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二〇〇八年十二月三十一日から〇九年一月四日まで、日比谷公園に、派遣切りなど解雇された労働者の救済のために「年越し派遣村」が作られた。この運動を自立生活サポートセンター「もやい」の湯浅誠さんたちとともに担った全国ユニオン事務局長の安部誠さんに「年越し派遣村」運動がどのようなものであったのか、その教訓と今後の課題について聞いた。インタビューは一月二十二日、派遣村が借り上げた本郷の旅館で行った。(編集部) どのように準備 ――派遣村はどのように準備したのですか。 派遣村の話が出たのは12・4派遣法抜本改正を求める日比谷野音全国集会の後です。何でそういう話になったのかと言うと、12・4集会の成功・一定の高揚があったこと、十一月二十九日から三十日に、全国ユニオンが派遣切れホットラインをやった。その時に、これからどうするのと聞くと、あてはないのに「東京に行こうと思う。東京の方が仕事があるのではないか」という人が結構いた。十二月の中旬や年末に派遣契約が切られることが分かった。結局東京に来たはいいけれどあてもない。これはちょっとえらいことになるぞ。 ――厚労省前の日比谷公園で越冬行動をするということは派遣切りに対して、政府はこの問題をどうするかという対政府交渉の意味合いも構想していたのではないのですか。 ありました。どう考えても普通の炊き出しとかイベントみたいなものじゃないということは分かっていて、初めからどんなにわれわれに力があったとしても全部担えるなんて思っていなかった。年末年始をやれてもそれ以降は限界がある。可視化するということは政府に対して、どうするんだよということで迫れると思いました。だから、場所を日比谷公園に選んだと、いうより、多少の異論もありましたが、当然のように決まりました。 ――三十一日に立ち上がるとマスコミの報道が連日続きました。とりわけ、正月ということもあり、全国的な反響を呼びました。派遣村はどうだったのですか。派遣村の名称は? 誰が提案したということでもなくなんとなくですね。最後に、「派遣村」にするか、「年越し派遣村」にするか、意見が分かれた。マスコミに「年越し派遣村」の方が良いと言われてそれに決まった。村民として登録した人が四百九十九人。宿泊を実際にした人が四百八十六人。ボランティア登録をした人が千六百七十四人。これは延べではありません。複数の日数来た人がたくさんいる、登録しない人もいたので五千人を超えたのではないですか。 支援物資と ――マスコミが報道することによって人が集まった。さらに一月四日に、派遣村で全野党の党首クラスが全員そろって集会をやりました。民主党代表代行の菅直人さんが来て連帯のあいさつをしましたが、民主党が派遣法改正問題でも製造業派遣禁止に転換する契機にもなったようです。そして、五日の院内集会に厚労省副大臣・大村秀章さん、自民党の片山さつき議員が参加し、国会請願には公明党議員が多数議面前に出てきた。こうして、派遣切りなど雇用問題が政局の中心へ躍り出ました。 私は五日間の内、四日泊り込みました。少しの時間、日比谷を離れて初めてテレビを見ただけです。「すごいね、すごいね」と言われるけど、こっちはテレビを見てない。日比谷公園の外で何が行っているのか分からなかった。箱根駅伝のニュース中継の合間に、頻繁にカメラが派遣村をうつしだしていたようで、すごいことになっていたようですね。 ――炊き出しや宿泊のためのいろんな物資が必要だったと思いますがそれはどうしましたか。 十二月二十二日にブログでカンパ下さいと発表した途端に、ものすごい量の物資とカンパが寄せられた。昔の三里塚の経験があったので、葉物や冷凍食品、古着はお断りした。三十日の時点で管理職ユニオンの会議室は食糧貯蔵庫になっていた。カンパは四千万円を超えました。 ――年明けの京品ホテルの支援集会で、「正月は自主営業を休みにしていたので、派遣村に大鍋を持ち込み炊き出しを手伝った」と報告がありました。さまざまな人たちの支援があったのですね。 いろんな支援があった。野菜は三里塚や農民連がカンパしてくれた。医療関係は例えば共産党系の組合の人は病院について、費用のことは後で考えるにして、本当に入院しなければならない人はとにかく二十四時間体制でスタンバイしているよという話だった。日比谷では耐えられないけれど、入院するほどでもない。そういう人のために京品ホテルは数室を開放して対応してくれた。それは非常に助かりました。 ――ゴミなどがいっぱい出たと思いますがどうしましたか。その他感動したような支援は? 清掃労組や建交労の部隊がゴミトラックを持ってきて処理してくれました。私たちはできるところからやろうということで、最初に炊き出しで計画したのは一回、百から百五十食でした。ところが年明けてから毎日百人ずつ増えました。そうすると聞きつけて、いわゆるホームレスの人も来るようになり、最後は一回、八百食にまでなりました。 ――ボランティアの人たちは昼間来て、夜帰るというようなことだったのですか。 帰る人もいるし、本部のテントの方を利用してそこで寝る人もいました。私もずっとあそこで、自分のテントを持っていって寝ていました。寒さは冬山並みでした。 集まった人の ――派遣村に来た人はどんな人たちでしたか。 派遣切り・期間工切りなど被解雇者で、職と家を失った人がおおざっぱに言って六割。長い期間、野宿生活している人が二割、後二割は分かりません。開村式の時に、「これは派遣切りの人たちが対象だが、そうでない人もいっぱいくる。みんな大変なんだから、並んだ人は誰区別することなく、分かち合おう」とみんなで確認した。派遣切れで来た人で二日目から、ボランティアの仕事を受け持つようになる人も出てきた。そういう人はすぐに分かってくれて、非正規・正規と差別されて、こういうことになったわけで、それをなんとかしようとしているわけだから、集まった同士でまた差別するというのは良くないという意見がけっこう出た。そういう意味では排除はなかった。 ――男女の比率はどうでしたか。 女性もいましたが圧倒的に男性でした。女性はテントに泊めるのではなく、別の施設を借りて対応した。 ――ボランティアに来た人の特徴は? 労働組合員が多かったのですか。 いや、労働組合員は少数で二割から三割ぐらいではないでしょうか。反貧困ネットでつながった人たちもいました。12・4集会は呼びかけ人の幅が広がりました。12・4集会に来た人も組合でなくて、野宿者の運動、多重債務の運動などをやっている人たちも参加していました。そういう人たちに労働組合がひっぱられたと言ってもいいのじゃないか。組合の機関動員だったら絶対できなかったでしょう。有志連合だから、いろんな序列もないし、エグゼンプション以来の人間関係もあるから、わだかまりもなくうまくいきました。仕事自体はてきぱきとやっていたし、厚労省交渉なんかでも意思統一は非常に簡単でした。 危機意識に ――一月二日に、厚労省の講堂を宿泊施設として開放させました。その経緯は毎日新聞の一月十二日号に載っていましたがどうでしたか。 だいたいあの通りでしょう。たまたま湯浅誠さんと厚労省副大臣の大村さんがテレビで対談し、連絡先を知っていたということです。たぶんいろんなルートから入ったと思う。講堂開放はかなりすんなり、厚労省が受け入れた。毎日新聞で大村さんが語っているのは真実に近いと思う。「ここで凍死者ひとり出したら、麻生内閣がふっとんでしまう」という危機感は当然働いただろう。どういう形で政府交渉になるかは分からなかったが、後から考えてみると、成り行きとしては自然だった。先ほども述べましたが、一月二日は本当に重要な日でした。色々な意味で。 ――十一月頃から、例えば大分のキャノンで派遣切りがあり、寮から追い出されるということに対して、全日建連帯労組の分会が作られ、それとの闘いが始まった。すると大分県や市が臨時職員として採用することや県営や市営住宅を提供するなど支援の動きが始まった。神奈川県でのいすゞ自動車との闘い中で、県が県営住宅を安く提供することを決めた。そうした流れの中で、国も宿泊所を要求するのを拒否できないことになっていったということでしょうか。 もう、派遣切りで家も職も失った人が何千、何万人だろう。そういうことを考えれば、日比谷に来た人たちは五百人だったが、それでも五百人宿無しが一カ所に集まることはすごいことだよ。それは政府にも伝わったと思う。 ――この時、要求は講堂を開放せよという以外に出したのですか。 他にも要求はだしましたが、緊急かつ最重要な要求は、講堂開放でした。派遣村が日比谷で動いている間はカンパとかボランティアも増えたので、衣食住についてはなんとか目途が立っていた。その手の要求はあまりしていない。 ――講堂開放が流れとして大きかったのではないですか。今までは政府は自分たちの責任を認めて、個別の要求に応じて国の施設を使わせることは絶対になかった。 毎日新聞での記事で、官僚とやりとりとされている部分は次のようなものだった。「大村副大臣が講堂を開放すると言ったときに、官僚から異論があった。明治以来、生活困窮者の救済は自治体の仕事で、国はこんなことをしたことはありませんと」。これは本当だと思いますよ。関東大震災の時だって、直接対応したのは東京市だったでしょう。国は予算をつけるとかの仕事。 ――この流れの中で、五日以降政府が自治体に要請して、宿泊所の確保と職のあっせんを行った。 いや、五日以降のことがまだ分からなかったから、四日の午後三時半に、今厚労省との話し合いはこうなっていると説明する村民集会をやった。その時点で厚労省から言ってきたのは、二百五十人分は確保したということ。では、後二百五十人分はどうするのだとなった。その時に、厚労省の方は講堂にいる二百五十人をまず施設に移してくれないか。俺たちはそれは逆だ、テントの人の方がたいへんだ。こっちが先だと主張し、平行線になった。最終的には村長一任となった。夜の厚労省交渉では結局、五百人全員を路頭に迷わすことはしないと確約をとった。 生活保護取得の ――その後はどうなりましたか。 五日の日に、四カ所プラスの宿泊所を十二日まで確保して移動した。派遣村に居た時に、生活保護の申請を百数十人が行った。生保のことで言うと、二百九十人ぐらい申請して、まだ若干増えています。とはいえ、生保について偏見があって、いやがる人も結構いました。お世話になりたくないとか、オレはまだ元気だ、みたいな。それでもほぼ全員に決定が出た。 ――今までは住所がないから生保を受けられないとはねられてきました。 あれはウソだよね。仮決定の文書には住所が千代田区日比谷公園内派遣村と書いてあった(笑い)。財政赤字だなんだとまず生保を削減ありきで切ってきたわけでしょ。最初の給料が出るまでが生保の対象だ。三カ月で最初の給料にありつければ、月十三〜十四万円なんだから、四十万円で社会復帰できるということでしょ。アパートの補助を含めても七十万円くらい。定額給付金の二兆円で割ると三百万人が救われる。生保を使えば具体的で安上がりです。 ――派遣切りなど解雇された場合、次に生活するためのステップに気軽に生保が使えるようになれば、ずいぶん世の中変わります。今回の運動がその突破口となるように全国に波及させる必要があります。 今の制度でもこれくらいのことができるということです。多くの人が社会復帰できることは、社会保障の受給者ではなく、税金を払う人になる。外需依存型から内需拡大型への転換が言われます。これまでの生保切りをやるのではなく生保を活用したり、小口の融資をもっと借りやすくする。この方が内需拡大につながるよ。 緊急要望書を ――今後、全国に派遣村のようなものをつくっていこうという提言がありますが。 一月十九日、三月にやらなければならないこととして、国に対して、派遣村緊急要望書(別掲)を提出してきました。三点あります。まず一つは包括的に問題解決が図れるような総合相談所付きのシェルターを全国に四十カ所つくれ。シェルターと言っても新たに建てるのではなく、いま企業が借り上げているアパートでもよい。女性のシェルターは別につくる。 大企業の責任 ――派遣切りでは国の責任も大きいが、大企業の責任ももっと大きい。この前、経団連に公開質問状を出しました。 大企業に責任をとってもらうためにも、この基金の構想がある。試算でいうと、派遣先企業は雇用保険と社会保険を払っていないわけです。せめてその分を払いなさい。それだけでも三千億円になる。一月一日の朝日新聞のインタビューで、御手洗経団連会長は次のように答えた。「失業者の住宅確保や就職支援のため、企業が出しあって基金を創設する構想を明らかにした。急速に悪化した雇用に対する経済界の事前対応の遅れを認め、しわ寄せを受けている請負会社への支援も発注元企業として検討する考えを示した」。 ――基金を本当に実現させていくにはどうしますか。 それは理事会になるのか、評議委員会となるのか分かりませんが、労働側、企業側、学識経験者なんかに入ってもらう。ボランティアは民間でカネを出した。国は施設を開放し、職員を出した。企業がカネを払わないのはおかしい。御手洗発言をみると、企業の方もまずいなと思い始めている。こういう問題というのは、国に出せ、企業に出せというのは基本であり重要だが、社会的な連帯でもって、みんなで支え合っていこうというアピールが必要ではないかと思う。それが派遣村で学んだことです。 ――旧来の運動だと労働組合は自分たちの雇用や権利の問題、住居や生活保護の問題は社会・市民団体と分断されていました。今回の派遣村運動はその垣根を超えて、労働組合が社会的労働運動としての役割を担った。そうした意味で、労働運動に衝撃を与えたし、春闘の闘い方を含めて新しい運動のイメージを発信したのではないでしょうか。やれば政府を動かすことができるということで、みんなに勇気を与えたのではないでしょうか。 私たちにとっても、これほどの規模と波及力は予想を超えていました。今回はアピールする側にとって条件の良い状態だった。もともと呼びかけに答えるだけの土壌があって発火点に達したということでしょう。労働組合同士でもそれ以外の市民団体との関係でも作り上げてきたものがあったからできた。 歴史的転換期 ――政治を動かす、社会を動かす。われわれがかつて三里塚にかけたように、時代の転換期に最先端で動かしている。そうしたものを感じるのですが。 そうですね。それは日一日という感じでした。今でも継続している。派遣法、春闘などの問題で言うと、今回の運動がなぜ成功したというと、われわれの運動が現実に乗り越えられた。それに追いつくために、それに対応するためにどうするか。それぞれの試みがあって、なんとなく形になった。
一月十九日に緊急三項目の要請を国にしました。それは結構政府や与野党の議員たちにもそれなりに無視できないものを残していると思う。一、二は簡単にできる。基金までいくかどうかはわからないが、これだってそんなに絵空事ではない。三つの要求は派遣村が切り開いた中で、具体的にできると思ったものです。それは何を意味するかと言えば、結局は政府や体制批判になる。派遣村は麻生内閣打倒のためにやったわけではないが、日程的に言えば、一月五日通常国会の初日。どう考えても、麻生内閣打倒のさきがけになるなと思っていた。労働者・市民の実践で政府に対して、優越する政策提言も出来ている。そんなに悲観的になる必要はない。 派遣村からの緊急要望書 |
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