いまだに「日帝・公団の手先」論 革命的共産主義者同盟再建協議会(革共同関西地方委員会多数派を中心にして中核派中央から分裂した組織)が、その機関紙「革共同通信」25号(09年1月20日)に「1984年の第四インターに対する軍事的せん滅戦に関する自己批判」を公表した。彼らがいう軍事的殲滅戦とは、この年の一月九日と十日、七月五日と十四日に「革命軍」なるものがわれわれの同志八名を襲撃し、頭蓋骨骨折、脳挫傷、左足切断など、死者が出なかったのが不思議なほどの殺人的襲撃を加えたものである。 その「自己批判」の中では、「われわれ(中核派)が84年に第四インターに対して行った軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであり、そのことによって階級闘争全体に少なからぬダメージを与えたことを率直に自己批判する立場」「第四インターせん滅戦は労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線対立を、相手を『反革命』とまで規定し組織的な暴力を行使することによって決着をつけようとするものだった」と述べている。その第六章で自己批判までに二十五年もの歳月を掛けたことを「反対同盟を始め、これまで三里塚闘争に心を寄せ、いまもたたかいを担っているすべての人びとに謝罪する」とも述べている。しかし、彼らは「自己批判」の中で、テロや暴力的脅迫の被害者に何の謝罪もしていない。 「自己批判」では、「三里塚芝山連合空港反対同盟の83年3・8分裂を転回点として、第四インターが『日帝・空港公団の二期攻撃=反対同盟破壊攻撃の先兵』へと転落したと規定した」と述べた上で、一九八四年の一連の内ゲバ・テロを、八三年の五月仙台、七月大阪の三里塚大衆集会での暴力的介入へのわれわれの集会防衛行動、三里塚現地での反対同盟や青年行動隊などに対する昼夜問わない暴力的「説得活動」に対する反撃への等価報復であるとする「革命軍アピール」をそのまま引用している。さらに、反対同盟の分裂の一つの要因にもなった「一坪再共有化運動」に対しては「1億5千万円を得ようとするものであった」と、まるで私利・私欲のための土地売り渡しの行為、運動つぶしであったかのように主張している。 こうして、彼らは、一九八三年に始まる反対同盟の不幸な分裂と、中核派による反対同盟(熱田派)の同盟員や支援にたいする、テロをも含む暴力的内ゲバ攻撃を正当なものとし、ただ、八四年一月と七月の同志たち八人への「軍事的せん滅戦」(殺人的内ゲバ・テロ)だけが間違っていたのだというのである。 われわれはこの「自己批判」なるものを、真摯なそれとして受け入れることはとうてい出来ない。 いまだに「再共有化運動=土地売り渡し」論 そもそも、「一坪再共有化運動」は、中核派によって強引に反対同盟分裂の理由とされたものである。多くの空港反対闘争、基地拡張反対闘争や権力の土地取り上げに対してそれぞれの反対運動の主体が、それをとりまく支援や運動団体に呼びかけて、「一坪共有」の形で、敵の買収攻撃や、強制収用手続きを煩雑化するだけでなく、その闘争を主体的一翼として共有するためになされている。こうした運動は、日本だけでなく韓国などでもひろく採用されている。三里塚においては、共有地を活用し、新しい村や農地を作り、空港を包囲しようと攻勢的に考えられていた。そのうえ、この再共有化運動では、権利移転手続きに厳しい条件を付けたものだった。 中核派は、一坪共有運動に対して、一方で「土地売り渡し」「運動つぶし」といい、殺人的襲撃の根拠としながら、他方で、一九九八年三月二日の「前進」1851号では、「全国一千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争の勝利のために不可欠である」とまで書いている。 ここに中核派のご都合主義、鉄面皮が余すところなく示されている。革共同(中核派)再建協議会、関西地方委員会は、この九八年を前後する時期の中核派や反対同盟北原派の一坪共有運動に対する評価の「ぶれ」にふれず、襲撃の根拠にした革命軍アピールを引き継いだままで「自己批判」をしようというのである。それは到底不可能なことである。一坪再共有化の運動は、当時の中核派・革命軍がいうように、脱落派の土地売り渡し運動、闘争破壊、反革命なのか、それとも「自己批判」がいうように「労働者階級・人民大衆の闘争の内部で生じた路線対立」なのか。どちらだというのだろうか。 中核派は、当時すでに革マル派との間で激しい内ゲバを行っていた。その結果、彼らは土地登記の形で身元を明らかにすることに大きな困難を抱えていたという。自分たちが参加できない運動はつぶしてしまうというやり方が内ゲバ的やりかたそのものなのだ。大衆運動に関わる場合、自分たちの参加が困難でも、少しでも意義ある闘争は、つぶそうとするのではなく、陰で支援、または最低でも見守るくらいの心構えが必要なのだ。 昨年末から空港会社は、一坪共有者に対して「一坪共有地売却要請」の手紙を出しているが圧倒的多数は共有地を堅持している。いま三里塚では、「一坪共有地堅持、農民追い出しを許さない」新しいたたかいが取り組まれている。二十五年前、中核派の激しい攻撃にもかかわらず、共有者のほとんどが、その正当な目的を共有して共有地を堅持した。この運動のどこを見ても、土地売りわたしなどと非難されるものはない。いま市東さんの「農地死守」のたたかいにとって、空港内外に反対派の共有地があることがプラスなのかマイナスなのか。答は歴然としているではないか。われわれは一坪共有地堅持の運動を強化していく。 三里塚闘争への破壊行為、内ゲバ・テロ 革共同(中核派)再建協議会は、われわれに対する「軍事的せん滅戦」(内ゲバ・テロ)を、八三年五月仙台、七月大阪での「第四インターの白色行動隊」による暴行、権力への売り渡し、岩山記念館破壊、現地の「脱落派」によるリンチ行為への等価報復であるとする革命軍アピールをそのまま踏襲している。 当時、中核派は、大衆集会に潜り込み、声を合わせてシュプレヒコールを行い、壇上に駆け上がって集会妨害を試みた。また、職場や学園におしかけてはビラをまくだけでなく、メンバーを呼び出して当局・管理職の前で暴行を加え、「死刑判決」を突きつけた。駅頭などでは、「おまえの職場、家は分かっているのだ」「次はおまえだ」と脅し、夜な夜な居宅に押しかけて近所迷惑をし、脅しの電話などあらゆる卑劣な行動をくり返した。 その対象は、われわれのメンバーやシンパに止まらず、三里塚闘争に連帯する会に参加する他の党派のメンバーやノンセクトの人びと、彼らが熱田派と見なす人びとのところでも同じだった。それは、三里塚での反対同盟員や青行隊員にも行われた。そうした中で、職場や学校の仲間たちを含んでの中核派メンバーに対する排除、われわれの仲間の防衛行動や、最小限度の自衛行為が行われることはあった。中核派は、それをテロ・リンチと誇張したのである。 中核派のわれわれに対する内ゲバ・テロ、彼らがいう「軍事的せん滅戦」は、われわれだけに向けられたものではない。それは当時中核派が三里塚現地や全国各地で行った反対同盟と熱田派支援に対する無数の内ゲバ的攻撃の一環でありその頂点である。 中核派はこの時期、三里塚闘争だけでなく、あらゆる大衆闘争で対立、齟齬があるとき必ずと言っていいほど内ゲバ的対立をして暴力をも行使しながら攻撃した。自分たちと路線的に対立するものは「脱落派」であり「日帝の手先」「反革命」あるいは闘争破壊者となるのだ。その被害者は枚挙にいとまがない。これが、「自己批判」も認めるとおり「階級闘争に少なからぬダメージを与えた」のである。 革共同(中核派)関西地方委員会であれ全国委員会であれ中核派を引き継ぐものは、これら被害を与えた人びとはもちろんのことさまざまな運動を担っている人びとに真摯に謝罪し、自己批判すべきである。われわれに対する「軍事的せん滅戦」だけ自己批判すればすむことではない。内ゲバ的手法を用いた「共有化運動つぶし」全体が自己批判されなければならない。 内ゲバ・テロを排し豊かな大衆運動の構築を われわれは、一九八三年の中核派からの内ゲバ・テロ攻撃に際して、軍事的報復の道は採用しなかった。もしそうしていれば、三里塚闘争はじめ日本の大衆運動が受けた打撃はもっと深刻だっただろう。その代わり、われわれは、さまざまな大衆運動を担い闘っている党派やグループ、人びととともに大衆運動の発展のために、運動や共同行動に内ゲバ的手法が持ち込まれること、中核派や革マル派などの内ゲバ党派が介入・攪乱することを防ぐべく闘ってきた。その闘いは、十分であったとはいえないが、われわれは全力を尽くしたし、これからもそうする。 革共同(中核派)再建協議会、関西地方委員会が「自己批判」をだした背景には、彼らが運動上の孤立から脱却するための願望が込められているのであろう。しかしこの「自己批判」では彼らが大衆運動、共同行動、統一戦線の中で二度と内ゲバ・テロを行わないという保証にはならないと考える。 新自由主義の結果、世界的大恐慌が訪れ、失業者が街にあふれ、日本が戦争する国に造り上げられようとしているいま、労働者人民の強大な大衆運動、政治闘争が求められている。内ゲバなど不毛な行動によってこれらの運動を再び後退させることは許されない。日本の政治闘争、環境運動、労働運動、女性解放運動、学生運動など諸々の大衆闘争を担うものは、これまでの内ゲバが日本の大衆運動に与えた打撃を深刻に受け止め、再発を防止するために全力を尽くさなければならない。 われわれは、さまざまな運動を担っている人びとに、これまで通り、大衆運動、共同行動への内ゲバの持ち込み、内ゲバ主義者の参入を拒否するように訴えたい。求められている豊かで強大な運動を作るために。 革共同(中核派)中央の機関紙「前進」は、その2378号に「革命軍の09年決戦アピール」という鮎川鉄兵の個人文書を掲載し、再建協議会の「自己批判」を三里塚闘争の破壊策動だとしている。その中で「脱落派(熱田派のことをを彼らはこういう)は、〜日帝の国策と農民圧殺の先兵となり〜」と規定している。さらにわれわれ(第四インター)を「党派として(それを)牽引していた」とし、われわれへの「軍事的せん滅戦」(内ゲバ・テロ)を全面的に正当化している。革共同(中核派)中央派に対してはよりいっそうの警戒心を持って対応する必要がある。(二〇〇九年二月)
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