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まず朝(26日)のニュースで目にとまったのがソマリア(アフリカ東部)の首都モガディシオで24日午前、自動車を使った自爆テロがあったという報道。CNNによると15人が死亡、24人が負傷したという。 いまソマリアと聞いて頭に浮かぶのは、麻生氏が昨年10月に海賊問題で、海上自衛隊の活用を前向きに検討すると表明、そして自公与党のプロジェクトチームが15日に「当面」、自衛隊法の海上警備行動を発令して海自艦船を派遣する方針を決めたこと、自民党国防関係合同部会も21日、それを「了承」したことだ。(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」) 自公政権から、この問題で即座に海上自衛隊の派遣をいいだす人が出た。まったくこまったものであると考えながら、「自爆テロ」のことを思う。宗教や文化の違いを知らずにやたら「対テロ戦争」をあおりつづけて、戦争ばかりを地球上にまきちらしたブッシュ大統領。自らの戦争責任もとらないまま、大統領の任が解けたが、実質は任期満了ではなく、2期目の中盤に以降は批判が高まり、引き摺り下ろされたも同然のような状況だった。 もっとはっきり犯罪を暴いて訴追、弾劾、罷免の道を歩みたかったとう人も多いだろうが、そこまでにはいたらなかった。戦争という名の大量殺人行為。私たちはそういうことに手を出してしまう人を政治家にえらんでしまったり、要職につけたりする過ちからいつ逃れることができるようになるのだろうか。 CNNの記事に再度目を落とすと、爆弾を積んだ自動車は、アフリカ連合(AU)ソマリア基地に向かって走行していたという。付近にはAUの平和維持部隊がいた。警官も警備していた。基地の建物に到達する前に爆発したという。 アフリカ連合(AU)関係者は、ソマリアでは、和平や国民和解に向けた新たな努力が続いていることを強調、そしてこの爆弾車について、「臆病なテロリスト」の自爆攻撃だとコメントしている。私たちは、こうした犯行のことを知ると、ともするとすぐに「凶悪犯」と決め付け、恐怖心を抱き、ゴキブリ一匹にもてる力のすべてを注ぎ込むのと同様の精神状態に陥りがちだが、このAU関係者の犯行への唾棄のしかたは、<和平や国民和解に向けた新たな努力が続いているソマリアで起きた「臆病なテロリスト」の自爆攻撃だ>と、なかなかクールである。 バラバラ殺人事件の報道などでも、放送ではやたらに「凶悪犯」のイメージを喧伝しがちだが(アナウンサーまでが顔をよくひきつらせたりして伝えがちだ)、上野正彦(元東京都監察医務院長)さんの本などを読めばわかるとおり、殺人事件をおこしたあと死体をバラバラにして投棄するような行為は、殺人者の側の心理や事情に着目すると、死体をそのままの状態では隠したり、捨てたりできないから細かく切りきざんだりするのであって、それはバラバラ死体から連想するような残虐な殺人者というより、事態を引き起こし、今後に恐怖する弱く追い込まれた人間の所業であることが多いことに気づかされる。 考えてみればイスラエルが、1300以上のガザ地区の人々を虐殺した。そのときの理由が「パレスチナがミサイル攻撃をやめないから」だった。イスラエルは、民主的な選挙で選ばれたハマスのリーダー一人をしとめたが、ガザ地区にすむ一般民衆1300人を殺害しての到達点だった。そして米国とも相談して、ガザに兵器を密輸させないことを攻撃停止の条件に掲げて、世界からおきた激しい批判をハマスのせいにするかたちにひたすらもちこむ努力をして、撤退した。 自爆攻撃を許すことも軽視することもできない。だが、自爆攻撃を、弱者の側からの異議申し立ての一種としてみるべきものなのか、それとも無差別殺人を目的とした殺人者の行為なのかどうかを、動機の面からさぐることは大事だろう。殺人者も精神鑑定によっては無罪を言い渡されることもある。爆弾をかかえて敵陣につっこむ無謀な行為は、攻撃を受けた側ではその被害が一番の問題だが、犯行を行う側にとってはそれは精神的な側面にかなりの重点がおかれていたりする。 マスメディアも含めたこの情報を受け取る側の、いわば認識のミスマッチを姑息に利用して、自陣営の選挙戦術として活用したイスラエル政府。自分は被害者であり、その被害を与えるものはなんびとたろうとも殲滅してやるというそのこれみよがしの行為は、いかにもうさんくさいし、パフォーマンスが過ぎる。パフォーマンスのために1300人もの命を奪ってはばからないうえに、虐殺は相手の「テロ」に理由があるとして、責任をなすりつける。象と蟻との違いもあるイスラエルとガザの戦闘を、両者のいつもの、長きに渡る地球上の歴史に所以する喧嘩です、とでもいうように平然と情報を垂れ流していたNHKなど、私はイスラエルの戦争犯罪に加担する行為であると糾弾したい。いったい人の命をなんだと思っているのだろうか。日本のメディア全般に、イスラエルの蛮行を擁護してやまない米国への「気遣い」のようなもの、ガザの側に立つことを薄ら笑いで忌み嫌う性情のようなものを感じ取った人も多かったはずだ。 ブッシュの「対テロ戦争」を批判してきた今度のオバマ米大統領も、イスラエルのガザ民衆に加えた虐殺については歯切れが悪い。それはそうだろう。イスラエルの虐殺行為は、ブッシュ政権が、あとをつぐオバマ氏にのこした置き土産であるからだ。 オバマを、戦争に引きずり込む。オバマに戦争をやらせる。そのための最初の試練がイスラエルがブッシュ政権の最後に祝砲として打ち鳴らしたガザ攻撃だった、といえるように思う。ブッシュの単純頭がいかにも考えそうなことではないか。やりそうなことではないか。政権発足と同時にイスラエルと緊張関係になる米政権。これは危険極まりない。オバマ陣営は、最初のトラップにかかることなく、なんとかやりすごしたが、ブッシュの戦争に反対して立ち上がった米政権として、世界から喝采をあびることにはつながらないことはいうまでもない。 AFPによると、米国人の25%近くが、オバマは「イスラム教徒」だとのうわさを信じていたことが分かった。第44代米大統領に選出された直後の調査のようだ。オバマ氏が、ブッシュの「対テロ戦争」を卒業しようとする過程で、 オバマ米大統領は22日、大統領令で、テロ容疑者拘束のため海外に設置された中央情報局(CIA)の秘密収容所すべての閉鎖を指示した。CIA長官はただちに、大統領令に従い、収容所閉鎖と尋問手法に関する方針転換を「例外や抜け穴なく」順守すると発表した。職員に対するメッセージの中で、「大統領令を注意深く見直し、われわれが法や政策方針に則って活動を続けらるよう適切なガイダンスを作成する」とも述べている。(→AFP) また同日、オバマ大統領は、キューバのグアンタナモの米海軍基地にあるテロ容疑者収容施設の1年以内の閉鎖と、テロ容疑者の尋問に拷問のような方法を用いることを禁止する大統領令に署名した。AFPは、<これらの決定は、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の政策を明確に拒絶したものといえる>と報じている。 ブッシュの戦争路線からの脱却の道を、米国は歩みだした。それは続いていくのだろうか。前進を果たしていけるだろうか。アンチ・ブッシュにとどまらず、実態としてオバマ政治は世界を対話と共生の時代へと導いていけるだろうか。当然ながら、一瞬にして世界から戦争が消えてなくなり、地球全体が平和と幸福に彩られた世界に変わるわけではない。まして、オバマ氏といえども、日本国憲法の平和条項の体現者であるわけでもない。 25日にはパキスタンのカラチで、米軍機の北西部部族地域へのミサイル攻撃に対する抗議デモが行われた。オバマ就任後、初の反米デモだ。米国は、国際テロ組織アルカイダ戦闘員が潜伏しているとして国境地域への攻撃を続けてきた。それがオバマ政権になってからは停止するとの期待も流れていたが、早くも打ち砕かれ、デモへとつながった。(→AFP) 米国と日本の関係は、かつてのプレスリー踊りのお調子者・小泉の時代から、どこまで変わることができているか。あの恥ずかしい時代を、早く忘れたいものである。忘れさせてくれるような総選挙の結果を早く見たいものである。忘れるだけでなく、実質的に「卒業」のときを確実に展望しなければならない状況をむかえている。 オバマ氏に米大統領が変わり、地球社会はこれまでとはまったく異なる道、日本で言えば産経新聞や読売新聞が社説で唱えてきたような乱暴で粗雑な道とは異なる道へと動き始めようとしている。しかしながら、日本国憲法の9条について、オバマ陣営はどこまで理解を示せるか。軍事力に代表されるハードパワーとソフトパワーを賢く組み合わせる「スマートパワー」の提唱者、ジョセフ・ナイ・ハーバード大教授を、オバマ政権は次期駐日大使に内定した。国務長官はクリントン氏。 日本国憲法の9条と、オバマ政権の「スマートパワー」の接近遭遇が近づく中、そこに「活路」を見出そうとしているのが、読売新聞や産経新聞の論説、あるいは日本国憲法の9条を「敗戦国におしつけられたフィクション」と信じ込んでやまない人たちなのだろうと思う。「スマートパワー」は、日本国憲法の9条をどこまで理解できるか、どこまで共存・共闘できるか。 その命題は、ひたすらオバマ政権の「隙」をねらって、「ほらみろ」と自陣営のこれまでのブッシュ屈従姿勢を正当化したい人たちのロジックでは解けない性格のものだと思う。ひとつのキーワードは「核廃絶」だろう。オバマ政権はこの課題を正面からかかげていくことなるだろうし、オバマ政権を生み出した米市民と日本の核廃絶運動のより親密な交流こそが、世界の「核廃絶」の流れを加速させるアクセルとなるだろう。地球環境問題もそのひとつだろう。ブッシュが拒絶してやまなかった京都議定書だが、オバマ政権は地球環境問題も人間の命の問題とリンクさせて積極的に取り組むだろう。政権へ至る道のりで、オバマ陣営は次代の地球世界づくりのイメージを、地球世界を支配する立場を確立しようとする姿勢からではなく、世界との対話と共生の観点から打ち出し、米国の再生をそのなかで果たしていくとするストーリーを描き出している。 それを前進させるのも言葉だけで歪めさせてしまうのも、民衆の交流の度合いによるだろう。オバマ大統領に幻想を抱き、彼をいくら祭り上げたところで、社会は動かない。動くにしても限界がある。時代は変わらない。時代はオバマ大統領とともにあるのではなく、民衆とともにあるからだ。そのなかで、どこまでオバマ氏及びその陣営が役割を果たせるかなのだ。 ブッシュ政権の時代、あのアーミテージ氏までが平和主義者に見えた時代もあったが、日本のブッシュ追従派がオバマ米政権と日本の世論との間に亀裂を走らせたいと画策してもおかしくないのは、そこにひとつセキュリティホールが存在するからだ。 オバマ政権の「スマートパワー」路線と、「アーミテージ報告」、日米同盟の深化、ナイ氏。図式的にいえば、この関係の中に「日本は集団的自衛権を認めるべきだ」という論理が入り込む隙間が存在する。これをオバマ政権が強く打ち出して、日本にあらためて「改憲」を求め、「集団的自衛権」の行使を認めるよう圧力をかけてくれさえすれば、破綻した安倍の靖国機軸・復古改憲路線や、ブッシュ追従「ひるむな」路線を展開した時代錯誤のかたがたにも、ようやく言い逃れの道、自己正当化の道が広がるというわけである。「日本国憲法の9条を変えて、米国のオバマ政権とともに世界平和のリーダシップを日本はとるべきだ」「日本の9条が、世界平和の前進を阻害するものとなってはならない」とかなんとか理屈をつけられるという算段である。 だが、それはあくまで「図式的」な単純頭の方式にとどまるだろう。なぜなら、そうした図式で世の中が形成されているわけではないからだ。米市民のブッシュ批判、ブッシュ拒絶と、オバマ政権の選択の間には、上記のようなこじつけに過ぎない自己正当化のロジックが入り込めるほどのマージナルな境界は、少なくとも民意という側面においては、極めて厳密に区分された価値判断がガードしているからだ。 その違いがわからない人たちにとっては、とりあえず米国の選択・決定したがってこれまでどおり対米従属を日本流のいさましい言葉で味付けしておけばよい、ということになるのかもしれないが、実は決定的な差が生まれているのである。日本の改憲民族主義の人たちにとって、初の黒人米大統領の存在はもう違和感はなくなっただろうか。種々の映画で、種々のテレビシリーズで黒人大統領がめずらしくもなくなってすでに10年以上になるのではなかろうか。日本の、口だけいさましいことをいって、自衛隊や民衆を戦場に送り込むしか発想できない政治家や政治ジャーナリズムの姿勢が、すでに数十年時代から取り残されてきたことを、初の黒人米大統領誕生は強烈に印象付けることになった。 オバマ大統領はジョンレノンではないし、ジョーン・バエズでもない。巨大な軍需産業をかかえる米国の大統領である以上、日本にとっての「スマートパワー」路線が改憲派の事情と接近することもないとはいえない。だが、日本の靖国称揚・改憲派は、国益と平和のためと称してブッシュの対テロ戦争に追従したのである。ブッシュの対テロ戦争を、価値判断だけでなく感情の側面から拒絶した米市民の選択は、オバマ政権を根底のところで縛り規定している。 ナイ、アーミテージ、クリントンというお歴々の段階でいかに推移するか、ということと、米政権として日本と、いかにいかなる人々との交流を深めるかということとは、これまでのブッシュ政権のすぐに底と壁に突き当たる本質的に独りよがりの外交姿勢とは大きく異なってくることも予想される。ブッシュ政権の足し算と引き算の政治から、 n 次方程式へと変化する兆しがすでにみえはじめている。前者のほうが米国の政治としては例外の部類であって、後者のほうが民意の水準と性格、要求に沿い、時代対応したものと考えておくべきだろう。 ブッシュの時代は、読売新聞の改憲試論(私論)にとって最後のチャンスであったのかもしれないが、その時代はとうに終焉した。それでもなお、経営上の都合等で、あるいは妙なプライドからか、まだ襖の陰でいさましい言葉をはいては逃げ去るような無責任きわまる社説を掲げたりしている(最近の例ではソマリア海賊問題での海上自衛隊の派遣)。 日本社会は、ブッシュの戦争の時代に寄り添って展開された改憲・弱肉強食の論理の牙城の役割も果たしたといえそうな読売などの新聞、そして政党では政権党として君臨して弱肉強食、民意忙殺どころか民衆の命と生活を脅かしてやまない自公政権が続いている。 25日投開票された山形県知事選の結果にみるように、日本の民意は大きな変化を遂げている。この県知事選では、民主、共産、社民の各党が県組織レベルで支援したことが報じられている。ブッシュのイラク戦争に反対した野党が「超党派」でそれぞれ独自の立場を保持しながらネットワーク連携して、県内選出の自民党衆院議員3人全員と同党県議の大半が後押しした自民党候補者を破って当選を果たした。 日本社会の「変化」の「広がり」がみてとれるような選挙結果だったと思う。その広がりの一方で、変化の「深み」はどのくらいに達しているのだろうか。定額給付金はじめ、それを推し量る材料はすでに多々存在するが、それが日本社会ではっきりみえはじめるのも、米国の近未来同様、これから、というべきだろう。 自公政権ということでは、毎日新聞が24、25両日実施した電話による全国世論調査の結果、麻生内閣の不支持率は7ポイント増の65%、支持率は昨年12月の前回調査より2ポイント下落の19%となった。不支持率は1949年以降、同紙のワースト2位の高水準となったという。毎日新聞は、「麻生内閣が打ち出した政策に対しても厳しい数字が並んでおり、麻生太郎首相は引き続き綱渡りの政権運営を迫られることになりそうだ」と、この件を報じている。 <焦点の内閣支持率はさらに下がり、19%と2割を割り込んだ。このほかも麻生太郎首相と自民党にとって、下げ止まり感が見えない数字ばかり。11年度からの消費税率引き上げをめぐり自民党内を二分した消費税攻防をしのぎ、当面の政局は落ち着いたが、次期衆院選をにらんだ「麻生降ろし」はなおくすぶり続けている>というわけだ。 <消費税攻防をしのいだ首相にとって支持率回復に向けた当面の戦略は、08年度第2次補正予算案と09年度予算案の早期成立を図り、経済対策の実績を重ねることだ。特に重視するのが2次補正に盛り込んだ総額2兆円規模の定額給付金。支給が始まる今春をにらみ、首相周辺からは「給付金が国民に行き渡るまで、とにかく我慢」との声が漏れる>との記述も、<内閣支持率低下:くすぶる党内政局 自民「とにかく我慢」>の記事にはある。 いまさえやりすごせば何とかなる―― との考えが自民党筋では広がっているということのようだが、さてそれはどうだろうか。そういう考えだから、いまのような状態から抜け出せないのではないか。なぜ政権にしがみつくことばかり考え、政党としてのゼロからの出直しのことは少しも検討しようとしないのか。これでは出てくる「政策」もその場しのぎの人気回復目当てのものばかりになるのも当然だろう。 いまの日本社会にとって、政党とは、とくに自公両与党について考える際の政党とは、その程度の軽いものになっている。政治そのものを軽くし(別に必要以上に重くすることはないが)、国のかたち、社会のありようそのものを底が浅く、壁だらけにしてしまったのも、お手本がブッシュ政権だったからということだけにとどまらないだろう。 たとえば25日、自民党が納税者に番号を付けて所得情報をデータベース化し、徴税に活用する「納税者番号制度」の導入に向け、本格的な検討を始めることを決めた一件。28日に党内に新たなプロジェクトチームを設置して、夏までに具体的な導入方法などを盛り込んだ報告書をとりまとめるのだという。 ねらいは、全納税者に番号を割り振ることで、給与や金融所得、資産などの情報を一元的に管理する仕組みを構築することで、税務署が効率よく徴税できるようになり、課税漏れを防いで「税負担の公平性」を「確保」する点にあるようだが、ごまかしばかりの政治家や官僚じゃあるまいし、なぜ税金を使ってまでして自分たちの個人情報を「お上」に差し出して、よりきつくお上の恣意的な納税を許すような義務を負わねばならないのか。年貢の納め時がきているのは自公政治であり、それが変わらない限り、日本社会再生の道筋はみえてこない。ゆえに、自公政治にさらにあぐらをかかせるような政策には一切ごまかされないし、賛同もしない、というのが民意の大勢ではなかろうか。従来「保守の牙城」とされてきた山形県での知事選の結果は、その状況がいよいよ固まりつつあることを指し示すものといえるのではないだろうか。 そしてもうひとつ。たとえば、廃業に反対する従業員労働組合が自主営業を続けていた京品ホテル。報道によると、ホテルを経営してきたのは京品実業(東京都港区)。同社は昨年10月、経営破綻した米証券大手リーマン・ブラザーズ系の投資会社に約60億円の負債を抱えて廃業。同時に、従業員全員を解雇した。 これを不服とする約50人の元従業員らは、ホテル内で寝泊まりしながら雇用継続などを求めて飲食店や一部客室を活用して自主営業してきたが、ホテルを売却して借金返済に充てたい京品実業側は、東京地裁に立ち退き仮処分を申請していた。 東京地裁は1月15日に、「廃業した以上、従業員が事業の再開を求める権限はない」などとして、元従業員らにホテルの明け渡しを命じた。東京ユニオンに加盟して活動を続けている元従業員たちは、地裁に執行停止などを申し立てたが、却下された。 東京地裁は25日、強制執行を実施。従業員らをホテル施設から退去させ、立ち入り禁止とした。執行の際に労組と警官らが激しいもみ合いとなり、組合側によると3人がけがをし、うち1人が救急車で病院に運ばれた、という報道がなされている。 従業員は明確にその社の重要な利害関係者である。それもそこで社員として働くことで生活を形成している当事者であり、経営者の都合で一方的に解雇通告されたとはいえ、元従業員たちが会社所有の資産の一部を占有して営業を継続していることに対して、強制執行の判断は異常である。まして、この100年に一度ともいわれる世界不況におそわれるなか、労働者たちに従来から使用してきた会社の凍結資産を一時的に貸し出すことはかならずしも困難とはいえないはずである。営業継続と資産の活用は、資産の劣化をふせぐ意味でも役割は大きい。それを果たしたことは、まぎれもない事実であろう。まったく時代性の考慮を欠いた地裁の強制執行実施は、企業内労働組合を主流としてきた従来型の日本の社会構造に依拠しただけの事務的決断でしかないように思えてならない。 まして元従業員らは解雇撤回をも求めている。その途上にあるさなかで、「廃業した以上、従業員が事業の再開を求める権限はない」などとする地裁判断は、日本社会から「起業」の息吹を喪失させ、「廃業」だけを増大させていく一因とも言える司法の怠慢そのものといわねばならないのではないだろうか。 もし元従業員らが産業的な広がりを有する労働組合の資力と知力と人力を生かして、また各個がそれまで果たしてきた労働経験と実績をいかして、そのホテルを買収し、自力で営業を継続する意思をもっていたとしたら、あるいはその可能性があったとしたなら、なおさら地裁の強制執行は「企業・京品実業」の廃業ではなく、「京品ホテル」の事業継続と労働者による「起業」を阻害した点で致命的な損傷を与えたものといわねばならない(産業的な広がりを有する労働組合の力について考えるうえで、アーサー・ヘイリー『ホテル』(新潮文庫)のなかに(ほんの一部だが)参考になる箇所がある)。元従業員らが解雇撤回を求めていることから、元従業員らの要求は京品実業の再開を前提としている点で、廃業し、施設を売却し、借金返済を開始したいとする元会社側の考えとは合致することは困難で、実態にそぐわないかもしれない。 しかしながら、会社の重大な利害関係者であり、なおかつ自主営業という形で雇用の再開を求める労働者が、その次の段階で自らの「起業」と「営業継続」を選択する余地は十分にある。また、京品実業の経営破綻は、米証券大手リーマン・ブラザーズ系の投資会社への約60億円の負債であり、その借入先の親会社のリーマン・ブラザーズ本体が経営破たんしている以上、京品ホテルの資産を京品実業のものと断定することさえ困難な要因もこの事案には含まれているのではないのか。その点を地裁は仔細に調査したうえで、強制執行を決定し、労働組合側の執行停止の申し立てを却下し、強制執行の実施に踏み切ったのだろうか。 地裁のとった判断が、ブランドとサービスと施設の継続に貢献するとは思えない。 私たちはそこから這い出し、日本の経済社会の再構築にチャレンジする必要がある。もちろんそういう時代を招いた自公政治にはそれを主導する資格はない。退場していただくのが当然だ。 政治の劣化が、そのまま司法の怠慢につながっているような社会を、日本は卒業しなければならない。民意と政治の極端なまでの乖離が、そのままずるずると温存されたまま長期間放置されるような社会を、日本は卒業しなければならない。自分たちは支配層で、あなたがたはそこに巣食う使い捨ての存在と言い放ってはばからないような似非政治家や役所・役人たちの怠惰と思い込みを、根本から変革しなければならない。 ソマリアの海賊問題でよその国が軍艦を派遣したと聞いて、日本も早く海上自衛隊を出さないと、などと安易に言い出す主体性のない政治家たちの風潮をここで変えねばならない。 たくさんの改革・改変の課題を日本社会はかかえている。 (JCJふらっしゅ:Y記者のニューの検証=小鷲順造) |
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