http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/708.html
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(回答先: 不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか 投稿者 中川隆 日時 2017 年 5 月 14 日 08:41:12)
仏教信仰は人間を堕落させる _ タイが売春国家になった理由
ทรูมูฟ เอช " การให้ คือการสื่อสารที่ดีที่สุด " TrueMove H : Giving
http://www.youtube.com/watch?v=7s22HX18wDY
最近、タイで人々の涙を誘い、ユーチューブにアップされると世界中で1200万人が視聴して感涙したという動画がある。
タイの携帯電話業者である TRUE が制作した映画なのだが、功徳を積めば必ず良いことが返ってくるという仏教の「因果応報」をよく取り入れた動画だった。
1200万人を感動させたこの動画を、あなたはもう見ただろうか? まだ見ていなければ、以下から見て欲しい。
簡単な英語の字幕があるのと、言葉よりも映像で見せる配慮をしているので、日本語の字幕がなくても分かると思う。
30年前、母親が病気で、母親のために栄養剤を万引きをして捕まった少年が、近くの食堂の店主に助けてもらうところから話が始まる。
30年後、その店主が倒れて病院に運ばれるのだが、治療費がない。娘は泣きながら店を売り、何とかお金を工面しようとするが、それでも足りない……。そんなショートムービーである。
私たち日本人はこの動画を見ると、素直に心に染み入るはずだ。因果応報を知っているから「分かる」のである。優しさを与えれば、優しさが返ることを知っている。
そして、それがとても重要なことであることも理解できる。そして、実際にそんな優しさを与えてくれる人が、世の中に存在することも知っている。踏切で救助死した女性はまさにそんな女性だった。
優しい女性は、それだけで私にとっては尊敬すべき人だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131005T0547120900.html?a=l0ll
タイのCM(日本語字幕)โฆษณาไทย(บรรยายภาษาญี่ปุ่น)
タイ生命保険「パーフェクトな人生」
http://www.youtube.com/watch?v=BVudAu8M_rA
タイCM 泣ける 生きるとは人生とは 【日本語字幕】
http://www.youtube.com/watch?v=QvIq_q7xL3s
「困った人を助ける」という文化のありがたさが身に染みた日
私がタイという国が好きなのは、人々の優しさに触れられるからだ。みんな生きている中で、とても大変な生活をしている。裕福でない人たちも多いし、そんな中でみんな必死で毎日を生き抜いている。
怒ったり、泣いたり、したたかに何か企んだりしながらも、しかし、タイの人たちは根底には優しさがある。
一時、交通事故の後遺症で痩せ細って幽鬼のような姿になった時期があった。
医者には安静にしないといけないと言われていたが、自分の体力を過信していた私は病院食が馴染めないこともあって無理やり退院した。
「どうせなら、最後にタイを見てから寝たきりになろう」と思った私は、無謀にもタイに向かって安宿に泊まった。
そこではイサーンから出稼ぎに来ていた子持ちの女性がいたのだが、彼女は私の容態を見てただ事ではないと思ったらしく、何度も子供を連れ、食べ物を持って部屋に訪ねてくれた。
窮地に陥っている人を、見返りを考えずに助ける
食べ物のお金を払おうとしたら、彼女は頑強に拒否した。彼女は与えてくれるだけだったのである。
私のことを気にかけてくれたのは、そのホテルのフロント係をしていた女性も同じだった。しばしば彼女も部屋に顔を出して、「大丈夫?」と声をかけてくれた。
この部屋で私が死んだら騒ぎになるので、生きているかどうかを確認しに来ているのかと皮肉に考えたりした。身体を壊していても、私は容易に人を信じなかった。
しかし、彼女もそのような邪気があるわけではなく、やはりフルーツを差し入れしてくれたり、汗だくになっている私のために、特別にタオルを何枚も差し入れてくれたりした。
自分が健康なときには気付かなかったが、窮地に陥っている人を見れば、彼女たちは見返りを考えずに助けてくれるのだった。感傷的になっていた私は、その優しさに涙が出た。
イサーンから来た女性は、近くのワット(寺院)で買ったらしい、小さな仏像のペンダントをくれた。
彼女はまったく英語ができなかったので、細かいことは分からなかったが、それをしたら身体が丈夫になるというような意味だったと思う。
きっと、それほど高くないものだと思うが、私はそうやって彼女が私のことを気にかけてくれていることを知って嬉しかった。その小さな仏像のペンダントは今も持っている。
そんな彼女は、宿賃が払えなくなって子供と共に消えた。彼女自身は、私に助けを求めなかった。お金に困っているのなら、助けてあげられたと思うが、彼女は病人の私に助けを求めることはなかった。
東南アジアで広く見られるこのスタイルをワイというが、タイ女性のワイはとても優雅で上品だ。
タイには喜捨(タンブン)という文化がある
「喜んで捨てる」と書くのでいったい何を捨てるのかと思ってしまうが、これは「徳を積む」という意味がある。
タイはお坊さんが人々のいる村を回って、一日の糧を得る。人々はお坊さんに無償で食事を与える。それは「徳を積む」ことであり、「善行を行う」ことでもある。
そうやって徳を積めば、天国に行けると考える仏教の教えがタイに根付いていて、それを喜捨(タンブン)というのだ。
このタイ人に定着したタンブンは、何もお坊さんだけに与えるものではなく、貧しい人たちや困った人たちにも向けられる。
道ばたで物乞いをしている人たちにも与えられるし、病気で困っている人たちにも与えられる。だから、私がボロボロの身体でタイにいたとき、タンブンされていたということになる。
私自身はタイで物乞いやお坊さんにタンブンした記憶はあったのかなかったのか思い出せない。ところが、無視した想い出の方だけは山ほどある。
基本的に私は他人に与えることはないし、どんな困った人がいたとしても、常に傍観者の立場で観察し続けてきた。そんな私がタンブンを受ける身になるとは思わなかった。
しかし、病気になっているときに助けてくれるタイ人の優しさに触れると、困った人を助けるという文化のありがたさや優しさが身に染みて分かる。
日頃は何かにつけて大雑把なタイ人や、タンブンというシステムに前近代的なものを感じていたりしたが、いざ自分が助けてもらうとタイ人の情の深さに感じ入る。
タイ人と言ってもいろんな性格の人がいて一概には言えない部分もあるが、優しい気質の人が多いのは間違いない。包容力があって、とても人間的だ。
基本的に、タイ人の気質は日本人に合う。その優しさは日本人にも理解できるし、共感も感じる。
理解し合えるというのは、とても大事なことであり、人としての基本でもあると思う。どうしても合わない民族もあれば、共感できる民族もある。
タイの文化の優しさが垣間見えるいくつかの動画がある。しみじみと、優しさに浸りたい。
こんな素晴らしい動画に、日本語の字幕を付けてくれている日本人もおられるようだ。感謝と共に、ここで紹介したい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131225T0448070900.html
2017-05-09
物乞いゲーム。先進国のバックパッカーが物乞いを楽しむ姿
東南アジアのスラムをうろうろしていると必ず物乞いがやって来て金を無心する。その時に私が「金は持っていない」と言うと、彼らは激怒してこのように言う。
「お前は嘘つきだ。金がなければここに来られない」
彼らにしてみれば、どんなに安っぽい格好をして安い屋台で食事をしていても、外国人が異国まで来ているということはそれだけの金を持っていることを知っているのだ。
売春する女たちも、どこの国の男がどれくらい金を出せるのかというのをよく知っていて、アメリカ人に吹っかける値段と、シンガポール人に吹っかける値段と、日本人に吹っかける値段はそれぞれ違っていたりする。
欧米先進国から来た男たちは「見かけがどうであれ金を持っている」というのが彼らの認識であり事実その通りである。世の中はグローバル化に突き進んでいるのだが、先進国と新興国ではまだまだ賃金格差が是正されていない。
しかし最近になって、奇妙な欧米人のバックパッカーが増えていると言われている。
彼らは趣味で長期の貧乏旅行に出かけ、その冒険をSNSやユーチューブにアップしているのだが、彼らがその旅行先で、堂々と物乞いを「楽しんでいる」というのである。
貧しい現地の人から金を恵んでもらう物乞いゲーム
「楽しんでいる」というのは、どういうことか。
今どきの欧米の若いバックパッカーの多くはブロガーであったり、ユーチューバーである。
インターネットに自分たちのやっていることをアップして、宣伝で稼ぎ、SNSで楽しむ。
その彼らが自分たちが道ばたに座って「物乞い(ベッギング)」をしている写真や動画を嬉々としてインターネットに載せ、現地の人たちから「いくらもらったか」というのを報告してその金で旅を続けたりしているのである。
彼らは生活苦や困窮や貧困で物乞いをしているのではない。ゲーム感覚でそれをしている。
彼らは確かによれよれのTシャツを着て、薄汚れたサンダルをはいて、一見すると金がないように見えなくもない。
しかし、宿には高価なカメラ、高価なノートブック、高価なスマートフォン、多額の現金を持ち合わせており、さらに旅するに当たっては保険に入っていたりする。
まったく困窮していない。本当に困窮しているのであれば帰ればいいし、旅を続けたいのであれば高価な物を売ればいい。もちろん、彼らはそんなことはしない。
貧乏旅行は趣味で、物乞いはゲームだからである。
こうした欧米人による都合の良い「物乞いゲーム」が流行しており、それが現地でも彼らの本国でも顰蹙を買っている。
東南アジアでは物乞いが多い。その物乞いの多くは本当に経済的な苦境にあり、生きるか死ぬかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。重い病気で苦しんでいる人たちもいる。
東南アジアでは、昔からこうした人たちが街に出て物乞いをして、道歩く人たちに施しを受けている。
タイでもカンボジアでもフィリピンでもインドネシアでも、そうした人たちが山のようにいて、貧しい人たちが相互扶助のように物乞いに喜捨(タンブン)して助け合っている。
そこに欧米から来た裕福な白人(ファラン)が、面白半分に物乞いゲームをして、貧しい現地の人たちから金を恵んでもらっているのである。
現地の人の善意を吸い取って楽しむ旅は楽しいか?
貧乏旅行をする欧米のバックパッカーは数十年前から存在している。日本にも貧乏旅行をする欧米人がストリートで何かモノを売っているような時期が20年ほど前にあった。
イスラエルで兵役を終えた若者が貧乏旅行に出るのが流行していた時期だった。
今でもこの流れは続いており、街で貧乏旅行をしている白人がバイオリンを弾いているのを見たらイスラエル人だと思えと言われていた時期もあった。
最近では、ブロガーやユーチューバーがあちこちの国で誕生して、ノマドさながら放浪を楽しんで稼ぎながら旅行しているのである。だから、物乞いさえも「お遊び」なのだ。
現地の人たちの多くは、その事情が分からない。
そのため、物乞いしているのだから困っているのだろうと単純に考える。遠方はるばるやって来て、何かトラブルに遭って本当に困窮している人だと勘違いする。
実際、タイなどでは自業自得とは言えども女性に金も荷物もすべて奪われてアルコール依存になってホームレスに堕ちる人もたくさんいる。
異国の地で、やむにやまれぬ事情で「本物の物乞い」になってしまった欧米人もいるのだ。(スウェーデン人が、タイ女性に全財産を取られて路上生活に)
だから「物乞いゲーム」をしている白人たちを見て勘違いし、彼らに同情して「困った時はお互い様」と、なけなしの金を恵んで上げるような心がきれいな人たちも多い。
まさかその白人バックパッカーが、SNSやユーチューブで「今日は物乞いゲームでこれだけ稼いだよ」と仲間でハイタッチなんかしながら笑っているとは思っていない。本当に生活に困っていると思って恵んでいる。
しかし、これらの白人バックパッカーは、街で恵んでもらう人たちの誰よりも裕福である。
彼らは裕福なのに、わざわざ自分たちよりも貧しい人たちの金をゲームで巻き上げている。
だから、インターネットで事情を知った彼らの自国の人たちや金を巻き上げられた東南アジアの国々の人たちが非難するようになっているのである。
長い時間をかけて世界旅行をするというのは、言ってみれば「贅沢なライフスタイル」だ。極度に予算を制限した貧乏旅行であっても、それは「旅のスタイル」であって本当の貧困ではない。
彼らはそうやって金を集めて、別の場所ではピザを食べ、ビールを飲み、スキューバダイビングを楽しみ、バンジージャンプに挑戦して人生を謳歌している。
「現地の人の善意を吸い取って楽しむ旅は楽しいのだろうか?」と彼らは言われるようになっている。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170509T0225400900.html
2017-05-10 ベンジャミン・ホルスト。物乞いで稼いで酒と女の世界旅
物乞いしながら世界旅行をして自国に帰らない旅行者が増えてきて、彼らを「バックパッカー」ではなく「ベッグパッカー」と呼ぶようになってきている。
先進国の男が途上国で物乞い(ベッグ)して物珍しさで金を集めて、それを旅行代金に充てたり遊びに使ったりする姿をイギリスのタブロイド紙や現地の新聞が批判している。
ところで「ベッグパッカー」なのだが、東南アジアではこの「ベッグパッカー」で最も知られているのが、ベンジャミン・ホルストという男だ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170510T0106570900.html
なお、タイはおそらくアジアで最も白人崇拝のひどい国である。あからさまに白人に媚び、貧しい同胞女性を平気で白人に売り渡せる生き方こそ、タイ文化の真髄である。
また、タイの仏教ほど腐敗したものはない。寺院内で売春婦に営業をさせる、坊主が外国まで出かけていって少女をレイプする、外国でも列の割り込みを平気でして開き直る、白人ツーリスの集まっているところに行きオリエンタリズムを撒き散らして深夜に托鉢する。このようにタイ仏教は、白人至上主義につかえる奴隷的アジア発の腐臭に満ちたイデオロギーなのである。
ナラティワトに仏教徒は多くない。住民の多くはマレー系のムスリムだが、タイ族仏教徒の殖民が行われている。
この地方はもともと独立したスルタンのパタニ王国であった。マレーシアのクランタン州もそうだった。しかし、シャムの政治的な従属国でもあったので、20世紀のはじめに、シャムが宗主国としてクランタンをイギリスに割譲し、それと引き換えにパタニを併合したものである。クダーもシャムがイギリスに割譲した土地だが、ここはパタニやクランタンに比べるとイスラム色が薄くタイ色が強い。
タイは、このように、白人植民地主義者に対し、自分の土地でもない土地を売り渡すということをやっていわゆる「独立」(=実際は王室をはじめ特権層の利権にすぎない)を保っただけである。
タイのような薄汚い白人至上主義のアジア奴隷主義国家に幻想を抱く日本人がいまだにいることは驚きである。
タイを「微笑みの国」などというのは、北朝鮮を地上の楽園というのとほぼ等価である。
つい10年位前までは、小学生の女の子をぺド白人向けに公然と売り出していた恥知らずな国なのである。
http://www.actiblog.com/melakajournal/17297
タイの朝は僧たちの托鉢によって始まる。
愉楽に騒ぐ熱帯の夜の名残りと、新たな一日の光が生起する豊饒への胎動との境目に、密かt゚メ目と祈りが流れ出る。合掌した手の熱い思いから、あたかも一瞬一瞬紡ぎ出される奇跡のように、生きとし生けるものの時間が動き始める。あちこちの寺院の本堂や僧房から朝の読経の声が凛々と響き、その清澄な声に乗せて夜の戸帳が開かれてくる。暗がりのなか通りを朝市へ野菜を運ぶ人々のつつましい足がよぎる。
けだるさとさわやかさの錯曹オた薄萇のなかに、家々から人々が表へ出、托鉢に歩く僧たちに恭しく供物を捧げる。裸足の僧と、裸足で食物を捧げる叙ッの、大地を通した交歓のなかに、洗われる心が光る。「サバーイ チャイ」という内面の輝きの美しさを、タイの人々は生れながらに具備している。祈りの溶け合うそこに、タイの朝がある。
タイの寺院――二万八千。僧――二九万人。タに全人口の九六%が仏教徒であり、男九百人に一人が僧籍にある。
男にとって成人は得度することであり、誕生・祝磨E葬儀・新築祝など、およそ人生の節目は仏教によって彩られている。人々はすすんで寺院に寄進し、僧に捧げ物をする。善行を重ね徳を積んで、輪廻の巡りのうちに現世および来世の幸福を祈願する。
学校教育は仏教の儀礼と道徳をその根幹とし、どの校庭にも仏像があり、朝礼で生徒たちは経を唱和する。挨拶のしかた、目上の人への敬譲、父母への愛、一つの幹から出た枝々の茂りのように、それはタイの社会に隅々まで脈流している。
タイの時間は仏教の時間であり、季節は仏教の季節でもある。キリスト教暦一九九○年の今年は、仏暦二五三O年にあたる。マカブチャー、カオ・パンサー(安居入り)、オーク・パンサー(安居明け)などの仏教の祝日、仏教の儀ョが、一年という時の流れを色づける。
日本の鎌倉梠繧ノあたるスコタイv鑼明期、王朝は仏教を積極的に採り入れ、統。の根幹とした。崇・な南方上座部仏教の教理は、二つの側面を見せながら、農耕民族としての東南アジアの民に受け入れられていく。一つは為政者の統。闥iとして、一つはどんなものをも受容する、純朴で素直な叙ッの心の証として。
為政学をも内包していた仏教は、歴代の王によって国家秩序維持の手段として強力に保護され、中央集権国家との表裏をなしつつ、民衆のなかへ浸透していった。叙ッは、ただ素朴な心のうちにそれを呑みこみ、むしろ仏教への帰依のなかに、草木として茂る自身の心の風景を投影していった。
王朝の統。と民衆の心の無限の豊かさとの二重奏は、現在まで続く東南アジアの一つの原風景を作り出している。限りない矛盾であるがゆえに、それはまたこの地の一つの美しい精神風土をも形作っている。
現代の世界はむしろすべてが仏教の教理とは背馳する方向へ大きく動いている。欲望の放逸、物理的な集約化、物質の横溢――それらゆえに苦しんでいる我々の姿は、タイの仏教に照らし合わせるとき、逆説的な苦界の景観をなして浮かび上がってくる。足ることを知らない人間の弱さは、飽和へと追いつめられつつある人間の歴史の危機を警鐘する。
貧しさのなかから分かち合う者の姿、微笑み合う者の親しさと和かさは、ともに生きる人間の本来のあり方を過汲フ方向に照射しつつ、ひたむきな祈りのなかに、希望を繋げていく。
タイ人と仏教
タイ人は生まれながらに仏教の倫理観のなかにいる。
誕生も輪廻の秩序のなかにあり、父母への敬愛も、年寄への尊崇も、仏教の慈愛の精神のうちに培われる。子供たちはごく自然に仏教による礼儀を学ぶ。両手を前に合わせる合掌の挨拶も、目上の人への服従も、耡への思いやりも、すべて仏教規範のうちに一つの空気として身につけていく。
タイ人は朝托鉢に来る僧侶に食物を捧げる。また、誕生日には早朝から寺へ行って捧げ物をする。これらも、幼少の頃から一つの習慣として受け入れられていくものである。
「徳を積む」ことを社会と人生の価値観として学んでいく。
「ナーム チャイ」(水の心=怦、)とか、「サバーイ チャイ」(心がすっきりする)とか、精神の清らかさやさわやかさを表す言葉が、日常のなかに息づいている。
学校でも朝礼ではつねに経文を唱え、仏教式の礼儀作法を学ぶ。
男qは一生に一度は仏門に入るものとされ、一つの成人ョとみなされている。また母親は自分の息子を仏門に入れることを最上の幸福の一つとする。晩年、ミ会的な役割を終えた人々が、宸ノ入り、僧として孤独に静かな人生を終えていくことも、徳とされている。
どこへ行っても必ずお寺があり、村や町の組織の中核をなしている。村の人々にとって、宸ヘみんなが集まり、村長を中心に僧に相談を乞う政治の中心である。また重要な儀ョ行なう催しの場でもある。また学校は多く寺の敷地内に建てられ、読み書きを習う教育の場でもあった。なによりも精神的な支えであり、宸霖羶瓦紡爾寮験茲・弔泙譴討い襪噺世辰討いぁ」
タイでは国王が仏教徒であり、国王自身が一度は出家する。仏教は王室を守るものであり、タイの国家の精神的基盤である。 タイの人々にとって、仏教はたんなる宗教ではなく、日常生活そのものであり、価値観であり、ミ会のあり方だと言っても過言ではない。
http://www.asiawave.co.jp/AWbukkyo.htm
タイを含む東南アジア、ミャンマー、カンボジア、ラオス、マレーシア、インドネシア諸国では土地が富力の源泉にならなかった。それは人口が少なかったために、土地を基盤として、封建制社会の社会が形成できなかったということである。これらの諸国ではかつて王国を造り、維持するに当たって、支配層が苦労したのは、自己の支配を如何に正当化するかということであった。土地という絶対的生産手段で支配できないとすれば、精神的基盤で人間を支配する方式を採らざるを得ない。その結果として、今の言葉でいうイデオロギーが非常に重要視される社会になった。そのイデオロギー形成に使われたのが宗教だった。宗教を使いながら自らの支配を正当化し、社会秩序をつくっていったのは東南アジアに成立した王国の共通した姿であったように思う。
タイに仏教がはいってきたのはそれ程古いことではない。上座部仏教が最大の勢力を持つ宗教として成立するのはスコタイ朝三代目ラームカムヘーン王(在位・1279年? - 1300年?)の時代、13世紀である。
上座部仏教における頂点はもちろん仏陀、悟りを得て涅槃に入った人である。ところが、この仏陀は誰でも厳しい修行さえ積めば到達できるのだ。
どんな人間にもその機会は平等に与えられているのは、絶対王制を築こうと思っているものにとって、非常にまずい。国王は絶対であり、すべての頂点に立っていなければならないからで、平等思想が基本にあると権力による統治に説得力がなくなってしまう。しかも、仏陀とは世俗を捨て、すべての欲望を断ち切った人を指している。豪勢に暮らしたり、権力をふるったり、他国と戦争したりする人では絶対にない。
こういった矛盾を解決したのが、新たに導入されたバラモン教だ。
バラモン教国であったクメール帝国の歴代王は、自らを神の化身と称し、絶対権力を持って国家を統一した。神がこの地に再臨しているのだから、人々はひれ伏すのみ。王は天上界を支配する神が転身して地上に姿を現したものである。王は人間の姿をした神である。そう宣言することによって王は大衆の尊敬を得て、権力の絶対性を高めていった。
バラモン教義を採用したアユタヤ王朝(1350年-1767年)やトンブリー王朝(1767年-1782年)の国王は、国土を統治する権力者として、また、神の化身として、“ソムデット・プラプッタジャオユーフア”(神でもある国王陛下)と呼ばれていた。バラモン教では、ヴィシュヌ神が地上に現れる時の仮の姿が仏陀ということになっている。何百年にもわたって王様は神様(仏様)という教えが生きている。だからチャクリー朝のプミポン現国王は最高のタンブンを積んだ人という考えが一般にはある。タイの寺院に行くと寺院の中にプミポン国王の写真が必ずある。また、母の通院するシルブリン病院にはポミポン国王と高僧が向かい合った写真が飾ってあり、女中などその写真に手を合わせている。王様イコール神様、仏様の世界だ。
写真はチェンライのカオソーイ(ココナツカレーそば)屋さんに飾ってあった絵である。水の中で苦しむ人々に神鳥ガルーダに乗ったプミポン国王が空から手を差し伸べている。もう一つの絵は同じく苦界の海でもだえ苦しむ罪人と空で罪人の救済を祈るプミポン国王の図である。国王には光背があって、まさしく仏陀をイメージさせる。面白いことに地獄で苦しむ罪人はすべて男性で女性は描かれていない。
タイでは政治的混乱が起こると、王様が出てくる。王様の前で両者がひれ伏して王様の説教を聞いているというテレビ映像を覚えている人も多いだろう。王様が仲良くやれ、とか何とか言うと流血の惨事が起こった政治闘争も落ち着くところに落ち着いてしまう。あれはタイの社会通念、道徳が依然として強いことを証明していると思う。
プミポン国王は最近、ご健康が優れないため国内巡幸をされていないが、10数年前、活発に地方視察をされている頃には、沿道に庶民が詰め掛け、老婆がしわくちゃの20バーツ札を捧げ持って王様のおいでをお待ちしていた。王様は生活にお困りだからタンブンしましょう、ということではなく、タイで一番、徳の高い人にタンブンしてその効果を高いものにしたいからだ。王様が受け取ってくださったら老婆は無上の喜びを感じる。
タンブンはタイの人にとって喜び以外のなにものでもないように思える。お寺にとってこれ以上ありがたいシステムはない。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48189892.html
タイでは物質的基盤なしに権力を維持するために、温情的人間関係に頼る以外になかった。その温情的人間関係の補強材として仏教とバラモン教が利用された。
タイは仏教の国というが、バラモン教の影響を強く受けている。
タイのお寺にいくと仏陀のほかに三つ頭の象だの猿だのヘビだの、あるいは見たこともない怪しげな鳥の像を多く見かける。これらはバラモン教に由来する神像だ。バラモン教は古代ヒンドゥー教でクメールからタイに伝わったといわれる。
バラモン教の特徴は儀式を重んじることであり、儀式を執り行えば神様は人間ののぞみを叶えてやらなければならないとされている。バラモン教の神様にはいろいろあって家庭のことだけ、地域のことをつかさどる、雨を降らしてくれるなど、それぞれ守備範囲が違っている。でも供物を捧げて儀式を執り行えば必ずご利益があるという判りやすい教えはタイ人には受け入れやすかったと思う。従来の仏教はきっちり存続させ、儀式的な要素だけをバラモン教から取り入れた。日本の神仏習合を思わせるような知恵である。
バラモン教の儀式には、神様の世界と人間界を仲介する特殊な人がいて、その頂点には国王がいる。タイ王室の国章にはバラモン教に由来するガルーダという神鳥が使われ、その国章はタイ紙幣の裏表に印刷されている。ガルーダは、ヴィシュヌ神(バラモン教の主神)の乗り物で、鷲の頭部・嘴・翼・爪を持ち、翼は赤く、全身は黄金色に輝く巨大な鳥として描かれる。
タイ国王は、ヴィシュヌ神=仏陀=ラーマ王の生まれ変わりとされているので、ガルーダはタイ王室の守り神となっている。インドネシアでは仏教伝来と共に、国営航空会社「ガルーダ・インドネシア」のエンブレムにも採用されている。大乗仏教に帰依したガルーダは、「天竜八部衆の迦楼羅(かるら)神」として仏法守護神となった。日本の密教では、梵天や大自在天の化身、あるいは、文殊菩醍の化身といわれ、風雨を止めるための修法である伽楼羅法の本尊とされている。さらに、ガルーダは、日本の民間信仰に取り入れられて「カラス天狗」となった。カラス天狗がプミポン国王をお守りしていると思うと妙な気がするが。
話が横道にそれた。タイの権力者は温情主義をうまく作り出すために仏教の慈悲心を、神の世界との中継ぎにバラモン教を持ってきた。バラモン教は神王思想により、王を神に仕立てている。また、仏教とバラモン教を使って、社会の序列は積徳(タンブン)の量と神への近さで決まっていると一般の人たちに思い込ませている。下の人に、上の人は徳を積んだ人だから、すがって生きなさいと教え、上の人には、下の人に慈悲を垂れなさいと教えている。また上の人は神なる国王から眼に見えない威力を付与されている人達であるので、服従しないとバチが当たると教えている。
このように上の人は下に慈悲を垂れ、下の人は上の人に服従することが、保護ー被保護関係を支える道徳、社会通念となって、今日まで受け継がれてきている。
タイの選挙では(徳を積んだ)立候補者は金をバラまく。貰った人は必ずその恩に報いて投票する。金をもらって、その人に投票しないのはハーブ(悪行)になると考えているのだ。配った金と票数は村ごとに1票の狂いもなく一致するという。伝統的文化の重さを感じる話である。
上の人は徳を積んだ人であるから、下の人に慈悲を垂れなさい、下の人は徳がないから徳を積んだ上の人にすがって生きなさいという教えは、社会的不平等を平等化する見事な論理となっている。下の人が上に歯向かうことがないのだから社会的秩序は安定する。貧しければ貧しいほど、前世のタンブンが少なかったせいだとあきらめて、来世を願ってわずかな蓄えをタンブンに差し出し、上の人にすがって暮らす。益々不平等は拡大し、貧困は激化するのだが、そうなればなるほど上の人への依存が強まり社会は安定していく・・・
この論理は何世紀にもわたって造られてきたもので、なかなか崩れない。これがタイの組織原理、いうなれば文化になっている。制度はみなこれで動いているといっても過言ではないだろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48157376.html
タイ仏教とバラモン教とのかかわり
タイ仏教に深いかかわりを持つバラモン教は、15世紀頃まで栄えた隣国クメール帝国から伝来したと言われている。 当時のクメール帝国は、現カンボジアに相当する大王国で、その文化は護国寺アンコール・ワットに象徴されるように、インド/ヒンドゥー文化の影響を色濃く受けていた。 その帝国の知識人や宗教家たちを、クメール王朝崩壊と同時に引き抜いた時から、タイ仏教のバラモン色が強まったとされている。
では、なぜ仏教国にバラモン教なのか?
仏教とは、本来反バラモン思想として生み出されものたものではなかったか?
これは、たぶん王制維持のための必然として導入されたのだろうと、現在では考えられている。つまり、上座部仏教の教えだけでは、王制を確固たるものにできなかったのだ。
上座部仏教における頂点はもちろん仏陀、悟りを得て涅槃に入った人である。ところが、この仏陀は誰でも厳しい修行さえ積めば到達できるのだ(できるかはともかく、チャンスはある)。 どんな人間にもその機会は平等に与えられているのは、絶対王制を築こうと思っているものにとって、非常にまずい。
国王は絶対であり、すべての頂点に立っていなければならないからで、平等思想が基本にあると権力による統治に説得力がなくなってしまう。
しかも、仏陀とは世俗を捨て、すべての欲望を断ち切った人を指している。豪勢に暮らしたり、権力をふるったり、他国と戦争したりする人では絶対にない。
こういった矛盾の中から導き出されたのが、バラモン教の導入だ。 バラモン教国であったクメール帝国の歴代王は、自らを神の化身と称し、絶対権力を持って国家を統一した。神がこの地に再臨しているのだから、人々はひれ伏すのみ。これをアユタヤー王朝は見習ったのだろう。
王は天上界を支配する神が転身して地上に姿を現したものである。 王は人間の姿をした神である。 そう宣言することによって王は大衆の尊敬を得て、権力の絶対性を高めていった。
これは第2次世界大戦集結前までの日本天皇が、現人神と名乗ってその権力と絶対性を維持していたのと同じような発想だろう。
しかも、よくできた具合にバラモン教では、ヴィシュヌ神が地上に現れる時の仮の姿が仏陀ということになっている(神は合計10の姿を持っている)。
この話の真実は、バラモン信者の信仰の確かさを試すために神が異教の伝導者である仏陀に転生するのだが、支配力強化に使えるものはなんでも使う。両者を合一させるのはかなり無理な話だが、異教と思わず同族と思えば問題ないのかもしれない。
とにかく、その利用価値は大変に高い。 さらにバラモン教独特の選民思想も、大衆支配にはとても都合がいい。バラモンのカースト制度を用いて生まれついての身分を決めてしまえば国家が統治しやすいからだ。
下から上への反乱は許されない。 支配者は常に偉く、不可侵である。
屈従を余儀なくされる大衆には仏教の輪廻転生思想を同時に教え諭す。 現世での不幸や苦悩は前世でのタンブン不足が原因であり、改善のための手段はなく、ただひたすらに来世を夢見て精進に励めと教え込む。 絶対権力を高めるのに、これほどいい材料は他にはない。タイに今もはびこる身分差別は、ここに端を発しているのである。
こうして仏教国タイに神がもたらされた。
王室行事にバラモン教的なものが多いのも、その絶対性と神性を維持するためには不可欠。 王室にはバラモン司祭もおり、彼の御託宣によって吉祥日時を決め、行事を執り行う。仏教の最大擁護者であるタイ国王でさえ、バラモンの命に従うのだ。 もっとも、最近は以前ほどおおっぴらにバラモン行事を行わなくなったと言われているが。
バラモン教はタイ仏教に神秘性を与え、今ではすっかり同化しているようにも思えるが、やはりどこかに無理がある。
ワット・アルンのように、何教の寺院なのかわかりにくい寺院もあるし、チャクリー王朝初期の寺院は、バラモン教の仏教的こじつけのような寺院が少なくない。しかし、それが複雑なタイ文化を形成しているのだ。 市内のあちこちにあるピーの祠も、バラモン教の影響だ。祠の中にバラモンの神を祭ってあることが多いことから、それがわかる。これは要するに神棚だ。
日本人が仏教を信仰しながらも神社に参ったり、神棚に供え物をしたりするのと同じ感覚だろう。 以前からタイで信仰されていた精霊信仰が、わかりやすい形になったのだ。 こんな神仏習合について深刻に考えるタイ人はあまりいない。 要は御利益さえあればいいのだろう。
http://www.jyaaku.com/travel/thai/buddism/buddism09.html
上座部仏教の功罪
仏教はタイ国民の生活に深くたしかに根付いている。思想や行動様式の中にも上座部仏教に基づいたものが多数あり、そこからタイ人の性格形成の秘密を探り出すことが可能だ。 たとえばタイ人の典型的な性格 「ヘン・ケー・トゥア(自分のことだけを考える)」 は、上座部仏教が掲げる 「己だけの完成と救済」 に起因しているのではないか。
大義を欲しない自己中心的な考え方はタイではごく当たり前のことだが、これは宗教的に見て悪いことではない。最終的に解脱できるのは、努力した本人ひとりなのだから。 一向に解消されない貧富の差や身分の差も、宗教的理由によるところが大きい。 もちろんここにはタイ仏教の底流と複雑に絡み合っているバラモン教の選民思想があるのだが、輪廻転生を信じ、現世の不幸は前世での徳が足らなかったためと思っているタイ人は多く、自分の地位の低さ、能力のなさ、度重なる不幸を生まれついての業と考えて、何事においてもすぐに諦めの境地に達してしまう傾向がある。
徳を多く積んだ人ほど救われる上座部仏教では、人々は平等に救済されることなどない。
仏教はそもそも反バラモン/カーストの立場から発生しており、仏陀は人間の身分の差を認めず平等を説いていたはずだったが、現在のこの状況はいったいどうしたことか。
また、男性以上に働きながらも社会的には下等とされている女性の地位も、上座部仏教の教儀に端を発している。女性は上座部仏教において不浄の存在とされているからだ。 僧侶となって修行することが認められていない女性は、必然的に解脱に至る道が閉ざされている。
これは戒律を守る以前の問題だ。尼僧になることはできるが、彼女たちは僧侶ではない。バスに乗っても席を譲ってはもらえないし、あまり敬意は払われない。
タイ上座部仏教における女性の救済は、まず男の子を産み、その子を立派に育てて出家させ、徳を積ませて初めて成就する。タイ人たちが言うところの、「僧侶の法衣の裾にすがって」 はじめて女性は救いを得ることができるのだ。 彼女たちは、自分だけの努力では、涅槃に行くことができない。
世の中は、まったく公平ではない。
http://www.jyaaku.com/travel/thai/buddism/buddism06.html
タイ人と仏教に関する考察
タイの仏教、即ち小乗仏教は極めて為政者にとって都合の良い宗教であると思う。
タイ人の大多数は仏教徒であり、その多くは定期的な寺への参拝と寄進を欠かさず、日常生活においても(少なくとも表向きは)仏教の教えに背かない様に留意しながら暮らしている。こういう風に述べるとタイ人は善男善女の集団であると誤解される向きがあるかも知れぬが、事実はやや異なり彼らのこういった行動は全て自分の利益の為である。即ち、来世でより良い身分で生まれ変わる為に現世で功徳を積もうとしているのである。
小乗仏教においては、死後に極楽浄土へ行くことが出来るのは戒律を守って修行をした僧のみである。僧以外の者は、修行をする僧の手助けをし功徳を積むことによって、死後には極楽浄土へは行けないもののより良い境遇での生まれ変わりが可能となるという訳だ。
http://plaza.rakuten.co.jp/bangkokian2547/diary/200910070000/
現世とか来世とか生まれ変わりとか、全く非科学的なこれらの事象を信じる人がこの現代社会のどこにいるのか?
と私も以前は疑問に思っていたが、考えてみれば何億といるインドのヒンズー教徒はこれらを固く信じているであろうし、インド人よりは遥かに我々日本人と感覚的に近い筈のタイ人も、その多くが何となくであったとしても輪廻転生を信じているのではないかと思われる。
少し前のことになるが、タイ東北部の田舎に蛇と暮らす男の話をニュースで見た。確か、ある日その男の家の前に大蛇が現れ何度追い払おうとしても頑として退こうとしない為、困って寺の僧に相談したところ
「その蛇は前世ではお前の妻だった」
と宣告され、以後彼は家の中でその蛇と暮らしている、という内容であった。馬鹿な男もいたものだ、と私は笑ったが、そのニュースでは「美談」として取り上げられていたからよく覚えている。横で見ている嫁も、下手に論評しようものなら「私が蛇に生まれ変わったら、貴方は私を捨てるのか?」などと言い出しかねない雰囲気であった。
このケースは極端な例で、だからこそニュースになったのだと思うが、最も軽薄な人々が鑑賞していると思われる夜のトレンディー?ドラマでも、生まれ変わったら云々、といったストーリーが散見されるので、田舎の無学な下層の人々だけが輪廻転生を盲信していると言う訳では断じてないと思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/bangkokian2547/diary/200910080000/
タイ社会は日本とは比較にならぬ程の格差社会である。
であるにも関わらず、下層階級の人々に余り悲壮感がないのは、1つには温暖な気候と豊かな食料事情により極貧であっても少なくとも衣食住には困らないことに由るのだろうが、2つには輪廻転生を半ば信じていることも大きいと思う。
自分が現世において貧乏なのは前世における功徳が足りなかったからだと諦めがつくからである。それどころか、「蛇だとか動物に生まれ変わらなくて良かった」と思っているかも知れない。だからこそ、上流階級の金持ちは金持ちであることをこれ見よがしに見せびらかし、下層階級の同胞を思い切り見下すのである。金持ちに生まれたのは前世で功徳を積んだ証拠なのであるから当然である。
そして、そのヒエラルキーの頂上は仏教の守護者である国王である。国王をタイ国民が尊敬して止まないのは、現国王のタイ国への貢献によるところも大きいが、何よりも国王が前世で最高の功徳を積んだからである。
輪廻転生思想を伴うタイ仏教の思想は、学校教育やテレビ等のマスコミを通じてタイ国民に幅広く深く浸透しタイ社会の安定に非常に寄与している。一部の人々が富を独占しても、他の国の様な激しいデモや暴動にはなりにくいのである。
「タイは王国だから社会が安定している」
とはよく聞く謂れであるが、
「タイ国民は輪廻転生思想を持つ小乗仏教の信者が多数を占め、国王を頂点とする超階級社会にも宗教的合理性と納得性があるから安定している」
というのが私なりの解釈である。本当に良く出来たシステムであると思う。
そして、今日も国民の大多数を占める下層階級の人々はなけなしの金で寺や僧への寄進をし、来世での良い生まれ変わりを目指すとともに、実は前世では非常な功徳を積んでいたことが判明したことによる一発逆転=宝くじで明日に夢を繋ぐのである。当然その後は何も努力をせず最低限働いては昼間からゴロゴロする。
日本人である私などはイライラして「神は自ら助く者を助く」って言葉を知っているか?と彼らに説教してやりたいのであるが、嫁に言わせるとああいう人たちには何を言っても無駄であるとの由。大方、
「貧乏に生まれたからには頑張ってもタカが知れている、現世は諦めて来世に期待する」
という様な回答が返ってくるのであろう。誠にもって嘆かわしいが、その一方で私も嫁もこの安定した格差社会から恩恵を受けていることも間違いないから、悩みは深いのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/bangkokian2547/diary/200910090000/
タンブン
修行中の僧侶だけが対象とされる上座部仏教。しかし、タイでは一般大衆にも救済の道が開かれている。
その道とは、「タンブン(徳を積む)」 こと。
寺院や僧侶に喜捨寄進して善行を積む、いわば他力本願に近いものだ。 現世で身に降りかかる出来事のすべては前世での徳の高低によって決定されていると考えるのが、このタンブン思想の原点だ。
タイの仏教徒は輪廻転生を深く信じている。徳は積めば積むほど高くなり、それは次の転生時まで持ち越すことができる。幸福は前世で積んだ徳が高かったことを示し、不幸は努力の至らなさを表している。 わかりやすく書くと、タンブンは輪廻の中における善行の長期預金だ。運命の善し悪しは先天的なものだが、それも結局は個人の前世での努力量によって決まる。となれば、現世ではなにをなすべきか?
一心に、来世に向けて徳を積む作業に没頭するのが正しい。
この現世での生活は苦しいかもしれないが、苦難の道を乗り切れば、来世での安穏とした日々が待っている。長い輪廻の輪の中には、いい一生もあれば、ツキのない一生もあるというわけだ。
具体的にはどうするべきか?
もちろん僧侶となって修行に励むのが人生における最高の善行だが、実生活ではそうもいかない。 こうしてタイの人々は、日夜細かいタンブンに励むのだ。
また、転生は人間界だけに限ったものではない。タンブンを積む作業を怠ると徳は確実に目減りしていくし、悪行を働くと逆の作用が働いて、下等動物への転生が待っている。罪を犯したものの魂は犬などの獣へと転生され、向上どころではない生活が待っている。
早朝、僧侶たちはそれぞれがこもっている寺を出て、托鉢(ピンターバーツ)にまわる。
「坊主は乞食(こつじき)であるべし」 という仏陀の教えに従っているのだ。 人の残したものを食べ、人の捨てた布切れを身にまとい、欲望雑念を捨てて解脱する。人々は施しを与え、それが僧侶の修行の糧となることによって徳を積む。
しかし、彼らの鉢(バーツ)の中には、とても残飯とは思えないほど立派な食品ばかりが詰まっている。施しを希望する人はあとを絶たないし、早朝の市場に行くと
「喜捨セット(米・おかず・飲み物が小さなビニール袋に入っている)」
まで売られているのだ。 どんなにすばらしいものを与えられても、僧侶たちは絶対に感謝しない。
それはあくまでも残飯であり、彼らに向かって捨てられたものだからだ。
タンブンとはすなわち喜捨(喜んで捨てる)すること。人々は僧侶に捨てることによって徳を積み、喜びを得る。感謝するのは施された方ではなく、捨てた方なのだ。
タイにはひと月に4回の仏教日ワン・プラがある(新月と満月とその中間日)。この日は絶好のタンブン日となり、各寺院では法要が行われ、喜捨寄進の品々が各家庭から山のように寄せられる。ここでも、喜ぶのは徳を積むことができた一般の人々なのだ。 また、女性の場合は息子を出家させることが最高のタンブンとなり、家族の徳もまた高まる。
タイでは20歳以下の男子が出家することをネーンと呼び、成人して正式に僧侶となることはプラと呼ばれている。ネーンは母親に、プラは父親に功徳をもたらし、よって家族全員がタンブンできるのだ。 こうして徳を積めば積むほど来世での生活が保障され、その将来が安定していく。
しかし、ここにひとつの問題が生まれる。寺院や僧侶に施しを与える余裕のない人々は、どうすればよいのだろう?
ここから 「施す人は偉い人」 というタイ人の基本思想が芽生えるてくる。 裕福な階級の人々は財力を生かしてどんどん徳を積むことができるが、経済力のない人は積める徳の量も限られてくる。回数、質、量がモノを言うタンブンの世界だ。成り上がりのチャンスは少ない。
はっきり言うと、タイでは、「タンブンの金額」 が非常に重要視されている(どこの宗教でも同じか)。しかも、喜捨することによって浄化されるので、金の出所は問われない。
また、タンブンはサンガに対して行えばよく、どの僧侶、どの寺院であってもかまわない。 とにかく多くを与えたものが勝ちなのだ。
その格差は年を追うごとに開くばかり。さらに最近では子供を出家させるにも莫大な金が必要になっている。僧侶になるためには多額の準備金が必要で、手軽なように思える出家でさえも、実は楽ではない。
不平等の声はあちこちで聞くが、それでも人々は熱心にタンブンに励む。それしか幸福に至る道はないのだから、励まざるを得ないのだ。
ちなみにタイにおける最高のタンブンとは、寺院を建立すること。高位階級への転生は、庶民にとってかなり遠い道でもある。
http://www.jyaaku.com/travel/thai/buddism/buddism05.html
タイの上座部仏教では修行中の僧侶だけが対象とされる。 しかし、タイでは一般大衆にも救済の道が開かれている。その道とは、「タンブン(徳を積む)」 こと。寺院や僧侶に喜捨寄進して善行を積む、いわば他力本願に近いものだ。
仏教の僧は、この世の無常を説きながら、タンブンしなされというばかりである。この現世には幸せはないのだと。だからこそ、来世で幸せになれるよう、現世でしげしげとタンブンに励むタイ娘も多い。
本来は帰依して仏教修行に励むことが最も徳を得る方法なのだろうが、一般人、特に女性の場合は、 “タンブン(托鉢)”という方法で徳を得ようとする。
輪廻転生を信じるお国柄、お金がないのは前世で悪いことをしたからと素直に信じタンブンに励んだり、タンブンの量によって、来世への幸せも得ようと金を出してはせっせとタンブンに励む人が多い。
従って、タンブンの量が多い金持ち=徳が多いという図式になり、社会的に尊敬されたりする。
反対に、タイ人は金がないことを最も恥とする。人が経済的に困っていると、あの人は徳がないからだと見下す傾向がある。
貧乏は、前世で悪いことをした=ゆえに罪が深い=徳がないことと考え、日本人が美徳として考える“清貧”などというのは、タイではバカ者、愚か者、能なし、罪深き人の代名詞なのだ。
特に娘に外国人の恋人ができたと知るや、親族は勿論のこと、親戚一同、どこからか借金の申し込みが絶えないといった被害に遭うことも少なくはない。借金を断ると怒り出す奴も中にはいる。徳の証である金がある人物が、どうしてそれっぽっちの金を貸してくれないか?・・・こちらは困っているのだぞと脅迫まがいの借金申し込みを受けたりする。そういう奴に限って、この娘が子供の頃には、こちらはいろいろ実家の両親に金を貸したり、世話をしてやったものだという話を聞かせる。うんざりである。
夜の商売に従事する人間だけでなくタイ人全般に言えることであるが、たとえ金持ちでも、自前で払うことができても、タイ人というのは他人様の金で飯を食い、酒を食らい、遊ぶことに全くためらいがないのが普通である。その図々しさには多々辟易するものがある。
タイ人というのは外国人からのタンブン(お布施とでも訳すか?)とでも思っているのか、他人に金を使わせることに遠慮はない。金を貰う羞恥も断るプライドもない。
タイ人と金銭のトラブルが発生するのもムリのないことである。金に対する考え方が、まるっきりちがうからだ。
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タイにちょっと詳しい人なら「タンブン」という言葉を耳にしたことがあるだろう。タンは徳、ブンは積むの意味で、徳を積むの意味になる。具体的には、お寺に寄進したり、托鉢する僧侶に施しを与えり、恵まれないものを援助することだ。
タイの仏教はスリランカ系の上座部仏教(小乗仏教)で本来は出家し、修行を重ねた坊さんしか救われないことになっている。しかし、一般の人でも救済され、来世でより良い生涯を送ることができる方法がある。それがタンブンだ。
現世での幸福は前世でのタンブンが多かったせいであり、不幸は前世でタンブンが少なかったことの表れだとタイ人は考える。現世でタンブンを怠り、悪行を行うと来世は不幸になるばかりか転生先は獣へ落とされる。タンブンは人間として生きるための当然の行いだ。
タンブンを重ねると、それは次の転生時まで持ち越すことができる。タンブンは輪廻の中における善行の長期預金だ。
タンブンをすればするほど来世での生活が保障され、その将来が安定していく。
タイにはひと月に4回の仏教日ワン・プラがある(新月と満月とその中間日)。この日は絶好のタンブン日となり、各寺院では法要が行われ、喜捨寄進の品々が各家庭から山のように寄せられる。線香、歯ブラシセット、石鹸、ローソク、花、布地、 お金等僧侶が必要 とする日用品等が入っているタムサンカターンという ポリバケツのセットがスーパーなどで売られていてこれがタンブンされる。トーパーパという竹のクシにお札を挟んだお飾り(丁度お札の花が咲いているように見える)もタンブンされる。
4月のワン・プラに女中のブアがトーパーパを用意していた。みると1000バーツ札の串が何本も刺さっている。全部で3,4万バーツはあるだろう。兄弟始め、村の人からのタンブンを集めたものだそうだ。お寺にタンブンをしに行くので数時間家を空けてもいいか、と聞く。公休ゼロが続いていたのでもちろん承知したが、タンブンが嬉しくてたまらないという様子でいそいそと出かけて行った。
そのあと、5月のワン・プラにもトーパーパを用意していた。ブアに頼まれて近くのお寺に車で行くことになった。お寺では本堂の正面に座ったお坊さんにトーパーパを差し出して三拝九拝する。トーパーパにはブア手書きの手紙がついている。ママさんの病気平癒と我々兄弟の満願成就を祈念して下さいと書いてあるそうだ。別に自分がタンブンしたわけでもないので少し申し訳ない気分になる。
帰りの車中でブアにいくらタンブンしたのかと聞いたら自分のポケットからは2千バーツだけと言う。エエーッ、2千も?それじゃ4月のトーパーパは、と聞くと5千バーツタンブンしたとのこと。
ソンクランの時にも近くのお寺に連れて行かれ、本堂や仏塔で拝むたびに100バーツをタンブンしていた。そのお寺で占いが良く当ると評判のお坊さんの庵に行った。ママさんの病気はどうしたら治るでしょう、とブアが100バーツ(自分も100バーツ)タンブンして尋ねてくれた。体中に刺青をしたアヤしい坊さんのご託宣は「よくゴハンを食べるように」といったものだったが。
ブアの月給は7千バーツだから、給料の大部分をタンブンしていることになる。タンブンすることが目的で働いているようなものだ。大体、キリスト教でも収入の10分の1を寄進すれば天国行きを保証してくれると聞いたことがある。これだと貧者にも救いがある。収入の大部分をタンブンしているブアのようなタイの善男善女に幸せな来世が約束されているのだろうか。
はっきり言うと、タイでは、「タンブンの金額」が非常に重要視されている。裕福な階級の人々は財力を生かしてどんどん徳を積むことができるが、経済力のない人は積める徳の量も限られてくる。回数、質、量がモノを言うのがタンブンの世界だ。残念ながら貧乏な人にはチャンスは少ない。ギブ(タンブン)・アンド・テイク(来世)のドライな勘定で、貧者の一灯といったウェットな感情が入る余地はない。 その格差は年を追うごとに開くばかり。子供が出家することは最高のタンブンとなるが子供を出家させるにも莫大な準備金が必要になっていて、手軽なように思える出家でさえも、実は楽ではない。
不平等の声はあちこちで聞くが、それでも人々は熱心にタンブンに励む。それしか幸福に至る道はないのだから、励まざるを得ないのだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48005241.html
無功徳
無功徳(むくどく)と読む。禅をかじった人は、達磨大師と梁の武帝の間で交わされた有名な問答をご存知だろう。
達磨大師は南インドの香至(こうし)国の第三王子として誕生した。釈迦牟尼佛から数えて第二十七代目の般若多羅尊者の弟子となり、その法燈(佛法がこの世の闇を照らす燈火に喩えて言う語)を継いだ。よって 第二十八代目の祖師であり、また中国に禅を伝えた鼻祖として仰がれている。当時の中国は 北は「北魏」 南は「梁」の国に二分されていた。梁の皇帝は「仏心天使」と言われるほど仏教を熱烈に崇拝していた武帝であった。
達磨大師が、インドから中国の梁の国に来たのが 普通元年(520)九月二十一日、と「景徳傳灯録」にある。広州知事 蕭昂(しゅくこう)(武帝の従兄)、がインドから偉い僧侶が我が国に着(つい)たことを、武帝に奏聞した。この奏聞により武帝自ら車を連ねて大師を梁の都金陵の宮殿に迎え入れた。達磨大師が金陵の宮殿に迎えられると、武帝は大師に
「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を度すること、勝紀すべからず。何の功徳かあらん〜(自分は、皇帝に即位して以来、多くの寺を建立し,経を書き写し、僧侶を養成し、わが民のために多くの事をなしてきた。その数は計り知れないが、どのような、功徳があるであろうか)」
武帝はこんなに仏法のために尽くしていているのだから、大師から、感謝され、きっと来世は極楽にいけるであろう、といった言葉を期待していたのであろう。だが大師の答えはまことに素っ気ないものであった。大師曰く
「無功徳(むくどく)」(功徳などない)
武帝おどろき、
「何をもってか功徳なきや」 (どうして、功徳がないのか)
大師曰く
「これ、人天の小果にして、有漏の因なり。影の形に随うがごとく、有りと雖も、実にあらず」
(それはみな 迷いの世界の中の小さな業績なり。迷いの原因を作っておるにすぎない。――影が人に付き纏う様なもので、譬え善意であるにしても、欲望が付き纏っていては、真実ではない ――)
善いことをすると「功徳」と いう お返しを人は心の奥に期待する。これは迷いのもとをこしらえておるようなものだ。お寺を建立したり、僧に供養したり、人民のために 療養所を作ったりするということは,善いことで悪いことではない。しかし、雨露(あまもり)がして部屋に水が漏れると、悩まなければならない様に、功徳を求めてする行為は煩悩のもとである。
「あれもしてやった!」「これもしてやった!」と思うようでは、本当に善い事をしたとは、釈迦牟尼佛は教えてない。むしろ、そうする事によって「自我慾」を高めることになり、功徳につき纏う善意は善意であっても「善意にあらず」・「真実にあらず」と。
佛天子とまで言われた皇帝であり、また人格者で自身は悪衣悪食で一生を過ごし、居住するところも質素な建物だったと謂う。しかし、真の佛法というものをわかっていない、と大師は説くのである。
タイでタンブンを見るたびに達磨大師の「無功徳」を思い出す。タンブンはまさに見返り(現世も来世も)を期待して行なう行為である。タンブンはタイの日常生活、タイ人の精神生活に溶け込んでいる。タンブンはタイの文化を形作っている。 風邪を引くとタンブンしないせいだと500バーツほどタンブンして、全快を祈る。田舎だとラーメン一杯20バーツで食べられる。日本のラーメン一杯700円で換算すれば500バーツは一万数千円の感覚となる。
お寺の池には魚や亀がうようよ泳いでいる1メートル近い鯰もいる。池のほとりでは小さな魚や亀を売っている。池に放流してタンブンするためだ。市場でも20センチほどの田鰻が売られている。佃煮用ではなく、年の数だけお寺の池や川にタンブンするためだ。高齢者だと鰻の数を数えるだけでも大変だ。お寺には先を争ってお金や物品を寄進する。財力のある人はお寺そのものを建立して寄進する。
そんなタイ人のタンブンは達磨大師から見れば「無功徳」でなんの功徳もないということになる。しかし、タンブンのあと、晴れ晴れとした顔をしたタイの人々を見ると、対価を求めない喜びの境地、つまり「功徳」の世界に至っているのではないかという気もする。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48055508.html
タンブン文化
タンブンは来世への善行預金と書いた。お寺への金銭、物品を寄進、鳥、魚、亀、タニシの放流、乞食への喜捨、山岳民族子弟の奨学金、棄て犬猫の世話などタンブンは多岐にわたる。
今の生活は苦しくともタンブンにより徳が溜まり、来世は白人や日本人に生まれ変わって、豊かな生活を送ることができる、と信じているからタンブンに励むのである。そして今、この世で経済的に苦しい、健康に不安がある、受験に失敗した、失業した、といった不幸はすべて前世でタンブンを積まなかったせいだと考える。逆に現世での成功者や恵まれた人、つまり、政治家、実業家、高級官僚、それから豊かな日本人は前世でタンブンを充分に積んだ人、徳の高い人ということになる。
だから権力者が横暴に振舞っても、
「あの人たちは徳が高いのだから仕方がない」
と言う考えになりがちだ。ここでは権力者に対して持たざるものが団結して立ち上がり、自らの権利を主張する、という社会主義的な政治運動は起こりにくい。タイの人間関係は、権力者に対立するのではなく、前世で高い徳を積んだ人の庇護を求める、という保護ー被保護の人間関係になる、と社会学者は説く。
自分は社会学者でも歴史学者でもない。これまで単なる旅行者として何度かタイを訪れているに過ぎない。しかし、ロングステイをしているといやおうなしにタイの文化に向き合う。女中との関係や交通ルール、市場での売買、食事作法など日常生活の小さなことにでも、これがタイなのかなーと、考え方の相違を感じることが多々あるということだ。
ここで、富山国際大学学長の田中忠治先生の著作を参考にしながら、タイ文化の基本を整理してみたいと思う。(ご興味のある方は先生の「タイ入門」、「 タイ歴史と文化、保護ー被保護関係と倫理」などをお読み下さい)
さて、タイ社会はすべて保護ー被保護の上と下に二分されている。金があり権力を握る人が保護者になり、金や権力のない人は被保護者になるという人間関係であらゆる制度が動かされている。夫婦関係以外の人間関係はすべて保護ー被保護関係になっているそうだ。それは一対一の人間関係で、日本の親分ー子分の人間関係に似ているが違う。権力者や富裕者の周りに人が集まるのは日本と同じだが、タイではこれが一対一に結びついているのが特徴で、被保護者同士が横につながりを持つことは一切ない。
一人一人が権力者に個別、直接に繋がる。もう一つの特徴は、功利的恩の授受関係にある。日本の親分子分の関係においては、一度受けた恩は決して忘れないということになるが、タイでは親分が失脚すると直ちに逃げ出し、次の親分を探すという冷たい関係である。お互い利益のある間だけの関係だ。タイ人には日本の忠臣蔵の話はどうしても理解できないという。利益を分け与えてくれなくなった、それに死んでしまった人(主君)のために命を張るなどということは考えられないのだ。
タイ人の留学生は日本にいるうちは、「先生。先生、」と慕って、先生を喜ばしてくれるが帰国すれば手紙一本も来ないのが普通だ。また、ある駐在員夫婦は、女中さんが結婚するに当たって多額の金品を与えた。しかしあれだけしてやったのに何という恩知らずと、ろくすっぽ挨拶にも来ない女中に失望していた。要するに「恩」の考え方が根本的に違っているようなのだ。
このような人間関係は、「サクディー・ナー制社会」という15世紀から20世紀まで4,5世紀続いた制度の下で生まれている。この制度では支配者と被支配者、王侯貴族と平民というように身分が別れていた、この王侯貴族と平民が保護と被保護の関係だったわけだ。タイでは人間の数に比べて土地が潤沢にあったので、土地を媒介にした社会秩序ができなかった。そこで人間を分配して社会秩序を作っていた。土地ではなく、人を一杯持っている人が偉い。
社会的序列が上の人ほど、国王から沢山の人間を分配され、人間の数によって位階を定めた。支配下の人間の数によって位階を定めたのであるが、それはまた、労働力即兵力の分配でもあった。タイの戦争は領地の奪い合いではなく、人力の奪い合いであり、歴史的にはかなり頻発している。
物質的基盤なしに、配分された人間をコントロールし、権力を維持するにはどうするか。それは温情的人間関係による以外になかったように思われる。その温情的人間関係を補強するために利用されたのが宗教であり、その具体的行動の一つとしてタンブンが登場する。
http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48090428.html
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163 名前:名無しのタイちゃん 投稿日:2005/12/01(木) 12:54:04
タイ人って身近になれば身近になるほど『ありがとう』って言わないよな。
あと日本人の男、紹介しろ紹介しろとうるさい女(田舎)
あれを買え、これが欲しいとのたまう奴
いろいろ買ってやったのに自分の家の鶏一匹すら差し出そうとしないケチなイサン人
無償の助け合いが全然無いタイ
167 名前:163 投稿日:2005/12/01(木) 21:06:46
バイタじゃないけど小卒、中卒がゴロゴロしている田舎の話だ。
タイの田舎は昔の日本よりもネチネチの付き合いがある。
農耕民族+無教養、社会主義的思想が根底にある。
金はあるものから貰う物。物々交換なんてのも少ないし
とにかく金、金、金。日本人から見れば本当にカスみたいな額でも
何でもかんでも金が絡むと嫌になるよ。
村社会、相互扶助があってもいいだろうにもにもなし。親近者でなければとことん冷たい。
金が無ければ何も出来ない。助けない。病院へ連れて行こうともしない。
329 :オー様と名無し:2007/05/20(日) 23:33:09
仕方がなくお金を選ぶけど本当はそうじゃないと。
女がそれぞれのランクの男について解説してくれたが。
お金いっぱいくれる人は仕方がなく言うことを聞き来世のことをもう考えるそうだ。
その人がお金くれるのだから仕方がないその人の願いを叶えてやるんだって。
自分の体とお金は引き替えそのお金で来世こそだってさ。
この子も救ってあげられなかった。
211 :オー様と名無し:2009/01/01(木) 11:18:24 ID:kaY4rOm.0
タイで節約するのは、かなり惨めだけどな。
日本と違って、自分や他人のステータスをかなり気にしながら生活している
見栄っ張り社会だからな、タイは。
214 :オー様と名無し:2009/01/01(木) 11:57:24 ID:rhwTzBw20
他人を支援して自分の徳を積むからじゃない?
家計はめちゃくちゃだよね。
215 :オー様と名無し:2009/01/01(木) 14:05:08 ID:4TQR9cfA0
金で徳が積めるってのはなぁ・・・。
809 :オー様と名無し:2009/07/18(土) 12:39:24 ID:RIrQ0K8s0
タイでは、一般的に金をくれる人がいい人だ。
タイでは惚れられるかどうかが運命の分かれ道。
惚れられていない場合には、金の切れ目が縁の切れ目だな。
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1099834899.html
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1178959961.html
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/2009/08/blog-post_1860.html
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タイは何故 売春国家となったのか?
タイ人は、どんな意味でも「被害者」ではなく、「貧しさゆえに強いられて」土人売春国家体制をとっているのでもない、ということが重要である。
これが彼ら自身が好んで選択している彼らの自画像なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat4875090/index.html
タイは決して貧しい国とはいえない。昭和初期に日本の農村で娘の身売りが続出したときのような切迫した飢餓がある国ではない。
タイでは、貧困というよりも都会との貧富の差をバネに、農山村から(あるいは少数民族の村や国境のむこうから)親が娘を売り飛ばすような構造を温存助長して来た。この関係は、タイの主要産業のひとつである観光業の一環に組み込まれ再生産されているのである。
また、日本も少女売春は盛んというが、12歳の娘が売春するとしても、ネットの出会い系サイトで見つけたオヤジにお小遣いをもらって・・・・、というのと、高床式の家に住んでいる娘が親に行けといわれて行くのとではまったく意味が違うだろう。
後者については、社会、国家の直接の責任が問われなければならない。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/10/post_8b81.html
タイでは恋愛も売春も、(弱者の)性奴隷、家内性奴隷も、意識のうえであまり境界はないのだということに注意すべきである。
12歳で、親、タイ人ブローカー、白人の三者の犠牲になって白人男のレンタルワイフとして売られた山岳少数民族の少女は、その翌日から普通に「ファラン(白人)のガールフレンド」と称して堂々と生活していくのである。
<Farang :ファラン>
元の意味は“フランス”ですが、別にフランス人だけを指すのではなく、白人系の外国人の総称として使います。
ひょっとしたらいままでより偉そうに外を歩けるかもしれない。
そういう沙汰を(良くも?悪くも)平然と許容してきたのがタイ社会、タイ国家なのである。
それがタイの「マイペンライ」の現実の意味であり、「マイペンライ」の道義上の性格である。
( 「マイペンライ」とはタイ人の気質を表す言葉としてよく用いられていて、訳すと「大丈夫・どういたしまして」という意味。ところが「まっ、いっか」との意味あいも強い。何事にもタイ人は適当なことが多いので… そこら辺がマイペンライ、マイペンライ。)
今度どこかで「マイペンライ」という言葉を見たり聞いたりしたら、それは
アパートの隣の部屋に白人男が小学生のアジア人少女と逗留し、淫蕩に耽っているのを見ても何も感じず平然と暮らせる感性
のことだと肝に銘じるべきである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat5005286/index.html
182 :G[sage]:2006/08/29(火) 09:25:50 ID:gls40XbM
タイの若い女は全員売春婦になっちゃったからな
女子大生の憧れがGOGOで踊る事らしいorz
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
タイ人の売春婦と托鉢僧を消してほしい
タイ人の売春婦とレイプ恐喝も平気でするタイ人仏教僧は、東南アジアの癌
夕方托鉢に来るタイ人僧は「偽坊主」である。決してカネを恵んではいけない。
上座仏教(小乗仏教)では、早朝、朝飯前に托鉢に回るのが基本。
僧が托鉢で得た食物はその日のうちに消費するのが本来の姿。蓄えをしてはいけない。
午後は食事もしてはいけない。だから夕方托鉢するなど本来ありえない。
遅い時間〔時ならぬ時間〕の托鉢はスッタニパータかダンマパダで釈迦牟尼自身が諌めていたと記憶する。
午後はそもそも出歩くべきではない。「やたらうろつきまわるな」とも書いてあるはず。
ところがそれにもかかわらず、三宝と善逝のあらゆる教えを踏みにじり、黄色い糞掃衣をまとったタイ人仏教僧が、マレーシアの首都ここクアラルンプルのど真ん中で、毎日のように、夕暮れ時にカネをせびりにやってくる。
夕方から深夜にかけて中華街をうろつきまわり、非ムスリムのアジア人と見ると、ひとが日本語や英語を読んでいる鼻先に鉢を突きつけてうるさく声をかけカネの無心をする。
白衣の尼僧もしつこく来る。
人の読書を中断させて、しかも、このマレーシアの首都で「ニノイ・ナ・カー」だと。
頭がおかしいのだろうか。
このとき私がコーヒー屋で読んでたのは英字紙で、タイ語じゃない。ここはタイじゃない。
私はタイ人顔じゃない。色も黒くない。
穢れた手で触れられたような気持ちになった。
猿はどこに行っても自分中心に世界が回っていると思っている。
白人には頭が上がらないから、白人の溜まり場を遠巻きにして媚びるように控え、お恵みを待つ。
毛嫌いしているムスリムには近づかない。
しかし、それ以外の世界では自分たちがいつも中心にいると信じている。
私はいつも「私はムスリムだ」と言って追い返している。
タイ人売春婦とタイ人乞食坊主・尼僧は、東南アジアの精神汚染の元凶である。
タイ人坊主は、ネパールやインドの(インチキ)サドゥーとはまったく違う。
小乗タイ坊主には、ヒンドゥーのサドゥーたちのような愛嬌もしなやかさも謙虚さもない。
(同じインチキレベルを比較してもである)。
というのは、サドゥーたちは、たとえフィクションであっても、何も持たないこと、無一物であること、執着を持たないこと、などを直接の拠りどころとし自らの立場としているのであり、したがって、自分は「ただの乞食」との社会的な区別はないことをむしろ身上とするものであって、現実に、ひどく罵られて追い返されることも珍しくない。
(釈迦の時代もそうであったことがスッタニパータの記述からもうかがえる)。
これに対して、タイ坊主たちは国家権力とも結びついた上座仏教教団の社会的「権威」を背景に、喜捨しないことに対するアジア民衆の後ろめたさや迷信的な感情に直接つけこみながら、カネをゆすりとっている。
彼らにとっては、拒否されないことが当然のことであり、彼らがタイ世界にいる限り罵られることなど想像もできず、(因果に関する)宗教的な思想からというよりも、むしろ、自分たちの社会的立場のもつ世俗的な「力」ゆえに、敬意をもって遇されるのが当然であると考えているのである。
大げさな話でなく、タイ人だけは日本に入国させてはいけないと私は信じる。
彼らは重大な犯罪を犯さないかもしれないし、政治的な反日運動に加担しないかも知れない。
しかし、彼らタイ人は、彼らががどこへ行っても周囲に撒き散らしている穢れた「タイ精神」(=土人売春婦精神、外国でも平気でタイ語で割り込んで来られる乞食坊主精神)によって、見えない形で日本の風土を汚染し、精神の土台を侵食するに違いない。
この「タイ精神」は、HIVのように有効な抗体ができにくく、しかも精神生活の免疫力である「マトモな感性」を根底から、しかも静かに破壊していくのである。だからなおさら危険なのだ。
きつい言葉のように見えるかもしれないが、実際はそうでもない。なぜなら、日本人からこんなことを言われてもぜんぜん悔しくないというのがタイ精神の本領だからである。
「白人がこんなにボクたちをかわいがってくれてる」
「白人はタイが一番好きだ」
という事実を示すことによって、あらゆる有色人種に対抗できると本気で思っているのがタイ人である。
もしもタイ人が「精神汚染を撒き散らす猿」と軽蔑されたくないと思うのなら(そう思わないから救いがないのだが)、まず以下の三つのものを、目立つところからだけでも一掃してみればいい。
@土人売春文化
(白昼堂々たる売春婦とレンタルワイフ文化、貧乏でもないのに永久に「オンリー」をやっている白人占領文化)。
A危険極まりない街中の野良犬。
B隣国にまで出稼ぎに行き、夕方カネをせびりに来る上座仏教坊主。
あろうことか「占い」で金を稼ぐ上座仏教坊主。
昼過ぎてから物を食う上座仏教坊主。
コカコーラの2リットル入りペットボトルを列車の中でラッパ飲みする上座仏教坊主。
売春婦を寺に住まわせる坊主。
これら上座仏教僧の世俗的諸特権および政治への口出し。
タイ人はすでに結構な金持ちなのだから、その意思さえあれば一掃できるものばかりである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/post.html
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白人に都合の良い「仏教国」タイ
白人にとっては、「マイペンライで寛容な仏教国タイ」は都合が良く、何よりもアジアにおける心身ともなる拠り所であろう。
タイに行くことによって、白人は、ちょうど猿が敵を負かしたあとに交尾のときの雌の格好をさせて自己の優位性を確認させるように、アジアに対する優位性を確認するのである。
タイにおける大規模な白人セックスツーリズム、広範なレンタルワイフ遊びには、たんなる性欲を超えたイデオロギー的な意味がある。
たとえば、ヨーロッパの片隅の貧しい白人国に、アジア人男性がおしよせて、白人がタイでやっていることとまったく同じ「お金を払う自由恋愛」を大々的に行ったとしたら、全白人世界を巻き込む怒りの渦をひきおこすだろう。
アジアの国であるタイでそれをやり、誰もそれに抗議をせず、むしろそのような白人をちやほやすることを再確認すること、アジア全体がそれを容認し白人に屈服している姿を確認することは、白人の世界支配を確かなものとするために実際的な意味がある。
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客の白人男がタイの娼婦と思われる女達に行う悪逆非道で残酷な行為を、ビデオに撮った動画が商業ベースで流通してしまった物と思われます。
途上国の娼婦なので白人娼婦にはできないようなことを平気でやっているようです。
http://www.snakecastle.com/001-urte.html
タイの男が最も気にするのが女性の肌の色
白ければ白いほど美しいと同義語になる。
タイ人は元々浅黒い肌(蜜色)なので、色白であることは美人の絶対条件の一つ。
浅黒い肌は最も蔑まれる。
華人との混血の人、北部出身の人、東北のイサーン人でもほとんどラオスとの国境にいる人々などは色白が多い。
外で力仕事をしている下層階級の人々は日照時間が長いから色白になりえない、家の中にいて優雅な暮らしをしている人々は色白だと固く信じられているのか、肌の色は社会階層まで表す。
それだけに色白の娘というのはタイ男が最も憧れる女の条件の一つになっている。
“ピユ・ダーム”と言えば「肌が黒い」という意味になるが、タイ語の「黒い」という言葉は何かしら蔑みの気持ちも含まれている。
http://hage.momo-club.com/news/mp-ura3.html
先進国にはたいてい「ミスコン批判」という運動があり、いろいろな理由で美人コンテストを激しく非難する人たちがいるものです。
そのせいかどうかは分かりませんが、日本では美人コンテストを敢行する人々はあらかじめいろいろな言いわけを用意しなければなりません。
曰く、容姿だけでなく知性や教養も審査するだの、人間性を総合的に審査するだの・・・言えば言うほど滑稽になる理屈を用意し、何かしゃべらせたり、受け答えを見たりしたりするようです。
しかし世界にはそのような心配から一切自由な国もあります。そんな国の代表格の一つがタイです。タイでは、美貌こそ善であり正義である、という大原則が社会を貫いています。ミスコン批判など出る幕はないようです。
先日タイで行われた美人コンテストでは、母国語すらロクに話せない、オーストラリア白人との混血の女性がトップに立ち、ミスタイランドに選ばれました。
結局、タイ語ができないからミスタイランドとしての仕事が果たせないという分かりやすい理由で、賢明にも本人がトップの座を辞退しました。しかし、その人を選んだ人たちが何を考えていたのかは謎です。あとさきも考えず混血美人に飛びついたのでしょうか。
タイ人の「美」の基準はわれわれのものとはすこし異なると思われます。
まず、肌の色が白ければ白いほど美しい。何はさておき肌が白くなければダメ。肌さえ十分白ければ何とかなる。色黒は問題外です。
日本人から見れば色黒な人が多い国なので、これほどまでに色白に憧れる姿はいささか憐れを催します。しかし、上流階級のタイ人には華人系の肌の白い人も多いので、色白はわれわれが想像する以上に切実で具体的な憧れなのかもしれません。
褐色の肌を美の基準にすればもっと多くの人が幸せになれると思うのですが、彼らにその気はまったくないようです。タイ人が最も嫌うものが「平等」です。
ともあれ、ちょっと余裕のある人は異様な情熱で美白に励んでいるようですが、美白といっても、日本ではやっているようなシミそばかすやクスミを防ぐ美白ではなく透明感うんぬんでもなさそうです。そんなことより、なんでもいいからとにかくすこしでも肌を白く見せたい。できれば白人のように、それが無理なら中国人のように白く見せたいというダイレクトな白い肌への憧憬のようです。つまり、われわれから見れば「タイ人らしくなく」見せるためです。
タイ人にとって美はたんなる僥倖ではなく、むしろ倫理規範であり正義です。
つまり「美」を求めるのはタイ国民の義務であり、そのことに躊躇や恥じらいはまったくないようです。
そんなことから、大部分のタイ人とは似ても似つかない白人との混血女性を、タイを代表する「ミスタイランド」にしたてあげるのも平気だったのかもしれません。
美が正義である以上、美が要求されるのは男性も同じことで、その基準も同じ。
色白=ハンサム=金持ち=正義の人、ということになります。
色黒の人は、外で働かなければならない人=貧乏人とみなされます。
タイでは貧しさは悪です。
貧乏人や「弱者」は人間とはみなされません。
すこしカネのある人は下女に働かせて自分は日焼けしないように昼間から日陰でごろごろというのがよくあるタイ人の姿です。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-category-7.html
タイでテレビに出るような「美人」(とされる人)たちの大部分は、白人との混血。ただし日本のテレビに出る白人混血とはかなり違う顔立ちである。
タイの環境からして必然的に、ほとんどが契約売春婦の子か売春契約的婚姻関係で生まれた人たちと言うことになる。
背が低すぎたり顔が醜すぎたりして本国では女に相手にされない白人男性たちが、タイの女紹介エージェントに殺到している。
以前白人のサイトを見ていたら、「タイ人はもう大部分が白人との混血だから安心しろ」なんて書き込みもあった。
アジア全体が中南米のようになってしまうのが白人にとって一番都合が良い。
それが白人にとって最高のアジア戦略だということもこれまで書いてきたとおり。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post_6ce7.html
数年前に私が飛行機内で隣り合わせた一人旅の日本人の女の子は、タイの入管役人に「お前はタイ人の癖になんで日本のパスポートを持っているんだ」と詰め寄られたと語っていた。
その理由はどうやら、彼女が小柄で「猿顔」だったからのようである。
それだけでなかなか通してもらえなかったそうである。
この一件で彼女はひどく傷ついたらしく、「タイの差別はひどい」「タイ人は人種差別主義者」としきりに訴えていた。
当時の私はまだタイに行ったこともなかったし、タイのことは何も知らなかった。
ご多分に漏れず、「仏教国で親日的な『微笑みの国』なのではないか」という、よくある幻想を抱いていたので、彼女の言っていることの意味がピンとこなかった(あとあとになってタップリと知らされることになる)。
この事例からも窺えるように、タイはまず「容姿」による差別を合理化し、制度化さえしている。
タイ人にとって「容姿」はIDカードに準ずるか、時にはそれにまさるものであり、法的資格でさえある。
その土台にあるタイの階級社会における生殖によって、「猿」顔は再生産されるとともに、「土人」搾取のシステムもまた再生産される。
白人がレンタルワイフにどんどん生ませている混血児が(時にマスメディアのセレブリティを獲得したりもして)事態を多少複雑にさせているかもしれないが、これが却って「土人」搾取の現実を対外的に曖昧化し、「タイ式社会」への「国際的」(=白人世界の)認知あるいは黙認を導き入れているのである。
タイ人は、「タイには(卑しい)土人がいる」ことを抵抗なく受け容れる。
タイ族は、彼ら(色黒の人、モン系、クメール系、山岳少数民族、マレー系等)を、外国人の前でも公然と侮蔑する発言をしてみせる。
ところが現実は、このようにタイ人自身が「タイに土人がいる」ということを受け容れていることによって、タイ人全体が「土人性」を帯びることになるのである。
このことこそ、タイがどこまでいっても土人国家、土人売春国家(土人性奴隷国家)であり続けるゆえんである。
なぜなら、タイ人自身による「土人蔑視」は、客観的にはタイ人(タイ国民)としての自己卑下でしかなく、タイの「土人国家」性にかんする自己規定にほかならないからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/post_3d74.html
強きものを強きがゆえに尊敬し、嬉々としてこれにへつらい、弱きものを弱きがゆえにおとしめ、ないがしろにし、踏みつけにする。
これがタイ精神であり、タイの思想であり文化であり美意識なのである。
白人の植民地になると白人崇拝になる、というのであれば、400年も白人に支配されていたインドネシアはよっぽど白人崇拝の国になっていなければならないはずだが、実際はそうではない。
誰が見たってインドネシアよりタイのほうがはるかに白人崇拝主義者のスクツである。
ただ、フィリピンや中南米のように混血が進んでしまうとなかなか誇りの回復は難しくなるようである。しかも、発端が「女奴隷」や「レイプ」のようなものであることは明らかなので、白人との混血系は白人と対等の立場を持つことは無理である。
タイもベトナム戦争以後今日に至るまでどんどん白人との混血が進んでいる。
ほとんどが売春婦やレンタルワイフや、白人が遊びで「結婚」した事実上のレンタルワイフの子である。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=126
179 :名無しさん:2008/08/14(木) 10:59:59 ID:7RddDhgX
タイは白人マンセーの国なので黒人はもてません。
黒人差別はアメリカよりひどいかもしれない。
180 :名無しさん:2008/08/14(木) 11:01:30 ID:A4vKdFxZ
一時期服の仕入れのメッカになって黒人が押し寄せてたけど、 宿はあからさまに嫌がってたなあ
184 :名無しさん:2008/08/14(木) 22:06:06 ID:3aWIcBuT
タイのCM観りゃ白人や色白ハーフばかりだろ
タイ人は色白ハンサムなファランが大好きなんだよ
逆に自分よりも色黒の黒人なんかは見下してるのが現実
188 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:31:33 ID:rEbk8CMW
大体よ、白い肌が上位なら
黒い肌のタイ人は醜いってことになるじゃん。
189 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:37:37 ID:xnOEZCFS
>>188
そうだよ
タイ人の中でもそうなってる
南方系の黒い人たちより北方系のが美人とされてる
白人や日本人(白いとされてる)と結婚したがるのは白い血をいれたいため
190 :名無しさん:2008/08/16(土) 03:54:52 ID:IksD8qsA
>>188
そうなんだよね。
タイ社会の中でも色の白いのが優位に扱われているし、色黒の人達は
コンプレックスを持っている。
>>184や>>189の言うとおりなのが現実だよ。
実際、色白華僑系のムエタイ選手なんてほとんどいないだろ?
あんなのは低階級のやることだって言うのがタイ人の認識。
いろんな意味でタイは人種差別があるのが本当。
209 :名無しさん:2008/09/01(月) 19:45:32 ID:DWVoKR3B
白人を優遇してるのは白人との混血を増やして人種を白人に近づけようとしてるのかもしれん。
肌が白いほど良いとしてるのも国策なんじゃないか。
210 :名無しさん:2008/09/02(火) 10:36:32 ID:DtuBEVFN
混血増やそうたって、白人女性はタイ人を全く相手にしてないんだけど。
俺、白人と結婚したタイ人男性を一人も見たこと無い。
負け犬白人にはらまされたパン助は多いが。
337 :名無しさん:2009/10/27(火) 06:07:17 ID:MSkrVtb4
金持ちタイ人って他のアジア人(日本人含む)を見下す人が多い気がする。
タイの中で金持ちっていっても日本人からしてみれば普通レベル。
まぁまれに桁違いの金持ちがいるけど。
日本人が住むごく普通のコンドミニアムにそういうのが多いな。
アジア人には無愛想、白人には親切、ってね。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1193226362/l50
59 : :03/08/06 00:12 ID:qux8372O
タイ人の場合、白人コンプレックスというより「肌白」 に対する崇拝のほうが激しい気がする
514 :soi57:2008/04/05(土) 20:18:52 ID:hgaEKE71
タイのTVとかも酷いよね
「色白でないと女じゃない!」みたいなCFとか平気で流してるし
タイの会社案内とか見ても、必ず登場するのは白人ビジネスマン
アメリカでこんな事したら、間違いなく黒人連中からクレームだよw
66 :☆:03/09/12 22:14 ID:SWf4IJqN
タイでは色黒は嫌われる。
よってタイ在住のインド人は好かれない。
勿論、黒人はアメリカ人でもモテない。
しかし母親がタイ人のタイガー・ウッズは例外。
白人は基本的にモテるが、タイの観光業者はイスラエル人やユダヤ系の人は大嫌い。
(とにかくドケチなくせに、 気難しく口うるさいから)
90 :☆:04/09/23 18:39:28 ID:iBNubaf+
タイ人は色白になりたがる
小麦色に焼きたがる日本人が理解できないらしい
113 :タイ焼き:2005/04/05(火) 03:12:08 ID:xbhNBPtZ
タイのポップス歌手はやたら混血が多い、白人顔が好まれる、
アジアで唯一植民地にならなかったのに、多のアジアの国より白人に憧れ度が高い。
ベトナムみたいに白人国家と戦争して勝った経験がないし 白人支配の経験が無いのが、白人に媚る原因か?
タイガーウッズもゴルフしてなかったら有色カテゴリだろな。
多の元植民地国家の対白人意識とタイの意識は違いを感じる。
114 : [sage]:2005/04/05(火) 04:10:26 ID:5U7GCaNQ
単純に白人のほうが見栄えがするからだと思うが?
88 : [sage]:04/09/07 23:25 ID:FVFrndTt
白人女性はアジア女性よりはるかに美しいと思う。
ヤローについては何人でも何とも思わない。
102 : :04/12/09 13:54:44 ID:XR/sZIYq
白人女性、綺麗だよね。若いうちは。
103 :XXXX :04/12/10 00:01:56 ID:+0moPS9B
バッグパッカーでも何でも良いがタイで見かける白人女性の中には Miss World Class が随分といるよね。
78 :名無しさん@お腹いっぱい[sage]:04/07/07 15:14 ID:lsSuGp52
なんか、このスレの白人コンプレックスな奴キモイ。
白人の容姿が優れているとか思うのは、六本木とかテレビとかでみてる白人がそうだからだろ。
六本木にいる奴とかテレビに出てる奴は、モデルやモデル崩れなんだよ。
一般人の白人はそうでもないよ。とくにアメリカ人は野暮で下品だ。
194 :うむ :2006/09/02(土) 09:43:07 ID:DJuY2RVD
タイ国人は誇り高き民族
経済発展で収入が底上げされれば地位が上がったように勘違いする。
特にバンコクのサラリーマン層は勘違いは甚だしい。
外国に言って自分の地位を再確認するべし(どうせ出国できないが)
周辺の国境を接している国やタイ族のいる外国では自分達が一番という態度をとる。
理由は建国から現在までの持続している歴史がありかつ現在の経済状況がいいから。
ミャンマーや西双版納、カンボジアでの彼らの振る舞いは「横柄、威張り」そのもの
もし日本人が中国、朝鮮等でそんなことをしたら絶対ボコられる。
国内でのマイノリティーに対する差別もあからさま。階層の順はこう考えているらしい
1位タイ人(中華系含む)、
2位イサーン人、
3位ベトナム人、
4位カンボジア人
5位イスラム教徒、
6位ミャンマー、インド、
最下位山岳民族(アカ族等)
※イスラム教徒は以前底辺扱いだったが南部爆弾テロの成果で少しは
地位が向上した様子。アカ族も一揆を起こせば少しは状況が変わるかも
しれない。
タイ人の人をモロに馬鹿にする場面もよく見たな
とあるホテルのロビーでなかなか来ない予約したタクシーを待っていると
レセプションの女どもがインド系の人達が流暢な英語で話しかけるとタイ語で何ですかとかよく理解できませんと言ってもろ嫌な顔をして文句ブツブツ言いながら不機嫌モロだしだった。
その後に白人が英語で話すとちゃんと英語で対応している場面あり。
ここで怒っちゃいけない。そういう文化というか風習の人達決して悪気はない (と思う)
多民族国家によくある差別は当たり前。
この差別にタイで抗議しているのは南部のマレー系の人達のみ。
北部少数民族や東北地方のラオ系は蜂起しないので彼らの扱いは醜い。
こうして考えればカースト制度というかアパルトヘイトみたいなのが自然に存在する
外国人旅行者もランク付けされているので ある意味白人以外はチップも必要ないし、外国人価格の適用を受けなくてもいいと思われる。
しかしこのあたりはタイらしく、金に関しては地位に関係なく持っている人は還元せよ的な自分本位な考えがある。
タイ人との結婚を考えている方 基本的に日本人とこのあたりの感覚が違うのは念頭においておいた方がいい。
530 :通りすがり:2008/11/12(水) 22:15:59 ID:vJiUbpJf
タイ人の人種差別は凄いぞ
山岳民族、ラオス、イサーン人は公然と差別して構わない雰囲気がある
それに比べ欧米人にはバカみたいに媚びる
奴隷ほど醜い人種差別を行うってことか
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
499 :オー様と名無し:2010/07/15(木) 03:52:54 ID:xpca9PFw0
タイの現在の法制度ではタイ人と山岳民族(タイヤイも含む?)は日本の戸籍制度にあたる住民登録が違っているのですが、
純粋のタイ人は黒のタビアンバーンで、
山岳民族等はタイに住んでいても外国人を意味する黄色のタビアンバーンを与えられています。
524 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 01:46:30 ID:8pGGVD4U0
チェンマイでもどこでも良いけれど役所の窓口で1時間くらい観察してみてください。
黒(濃紺ですか)と黄色の扱いの違いがはっきりわかるから。
黄色ホルダーの相手には役人はほとんど命令口調。
書類不備なのかどうか罵声を浴びせられてる場面もありました。
しかもまわりのタイ人はそれを見て笑ってました。
田舎へ行くほどその傾向は強いようです。
そういう社会なんですわ。
まあ外国人の黄色タビアンにはそういう扱いは無いようですけど。
528 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 09:11:52 ID:11VZTIw60
タイ人の人種差別意識には、ほんとにウンザリさせられる。
まず初めに気づいたのは、イサーン人への差別、俺がモーラムやルークトーン
が好きだと言ったら、赤貧農家の小作人にさえ馬鹿にされた。
次に気がついたのはインド人や黒人等、白人以外への差別。
また、隣国(ラオス、ミヤンマー、カンボジア人)への差別意識も物凄い。
最も酷いのが、山岳、少数民族への差別感、彼らは人間でなく家畜並みの存在だと思っている。
この鼻持ちならない差別意識に、今ではすっかりタイ人の性格がよく分かり
微笑みの裏にある、厭らしくて姑息で偏見だらけの国民であることが、最近よく分かった。
もうすぐ日本に帰るけど、もう沢山だよ、こんな国。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275952742/
154 : [&]:2005/12/30(金) 02:11:29 ID:oFbK3j9h
タイ人ってのは、無学な国民が大多数なので見た目でしか人を判断できません。
見た目が金持ちなら、親切な態度をとってくれますが貧乏そうだと、自分よりも下のレッテルをはって見下した態度をとります。
ためしに、ヨレヨレのTシャツに短パン、不精ひげといういでたちで55やソイ7の円光バーに行ってみましたが、その時は見事に無視されました。
翌日アルマーニのYシャツ&ズボン、グッチの革靴で、こぎれいにしていくと、全然態度が違い、女が寄ってきてウザイほどでした。
男の店員もミスター扱いで、やれやれといったところです。
ホント、タイ人って馬鹿で、面白い国民です。
156 :THAI邦人:2006/01/13(金) 19:04:42 ID:OzVB37eF
タイ人は、貧乏人を最下級層と判断するDNAを持っている。(山岳民族等と同等)
よって、ミエ張りばかりで御座います。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
「発達人」さんがタイで体験した差別 2016年1月27日 00:20
https://kuantan2007.wordpress.com/2016/01/27/racial-discrimination-of-thailand-experienced-by-another-japanese-tourist/
タイの人種差別・白人崇拝を本格的に告発したのは私が初めてだと思います。
タイ好きの人は絶対に触れないところです。
掲示板などで、たまに「タイは差別が酷い」と言う人がいると、必ずタイ好きから「それはお前の顔が醜いからだ」といった叩きが入ります。私もどれだけそんなふうに言われてきたかわかりません。
しかし、私が旅行してきた国はタイだけではありません。他のアジアの国でも欧州でも見ない露骨な差別・白人崇拝・白人上げをタイでは日常的に見るのです。
おそらく、タイ好きの人は、毎日人種差別を見ているので感受性が鈍くなっているか、あるいはタイを好きでいたい理由があって自分の心をその問題について完全に閉ざしてしまっているかのどちらかだと思います。
ツイッター「発達人」さんのツイートの一部です。彼はつい最近タイを旅行し、マレーシアに来られたようです。
Kuantan @Kuantanlog
明日には平和で清いマレーから白人天下のタイへ行かねば(苦吟)
発達人 @couperin0821
タイ南部からマレーシアに来たのですが、こちらの方が断然ホスピタリティを感じますね。ピピ島で受けたあの飯屋の女の差別忘れません。
Kuantan @Kuantanlog
変わってないんですね。あの「しかめっ面」もですか?
発達人 @couperin0821
そうですね、私にはガムを噛みながらしかめ面で対応し、その後の白人にはまるで日本人女子のような猫なで声に豹変し語尾に「,sir.」とかつけてました。
Kuantan @Kuantanlog
明日タイです。マレー圏だけで帰ろうか、と言う感じですね。
少しは改善してくれたら、と密かに思っていたんですが。もっと声を上げるべきでしょうか。
発達人 @couperin0821
買春旅行者含めタイは日本人に人気ですが悪い点はもっと知らしめるべきですね。うるさい白人のスラブ語ももう聞きたくないですね。
Kuantan @Kuantanlog
明日タイです。マレー圏だけで帰ろうか、と言う感じですね。
少しは改善してくれたら、と密かに思っていたんですが。もっと声を上げるべきでしょうか。
発達人 @couperin0821
スンガイコロクやハジャイなら白人もそう多くないはず。
穏やかな訪タイが出来る事を願ってます。
https://kuantan2007.wordpress.com/2016/01/27/racial-discrimination-of-thailand-experienced-by-another-japanese-tourist/
TG(タイ航空)のひどさについて
マレーシアでも、どの旅行代理店に行ってもTG(タイ航空)を勧められる。
TGはいつ行ってもなぜか「プロモーション中」だそうで、他社に比べてかなり安い。
代理店(最近はインド系の代理店をよく使う)のTGの勧め方もかなり熱が入っている。TGを断ってもっと高い会社にすると、「どうして?安いのに」という感じで不服そうである。
旅行代理店がTGを熱心に勧めるのはたんに安いからだけの理由であるはずがない。キックバックが相当大きいということだろう。
しかし、私は、いくら安くてもTGだけは乗らないことにしている。
その理由は、TGに乗ってしまうとタイが嫌いになるだけでなく、どうしても白人に対する嫌悪感をさらに亢進させてしまうからである(もう十分亢進しているといえるが、まだ無差別に殺してやろうというところまでは行っていない)。
この場面に限って言えば白人が悪いわけではないとはいえ、これは人情というものである。
タイに関わりあいにならずに生きることはできるだろうが、白人の支配している今の世界で白人とまったく関わりあいにならずに生き白人のまったくいない空間にとどまり続けることは事実上不可能である。したがって、白人への嫌悪感をあまりにも高めてしまうことは現実問題として精神衛生上良くないし、ケンカやトラブルの原因にもなる。
そういうわけで私はTGには決して乗らないことにしている。
タイという国の白人崇拝および人種差別主義が、(「そういう人もいるしそうでない人もいる」というレベルの話ではなくて)、確立した「制度」であるということを手っとりばやく体験し観察してみたい人は、TG(タイ航空)に乗って見るのが良いと思う。
「日本-バンコク」線は当然日本人を意識するので、「バンコク-カトマンドゥ」線とかがいいだろう。2ch極東板あたりで「タイは親日ー!」とうなっている糞ウヨの皆さんにぜひお勧めしたい。
最初は、エコノミークラスだから大バカなクルーが配置されているのかと思ったが、聞くところによるとビジネスクラスやファーストクラスの方がもっとひどいということである。
ホテルやレストランの接客の場合には、主観的なさまざまな要因(つまり「あなたが身なりや態度のせいで個人的に差別されていただけですよ」という反論を導くような要因)が関与しないとはいえないが、一列に座席が並んだ飛行機内ではより客観的な観察が可能になる。
つまり、他の人たちがどういうふうに接客されているか、クルーが客の人種によってどんなふうに態度を変えているかを、客観的に観察することができてしまう。
私が観察したところでは、意外なことに、女のクルーは(差別接客は)それほどでもなかった。これは、白人バーの売春婦のように見られたくないということかもしれない。
しかし、「エイズ以前」、売春ツーリズムリゾートとして大いに売り出していた誉れ高きタイ王国においては、どんな女も売春婦とみなされがちなのは自業自得の結果である。恨むなら自分の国とその国の全権を掌握する国王を恨むべきである。
これに対して、TGの男のクルーの醜態はこっけいを極めていた。
白人の周りをくるくると回っている茶色い猿というほかはない。ビジネスクラスだとこれがもっとひどくなるというからたまらない。
私は三年位前に、まだうぶだったころ、タイ航空に人種差別接客について抗議の英文メールを送ったことがある。そのとき「お前らは所詮茶色い猿だ」という表現を使ってしまい、タイ航空からかなりムキになった返信(タイ国民への侮辱である、とか)が届いたことがある。そのころはまだ、アジアで自分も白人と平等に扱われるはずだと思っていたので、ちょっと熱くなってしまったのである。
その返信メールを探し出して晒してみても良いが・・・・
念のためにもう一度いえば、私はここでは、自分がどう扱われたかという話をしているのではない。
飛行機だと他人のこともはっきり見えてしまう。白人がちやほやされる一方、アジア人、有色人種が邪険にされたり冷笑されたりしている様子を見せつけられるのは、非白人としては不快である。
TGの男のキャビンクルーは、客の人種によって満面の笑みやむっつり顔、振舞い方までクルックルッと変換することができる。
あの反射神経の良さはやはり猿のものであろう。
飯の注文をとるとき、白人とアジア人乗客とが並んで座っている席では、必ず白人を先に、満面の笑みを浮かべほがらかに声をかけて注文を聞く。
次の瞬間には、さっとむすっとした表情に切り替え、アジア系客をろくに見もせずに「わかってるだろ、早く言え」という感じでちょっと首を横に振って「催促」する。
エコノミーとはいえ、仮にそのアジア系が隣の白人の上司またはボスだったらどうするつもりだろうと思うが、タイではホテルやレストランなどでも白人とアジア人とが(男同士)一緒に入っていけば、アジア人のほうは完全にその白人の下僕扱いが普通である。
これが、タイの猿王の航空機、タイ王国のフラッグキャリアなのである。人種差別接客はTGおよびタイ王国の「制度」なのである。(猿王といわれたくないならば、自分でクーデタを起こすというボス猿のような行為をつつしみ、猿の群れのような国を多少でも人間らしいものに変える努力をすべきである)。
タイにおいては、高級なところに行けば行くほどますます、人種差別・白人崇拝がひどくなり露骨に表現される。この点が他のアジア諸国の「白人崇拝」と趣を異にするところであると思う。
つまり、他のアジアの国々では、高級なところに行くほどバカは少なくなるのが普通である。バカでなければ露骨な人種差別や白人崇拝を表に出したりしない(白人国は別である)。なぜならこれらの国では白人崇拝は国の「制度」にはなっていないからである。
これに対して、タイ人にとっては、白人崇拝の強さはその場所の「高級」の証しであるらしい。そして「差別」がひどいことは、その場所に「特別なもてなし」があることの徴のようである。
おそらくタイ人客たちは、自分が来た場所の白人崇拝のひどさを見て、自分も「高級」な場所に来れたことを喜ぶのであろう。
このようにタイにおいては、頂点に近づけば近づくほど白人崇拝がひどくなる。
その「頂点」こそが、クーデタの黒幕にしてクーデタ政治の守護者であるタイ国王・プミポンの宮廷にほかならないことは容易に了解せられるであろう。
タイの白人崇拝は、国王崇拝に次ぐ国家の「制度」であり、タイの「国体」の不可欠の要素だということである。
ほんの数百年前にインドシナに乱入した文盲の蛮族の野盗の子孫が猿王よろしく君臨し、その私兵として軍と警察を掌握し、白人崇拝主義を御誓文のごとく戴き、弱い者の娘たちを毛唐に貢いではシノギとする国、これがタイ王国。
軍事クーデタをおこしても白人からはほとんど批判されることのない、インドシナの「優等生」の猿王国である。
現に多くの白人がタイの各地に女を囲って定住しているという事実が、白人世論のタイへの矛先を鈍らせているということを忘れてはいけない。このように多数の白人がタイ人と(肉体)関係を持ちながら各地に定住していることは白人世界にとって有利なネットワークである。それはタイ国内での白人国家の情報機関やミッショナリーの活動を容易にしているのである。このようなことも含めた、総体的な「女の貢ぎ」である。
皇室におかれては、儀礼といえども、タイ王室のような不潔なマフィアとの交際は絶たれるべきであると思料し申上げる。
それにしても、TG、日-タイ線の日本語アナウンスの客を馬鹿に仕切った感じは他社に例がない。説教口調で「トイレでタバコを吸うな」などとくどくど言う。それだけTGの客層、そしてタイへ行く日本人の水準も低いということなのだろう。
補遺
ネガティブな話ばかりだけでもだめなので、建設的な提言もしておこう。
タイ人の差別体質・白人崇拝体質は、タイの数百年に及ぶ白人とのやり取りを通じた国家形成の歴史に根ざすものであり、タイの文化の根本にあるもの、すなわちタイ人のアイデンティティと不可分のものだから、そう簡単に変わるものではないし、変えようとする意思さえなかなかもてないものだろう。
そこでTGは、差別接客は変えなくていいから、あらかじめ白人料金と有色人種料金とを別枠にして設定しておけばいいと思う。もちろん白人が高くである。チケットを買うときTGの専門人種判定官がお客の人種(というより容姿)をチェックする。アラブ系やパキスタン系でもタイ人から見て白人として扱われるような容姿の者は白人料金を払わなければならない。後はタイ人の自然な接客をするだけでOKである。
このようなシステムにすれば有色人種客も納得してTGに乗ることができるだろう。同じ金額を払っているのにどうして人種によって扱いが違うのだ・・・・という不満がなくなる事は大きいと思う。
TGはこのようなシステムをTGのユニークなサービスとしてあるいは企業文化として、ポジティブに(要するに開き直ってだが)売り込んで、世界にアピールしてもいいだろう。キレイゴト白人のあらゆる批判を跳ね返してそれを敢行するならば、私は少しタイ人を見直すかもしれない。白人ツーリストに戦車の写真を取らせたりして言い訳しながらクーデタするよりもずっと画期的なことである。
https://kuantan2007.wordpress.com/2016/01/27/racism-of-thailand-with-thai-airlines-tg/
タイ人は誰かをもてなすときに「差をつける」ことによってホスピタリティを表現しようとします。
つまり、「あなたは特別ですよ」と思わせるのがホスピタリティだと信じているようです。
差をつければいいわけですから、いちばん簡単なホスピタリティの表現方法は、「他の客を下げる」ということになります。
他の客に仏頂面していてある客にだけごく普通にニッコリしておけばその客は特別だということになります。客も、俺は特別にタイ人に好かれているんだと思うかもしれません。
もうひとつはいうまでもなく、白人絶対優先の原則です。
タイに行く白人ツーリストの多くは、最初からそれを前提にしています。
彼らもタイはそういう国だと知っていて、タイでは白人が優先されるから安心して旅行できると思っていくわけです。だからタイとしてはなおさら、白人優先の接客原則を堅持しなければなりません。
英語のガイドブックなどはこのことを「フレンドリー」という言葉で表すようです。つまり、ロンプラなんかで「フレンドリー」と書いて。あったらちゃんと白人が優先されるという程度の意味であって、日本人ツーリストにとってフレンドリーかどうかはまったくわからないということです。
https://kuantan2007.wordpress.com/2016/01/27/racism-of-thailand-with-thai-airlines-tg/
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タイ人女性は白人の奴隷女であることが嬉しい
仏教や王室に対する侮辱にヒステリックに反応して見せるタイ人だが、自国の娘たちが白人の女奴隷として扱われることには何の抵抗も感じない。
現にまったく抗議しないのだ。 嫌だという意思表示も一切しない。
タイ人は白人には一切文句を言わない。
彼らは白人からはどんな扱いを受けても平気なのである。
タイ人自身、どうせ自分たちは「猿」だと思っているからである。
それが猿の猿たるゆえんでもある。
そして、白人の前で他の有色人種がタイ人より勝って評価されないようにその足を引っ張ることにのみ専念する。
「日本人もヨーロッパに行くときには往復航空券が要るよね」
「日本人の女の子もファランが好きだよね」
タイ人が日本人に対する決め手として出してくるのはだいたいこんなとこである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/08/post_eecb.html
「猿」とは、白人が有色人種を見る歴史的な見方を、まずもって見られる側として次にはあくまでそれに従属する形で見る側として、内面化してしまった者のことである。
(したがって、日本の「過去の歴史」と「猿」性とは関係がない)。
白人との関係で、
有色人種の世界で他の有色人種に比べて上位の者とされたい、
白人に愛されたい、
白人が有色人種支配のために課したシステムの優等生になりたい、
という動機が内面に刷り込まれて本能のようになっている者のこと。
「金髪碧眼」に言われることにはおとなしく従う気分になるということだろうか。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html
タイでは都会はもとよりよほどの田舎町でも、ごろつき白人が奴隷女を囲って貴族滞在している風景を普通に見ます。
そういう「白人のいる風景」を毎日見ていて平気でいられる、それが普通なのだと思っている、というのがタイ人です。
これほど白人を受け入れている国民はアジアでも他にはあまりないと思います。
自国民の女をクズ白人爺が奴隷女のように囲って自分の町や村に滞在している、そんな「白人のいる風景」をタイでは普通に自分の生活空間の中で、屋台でも喫茶店でもモールでも、毎日のように目にしなければならない。
つまり、ごろつき白人はタイ人の生活の一部になっているわけです。
これがもしネパールだったら、と考えてみると、カトマンドゥのタメル地区(ツーリスト地区)では猿女連れ毛唐をたまに見ますが、女奴隷連れで旅行している白人で、女はネパールで調達したのではなくタイなど外国から連れてきたのが多いように見える。
ネパールでは契約売春婦の調達は簡単ではないようです。
ネパールの田舎町だったら、仮にその毛唐が囲っているのが自分とは無縁のカーストの女であったとしてもネパール人は黙ってはいないと思います。
ヨーロッパ人はタイのバービア嬢やゴーゴー嬢と安易に結婚して(短期間=結局破綻するので)本国に連れ帰る例が多いようですね。
白人ツーリズム=買春拠点であるチェンマイではそんな話をよく聞きました。
ヨーロッパで暮らしたことがあるというのを自慢にしている売春婦(自称「ガールフレンド」、「支払われるガールフレンド」を稼業にしている女)のも少なくないような。
そんなタイ女がヨーロッパにいっぱい住んでいるのだから、タイ人の場合、先進国で差別されて当然というほかないような気がします。
ごろつき白人がタイでだらだら暮らすために売春婦と結婚して本国にも連れて行くという例も非常に多いのですが(係累のない孤児のような女を必死で探すのだとか=それは納得ですが)、堅いイギリス人などで育ちの良いのがちょっとタイに来て売春婦につかまってしまう例も少なくないと聞きました。
タイに来ただけで「アジア」がわかってしまったと思い込むタイプの白人が多いようです。
まじめなヨーロッパ人男が初めてのアジア旅行でタイに来て、自分が教えられてきたヨーロッパの価値観や美意識とはまったく違うものがまかり通っていて、しかもそれで結構楽しい思いができたことにショックを受け、
「これだ!これでいいんだ!これがアジアなんだ!」
とか思い込み、売春婦と本気で結婚してしまうこともあるのではないかと思います。
実際、人身売買、児童売買、海外移送の手先として国際的に活躍しているタイ女が非常に多いので、タイ女が国際社会で胡散臭い目で見られるのはむしろ当然でしょう。それはタイが国策として長年やってきたことの当然の結果です。
タイの「ガールフレンド産業」のせいでタイ人以外のアジア女性全体が「ガールフレンド」や「レディー」のような目で見られている面が相当あるのだから、タイ人が差別されるのは自業自得というほかありません。
私は日本の入管もタイ女だけは極力入れないようにすべきだと思います。フィリピン女よりたちが悪い。彼女らが売春するだけならまだしも、そのかげではるかに弱い立場にいる少数民族などの少女が売買され搾取されている可能性が非常に高い。
白人の児童性的虐待のカバーとして、児童の母親役のタイ女と偽装カップルになるというのはタイではごくありふれたことです。
(児童とも母親役の女とも・・・ということがあるかどうかまではわかりません。これでは偽装親子○ですね)。
これだと目立ちにくいので、それによってタイが「児童買春支援国家」として国際的非難を浴びることもないから、タイ国内では白人がやってる分にはほぼ野放しのようですね。
しかし(どうでもいいことですが)こういう悪い遊びをするにはある程度ネットワークが必要です。
児童の調達はもとより、母親役の女の調達など、現地人の支援と白人同士の助け合いが必要になります。
日本人買春オヤジはこういう組織性が必要な遊びは苦手なように見えます。
たしかに、白人同士はアジアでよく助け合っているように見える。
「野蛮人の地では助け合う」というのは、数百年にわたる経験で白人が得た知恵かもしれません。
在外日本人たちのようにいつも互いに足を引っ張り合っているよりは麗しいことかもしれません。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-174.html
52 : [sage]:03/06/10 01:24 ID:KpHVIBQs
白人コンプレックスのタイ人女性をFBIが分析した
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|=ロ -===・ ・===- ロ=.|
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|:::::| ∴∴ -二二二二- ∴∴ |:::::::| < 白人男は私の物
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顔・目は細く、小さい。目頭が無く、寄り目。眉毛が無い。鼻は低く穴は丸く、鼻筋が無い。
出っ歯。のっぺり顔。口は開きっぱなし。夢見る表情。
身体的特徴・チビ、弛んだ身体。首が短く、短足O脚。大顔。貧乳。 貧尻で垂尻。ぶ厚い前髪。
趣味・欧米の映画や音楽、白人スターの追っかけ、白人男性を見る。
好きな映画・ハリポタ、ロードオブザリングなど。ファンタジーや、中世映画で白人美男が出てくる作品。
目的・美形白人の恋人を作る。
性格・内弁慶。白人的外見の黄色人女性に嫉妬。親に八つ当たり。自虐的。
僻みっぽく、被害妄想。執着型。強迫神経症的。 誇大妄想。ナルシスト。
白人男性のこととなると急に自棄になり、白人男性と一緒にいるタイ人女性を見ると酷く嫉妬し、悪口を言いストーキング。
特徴・白人男性にしか興味が無く、有色男性を無視。色白で金髪青目の王子様ルックスや貴族を好む。
有色混血白人男性には興味無し。
完璧な白人男性を手に入れられず苦しむ。
自身を白人と同等に考えているため、白人とは別物だという事を理解しない。
自身を黄色人だと思わない。
白人男性からのナンパを期待しウロウロ。
白人男性とは下手糞な英語で皆に聞こえるよう大声で話す。
心の中で黄色人差別。英語が上手いふり。
欧米留学は白人男性が目的だから語学は上達せず大金を払った親が苦労。
欧米旅行も運命的な出会いを期待して。欧米人の集まる場所も同。
291 :名無しさん:2006/10/19(木) 16:49:52 ID:G0tVeQpI
タイ人の心の中
「日本? あー戦争に負けたアメリカの植民地ね。
独立してる我が国とは格が違うわ。
あっスティーブンから電話だわ、着替えなくちゃ」
304 :権:2007/04/04(水) 20:26:51 ID:4BjjlJOw
それにしてもパタヤの女は完全ファラン漬けだ。
ファランの後ろを歩いていると実感するね。
「セクシーメーン!ウェカ〜ム!」
そのあとを歩く俺には顔を伏せて一斉無言を決め込む。
全く自身喪失になるよ。
日本でこんな屈辱知らないからね。
62 :名無し:03/09/10 18:09 ID:MH6fliqX
本国に帰ったら、永久に窓拭きやっているようなヤツにペコペコ頭さげてるタイ人を見ると哀れだよね。
413 :mm:2007/04/11(水) 00:09:41 ID:yti/C4HH
タイ人女は白人男とセックスの相性がいいからだよ。
白人がセックスするときの声とか聞いたことあるか?
ポルノ顔負け、というかポルノは演技じゃない。
実に卑猥な動物的な声でヒヒヒヒヒイエースイエースハーハーハーオーオーオー
って感じ。
それに対してタイ女が反応する。
オホーイオーイオホーイってね。これもまた実に動物的。
動物同士のセックスがうまくいくからなんだよ。
タイの女で日本女みたいに高周波な?ひーひーってあえぎ声出せる
やついるの?
182 :G[sage]:2006/08/29(火) 09:25:50 ID:gls40XbM
タイの若い女は全員売春婦になっちゃったからな
女子大生の憧れがGOGOで踊る事らしいorz
118 : :2005/04/06(水) 10:20:28 ID:VYJCzbfq
タイだけじゃねーよ。ぴーなもジャパニーズも台湾人もチョンも女は同じ。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237
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