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大航海時代の真実(12) プレスター・ジョン伝説 その1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/512.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2013 年 10 月 15 日 13:51:03: tZW9Ar4r/Y2EU
 

ヨーロッパに大航海時代が到来した最大の要因は何であったのか?

まず第一に、イスラムの文化とともに羅針盤やその他の航海技術、キャラック船やキャラベル船などの造船技術がイベリア半島にもたらされ遠洋航海が技術的に可能になったということが挙げられる。。。

ポルトガルのキャラベル船

ヨーロッパの航海技術はイスラムやアジア世界に比べて後れをとっていた理解しされているのだが、太古の昔においてはむしろ航海術に長けていたということが最近の明らかになりつつある。

紀元前7千年ごろのオーストロネシア語族の拡散については以前述べたこともあるが、それよりもずっと以前の出来事であるらしい。

以下 ナショナルジオグラフィック ニュース より抜粋
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100218001&expand
2年前、ギリシャのクレタ島の峡谷で、アメリカとギリシャの考古学者チームがある発掘調査を行っていた。約1万1000年前に地中海を往来していた海洋民族が使っていた小型の石器を探していたのである。

 目当ての石器は見あたらなかったが、代わりに驚嘆すべき遺物が発見された。アメリカにあるボストン大学の考古学者で石器の専門家であるカーティス・ランネルズ氏が、長さ約13センチの頑丈な手斧を見つけたのである。

 現地産の石英から削り出されたその粗雑な斧は、17万5000年前ごろまで人類の祖先がヨーロッパ本土やアフリカで使用していた手斧と類似していた。捕獲した動物の骨や肉を加工したり、皮を剥ぐのに使われる石器であり、約100万年間そのままの形で受け継がれてきた技術とみられている。

 今回の手斧が発見されたクレタ島は、約500万年前から広大な海に囲まれている。つまり、高度な工作技術を持った現生人類以外の何者かが、数万年間にわたって地中海の島々を転々としていた可能性が出てきたのである。ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)か、ホモ・ハイデルベルゲンシスか、ホモ・エレクトスか、あるいは初期のホモ・サピエンス(現生人類)だろうか。

 この時期の初期人類には、ボートや簡素な筏(いかだ)さえも生み出す能力はなかったと考えられていた。装身具を身に付けたり、芸術品を生み出したりといった現代的な習慣を有する現生人類が出現したのは、約10万年前のことだ。

 しかし今回の新発見がその定説を覆すかもしれない。人類の祖先は、単純な石器からは想像できないほど知的な方法で計画、協調、物作り(造船)を行っていた可能性が出てきたからだ。ランネルズ氏は、「こんなに早い時期からクレタ島に石器が存在したなんて、驚天動地の発見だ。ツタンカーメン王の墓からiPodが見つかるようなものだ」と話す。


もう1つの理由としては、十字軍の派遣が失敗となった後、イスラム世界を介さずに金や香辛料の新たな交易路を開拓するのが目的であったということである。

もちろん直接実利に結び付くので、合理的に考えてまず間違えないだろう。

しかし、世界史でも有名なポルトガル出身の3名の航海者、

エンリケ航海王子 1394年 〜1460年

喜望峰に辿り着いたバルトロメウ・ディアス 1450年〜1500年


インド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜1524年


彼らが実際に背負っていたミッションは、宗教的な思想や根拠のない逸話が元になっていて、実際にはかなり非合理的なものだった。


彼ら共通の目的は


プレスター・ジョンの王国を探すことだった。


プレスター・ジョン。。。。 


誰それ???

航海者たちよ、プレスター・ジョンの王国を探せ!

プレスター・ジョン(Prester John: 司祭ヨハネス)は、十字軍の衛星が12世紀から17世紀にかけて流布された、伝説的な東方キリスト教国家の君主だ。

プレスター・ジョン(Prester John)

1145年にシリア人司教のフーゴ・フォン・ヤバラがエウゲニウス3世にエデッサ伯国が再びイスラムの手に落ちたことを伝え、再び十字軍を招集するように説得した。

エデッサ伯国

プレスター・ジョンの伝説はこの時に始まった。


ヤバラはこの時に、ヨハネス(ジョン)という偉大なキリスト教王の存在を伝えた。彼はペルシアとアルメニアの東方にある王国の支配者で、すでにイスラム勢力に支配されていたハマダーンの都市を征服したという。そして、ジョンは彼によると東方の三博士の子孫であるそうだ。

オットー・フォン・フライシング(Otto von Freisin)は、1143年から1146年までの年代記『Chronica sive Historia de duabus civitatibus(二国年代記)』にてこれらのエピソードを紹介している。そして、ジョンがきっとイスラム世界との戦いを勝利に導いてくれるという希望でむすんだ。

なにはともあれ、第二次十字軍が組織された。

しかしながら、現実に対立しているフランス王やドイツ王たちはそれぞればらばらにエルサレムをめざして行進した。そして全軍集結したものの、士気は極めて低く、すでに帰りたがる兵士たちも続出した。

こうした十字軍の遠征の中でも最も成果のあがらなかった戦いが始まった。

以下はウィキペディアより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
1148年7月23日、ダマスクス攻撃が始まったが、ダマスクスの領主ウナルは城の周囲の井戸や泉を埋め、対立していたザンギー朝の面々(ザンギーの後を継いだヌールッディーンや、その兄であるサイフッディーン等)ほかさまざまなムスリム国家に救援を求めた。さらに、西欧からの大軍の到来で動揺していたエルサレム王国はじめ土着十字軍国家に、「ダマスクス陥落の次は、十字軍国家を直轄化して取り上げるはずだ」と文書を送り離間策を行った。そのため、元々数が少なかった十字軍はヌールッディーンらのムスリム軍やダマスクスの伏兵に悩まされた上、給水にも困り、さらなるムスリムの援軍の脅威を吹き込む十字軍国家の説得を受け、わずか4日後、何の成果も無くエルサレムへ撤退した。

エルサレムに戻った後、十字軍は解散し、それぞれ帰路についた


そして、


教皇の権威は地に堕ち、


新しい十字軍に応じる者は誰一人としていなくなった。


このままであれば十字軍は終焉を迎えたかもしれない。。。

そんな時・・・

奇跡が起きた。


1165年、ジョン自らが東ローマ皇帝のマヌエル1世コムネノスにあてた手紙が現れたのだ。


その手紙には驚くべき伝説の国の描写が書かれてあった。


http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24161843.html
 

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コメント
 
01. BRIAN ENO 2013年10月15日 14:00:34 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」: 宗教対立の潮目を変えた大航海 [単行本]
ナイジェル クリフ (著), 山村 宜子 (翻訳)

内容紹介

二人の探検家はアジアへの航路開拓という同じ目的を持っていたが、ヴァスコ・ダ・ガマの功績はコロンブスの偉大な間違いの陰で長い間目立たなかった。いま、「すべての道が東方に通じていた」当時の世界に戻り、二人のバランスをセットし直そうと思う。ヴァスコ・ダ・ガマの航海は、イスラームの世界支配を覆すための、一世紀にわたるキリスト教徒の戦いの突破口だった。ガマの三回の航海で東西関係は劇的に変わり、ムスリムの時代とキリスト教の優勢時代(西洋の私たちの言う中世と近代)を分ける分岐点となった。むろん、それがすべてではない。私たちが覚えているのは一部だけであって、実際はもっとずっと大きな出来事だったのだ。(「プロローグ」より)

1497年7月、約170人の男たちを乗せた四隻の帆船が、一路インドをめざしてリスボンを出航した。この船団を率いていたのが、ポルトガルのマヌエル一世に抜擢された若き航海士ヴァスコ・ダ・ガマだ。
「新大陸発見」のコロンブスの陰に隠れて歴史上あまり目立たない存在だが、東方との交易ルートを探るという当初の目的を達成したのはガマだった。著者によると、ガマをはじめ、船団や密偵を東方めざして送り出したキリスト教君主国の目的は、香辛料や絹などの交易だけではなかった。当時、紅海を舞台にアジアとヨーロッパとの交易を仕切っていたムスリム商人を排除し、伝説のキリスト教徒プレスター・ジョンの王国を発見して、イスラーム勢力を挟撃するという使命も帯びていたという。
本書は、このアフリカ周りの「インド航路発見」にいたる過程を中心にガマの三度に及ぶ航海の足跡をたどり、イスラームの発祥から、小国ポルトガルが世界の覇権国へと変貌し、やがて衰退していく様子を、残された航海日誌や旅行者の記録などを引用しながら壮大なスケールで描いた歴史書である。本書は、優れた歴史ノンフィクションに与えられるヘッセル=ティルトマン賞の最終候補となるなど、英米で高く評価された。


内容(「BOOK」データベースより)

インド亜大陸上陸を果たした探検の足跡をたどり、海洋帝国ポルトガルの興亡を壮大なスケールで描いた、気鋭の作家による傑作歴史ノンフィクション。

目次


表記・出典・専門用語について

プロローグ

第1部 発端
第1章 東と西
第2章 聖地
第3章 一族の戦争
第4章 大洋
第5章 世界の終わり
第6章 ライバルたち

第2部 探検
第7章 司令官
第8章 航海のコツ
第9章 スワヒリ沿岸
第10章 モンスーン
第11章 誘拐
第12章 危険と愉しみ
第13章 リスボンのヴェネツィア人

第3部 十字軍
第14章 インド提督
第15章 衝撃と畏怖
第16章 海上での窮地
第17章 海洋帝国
第18章 王の代理
第19章 海は狂っている

エピローグ

謝辞/原注/訳者あとがき

人名索引/参考文献/図版出典一覧


最も参考になったカスタマーレビュー

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5つ星のうち 5.0 読み応えのある一冊 2013/9/27

By ニッケルオデオン

Amazon.co.jpで購入済み


2段組で、本文だけで368ページという本で(原注や訳者あとがきを含めると450ページを超える)、ひさびさに長い本を読み終わったという達成感がある一冊でした。
高校で習った「世界史」では、ほんの数行の記述で終わる大航海時代の幕開けの歴史的人物ヴァスコ・ダ・ガマ。彼がなぜアフリカの南端をまわってインドを目指したのかを、キリスト教徒による「聖戦」という視点で描いている。
同じ時代のコロンブスが西回りでインドを目指しているが、その目的は経済的利益(スパイス)を求めたものであるのに対し、ポルトガルの航海の目的が、イスラム教徒が住むアラブの国の東方には、同じキリスト教徒であるプレスター・ジョンが治める王国があり、彼と手を組むことでイスラム教徒を排除しようとする意図があったというのである。
イベリア半島からイスラム勢力を追い出したレコンキスタをさらに拡大しようとしたわけである。実際、インド洋での交易からイスラム教徒を駆逐するために残虐なこともしていることが、この本でも書かれている。
これまで知らなかった世界を知るという読書の楽しみを十分に満足させてくれる一冊。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%81%96%E6%88%A6%E3%80%8D-%E5%AE%97%E6%95%99%E5%AF%BE%E7%AB%8B%E3%81%AE%E6%BD%AE%E7%9B%AE%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7-%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB-%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95/dp/4560082979/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1381813034&sr=8-1&keywords=%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E%E3%81%AE%E8%81%96%E6%88%A6


02. BRIAN ENO 2013年10月15日 17:42:27 : tZW9Ar4r/Y2EU : 3RjD7n0ZIa
プレスター・ジョン (英: Prester John) は、12世紀から17世紀において流布された、伝説的な東方のキリスト教国の君主。

概要[編集]

プレスター・ジョンは英語読みであり、本来のラテン語ではプレスビュテル・ヨハンネス (Presbyter Johannes) であり、現在のラテン語発音ではプレスビーテル・ヨハンネス。ポルトガル語読みのプレステ・ジョアン (Preste João) も時折使用される。司祭ヨハネを意味する。キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫とされ、当初はインド、後にモンゴルなどの中央アジア、エチオピア、ジンバブエ等が「プレスター・ジョンの国」として推定された。

背景[編集]

古来からネストリウス派の布教により、東洋にもキリスト教国家があると考えられていた。それらの布教活動を行った人々の中には、長老ヨハネと呼ばれる人物の伝説もあった。この伝説によると、キリストの弟子の一人トマスがインドへ布教しに行き、インドの王ミスダエウスに殺されたと言う。しかし王は後悔し、キリスト教に改宗したと言われている。王の死後、息子のヴィサン(ヨハネと間違えられる)が王位を継ぐと共に、司教も兼ねたと言う。その様な王国がアジアにあるとネストリウス派によってヨーロッパに伝聞として広がったのである。

プレスター・ジョンの伝説が初めて記録に現れるのは、ドイツの年代記作家フライジングのオットーが著した『年代記』の1145年の項で、そこには「前年の1144年、アンティオキア公国のレイモンからローマ教皇エウゲニウス3世への使者が、プレスター・ジョンのことを伝えた」とある。[1]それによると、「彼はネストリウス派キリスト教国の王と司教を兼ねた存在で、最近メディア、ペルシアを破り、十字軍を救援にエルサレムに向かったが、ティグリス川の洪水により引き返した。」とのことで、このため第2回十字軍のとき、この王の救援が期待されたという。

これは、1141年に西遼(カラ・キタイ)が、実際にサマルカンド近辺でセルジューク朝軍を破ったことが誤って伝えられたものと思われる。当然、西遼の支配者層は仏教徒であり、キリスト教徒ではない。しかしネストリウス派はヨーロッパから追放され、中央アジアから中国にまで散らばる大コミュニティーを形成していたため、西遼の軍の中にキリスト教徒がいた可能性は否定できない。

ところが1165年ごろ、プレスター・ジョンの手紙と称するものが西欧に広く出回ることになる。その手紙は、「東方の三博士の子孫でインドの王プレスター・ジョン」から「東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノス」に宛てたとされるもので、この手紙は各国語に翻訳され、さらに尾ひれがついて多くの複製が作られた。今日でも数百通が残されている。これに対し、1177年にローマ教皇アレクサンデル3世は、プレスター・ジョン宛ての手紙を持たせた使者を派遣した。その後、使者がどうなったかは定かではない。しかしこの手紙は、西欧では数十年にわたって人気を博したと言う。このプレスター・ジョンの手紙は現代の研究では、当時の西欧人が偽造したものだと考えられている(一部、千一夜物語からの仮借もあると言う)。またマルコ・ポーロも、プレスター・ジョンの国家がアジアにあると確信していた。

十字軍が苦戦する中で、東方からムスリムを蹴散らすキリスト教の援軍が来ることを待望して、噂が広まったと思われる。また、十字軍の時代においては、ヨーロッパのキリスト教諸国よりも、イスラム諸国のほうが文化的にも進んだ先進国であり、これがヨーロッパ人のコンプレックスとなっていた。そのような情勢にあって、イスラム諸国に劣らぬ先進国であるキリスト教国の存在が、当時のヨーロッパ人の願望となったのである。

モンゴル[編集]

1221年、第5回十字軍に従軍したアッコンの司教が、「プレスター・ジョンの孫のダビデ王がペルシアを征服してバグダードに向かっている」との報告をもたらした。これは実はモンゴル帝国のチンギス・ハーンのことであり、1245年にプラノ・カルピニのジョヴァンニがローマ教皇庁によってグユクの即位式に、1253年にはウィリアム・ルブルックがフランス国王ルイ9世によってモンケの治世に、フランシスコ派の修道士らを代表とする使節がそれぞれモンゴル宮廷に派遣された。当時、彼らによって西側に伝えられた話では、チンギス・ハーンの義父、ケレイトのオン・ハンがプレスター・ジョンだったが、チンギス・ハーンと争い殺されたというものである。モンゴルに滅ぼされたケレイト、ナイマンなどの遊牧国家のいくつかは、実際にネストリウス派キリスト教国であり、モンゴル帝室にもネストリウス派キリスト教徒は多かったので、このような話になったと思われる。この後、プレスター・ジョンは完全に伝説となり、聖杯伝説などと結び付けられたりするようになる。

エチオピア[編集]



プレスター・ジョンの版図を描いた地図
早くからエチオピア帝国にキリスト教国(コプト派)があることは知られていたが、イスラム教国で遮られていたため、ほとんど接触がなかった。1306年にエチオピアから30人の使節が来欧し、15世紀ごろからエチオピアの皇帝をプレスター・ジョンと呼ぶようになった。1520年にポルトガルが外交関係を樹立した際も、プレスター・ジョンを皇帝と同義語に使っている。また、モンゴル帝国に追われてアジア側からアフリカへ避難しただけと言う者もいた。

これに対してコプト教会側は激しく否定した。エチオピアは、4世紀にキリスト教に改宗しており、プレスター・ジョンという胡散臭い組織と同一視される事を拒んだ。しかも自分たちは、ソロモン王とシバの女王の子メネリクを祖とする皇統を誇っていると豪語した(歴史的な根拠には乏しい)。

しかしヨーロッパの世界地図には長らくエチオピアがプレスター・ジョンの国として描かれた。またポルトガルの航海士ヴァスコ・ダ・ガマもアフリカ東海岸に寄航した折に誤認した。

しかし結局は、エチオピアがプレスター・ジョンの国であるという根拠も証拠も乏しく、断定することはできなかった。

終幕[編集]

結局のところエチオピアに否定され、他に存在するという証すら発見できず、何の進展も無かった。

そのうちイスラムの脅威も薄れ最後に西欧を圧迫したイスラム勢力であるオスマン帝国が衰えを見せ、一方でルネッサンスや産業革命を経てヨーロッパが世界の先進地域となる事でイスラムに対するコンプレックスも消滅し、17世紀頃までには話題の俎上にあがる事も無くなり、自然消滅してしまう事になった。

現代でも、大航海時代が湧き上がった原因の1つにプレスター・ジョンの伝説があるが、世界中探し回って見つけられなかった為に歴史家や専門家の研究対象となりにくく、世界史の一面としては、影の歴史として据えられてしまったのである。

もっとも、エチオピアがプレスター・ジョンの国と一時期思われた事の影響は後世も残り、西欧列強がアフリカの植民地化に乗り出す19世紀以降において、エチオピアだけは唯一独立を保った。

関連書籍[編集]

資料[編集]
池上俊一訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、講談社学術文庫、2009年  司祭ヨハネの手紙のラテン語版と古フランス語版を収録。


プレスター・ジョンに関するフィクション[編集]
ノーヴェル・W・ペイジ Norvell W. Page 『炎の塔の剣士』Flame Winds (1939) 『熊神の王国の剣士』Sons of the Bear-God (1939) ロバート・E・ハワードの英雄コナンシリーズの系譜を継ぐヒロイック・ファンタジーであり、プレスター・ジョンはコナン風の肉体派剣士として主役を務めた。性格もコナン風の味つけで、色も欲もある大らかな普通の人間として描かれている。

ウンベルト・エーコ Unberto Eco 『バウドリーノ』Baudolino (2000) アレクサンドル3世、フリードリヒ1世の活躍した時代を史実と空想をない交ぜにユーモラスに描いた小説。プレスター・ジョンを求めて東方に旅に出るのはフリードリヒ1世の養子であり天賦の嘘つきの才を持つ主人公という設定。


脚注[編集]
1.^ 池上俊一訳、『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』、p4

関連項目[編集]
十字軍
大航海時代
グンダファル
東方見聞録

外部リンク[編集]
ブリタニカ百科事典1911年版(英語)
カトリック百科事典(英語)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3


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