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(回答先: 力道山・刺殺事件 投稿者 新世紀人 日時 2009 年 1 月 28 日 12:58:28)
http://www.interq.or.jp/cancer/kuramasa/rikidouzan07.html
第四話 プロレスの殿堂・リキパレス(7)〜成功の影で〜
<力道山に勝った男>
華やかなレスラー人生の一方、力道山には暴力沙汰の醜聞が絶えなかった。
ナイトクラブ前の路上で米兵を殴り2週間の怪我を負わせた…
路上で口論中の男女に割り入って男を殴りつけた…などなど。
また公にされない部分でもトラブルは多かったようである。
そうして周囲に暴力を振るう傍ら、酒場ではウィスキーを1本豪快に一気飲みしてみせたり、ガラスのコップを噛み砕いて食べて見せるなど、奇矯な振る舞いにおよんで自らの肉体をも痛めつけてゆく。
確かに力道山には乱暴なところがあった。
それは事実なのだが、逆に力道山が人々から喧嘩を売られることも多かったようである。
プロレスという得体の知れない、見方によっては道化じみたショーで富や名声を手に入れた男への嫉妬。
腕に覚えのある者なら、因縁をつけて自らに箔をつけようという駆られたことだろう。
そんな連中もやり過せばそれでいいのである。
しかしこうした相手に対し、玄界灘を越えて体ひとつで伸し上がってきた力道山には、自らの肉体を誇示する以外、為す術もなかったのかも知れない。
この件に絡んだ、渋谷と力道山のエピソードがある。
昭和30年の暮れ、というからシャープ兄弟と戦った翌年のことだ。
当時渋谷界隈は安藤昇率いる愚連隊の安藤組が取り仕切っており、飲食店の経営者は組に「用心棒料」を納めるのが、しきたりとなっていた。
そんな中、界隈の一角に「純情」というキャバレーがオープンする。
しかし挨拶がないというので、安藤組の幹部の一人、花形敬が出向く。
店の経営者を呼ぶが、出てきたのは力道山であった。
次の様なやりとりがあったという。
『「何の用だ」
「てめえに用じゃない。ここのおやじに用があるんだ」
「この店の用心棒はおれだから、話があれば聞こう」
「てめえ、ここをどこだと思ってるんだ。てめえみてえな野郎に用心棒がつとまるか」
花形に野郎呼ばわりされて、力道山の顔に血が上った。
怒りで両手がぶるぶる震えていた。
朱に染まったような力道山の顔面に花形がぐっと鼻先を寄せて、初対面の二人のにらみ合いが数秒のあいだ続く。
「中に入って飲まないか」
折れて出たのは力道山の方であった。』
(本田靖春「疵ー花形敬とその時代ー」より引用)
力道山は興行の関係もあって、都内に広く勢力をもっていた暴力団「一声会」と深いつながりがあった。
用心棒をつとめていたというのも、その関係かも知れない。
一方の花形敬は戦後のアウトローとして有名な人物で、語られる際には、この力道山との一件が付き物になっている。
「あの力道山に勝った男」というわけだ。
逆に力道山にしてみれば、いいダシにされていることになる。
縄張り争いの話であるから同情するのもおかしいが、
こうした話がきっかけで、さらに多くのトラブルに巻き込まれたのかとも思うと、力道山がいささか気の毒にも思える。
大人しくしていれば相手に利用され、手を出せば公に叩かれる。
「天皇の次に有名な男」は、一般の友人にこう嘆く。
「お前は幸せ者だよ。道を堂々と歩ける。
俺は、四つ角のたびに四隅を気にして歩かなければならん」
<リング上の苦闘>
私生活のみならず、本業のレスリングでも力道山の苦労が続く。
度重なるファイトで、徐々に体に無理が生じてきたのである。
昭和37年秋のシリーズ開幕戦。力道山は試合中の事故で鎖骨に亜脱臼を負い、右腕が使えなくなってしまう。
エース欠場ということで、翌日の興行では片腕を包帯でつるし、リング上からファンにお詫びをする。
しかし力道山目当てで来たお客は一斉にブーイング。
金を返せと大騒ぎである。
すると四日後の試合から、力道山はなんと長男に借りたというアメフトのショルダーパッドを付けて、リングに復帰する。
そしてこのシリーズでは怪我の回復とともにプロテクターや包帯を徐々に外していき、平行して調子を上げ、最終戦では選手権試合を行なってベルトを防衛…と見事なフィナーレを飾ってみせた。
才気あふれるプロモーターの力道山は、事故をも演出によってプラスに転化したことになる。
しかし一方、周囲の記者たちにはオフレコで
「いつまで俺はこんなことをやっていなくちゃなんないのかなあ」
と嘆いてもいた。
当時の年齢は38歳。
度重なるファイトで肉体にも精神にも無理が生じて来ていた。
そのころの力道山は試合前に興奮剤を常用していたという。
そして試合後も、消えない薬の効果で街で暴れ、
夜はこれを鎮めて眠りにつくため、睡眠薬に頼る。
そんな生活を繰り返していたらしい。
リング上の戦い方も変貌を遂げた。
元来力道山の試合というのは、基本的には敵の攻撃を存分に喰らった挙句、最後の最後に空手チョップが火を噴いてノックアウト、というのが定石であった。
しかし肉体の衰えとともに、相手の技を受けるのが難しくなってくる。
フライング・ヘッド・シザース、ドロップキックといった派手な見せ技を自ら繰り出し、攻守の目まぐるしく入れ替わるスタイルに移行していった。
かつて中学生のころ、静岡の電気店で力道山に夢中になった村松友視は、この頃上京して大学生になっている。
プロレスが国民的な娯楽から一部ファンのものへと変貌して行く中、それでも力道山に熱い眼差しを送り続けてきた。
そんな彼でも、当時の思いをこう語る。
「この(技の)幅の広がりによって、
力道山プロレスの単純明快な“殿中松の廊下”的ムードが失せてゆき、脈絡のない乱闘や喧嘩ファイトが目立つようになった。
力道山のプロレスラーとしての向上心の結果かもしれないが、
私の目には力道山が力道山を演じることが、そろそろ苦しくなっているのだな…という印象はぬぐいきれなかった」
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