたのです。小田急バス労組は三年以上勤務の非正規を正規化するためにストライキを打って闘った。われわれが自分たちの春闘セミナーなどに来ていただいて学習をさせてもらっていた。そういう付き合いがあった。 ――自主営業に対して、京品実業が「ホテルから退去」の仮処分請求を東京地裁に起こしました。この攻防は? 通常だったら翌日に、われわれが地位保全の仮処分を申請すると同時に立ち退きの仮処分を申請するものだ。最初、会社は立ち退きの仮処分申請をちゅうちょした。小林社長は破産をちらつかせて、金銭で解決しないかと非公式にしてきた。こちらはおカネではなく、雇用確保だとつっぱねた。十月三十一日が引き渡し日になっていた。ところが二十一日から自主営業続けていたからそれができなかった。そこで初めて十一月五日に、立ち退きの仮処分を申請した。 その後、立ち退きの仮処分は通常は審尋も開かずいきなりドーンと決定が出てしまうこともあります。こちらが地位保全の仮処分と本訴を打つときに、会社側が仮処分をしてきたら審尋を開いてくれと要請を出しておいたからそれで最初の審尋は開かれた。通常はそれで打ち切りで決定が出てもおかしくない。十一月半ばに強制執行もありえた。 三回目の審尋で、署名が四万五千筆くらい集まっていたのをドーンと積んだ。二回目の審尋になった時に買主のLCホテルズが売買契約を解除してきた。裁判所も緊急性がないのではないかと傾きかけた。なんとか和解できないかと十一月二十八日と十二月十七日と審尋が三回も入った。こんなになるというのは異例なことです。裁判所が出してくれというから、最終的に非公式な和解案をこちらから出した。中身に関係なく、会社側が一切応じる姿勢を示さなかったので裁判所は決定を出してしまった。 ただ良いことには始まってすぐに打ち切られて決定が十一月に出たら、一月二十五日のああいう闘争にはならなかった。向こうから攻撃してくる度に、内部の意識が高まっていく。団結力が強くなっていく。支援してくれる枠がどんどん広がっていった。結果として、どれだけ遅く決定出させるかが、あの仮処分の攻防だったんですよ。 二カ月時間をかせいで、結局強制執行をはねかえそうと準備した。あの一日は負けてもこの運動が地元の多くの人や全国の人から認められている。だからわれわれは今後もできる。支部長は「必ずここに戻ってくる」となった。(つづく)
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