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(回答先: 視点・論点「派遣切り」(湯浅誠 2008年12月23日) 投稿者 i^i 日時 2008 年 12 月 24 日 17:49:50)
解説委員室ブログ:NHKブログ
2007年10月02日 (火)
視点・論点 「シリーズ格差・貧困」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/4865.html
反貧困ネットワーク事務局長 湯浅 誠
今日は、「格差の中の格差」とも言うべき、「貧困」についてお話したいと思います。
格差が広がって二極化が進むと、その下の極は、絶え間ない「底辺への競争」の中で、
「貧困」へと至ります。
今の日本社会は、その「貧困」が急速に広がっている社会です。
「貧困」とは何か。その公的な基準は、生活保護基準で定められる最低生活費に求めることができます。
憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的な内容を定めるのが、厚生労働省が毎年算定している最低生活費ですが、この基準を下回る人たちが、一説によれば1000万世帯を超える、とも言われています。
先日相談に訪れた夫妻は、夫が40歳、妻が28歳でした。夫は、小学生で両親を失い、16歳から非正規労働を転々としながら、一人で生計を立ててきました。
妻は、高校卒業ごろから精神的な疾患を発症していました。
夫妻は、東北の町では仕事が見つからず、派遣会社のあっせんで東京のコンビニ弁当工場に出てきましたが、地元で受けた説明と実際の労働条件がまったく違ったため、職と住まいを失い、ネットカフェで暮らす生活になりました。
また、ある家族は、夫婦で車中生活をしながら、子どもを小学校へと通わせていました。
構造改革と規制緩和が叫ばれる中、こうした貧困層が増え続けています。
背景にあるのは、労働市場における雇用の細切れ化と社会保障の圧縮です。
収入が不安定になると同時に、負担が増え、ごく一握りの勝ち組以外は、多くの人の生活が苦しくなっています。
今日はなんとかなったが、明日はなんともならないかもしれない。
生活の拠って立つ基盤がどんどん危うくなり、薄い氷の上でようやく成り立っているようなぎりぎりの生活を、ますます多くの人が強いられるようになってきました。
家族で相談に来る人たちもいます。親子、兄弟、親戚、さまざまな形がありますが、これまで支えてきた側の人と支えられてきた側の人が一緒に相談に来ます。
そして、支えてきた人たちは、一様に「これまではなんとかしてきたけど、もう限界だ」と言います。
その人たちは「貧困」にまで至っているわけではない。
しかし、自分自身の今後に不安があります。
長寿社会の中で、定年後何年生きるかわからない。
その老後を現在の貯蓄とわずかな年金で乗り切っていかないといけない。
医療費負担などは増える一方です。
とてもこのまま支え続けられない、と感じる。
「貧困」まで至らない人たちも、もはや余裕がなく、これまで家族間のサポートによって表面化することのなかった「貧困」が、社会に出てくるようになってきてしまいました。
「うまくいかないのは本人の責任だ」と「貧困」はしばしば自己責任論で片付けられます。
ある学者さんの調査では、路上生活をしているホームレスの人を「貧困だと思わない」と答えた人が、「貧困だと思う」と答えた人の数を上回っていました。
「好きでやっている」と考えるからです。フリーターも同じです。
正規で働けたはずなのに、夢を追っかけて非正規を選んだんだから、どんなに苦しくても仕方がないだろう、と言われます。
「過労死も自己管理の問題だ」と発言した経営者も、「会社を休めたはずだ」と言っていました。
自己責任論の背後には、「両方選択できたはずなのに、ある一方を選択した。
その結果は自分で引受けるべき」という理屈があります。
しかし、「貧困」の大きな特徴の一つは、選択肢が狭められる、ということです。
今日明日の生活費に事欠く人にとって、月払いの仕事に就くか、日払いの仕事に就くか、という選択肢は事実上ありません。最初の給料が入るまで生活がもたないからです。
ネットカフェで暮らす人たちの学歴は、4割が中卒または高校中退、4割が高卒で、8割が高卒以下でした。この人たちに本当に正規職を選ぶ可能性があったのでしょうか。
他方で、政治や経営側の自己責任はどうなっているでしょうか?
今、日本社会は財政危機にあるとされており、それが構造改革の大きな推進力となっていました。
無駄な大規模公共事業、銀行の不良債権処理に巨額の税金が投入されたこと、これは本当に他に選択の余地がなかったことなのでしょうか?
また、非正規労働者はこの10年間で550万人増やされました。
経営者は「グローバル化の中で、これ以外の選択肢はなかった」と自己の責任を免除していますが、本当にそうでしょうか?
所得税の最高税率を半分にし、法人税を下げて税収を悪化させたのは、私たちではありません。
非正規を増やし、社会保障負担を増やしたのは、私たちではありません。
それでも、生活が成り立たなくなるほどに追い詰められた人たちにばかり、「自己責任」が問われてしまうのでしょうか?
私は、「貧困」にまで追い込まれた人に自己責任は問えない、自己責任は「貧困」の前で立ち止まる、本当の自己責任は、政治や経営者、そして私たちの社会の側にこそ問われるのではないか、と考えています。
では、今社会にどのようなことが求められているのでしょうか?
まず、早急なワーキング・プア調査が必要です。今年2月の「成長力底上げ戦略構想チーム」でもワーキング・プアの調査が話題に上りましたが、「定義が難しい」という理由で見送られました。
しかし、ワーキング・プアの定義は、憲法25条で定める生存権、その具体化としての最低生活費以下の収入・資産で暮らしている人たちであることについては社会的な合意があり、定義が難しい、調査が難しいというのは言い訳です。
人々の生活がいったいどうなってしまっているのかについては、今多くの人たちが関心を寄せており、公的なワーキング・プア調査には国民的な要請があります。
福田新政権が「弱い人たちへのセーフティネットを充実させる」と言うのであれば、まず真っ先にきちんと実態をつかむ努力をすべきであり、また野党は、一致して追及すべきです。
いつまでも曖昧にしておける問題ではありません。
次に、私たち市民一人一人としては、最低生活費を知ることが重要と考えています。
私は方々に話しに行くことがありますが、「ご自分のご家庭の最低生活費を知っていますか?」と聞いて答えられた人には、ほとんど会ったことがありません。
これは、国が、私たちの生活に関して何を保証しているのかを知らない、極論すれば、憲法25条を知らない、ということです。
国民年金に比べて生活保護が高すぎる、などといった議論がイメージだけで語られてしまうのもそのためです。
私たちには、自分たちが国から何を保証されているのかを知る権利があります。
自分自身が知ろうとするとともに、自治体にきちんと広報するよう働きかけましょう。
ほとんどの自治体の広報誌にもホームページにも、最低生活費の計算方法が示されたことがありません。
これは、考えてみれば、とても奇妙なことなのです。
「貧困」の最大の敵は、無関心です。私たち一人一人が関心を寄せるとともに、社会や政治に働きかけていくことが必要です。貧困層の増大は、長期間にわたって社会の活力を失わせ、誰も幸せにしません。「貧困」が求めているのは、「貧困」まで追い込まれた人たちの自助努力ではなく、私たちの社会と政治の自助努力なのです。
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