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明治憲法
1928(昭和3)年6月4日、中国・奉天軍閥の実力者、張作霖(ちょう・さくりん)の乗った列車が、奉天近郊で爆破され、張作霖が死亡した。現地に駐留する、日本陸軍(関東軍)の河本大作大佐らの仕業だった。
もともと旧満州(中国東北部)の馬賊の出身だった張作霖は、日露戦争時に日本軍に協力したのをきっかけに、日本の後ろ盾を得て、満州で勢力を伸ばしていたが、この頃は、その軍勢を「万里の長城」を越えた「中原」へと進め、中国全土の覇権をめざすまでに成長、満州植民地化の「足がかり」に利用しようとしていた日本にとって、「目の上のたんこぶ」的な存在になっていた。
それにしても、このような強引なやり方はさすがに国際的な非難を招くおそれもあり、また、上官の命令も受けずに勝手に「軍事行動」を起こしたことは軍律上の大問題でもあったので、時の田中義一首相は、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰し、中国に遺憾の意を表明することを決断、12月24日、その旨を昭和天皇に上奏した。
ところが、この方針に対して、陸軍から強力な反対が出た。この事件は、河本大佐の「独断専行」ではなく、その背後には、関東軍司令官らの意思もあったからである。田中義一首相は、やむなく、事件をうやむやに処理することとし、翌1929(昭和4)年6月27日、昭和天皇に上奏した。
それを聴いて、昭和天皇は激怒した。それでは前と話が違うではないか、と詰問し、田中首相に辞表を出すように強い語気で述べた。田中義一は恐懼して、7月2日に内閣を総辞職、その3ヶ月後の9月29日に急死した。その死因についてはいろいろといわれているが、真相は自殺だったようである。
陸軍で頂点を極めたのち、政友会の総裁に招かれて総理大臣になった田中義一は、「最後の藩閥政治家」と呼ばれた、文字通りの実力者だったので、その死は軍部や政界に大きな衝撃を与えた。真相を知る者たちは、天皇を恨むわけにはいかないので、矛先を天皇の側近に向けた。「重臣ブロック」「宮中の陰謀」「君側の奸」という言葉が秘かにささやかれ、矢面に立たされた重臣たちは、のちの二・二六事件で反乱軍の襲撃にさらされることになる。
1990(平成2)年に公表された『昭和天皇独白録』のなかで昭和天皇はこう述べている。
この事件(=田中義一内閣総辞職)あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。例へば、かのリットン報告書の場合の如き、私は報告書をそのまゝ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野(伸顕)、西園寺(公望)に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止まつたやうな訳である。田中(義一)に対しては、辞表を出さぬかといつたのは、ベトー(veto:君主が大権をもって拒否または拒絶すること)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、ベトーは云はぬ事にした。
1889(明治22)年に発布された『大日本帝国憲法(以下、明治憲法と呼ぶ)』は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文で始まっている。
すなわち、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(第5条)、「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス(後略)」(第10条)、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条 )、 「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」(第57条)ともあるように、「大日本帝国(=明治国家)」は、明らかに「天皇の国」であり、「議会」「内閣」「裁判所」は、天皇の統治を支えるものでしかなかった。
また、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」(第12条)、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」(第13条 )とあるように、軍隊は天皇が直轄するものであって、「議会」や「内閣」の支配を受けないものとなっていた。また、国民は、天皇に支配される「臣民」で、その権利も天皇の「慈悲」によって与えられたものでしかなかった。
このように、『明治憲法』では絶対的な権力を持つように規定された天皇ではあったが、第3条には次のような条文がある。
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。
これは、いわゆる「天皇の神格化」を規定した条文であるが、法律的にはもっと具体的な意味があった。
つまり、天皇は神聖なもので、その地位は侵されることがない、というのは、天皇には政治的な責任は一切ない、という意味で、ということは、もし天皇が政治的な判断をすれば、その結果の責任をとらなければならなくなるので、すなわち、天皇は、政治的な判断をしてはならない、ということになるのである。
国家のあらゆる権力を集中して握っているはずの天皇が、政治的な判断をすることが許されていない、とは、これはいったいどういうことなのだろうか。
「明治維新」で、武力によって徳川幕府から政権を奪い取った薩摩・長州勢力が後ろ盾にしたのは、天皇の権威、いわゆる「錦の御旗」だった。それを掲げることによって、「明治(新)政府」はその正統性を獲得しようとし、「王政復古」のスローガンのもと、天皇中心のイデオロギーで「明治国家」が組み立てられ、人々はその「国民」へと糾合されていった。
「王政復古」とは、いにしえの天皇中心の政治を復活させることであったが、実際に政治を動かしていたのは、「明治維新(=徳川幕府打倒)」を取り仕切った、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視ら、薩摩・長州(・土佐・肥前)出身者や公家たちだった。そして、これからの政治の指針として明治初年に出された『五箇条の御誓文』の第1条に、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」とあったにもかかわらず、彼らが主要ポストを独占した「明治政府」は専制的なもので、「藩閥政府」と呼ばれた。
しかしまもなく、彼らのあいだで「征韓論」をめぐって内紛が起こる。政争に敗れて下野した江藤新平や西郷隆盛は故郷に帰って「反乱」を起こして失敗したが、同じく下野した板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、(そしてのちには大隈重信)らは、「議会開設」「憲法制定」などを求める「自由民権運動」を起こした。
当初は「不平士族」が中心だったこの運動は、「明治維新」の諸政策に不満を持つ各地の農民たちも参加する一大運動へと発展し、「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」「集会条例」など、言論や政治活動を制限する法令を布告して運動を弾圧してきた「明治(藩閥)政府」も、1881(明治14)年、「国会開設の勅諭」を出して、10年後の「国会開設」と「憲法制定」を約束せざるをえなくなった。
当時、さまざまな「憲法草案」が民間から提案されていたが、「明治(藩閥)政府」は、大久保利通のあとを継いだ伊藤博文を翌年、「憲法研究」のためにヨーロッパに派遣、プロシャ憲法をモデルにした憲法を作成して、1889(明治22)年、明治天皇が黒田清隆首相に手渡すという「欽定憲法」のかたちで『大日本帝国憲法(明治憲法)』が発布された。
「明治(藩閥)政府」としては、本音は「議会」も「憲法」も不要で、それまで通り、天皇を頂点とした中央集権の官僚体制をつくり、それを自分たちが動かしていく、というのが一番よかった。だから、先手を打って「欽定」という方法で、自分たちがつくりあげた憲法は、自分たちに都合のよい、それまでの「藩閥専制政治」を維持するものになるのは当然だった。
つまり、すべての専制的な「大権」を天皇に集中し、しかも天皇にはそれを行使できないようにしておいて、その陰にいる実力者たちが、自分たちの思い通りに政治をとることができる、そういう体制が『明治憲法』によって定められた「明治国家」の実体であった。
この実力者たちというのは、のちに制度化された。
明治天皇によって任命され、主権者たる天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦や、開戦・講和・同盟締結等に関する国家の最高意思決定に参与する「元老」がそれである。「元老」は大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年以来、次の9名が任命されている。
@ 伊藤博文(1841年生まれ・長州出身)
A 黒田清隆(1840年生まれ・薩摩出身)
B 山県有朋(1838年生まれ・長州出身)
C 松方正義(1835年生まれ・薩摩出身)
D 井上馨(1836年生まれ・長州出身)
E 西郷従道(1843年生まれ・薩摩出身)
F 大山巖(1842年生まれ・薩摩出身)
G 桂太郎(1849年生まれ・長州出身)
H 西園寺公望(1849年生まれ・公家出身)
西園寺以外はすべて長州か薩摩の出身で、@ 伊藤博文から、F 大山巖までは、生年が1836〜43年に集まっていて、「明治維新」のヒーローであった、西郷隆盛(1828年生まれ・薩摩出身)、木戸孝允(1833年生まれ・長州出身)、大久保利通(1830年生まれ・薩摩出身)、岩倉具視(1825年生まれ・公家出身)らの次の世代といえるだろう。
こういった実力者、およびその周辺の者たちが、絶対権力者である天皇の威光を借りて、「明治国家」を運営してきたといえる。しかし、「元老」たちも老いて、次々と亡くなっていき、あらたな補充は為されなかったので、大正の終わりには「元老」は西園寺公望ひとりになってしまった。
そこで、それを補うために、1934(昭和9)年頃から「重臣会議」というのが設けられ、「元老」の代わりをし始めた。そのメンバーは、斎藤実(1858年生まれ)、清浦奎吾(1850年生まれ)、若槻礼次郎(1866年生まれ)、高橋是清(1854年生まれ)、一木喜徳郎(1867年生まれ)、牧野伸顕(1861年生まれ)、岡田啓介(1868年生まれ)、広田弘毅(1878年生まれ)、平沼騏一郎(1867年生まれ)、林銑十郎(1876年生まれ)、近衛文麿(1891年生まれ)、木戸幸一(1889年生まれ)、鈴木貫太郎(1868年生まれ)である。
この年代になるともはや「明治維新」とか「薩長」とかいう色合いはなくなり、明治以降の新しい制度の中から育ってきた人材ばかりとなる。そして、その分、「カリスマ性」は衰え、「重臣」の実権も弱まって、それに代わって、現役の軍人たちの力が強くなってくる。
即位して間もない昭和天皇は、こうした『明治憲法』の体制を「逸脱」してしまったといえるだろう。事実上、田中義一首相を「解任」するという「政治判断」を行った天皇に、周囲は当惑し、内心憤った者もいた。「政治」から超越した上での「大権」と絶対的地位。そこを逸脱すれば、「神聖不可侵」という鎧(よろい)は綻(ほころ)びる。
攻撃の刃はまず、側近の「重臣」たちに向けられ、7年後に起こった「二・二六事件」では、鈴木貫太郎(侍従長)、斎藤実(内大臣)、牧野伸顕(前内大臣)が襲われた。さらに、1945(昭和20)年、いわゆる「聖断」によって、無条件降伏が決定したあとも、それを不服とする将校たちは、天皇を守るはずの「近衛部隊」を動かして、天皇に翻意させ、さもなくば「退位」させて、まだ幼い皇太子を擁立し、「本土決戦」に持ち込もうとしさえした。
昭和天皇は『独白録』のなかで、終戦の「聖断」ができたのなら、なぜ、開戦をやめさせる「聖断」はできなかったのか、という疑問に答えるかのように、次のように述べている。
陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於いてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対して私が「ベトー」を行つたとしたらば、一体どうなつたであろうか。(中略)国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつたであらうと思う。
これはあながち自己弁護に過ぎるとも云えないだろう。かたちの上で「大権」を与えられてはいても、どうにもできずに切歯扼腕したことが多々あったと容易に想像されるからである。もっとも、簡単に天皇に「大権」を行使されてもたまらないが、天皇個人にはけっこう「しばり」があったにもかかわらず、その陰にいる「実力者」には、その「大権」の名のもとに、「やりたい放題」に実権を振るうことが可能な構造になっていることが問題であった。まだいくらか「自制心」を保持していた「明治維新の実力者たち」が健在の間はまだしも、彼らがいなくなると、統制の効かなくなった「権力の真空地帯」に、軍人の「実力」による支配が忍び込みはじめる。
1873年に「徴兵制」を布告し、陸軍士官学校(1874)、海軍兵学校(1876)を設けて、近代的な軍隊の創設を開始した「明治政府」は、西南戦争(1877)によって戊辰戦争以来の国内内戦を収拾したのち、その矛先を大陸に向けはじめた。
日清戦争(1894)、義和団事件(1900)、日露戦争(1904)、第一次世界大戦(1914)、シベリア出兵(1918)、山東出兵(1927)と断続的に対外戦争が続き、1928(昭和3)年には、冒頭で引用した「張作霖爆殺事件」が起こる。
戦争となると、当然のごとく、軍人たちの独壇場となる。専門的な軍事の技術なしには、勝利はおろか、戦争そのものが成り立たないからである。それは、敵の場合も同様であって、戦争は基本的には「軍人対軍人」という構図になる。ひと昔前の近代以前では、戦争は「武士」という階級の独占物で、武装してそれに参加できるのは武士の〈特権〉でもあった。
その階級的な障壁が近代になって取り払われ、「徴兵」という制度ができると、軍事は〈特権〉というよりは〈義務〉となり、それまで戦争とは縁のなかった者たちが一兵卒として軍隊に徴集されて、戦場に送られることになった。
一方、軍事の「特権階級」は、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した「職業軍人」として存続した。彼らは封建時代のように世襲ではなく、万民に開かれた近代的な「軍人養成学校」の産物ではあったが、その気分は封建時代の「武士」を受け継いでいたといえよう。戦争というものの「伝統」を受け継ぐうえで、それはやむを得ないことだったかも知れないが、何代にもわたって培われてきた「武士」というものの「あり方」を、一代で促成栽培するためには、どうしてもその過剰な「観念化」は避けられないものとなった。
「武士道」という言葉が声高に叫ばれ、もはや実用的な武器ではなくなった日本刀を「軍刀」として腰からぶら下げて、それを振り回すがごとくに軍隊内でなされる暴力的な「教育」は、伝統的な武士が持っていたはずのストイックな〈克己〉の精神とは別のものであっただろう。
こうして過度に「観念化」した集団が「高揚」を示すときには、往々にして「過激」なものが優勢となる。それは、いまだ経験の浅い、若い軍人たちのなかから生まれることが多かったが、それを適切にコントロールする力、あるいは「識見」といったものを上の軍人たちが持ち合わせていない場合には、軍隊は暴走してしまう。
日清、日露の頃までは、明治維新を体験した「武士」たちがコントロールする役目を果たしていたが、彼らがいなくなると、もはやどうしようもなくなってくる。現場の「独断専行」が起こり、しぶしぶながらも、上がそれを追認するという、事実上の「下克上」的な事態が発生し、その嚆矢となったのが、「張作霖爆殺事件」であった。このとき、コントロールすべき立場にあった田中義一(1864年生まれ)には、もはや関東軍の強硬派を抑える力はなく、昭和天皇との板挟みになって、死に至る。
以後、「満州事変」のきっかけとなった「柳条湖事件」(1931年)、日中戦争の引き金を引いた「蘆溝橋事件」(1937年)と、似たような出来事が連続する。また国内では、「三月事件」「十月事件」(1931年)といった若手将校によるクーデター未遂事件が発覚するなど、軍人の暴走に歯止めが効かなくなり、ついには、時の総理大臣が官邸で海軍将校によって射殺されるという「五・一五事件」(1932年)、そして1936年には、本格的なクーデター「二・二六事件」が起こった。
天皇の「大権」の陰にある強大な「実権」、その「実権」をうまく振るうことができる「器量」を持つ者がもはや、誰もいなくなってしまっていた。
「明治政府」の初期にその「実権」を担ってきたのは、それまでの「武士」階級の者たちで、彼らは、いわば、「政治家」と「軍人」を兼ねた存在だった。しかし、近代の制度では、「政治家」と「軍人」は分離したものとして育成される。
『明治憲法』でも、天皇の「大権」は、〈政治〉と〈軍事(統帥権)〉に分けられていた。それは「国会開設」で「開かれて」くるかもしれない〈政治〉に、たとえ「異分子」が侵入したとしても、「軍事」からは遮断する「方便」でもあったろうが、自分たちなら、その「実権」の両方ともをうまく操縦できると自負していた、前時代の「武士」たちの「権力独占の思惑」をもあらわしていただろう。しかし皮肉なことに、そんな仕組みは「後継者」たちには通用せず、致命的な制度的欠陥となって、「明治国家」の首を絞めていくことになる。
「昭和の軍人」たちには、戦争やクーデターを引き起こしても、それからどうするのだ、という明確な「未来像」はなかった。それは彼らが「政治家」ではなかったからである。そして現実の政治家たちは「軍事」に口出しできなくなっていたから、いったん戦争が始まると、あとはすべて「軍人の論理」でしか動かなくなった。だから、開戦時には必須の、「終戦の目安」といったような現実的な目算を立てることさえできず、ブレーキを失った暴走車のごとく、「終末的な大破局(カタストロフィ)」まで突き進んでいくしかなかった。
制空権も制海権も奪われ、日本国中が米軍機の猛爆撃に「なすがままに」さらされ、壊滅的な敗北が確実なときに至っても、この「明治国家」の指導者たちが最後までこだわったのが「国体の護持」であったことは、この政権の性格を如実にあらわしている。
「天皇を中心としたうるわしい家族的な政治形態」などといくら美辞麗句を並べようとも、その実体は、絶対権力者の天皇を隠れ蓑として、自分たち、一部権力者が「専制的な実権」を握ろうとする政治体制でしかなかったから、そんな「私利私欲」のために、貴重な時間がいたずらに浪費され、その間、大空襲や原爆などによって、失わずに済んだはずの数多くの人命が失われ、広大な国土が破壊されてしまったのは、絶対に許せないことである。
そして、いよいよ「降伏」の前夜には、戦後の「戦犯追及」をおそれて、膨大な公文書類が焼却されたという。彼らの「国家の私物化」もここに極まり、78年間続いた「明治国家」は、崩壊すべくして、崩壊した。
(2013.7.10 脱稿)
【自註】
『明治憲法』の制度的な欠陥については、前々から気になっていたところだったが、あえてそれについてまとめてみようと思ったのは、近年、ある方面から盛んに煽られる「改憲ブーム」に危機感を感じたからだった。当初は、タイトルを「(け)憲法」として、いったん滅びたはずの「明治国家」の残党たちはその後もしぶとく政府中枢に生き残り、すきあらば、かつての「明治国家」の復活をもくろみ、私たちを再びかつてのような不幸な状態に陥れようとしている、ということも力説したかったのだが、書き進めるうちに、本来の趣旨が薄れてしまうおそれも出てきたので、そこは「余韻」に留めることにした。
参考文献というより、以前から読んできておもしろかった本を何冊か挙げておく。興味のある方は読んでみてください。
『昭和天皇独白録』寺崎英成ほか(文春文庫)
『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー(中公文庫)
『日本の敗因』小室直樹(講談社)
『検証・戦争責任』讀売新聞・戦争責任検証委員会(中央公論新社)
『昭和史の謎を追う』秦郁彦(文藝春秋)
http://happi-land.com/er_shi_shi_ji_zuo_pin_ji/meiji-kenpou.html
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