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第3部 1960年代
第16章 太陽にさらされたバターのように
1960年代初頭にアルフレッド・ヒッチコックが、「滅多に見つからない辺鄙な、人間によってスポイルされていない場所」と呼んで、映画『鳥』の舞台とした、カルフォルニアの小さな漁村ボデカとその入江の自然の景観は、今日人間のつくった醜い傷跡でずたずたにされている。4車線の道路が村と休暇村のコテージの間を通り抜け、干潟を横切って半島の先端まで伸び、地面に掘られた直径42メートル、深さ21メートルの大きな穴のところで終わっている。この穴は市民の抗議でご破算になった初めての原子力発電所(原発)の建設予定地の名残りである。
1961年にこの地にゼネラル・エレクトリック社(GE)の沸騰水型原子力発電所の建設が発表されたとき、この景観を守れという抗議行動がおこったが、建設は着手された。しかしその後、ごく近くに地震の原因となる断層がみつかり、さらに、強固な花崗岩だとされていた地盤が実は粘土や砂でしかないことが判明、1964 年計画は中止された。
しかし巣立ち始めたばかりのアメリカ原子力産業はこの躓きによって挫折することはなかった。彼らはニュージャージー州にあるバーネガット湾のオイスター・クリークに、1964年、沸騰水型原子炉の運転を開始することに成功した。この発電所を買い入れた電力会社は政府の補助金なしに建設できたことに満足した。これはのちに「ターンキー契約」として知られるようになった契約に基づくもので、メーカーがオファーした説備と建設を安価なパッケージにした取引だった。この方式はメーカーには多大な出血を強いたが、それを買い入れる電力会社が増えるにつれて、当初30もあった原子炉システムの中から2つのタイプの軽水炉が勝者として浮かび上ってきた。ウェスチングハウス製の加圧水型原子炉(PWR = pressurized water reactor)とGE製の沸騰水型原子炉(BWR = boiling water reactor)である。
1960年代初頭、このアメリカ二大電機メーカーの士気は低下していた。両社の総売上高は横ばいだった。1963年に両社ともトップに異動があった。GEの最高経営責任者となったフレッド・ボーチ(74) はGEの儲けがしらである電球部門を通じてトップにのし上った人物で、勢いがついたという現実の感覚を強めることによって企業の士気を立て直す決意を固めていた。彼は「進歩はわれわれの最も重要な製品である」との広告スローガンを採用、GEの資本の多くを、「未来的」な魅力を持つ、資本主義的でリスクの高い冒険的な一連の事業、すなわち、「コンピューター」「航空宇宙」「原子力」に注入しようと決断した。
一方、ウェスチングバウスの財政担当役員からトップに立ったドナルド・バーナム(75) も全く同じ問題に直面していたが、それにもうひとつ問題が加わっていた。ウェスチングハウスは加圧水型がリコーバーの原子力潜水艦に採用されて、原子炉開発ではリードを奪っていたが、売上高全体では依然としてGEに次ぐ第二位に甘んじていた。彼は、限定された目標しか追求せず、新しい冒険をしようとしないウェスチングハウスの「伝統」から脱皮するために、多方向に向けて会社を駆動させ始めた。レンタカー、低所得者向け住宅、スイス時計、メールオーダー事業、そしてビートルズのレコードを配布するレコードクラブにまで手を出した。そして中でも大きな成長品目は原子力で、その輸出能力を高めることによって、多国籍企業としての新しいイメージを創ることを望んだ。
原子炉開発では後れをとったGEは「サンシャイン作戦」と名づけられた沸騰水型原子炉の技術開発計画で巻き返しを計り、安価な「リターンキー契約」で電力会社をわし掴みにして、一気に「原子力ブーム」を巻き起こすことに成功した。するとウェスチングハウスも負けじと、電力会社に固定価格契約を提示した。
オイスター・クリークの規模は50万キロワットだったが、GEは翌65年には80万キロワット、その翌年には110万キロワットのモデルを提示した。これは同じように規模を拡大させていた石炭火力発電所と歩調を合わせたものだったが、1966年、GEは公有のテネシー渓谷開発公社(TVA)に原子炉を売ることに成功した。TVAは石炭地帯のどまん中にあり、石炭と水力を利用して成長してきたのだったが、自身に進歩的イメージを持たせることをひとつの狙いとして原子力を採用した。購入交渉にあたってTVAはとても厳しい態度を見せ、ウェスチングハウスや石炭火力との競争に勝つためにGEは採算を度外視した譲歩をせざるを得なかった。しかし「あのTVAが原子力を」という驚きとともに原子力への流れをいっそう加速させる象徴的な効果は絶大だった。しかし現実には原子カの資本コストは上昇し続け、一方、石炭火力の方は下降してきていた。
アメリカン電力(AEP)の元社長、フィリップ・スポーン(76) が、原子力発電に対して慎重論を唱えた。彼は「電力のヘンリー・フォード」と呼ばれた業界の最長老で、1947年から61年まで社長を勤めて、AEPを世界最大の民間電力会社に育て上げた人物だが、GEと電力会社との契約を詳細に分析して、次の3点を指摘した。
第ーに、電力産業や政府は「原子力ブーム」に煽られた結果、在来燃料の発電コストの低下、すなわち、石炭や石油のコストは10年前よりも安くなっており、またより効果的に燃焼されるようになっているという事実を、見積もりに組み入れていない。第二に、原子炉建設の実際のコストは、電機メーカーの推計を10〜15%上回っていると計算される。第三に、発電所が建設されたあと、電力生産に要するコストは予測を26%上回るだろうと、予言した。
彼は、原子力反対論者ではなかった。ただ、技術の着実な進歩には近道はないと考えており、注意深く一歩一歩技術開発を進めていくという伝統的アプローチが一過性の技術上の熱狂に呑み込まれてしまうのを懸念していた。
しかし、電機メーカーも、アメリカ原子力委員会(AEC)も彼の分析には反対した。GEはそれを「不当に保守的」と呼び、AECは「スポーン氏はもっと楽観的でもよかったはず」と述べた。原子力推進派にとっては、彼の頭の固い現実主義は流行遅れにしか見えなかった。スポーンのあとにAEPの社長に就任したドナルド・クック(77) は言明した。「原子力時代の夜明けが到来して以来、原子力の偉大な未来に会社が確信を抱かなかった時は一度もない」。
米証券取引委員会(SEC)の積極果敢な委員長だったクックは、社長就任当初から電力企業経営者のひどく重苦しいイメージを打破しようと心に決めていた。「革命はここでは当たり前のことだ」と言い切って、広告費の比率を業界平均の二倍に引き上げ、「われわれは電力のスーパーマーケットだ」と主張した。そして、AEPは巨大な量の石炭を保有し、そのアクセスも確保していたにも関わらず、クックは「原子力の進歩」に取り込まれていった。彼は1967年に2基の原子炉を発注し、ドナルド・C・クック1号炉、同2号炉と名づけたが、彼はのちになってこの買い物を後悔する。2つとも絶望的に完成が遅れ、近接の電力企業から電力を購入しなければならなかったため、最終コストは当初見通しの3倍以上に上昇した。そして、予定されていた3つ目の原子力発電所を石炭火力の発電所に変更せざるをえなかった。クックにとって不運だったのは、GEとウェスチングハウスがその損害の大きさに気づいて、「ターンキー契約」や「固定価格販売」を中止したあとだったので、初期の安売りの恩恵にあずかれなかったことだった。
この頃までには、すでに実績を築いていたこの2大メーカーは、世界市場を二分していた。ウェスチングハウスは1966年までに米国内で6基(合計出力500万キロワット)の原発を売却し、67年には13基(1100万キロワット)の追加発注を受けていた。またGEも、合計出力770万キロワットの原発を1966年までに売却し、67年には620万キロワットを売却していた。しかし、原子炉が大型化するにつれて、技術上のトラブルも現れはじめていた。
GEとウェスチングハウスの成功を横目に隣国のカナダでは、「民族主義的」な原子力科学者たちが、戦時中から研究していた重水炉を基に、新しい国産原子力産業を創出しようとしていた。その中心にいたのは、カナダ原子力公社(AECL)を創設したクレランス・ハウ(50)だった。彼に育てられた「ハウの弟子たち」は、オンタリオ水力発電公社のために、戦時中、プルトニウム生産のために開発した重水型天然ウラン原子炉(チョークリバー原子炉)の大型版の設計を開始し、1964年にヒューロン湖畔のダグラスポイントに20万キロワットの商業炉を完成させた。
アメリカでの軽水炉に対抗して、ヨーロッパでも、イギリス原子力公社(AEA)とフランス原子力庁(CEA)は、独自のガス冷却炉を開発中だった。しかし、オイスター・クリークで突破口が開かれると、両国の技術陣は動揺した。ガス冷却炉を継続しようという一派とアメリカの軽水炉技術を試みたいという一派の間で激しい争いが起きた。
イギリスの指導的な核技術者クリストファー・ヒントン(38) は、軽水炉を導入しようとする側の中心人物だった。AEAの幹部だったヒントンは、もともとは黒鉛減速型ガス冷却炉の推進者で1956年のコールダーホール原子力発電所開設の立て役者だったが、その年に起こったスエズ動乱によって危惧されるようになったエネルギー危機対策として政府が打ち出した、原子力発電計画の3倍化という政策には反対だった。彼は1957年にAEAを去り、イギリス中央電力庁(CEGB)の長官となった。原子炉の供給者から買い手の側に回ったヒントンは、「原子力発電所の開発、設計、建設は、その顧客が最も経済的だと考えるものを考えて決定しなければならない」と述べて、それまで国策とされていた、ガス冷却炉の推進に正面切って疑問を呈した。イギリス政府はいろいろ迷った末、結局、1965年にガス冷却炉を選んだが、その年に建設を開始した2基の原子炉(合計出力66万キロワット)は70年代末まで完成できず、その間に、そのコストは当初の4倍に膨れ上がっていた。
フランス原子力庁(CEA)の科学者たちは、フランスの核兵器開発のために直接的に原子炉を開発していたが、それはイギリスと同様、黒鉛減速型ガス冷却炉だった。それは自己過信を持って、アメリカの軽水炉技術に十分対抗しうるものだと宣伝され、民族主義的なシャルル・ドゴールらを満足させていたが、フランスの国有電力会社(EDF)は、イギリスのCEGB以上に厳しくガス冷却炉には反対の立場をとっていた。
その背景には理工科大学校(エコール・ポリテクニク)卒業生の2つのグループの争いがあった。CEAを牛耳るのはピエール・ギョーマ(48) に率いられた「鉱山組」だったが、EDFの支配権を握っていたのは「橋梁・道路組」だった。「橋梁・道路組」は、トップエリートが選択する「鉱山組」に次ぐ第二グループにあたり、「鉱山組」に対しては強い敵愾心を抱いていた。
1965年から69年までEDFの社長だったのは、戦後フランスの最先端を行くエコノミストだったピエール・マッセ(78) だった。世界で最も優れたシステムと認められるような電力投資決定・料金設定システムをつくりあげるという成功を成し遂げたマッセにとって、CEAにいる「鉱山組」のメンバーがたちが優越感を示すことは我慢ならないことだった。大型原子炉計画が浮上しはじめたとき、EDFはガス冷却炉の技術的諸困難を攻撃し、CEAはすべての困難の責任をEDFに押しつけるキャンペーンを政界や報道界に向かって行い、これまでにつくりあげた政界のコネを大いに利用して、問題をトップの会合に持ち上げるようドゴールに提案した。
1967年12月に開かれたその会議の冒頭、ドゴールはEDFを全面的に攻撃した。それに対してマッセはひるむことなく「この分野では如何なるタブーもあってはならない」と応酬した。ドゴールは最後まで、ガス冷却炉からの大幅な逸脱には賛成しないとの考えを変えなかったが、EDFがベルギーとの合弁事業で軽水炉技術の別の実験をすることは認めた。その後、1年もしないうちに、ガス冷却炉から新たな技術的困難が発生して、最終的決着が先延ばしされ、1969年4月にドゴールが引退するとCEAは後ろ盾を失った。後継者のジョルジュ・ポンピドーは現実主義者で、フランスの「自主独立」の論理にもそれほど囚われていなかった。CEA部内は例外として、フランス原子力産業界の中に、軽水炉がより効率的だという幅広いコンセンサスが生まれてきた。そして1969年11月に軽水炉への道がフランスの公式政策となり、その後、ヨーロッパ第一の原子力発電国になった。
【登場人物の整理】
(74) フレッド・ボーチ(米): GE最高経営責任者(沸騰水型原発を推進)
(75) ドナルド・バーナム(米):ウェスチングハウス社長(加圧水型原発を推進)
(76) フィリップ・スポーン(米):アメリカン電力元社長(原発導入に慎重論)
(77) ドナルド・クック(米):アメリカン電力社長(原発導入に積極的)
(78)ピエール・マッセ(仏):フランスの国有電力会社(EDF)社長(CEAに反旗、軽水炉導入)
第17章 愚かな夢
1966年10月5日、アメリカの原子力発電計画の中で最も野心的なものだったエリー湖畔のデトロイト・エジソン社の実験用商業増殖炉フェルミ1号炉が重大なトラブルに遭遇した。原子炉底部の金属片が緩み、炉心冷却剤の流れが部分的にとめられた結果、炉心部が加熱されて、一部が溶融し、危険な放射性がスを放出しはじめた。この時、原子炉の運転担当者たちは、何が故障したのか、それをどう修理すればよいのか何もわからなかった。彼らが損傷の範囲を突き止めるまでに6ヶ月、原因突き止めまでには丸1年がかかった。そんな重大事故だったにも関わらず、彼らは自信過剰な原子力事業のなかでさえも稀なほどの自信を誇示しつづけた。事故発生の4日目、破損した原子炉からわずか30メートルしか離れていない会議室で、技術者たちは彼らのボスであるウォーカー・シスラー(79) の69才の誕生日パーティーを開きさえした。シスラーは中西部の大電力会社のひとつ、デトロイト・エジソンの社長で、核狂熱家たちのなかでも最も強くそれにコミットしていたひとりで、増殖炉は彼好みの冒険であった。
1960年代中ごろまでにエネルギー生産手段としての「核の連鎖反応」が受け入れられるようになったことから、先進各国の原子炉設計者たちはそれぞれ身勝手な机上の見積もりを作成し、新世代のより進んだ原子炉の開発に数百億ドルもの資金を投入する必要性を訴えはじめた。それらの中で、消費する以上の量の分裂性燃料を生産する「増殖炉」が、将来のウラン不足への懸念を相殺するカギとみられた。アメリカにおいては、ジェット機やコンピューターと並んで、軽水炉原子炉の勝利が、1957年のソ連の人工衛星スプートニクによるショックを決定的に克服する契機となり、それによって回復された科学的な自信が、より新しい原子炉の開発への大きな追い風となっていた。
すべての原子炉はある程度は「増殖炉」である。アメリカのハンフォード、イギリスのウィンズケール、ソ連のチェリャビンスクの当初の黒鉛炉は、これらの国の兵器計画のためプルトニウムを増殖した。しかし創り出されたプルトニウムの量は、使用された分裂物質よりは少なかったので、「増殖炉(ブリーダー)」ではなく、しばしば「焼却炉(バーナー)」と呼ばれた。
分裂性のウラン235は、天然ウランには0.7%しか存在しないので、それを3〜4%まで濃縮したものを使用する第1世代の原子炉では、飛び回っている中性子を減速するために天然水を用いた。これは中性子をウラン235に遭遇させやすくして、連鎖反応を維持するためである。増殖炉では、非分裂性のウラン238に分裂性のプルトニウム239を4〜6%混ぜたものを使用し、天然水のかわりにナトリウムなどの冷却材を用いるので中性子は減速されない。そして高速の中性子はウラン238にぶつかって、より多くのプルトニウムを生産する、という原理である。
しかし、この連鎖反応は軽水炉に比べるとはるかに多くの技術的困難を伴うものであった。天然水の場合は、その中の気体の割合が増えて冷却能力が低下した場合には同時に減速能力も低下して、中性子の命中率も落ちて反応が低下するので、異常な発熱は起こらない。しかし、増殖炉の場合はもし、冷却能力が落ちる事態が発生しても反応はそのままなので異常な発熱を起こして、炉心溶融(メルトダウン)が起こってしまう。さらに、冷却材に用いる金属ナトリウムは水や酸素に触れると激しく反応するのでその管理がきわめて困難である、等々。シスラー・グループが巨費を投じて発見したこれらの技術的困難のため、1970年代中ごろに開発を放棄するまでのほぼ20年間、彼らは1億ドルをはるかに超す費用をかけた。しかし、これらの増殖炉は合計378時間しか運転されなかった。
シスラー増殖炉に先立ち、GEもその建設の可能性を真剣に追求し、1964年9月には、10年以内に商業用増殖炉を量産できるという見通しを発表したが、その後、技術的困難が増大したために、この発表については何も聞かれないようになった。しかしそんな失敗にも関わらず、アメリカ国内の新型原子炉に対する研究と投資の継続は後退しなかったし、1965年から67年までの間に、フランス、イギリス、ドイツ、日本、そしてソ連が大型の実験用増殖炉を建設することを決めていた。
その背景には世界のウランの供給が次第に減少しているという見通しがあったが、実はその根拠は薄弱なものであった。増殖炉支持論者は、ウラン埋蔵量のいかさまな数字に対比して、成功した軽水炉のウラン需要量に関する最大限の見積もりを並べ立てた。しかし、アメリカでもウランの採掘調査は十分には行われておらず、世界のウラン埋蔵量については実際何もわかっていなかった。
また、増殖炉開発の新計画は、ウラン採鉱を遅らせただけではなく、既存原子炉についての技術開発をも遅らせた。その第一は安全性を高めることであり、第二はその放射性廃棄物の処分について妥当な方法を発見することであった。
そしてさらに、増殖炉熱の中に、日本やドイツのように核保有国ではなく、核クラブに加わる意思のないことを明らかにしている国々が巻き込まれることによって、これら諸国が爆弾級のプルトニウムを大量に蓄積することになるという、いわゆる「核(兵器)拡散」という問題を懸念する声は、このころはまだ多くはなかった。
1964年11月、アメリカ原子力委員会(AEC)の原子炉開発部長に、ハイマン・ジョージ・リコーバー提督(52) の海軍原子力帝国が産んだ最優秀の人材のひとりであるミルトン・ショー(80) が任命された時、彼は改良型原子炉についてのさまざまな提案の集中砲火を浴びた。ウラン不足が取りざたされる中、30以上もの原子炉計画が提案され、AECはそれらに対して、大した技術的評価もせずに補助金を与えていた。誰も現実には何の責任も負っていない、こんなアナーキーなやり方はショーにとっては我慢のならないものであった。彼は師のリコーバーに倣って、目標をはっきりと決め、それに向かって計画を立て、それらを自己の完璧な制御下におこうとした。そして、リコーバーがかつて加圧水型炉をつくったのと同じように、彼は増殖炉を、その全段階を通じて手がけることになる。
優秀な技術者として、ショーは増殖炉が大規模な基礎技術開発の計画を要するものであることを知っていた。増殖炉は中性子を減速する減速材を持たないことから、その炉心のためには、ほとんどの物質が耐えられないような強度な放射線にも耐えられる新材質を開発しなければならなかった。これは研究チームの大きな努力と資金を必要とした。ショーはそれまで続けられていた5種類の新型原子炉の先進開発システムを3種類に縮め、1965年までに1種類、すなわち、増殖炉に集中する体制を築いた。
彼が第一の優先順位を与えたのは、大型実験炉をつくり、そこで必要とされるさまざまな新材質を改善し、最良のものにしていくことだった。また減速されない高速の中性子が相互に衝突して減速するのを避けるためには、炉心でのいくつかの設計上の工夫が必要だった。さらに冷却材として使用する溶融したナトリウムをうまくコントロールするシステムも確立しなければならず、これらはかつて人類が遭遇したことのない最も注文のうるさい技術的な挑戦だった。
ショーはこの挑戦にも、GEの最終的な失敗にも、エリー湖畔でのシスラー増殖炉の事故にも、さらには巨大なコストにも挫けることはなかった。彼は技術者という職業に共通の経済的無知を分かち持っていた。こうした技術者たちは、物理的効率改善が単純かつ直接的に経済効率へ結びつくと簡単に思い込みすぎていた。増殖炉という技術の素晴らしさがすべてを正当化すると考えた。リコーバーによる海軍の計画のように、それは完璧な技術水準のものに仕立て上げられるべきものであり、費用はそれが確立されたあとに考慮すべきことでしかなかった。
彼は軽水炉の技術が完成にはるか遠いものであることは知っていたが、それを克服するために必要とされていた時間と費用を犠牲にして増殖炉に打ち込んだ。廃棄物処理にはほとんど注意を払わなかった。それは彼の技術者・経営者のとしての信頼が失墜する1972年までつづいた。
廃棄物処理については、何年間にもわたり、AEC予算のわずか0.1%しか振り向けられていなかった。しかし、早くも1955年にはアメリカ科学アカデミー(NAS)の報告が「低水準廃棄物の継続的投棄は、多分、容認できないような長期的危険性を持つものになるだろう」と警告していた。10年後、アイダホ州の投棄場に関するNASのもうひとつの報告は、2つの救いがたい大きな懸念を指摘していた。ひとつは、長期的に見た安全性の配慮が、原子炉運転の経済性よりも軽視されていること。もうひとつは、 地元の環境が、生物領域を危険にさらすことなく、大量の放射性核種を無期限に吸収しうるという過信を前提としている、ということであった。そして、その後、AECは、報道陣の問いに対して、ハンフォード現場の露天投棄場にある藻類で育ったアヒルが放射能によってひどく汚染されていることを認めた。「人間がこれらのアヒルを食べた場合、最大許容量の5倍の放射線を受けることになる」
廃棄物処理の問題に関して、NASは15年以上にわたり、AECに対して、地下岩塩層に廃棄物を貯蔵する可能性を検討するように求めてきた。通常は乾燥した層をなしている塩床が、廃棄物コンテナからの放射能漏れが地表の水に逃げ出していくのを防ぐものと想像されていた。1971年3月、AECは1億ドルの研究費を費やした結果、カンザス州ライオン近郊の廃塩抗を廃棄場にしたと発表した。しかしその6ヶ月後、その塩山から塩を掘ってきた会社が、塩を運ぶために過去50年間にわたって地層に水を注入しつづけていたことが判明して、この計画は放棄された。
いずれにしても、安全性とか廃棄物処理というような問題はミルトン・ショーにとっては単なる枝葉の問題だった。誰かがしなければならない仕事ではあるが、それは他の誰か、大きくかつ困難な責務にあまり適していない誰かがやる仕事だと、彼は考えていた。
ショーが増殖炉開発にはっきりと優先性を与えたことは、アメリカ以外の国に大きな脅威を与えた。軽水炉の成功ですでに示されていたアメリカの技術力の強大さを、再び繰り返させてはならないと各国は身構えた。そのためには、原子力研究開発機構を活力にあふれた状態に維持することが必要だった。イギリスとフランスでは独自の研究が止まったことはなかったが、ドイツと日本では、50年代という核に楽観的な時代に設立された研究機関は、国が軽水炉技術に向いてしまったことから、次の10年間には退化していた。それをなんとか建て直そうという希望の中心が、増殖炉となった。
日本原子力研究所(JAERI)はその発端から、独自の核技術の自立的な国家基盤を発展させようという希望を抱きながら、ずっと挫折感を味わってきた。イギリスから完成したガス冷却炉を購入するとにあわててコミットしたことは科学者たちの最初の敗北だった。その後数年間、彼らは小型実験用軽水炉を含む多数の別の計画を徐々に発展させた。その研究が完了する前の1963年、日本原子力発電(JAPCO)はアメリカから大型軽水炉を輸入することに決めた。1970年までに輸入軽水炉が7基、70年代末までにもう5基が完成することになっていた。GEとウェスチングハウスは激しい販売合戦を演じ、戦利品を平等に、それぞれ6基ずつ分けあった。
1960年代初頭、日本原子力研究所(JAERI)は民間企業の支援という二次的責務に後退させられて、日本の基礎研究を確立するという使命はほとんど忘れ去られた。不満を持った科学者や職員たちによって、大規模な労使紛争が持ち上がった。
1964年にそこに乗り込んだのは、三菱造船の社長を退任したばかりの丹羽周夫(81) だった。丹羽は自分が育った三菱財閥の伝統に則って、日本の自主独立性推進という明確な態度を持ち込んだ。かなりの内部抵抗を排除して、彼は研究所を全面的に再組織し、研究目標を明確に掲げるやり方を採用した。日本の電力会社がアメリカの軽水炉輸入に傾いていくなか、丹羽は、研究計画をより進んだ原子炉システムへと方向転換させた。
しかし、増殖炉はもはや無批判に受け入れられなくなっていた。1957年の長期計画の中にみられた、増殖炉の実現は目前、という当初の熱気は冷め、他国での増殖炉研究のなかで技術上の問題がどんどんと増えていくのを研究陣は注意深く見守っていた。にもかかわらず、丹羽は増殖炉を強制的に推進し、これを研究所の計画に追加させた。
1964年末、日本原子力委員会は動力炉開発委員会という特別グループを発足させた。その任務は長期的研究開発計画を作成することだった。丹羽はこの委員会に確固たる目標と、それを実現するための明確なプランを持ち込んだ。増殖炉の分野では、大電機メーカーの東芝がとくに熱心だった。同社は沸騰水型原子炉の特許を通じてGEと結びつきを持ち、GEの積極的な増殖炉売り込みには東芝自身も関わり合いを持ちたいと感じていた。
さらに重要なことは、日本の電力企業が増殖炉に熱意を示したことだった。それはデトロイト・エジソンのウォーカー・シスラーと彼らとの個人的なつながりに由来するものだった。1950年、在来型の発電技術を研究するための第1回技術代表団がアメリカを訪れた時、これを迎える主役となったのはシスラーだった。これ以降、シスラーは定期的に来日し、常に首相を含むトップレベルの人々の歓迎を受け、また、日本の電力会社幹部が渡米した時、最初に立ち寄るのはシスラーのデトロイトのオフィスだった。彼らはアメリカ産業の技術能力に完全な信頼感を抱き、シスラーに商業用増殖炉は実現可能だと言われると、それを信じた。
日本原子力研究所(JAERI)の研究陣は依然増殖炉に懐疑的で、動力炉開発委員会も消極的な勧告しかしなかったが、1967年の最終報告では、5万キロワットの実験炉を勧告しただけでなく、実験炉完成よりもずっと前に30万キロワットの試験炉の製作を開始することを勧告、実施母体として、動力炉核燃料開発事業団が設立された。丹羽のとくに強力な主張、東芝自身の利益、同計画の資金繰りを助けることを求められていた電力会社のコミットメントを総合した圧力が、より野心的な計画を出現させたのであった。
西ドイツにも増殖炉擁護論者がいた。そのひとり、カール・ウィルツ(82) はベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所の1930年卒業生で、ウェルナー・ハイゼンベルグ(13)が率いた戦時中のドイツ爆弾計画のメンバーだった。1955年、ウィルツはカールスルーエ原子力研究センターの指導的存在となり、彼の指導下での西ドイツ全体の原子炉建設計画に対する民間産業の支援組織をつくったカール・ウィナッカー(53) と良好な関係を築いた。ウィナッカーは、小型の天然ウラン重水炉を建設するというウィルツの計画を支持したが、ウィルツはその計画が完成する以前から、彼のチームを団結させるための新しい計画を求めていて、彼の注意は増殖炉のうえに注がれていた。
1957年、重水炉の設計作業が完成に近づいたため、ウィルツは増殖炉研究を開始した。1959年、彼は研究所の理論部長ウォルフ・ハーフェレ(83) を1年間にわたる増殖炉研究のためにオークリッジに派遣した。ハーフェレは帰国後、増殖炉チームのプロジェクト・マネージャーに任命され、事実上、ウィルツの軌道を離れて、後日、彼自身の研究所を起ち上げた。
ハーフェレは増殖炉計画が西ドイツの技術進歩にとって最重要なものだと信じていた。彼は研究をフランスのそれと結合させるとようにという一部ヨーロッパ主義者の動きに抵抗した。自主自立的なフランスの科学者たちもそれを拒絶し、それぞれ別個に増殖炉計画に取り組むことになった。
1964年にGEが10年以内に商業用増殖炉を量産すると発表した時、ハーフェレのチームは恐慌状態に陥った。西ドイツの技術が後れを取ったまま取り残されるのをおそれて、彼らはあわてて、当初の研究日程を加速する修正案をつくった。その裏付けとなる原価見積もりは楽観主義と偽りの寄せ集めを含んでいたが、政府をそれを認め、試験増殖炉2基の建設資金も承認した。うち1基は数年のうちにキャンセルされたが、冷却材としてナトリウムを使用するもう1基の建設は1973年、ライン下流の小さな町カルカーでようやく開始された。
原子炉チームの相競合する国際的兄弟愛の中にあって、突然の原子力発電の台頭は驚くにはあたらなかった。彼らは何年も前からそれは当たり前だと考えてきていた。しかし、それが到来した時、彼らは原子炉を建設し、運転していくためには、付随するサービス、部品、機材などを広範に開発することが必要だとは思い至らなかった。ウランの発見、採掘、破砕加工、発電機、バルブ、ポンプなど非核設備の開発、使用済み燃料の再処理や廃棄物の貯蔵など、膨大な付随事項にまで配慮が及ばなかった。原子力発電に取り組むすべての国の科学者と技術者は依然として原子炉システムだけに自らをささげればよいと思い込んでいた。その結果、災害が発生した時、彼らはまったく不意を打たれたのであった。
【登場人物の整理】
(79)ウォーカー・シスラー (米):デトロイト・エジソン社長 (増殖炉を推進、エリー湖の実験炉)
(80) ミルトン・ショー(米):AEC原子炉開発部長(増殖炉の開発を推進)
(81)丹羽周夫(日):日本原子力研究所(JAERI)所長(三菱造船出身、増殖炉の推進)
(82)カール・ウィルツ(独):カールスルーエ原子力研究センター(増殖炉の推進)
(83)ウォルフ・ハーフェレ(独):カールスルーエ原子力研究センター理論部長(増殖炉の推進)
第18章 一時的で、危険で、低級な.....
1957年、イスラエルのネゲブ砂漠の中心部ディナモに、ある施設が建設された。当初イスラエルはそれを繊維工場だと称したが、1960年中ごろ、アメリカの情報機関がこれは原子炉であることを突きとめ、アイゼンハワー政権はイスラエルにその正体を明らかにするよう圧力をかけた。ダビド・ベングリオン首相はイエラエル国会でこれが原子炉であることを認め、それが3年前フランスと調印した契約に基づき「平和目的のために」建設されつつあると述べた。
イエラエルとフランスの取引は、1956年のスエズ危機で両国がともに「負け」の側に回ったあとすぐ、逆境にあるもの同士の同盟として始まった。それはアラブ世界の両国に対する敵意をも反映したものだった。イスラエルはその存在ゆえに、フランスへの敵意はアルジェリアへの占領継続のゆえであった。
イエラエルはアメリカとの良好な関係を望んでおり、ベングリオンはフランスとの秘密取引によって生じた悪感情を解消するためにケネディ大統領との会談を望んだが、ケネディはそれを執拗に無視することによってアメリカの深刻な懸念を示した。フランスとの取引がワシントンとの協議なしに決められただけでなく、事前の平和利用の意思表明や原子炉の定期的な査察などの「保障措置(セーフガード)」協定もなく実行されていた。それはアメリカがアメリカ製の原子炉を買いつけた国々に要求していたものだった。イスラエルはアメリカ人査察官の立ち入りを渋々認めた。
ディナモの重水炉は2万4000キロワットで長崎型の20キロトン級原爆を年間1.2個つくる能力を持っていた。ただ使用済み燃料棒からプルトニウムを抽出するためには再処理工場という名で知られる化学プラントがなければならない。フランスはイスラエルにそのプラントを売却することは拒否した。しかしイスラエルがあるフランス企業にプルトニウム抽出プラント建設に助カを求めたとき、それを止めようとはしなかった。その企業はフランス原子力庁(CEA)からのライセンスのもとフランス核兵器計画のために再処理工場を建設した企業だった。その企業は青写真を提供し、イスラエルの技術者たちが自分自身で細部まで完成するようにさせた。
イスラエルが原爆にゴーの決定を下したのは1967年6月の6日間戦争の直後だったようだ。1957年当初の原爆ロビーであった国防省のシモン・ペレス(84) 、参謀総長のモシェ・ダヤン(85) 、原子力委員会のエルネスト・ベルクマン博士(86) らは、1963年、ベングリオンが首相の座を追われ、レビ・エシュコルにとって代わられた時、その後ろ盾を失った。エシュコルは原爆計画を凍結した。しかし、ゴルダ・メイアが首相になった時、戦争を前にして、ダヤンやペレスという古い核ロビーが半追放生活から戻ってきた。6日間戦争の勝利はイスラエルに国際的圧力を無視してよいような短い時間を与えた。CIAからその報告を受けたリンドン・ジョンソン大統領はいかなる非難をも試みなかった。いまイスラエルと対決姿勢を取れば、ちょうど微妙な段階にある、核兵器拡散に反対する全世界的条約がほとんど不可能になってしまうという判断も働いていた。
1968年、イスラエルは天然ウランの供給を増やす必要を感じ、アメリカの監視機関に気づかれないようにそれを実現した。秘密情報機関モサドの工作員たちが、200トンの天然ウランを輸送中の商船からそれを盗み出すという大胆不敵な計画を思いついた。この船はリベリア船籍に変わったばかりのシアーズバーグ号で、アントワープでウランを積み込んだあと大西洋に出て、ジェノバに向かった。地中海に入ったあとこの船は蒸発し、世界の人々の前から姿を消した。船はジェノバめざして北上するかわりにまっすぐ東へ向かって、キプロス島とトルコの間の水域でイスラエルの貨物船と落ち合っていた。数日後、トルコの港イスケンデルンに入港した時、乗組員たちはナポリが最後の寄港地だったと報告したが、船倉は空っぽだった。
イスラエルの原爆計画に使われた分裂物質の第二の外部ソースと推定されるものは立証されてはいないが、アメリカの政策決定者たちは、イスラエルがアメリカ国内の原子力施設から高濃縮ウランを秘密裏に入手したのではないかと秘かに懸念している。1965年、ペンシルベニア州アポロにある民間濃縮工場の定期査察で200ポンドの高濃縮ウランの紛失が判明した。査察したアメリカ原子力委員会(AEC)とFBIは何回も調査したが、行方不明のウランの足取りはつかめなかった。この工場を所有する企業はシオニストが会長を務めていて、監視対象ではない核原材料の供給でイスラエルとの商売上の関係を持っていた。CIAはその行き先を知っているかもしれないが、これまでそれを認めていない。
1960年中ごろまでにアメリカは、「核保有に近い国々(いわゆる、n 番目の国々)」について確固たる政策を確立すべき時期が来た、と判断した。「核(兵器の)不拡散」という概念が表面に出るまでに10年間を要した。この問題について、アメリカの政策はそれほどいい加減だった。
ケネディはこの問題により大きな懸念を示したが、彼のとった方法は効果的なものではなかった。1960年代初頭、これ以上ヨーロッパに独自の核戦力保有国が出現するのを防ぐため、とくにその中でも一番恐れられていた拡散の対象、西ドイツを恐れて、ケネディはヨーロッパ「多角戦力(MLF)」の創設を提唱した。これは指揮系統を一本化した同盟の枠組みの中でヨーロッパにアメリカの兵器を配置しようというものであった。直ちに、ソ連が、核拡散行為だとして非難し、またフランスは軍事的に無意味であると反発した。
中国の核実験のあと、1964年末に核拡散についての大統領特別委員会が設置され、65年8月に、アメリカは核拡散防止条約の第1次草案を作成した。それは核保有国が非核保有国に核兵器製造を援助することを禁止し、核保有5ヶ国以外のあらゆる国々に核兵器保有を断念させることを提唱していた。
この提案はジュネーブの18ヶ国軍縮委員会(ENDC)に提出されたが、この計画が将来ヨーロッパ多角戦力を発展させる可能性に触れていたため、ソ連は激しく反発した。ソ連側はそれが、ソ連が最も恐れる敵対国、西ドイツに原爆を与えるための抜け道以外の何ものでもないと考えた。米国側がそれを引っ込めるまでに2年間が必要だった。米ソ両国の秘密討議のあと、1967年8月、アメリカはMLF提案を引っ込め、2超大国は同じ内容の条約草案を提出した。
しかし、多角戦力以外にも問題はあった。非同盟諸国は、条約を彼らにとって差別的なものでなくするためにさまざまな提案を行った。核選択を拒否された諸国の安全を核保有国が保証する信頼できる条項や、核保有国が非保有国に対して絶対に使用しないという誓約を行うように求めた。要するに、自分たちは核保有を放棄しているのだから、保有国もそれに見合うものを放棄すべきである、ということだった。新たな核保有国の出現、専門語でいう「水平的拡散」よりも、保有国間の軍拡競争の激化、すなわち「垂直的拡散」の方が危険ではないか。だから、保有国の間で核軍縮について目に見えるような措置をとってほしい、例えば、部分的核実験禁止を地下核実験まで含んだ包括的核実験禁止に拡大すること、分裂性物質の今後の生産の凍結、既存備蓄の削減などを訴えたが、ジュネーブ軍縮交渉で、核保有国がこれらの提案をことごとく退けたことによって、条約の差別的性格に対する懸念は増大した。
また、この条約草案の第3条にある、「保障措置(セーフガード)」を通じてこれらの規定を監視する手段、は白紙のままに残されていた。この「保障措置」のシステムに懸念を抱いていたのは、西ドイツと日本だった。この2国は、世界が核を「持つもの」と「持たないもの」に二分されることによって、自分たちが永遠に二流の地位に据え置かれるのは受け入れがたいことであった。それ以外に、この条約によって、コストが増大すること、そして、この条約が、原爆級のプルトニウムを使用する増殖炉に無言の圧力をかけていることを強く懸念した。前者は、「保障措置」が原子力工場からの分裂物質の転用について早期警報を提供することを狙いとしたものだったから、そのためには工場の基本設計を変えることが要求され、また査察のたびに工場での生産を中断させなければならないので、当然その分コストを高め、能率は低下する。ところが、保有国はその適用を免れているため、その分、相対的な競争力を殺がれることになるということ。後者は、ウラン資源に頼らないエネルギー独立を発展させるために頼りにしている「増殖炉」がこの条約によって制約を受けたり、最悪の場合、全面禁止になってしまうことを恐れた。
西ドイツの再処理工場建設に熱意を示していたカール・ウィナッカー(53) と、彼の親しい同僚でカールスルーエで西ドイツの増殖炉計画をつくりあげたカール・ウィルツ博士(82) は、新しい「保障措置」システムの内容を即刻明確にすることを求めた。そして二人は彼らの立場に日本から国境を越えた支援があることを見出した。アメリカとの交渉チームの指導者だった清成廸(87) は日本の再処理工場と増殖炉を建設中の会社(動力炉核燃料開発事業団)の重要な役員だった。清成もこの条約は増殖炉開発を不可能にするだろうと考え、「保障措置」システムの内容をきちんと決め、簡素化する必要を強調した。交渉が終わるまでに、「保障措置」システムの有効性は妥協の対象となったが、その理由は増殖炉に対して持つその阻害的コスト効果に他ならなかった。そしてできあがったシステムは、このあまりにも微妙な施設を、言葉のいかなる意味においても「保障」できるとは思えなかった。コスト意識の強いドイツ人とその背後に隠れた日本人の干渉は大きな成果を収めた。
またウィルツは、1967年春、ある提案をもってワシントンを訪れた。それは工場査察について、重要なポイントに絞って査察することによって、査察による工場稼働への影響を軽減しようとするもので、アメリカもそれに同意した。しかし、そのポイントをどこにするかはまだ決められていなかったので、その仕事は、カールスルーエ増殖炉計画のプロジェクト・マネージャー、ウォルフ・ハーフェレ(83) に委ねられた。西ドイツ政府はこの研究に500万ドルを提供し、国際原子力機関(IAEA)はこれを公式に支援することに同意した。ドイツ人は査察を免れようと試みていたわけではなかった。ただそれが最も安価に行われるのを求めたのだ。ハーフェレは、原料ウラン鉱石に始まり、最後には使用済み燃料棒から生産される分裂物質までに至る燃料サイクルの全体の注意深い分析をもって仕事を開始した。各ポイントで、何が工場に入り、何が出てくるかを計測することによって、工場運転に対する干渉は最小限にとどめられよう。このシステムはある種の核施設、例えば軽水炉では簡単に効果をあげうるものだったが、再処理工場や増殖炉についてはあまり効果をあげえないものであった。
「保障措置」には防止という意味が含まれているにもかかわらず、結局、早期警報システム以上のものにはならなかった。もしある国がプルトニウム施設から分裂物質を持ち出せば多分10日以内に1つの原爆をつくることができる。この期間は「危険期間(クリティカルタイム)」と呼ばれるが、プルトニウム工場を、原爆級の物質の持ち出しに対して「保障(セーフガード)する」には、理論上、10日ごとに工場を査察しなければならないことになる。そんなことは、それに必要な経済的コストのために政治的に実行不可能であった。そこでIAEAの保障措置事務当局は、プルトニウム工場が年に最低4回の「洗い上げ(ウォッシュアウト)」を受けることを提案した。しかしこれさえもコスト意識の強い国にとっては多すぎるものであった。結局、「危険期間」も「洗い上げ」にも言及しないことになり、その代わりに、査察者が工場の作業について「知識の継続性」を持つことを保証するもの、と言い換えられたが、どのくらいの頻度で査察すればそれが保証されるかという肝心の点は個別に決めれば十分だということにされた。
「保障措置」システムを作り出す仕事はマラソンのような作業だった。IAEA委員会はウィーンのIAEA本部で10ヶ月にわたり83回の会合を開いた。それ以外に、代表団のグループがIAEAビルの廊下やロビー、さらには近くのレストランで非公式に会ったものまで含めての微妙な交渉を通じて、アメリカ代表団は「知識の継続性」について一般論で触れておくことに成功したのだった。何が何でも幅広い土台に立ったコンセンサスが必要で、コンセンサスができた点のみが明文化され、他のすべての点は、実質的にはあとまわしにする一般的文言で表現されたのは、この種のすべての国際交渉と同様だった。
これら全体を通じて、アメリカ代表団はその「知識の継続性」の定式の背後に隠れ、「危険期間」という重大問題を強く主張することができなかった。彼らは、もしある国が原爆級の物質を持ち出したことがわかった場合でも、アメリカの交渉能力は、それから原爆をつくることをやめさせよう説得できるほど強力のはず、という仮定を、過去20年以上と同じように持っていたのである。
【登場人物の整理】
(84) シモン・ペレス(イスラエル):国防相、外相、首相、大統領(原爆ロビー)
(85) モシェ・ダヤン(イスラエル):参謀総長、国防相(原爆ロビー)
(86)エルネスト・ベルクマン(イスラエル):物理学者(原子力委員会、原爆ロビー)
(87)清成廸(日):動力炉核燃料開発事業団役員(「保障措置」について、アメリカと交渉)
第19章 世界よ、聞け
1968年8月、アメリカがその初期の原爆実験を太平洋のマーシャル諸島で始めてから約20年後のこと、リンドン・ジョンソン大統領は、そのー小島ビキニ島が再び人間の居住に適するようになったと誇らしげに発表した。数百人のビキニ島民は躍り上がって喜んだ。1946年以来、同島民と他のマーシャル諸島の住民たちは、その美しい、孤立した過疎の島々が爆弾実験のためには理想的だと考えたアメリカ原子力委員会(AEC)とアメリカ軍の意のままに別の島へと避難させられていた。ビキニ島民が移り住んだ島の漁場は劣悪で、土地はあまり肥えておらず、彼らは栄養失調に苦しめられていた。
1954年、マーシャル諸島の住民1万1000人は、核実験とその生活への障害に対する共同抗議書を国連に送った。アメリカは国連信託統治協定に基づいてマーシャル諸島を統治しており、毎年、島民の福祉状況について国連信託統治理事会に報告しなければならない。ソ連とインドがこの抗議に呼応して、アメリカに核実験の停止を求める決議案を提出したが、アメリカに友好的な諸国が支配する理事会はそれを却下し、核実験はさらに4年間続けられた。島民たちは、核実験の降下物が、放射性の火傷、嘔吐、毛髪の脱落など、放射線の害毒の確実な兆候を引きおこしたことを明らかにした。その訴えは広範な国際的抗議の引き金となり、拡大し、1958年の実験停止後も続いた。そして1964年、島民たちは甲状腺腫瘍など放射線障害の後遺症を示し始めた。AECはこれまで降下物からは長期的問題は起きないと一貫して島民に告げてきたので、アメリカ政府は困難な立場となった。だからビキ二島がもはや安全になったというジョンソンの発表はアメリカ政府がその窮地を挽回するチャンスとなるものだった。島民が帰島するまでには準備が必要だった。表土は除去され、5万本の新しいヤシの木が植えられた。アメリカ当局者は島を元通りにするために懸命に努力した。しかし、いくつかの事柄は元通りにはならなかった。新たな植物は粗悪であり、礁湖内の海岸生物は変わり、地下には破壊された実験施設のねじれ曲がった部品が埋められていた。
このあと7年間に約100人のビキニ島民が少しずつ帰島した。1975年、アメリカ当局者は最初の放射線のテストを行ったが、その結果はガイドラインを大きく超える衝撃的なものだった。その報告は島民には公表されず、多量のストロンチウムを蓄積しているとみられる木に登るヤシ蟹などいくつかの食物を食べないようにという警告を受けただけだった。1978年までに、ビキニ島民の体内放射線レベルはアメリカ基準の最高限度の2倍近いことがわかり、アメリカ政府はビキニ島民を再度退避させる必要があると発表せざるを得なかった。
ジョンソン大統領が胸を張ってビキニ島民の帰島を発表することができたのは、放射線専門家の自信が依然強かったからである。彼らは1950年代の死の灰についての嵐のような国際的論議を切り抜けていた。しかし、70年代末までに専門家たちに対して大衆が抱くイメージはひどく悪化した。専門家たちが何も知っていなかったことがたくさんのデータから明々白々となってきた。
核実験以外からの死の灰の問題も50年代末から始っていた。ヨード131が注目を集めたのは、1957年にイギリスのウィンズケールで起きた原子炉火災のときだった。半減期8日間という短命のヨード131が体内に入ると甲状腺に集まり、ガンの原因となる。イギリスは地元の牛乳サンプル内のヨード131のレベルがあまりに高いことを発見、200万リットルを投棄処分とした。
その2年後の1959年、アメリカのネバダ核実験場の東1000マイルのセントルイスの牛乳サンプルでウィンズケールと同レベルのヨード131がされた。実験場周辺のAECモニター・チームはそれまで、外部のガンマ放射線は計測していたが、ヨード131は全く無視していた。ガンマ放射線との関連を通して、ヨード131が過去にさかのぼって計測された。その結果、南部ユタの牧場で飼育された雌牛の牛乳を飲んだ子供たちは、きわめて大量の放射線を摂取したかもしれないということがわかった。また、生物の体内で放射性物質が驚くべき程度で濃縮されているのも判明した。例えば、魚類からはその生息する水域の1000倍、鳥類からは1万倍ものヨード131が検出された。
ヨード131と周辺住民の甲状腺ガンについて最初の研究を行ったエドワード・ワイス(88) は、15才以下の小児に突然甲状腺ガンが出現していることに注目した。それまでこの年齢層にはガンは記録されていなかったからである。AECは部内で、ワイス報告から毒を抜くため、入念な再検討を加え、わざと作業を遅らせた。そしてこれが公表された時、15才以下の甲状腺ガン発病例の異常増大は、年齢区分を20才まで拡大することで巧みに隠匿された。
ネバダの放射能汚染が明らかになったのは、初期のAEC関係資料が機密リストからはずされた1970年代末になってからのことだったが、それ以前に同じような問題が、ウラン採掘現場で起こっていた。1960年初頭、アメリカのウラン鉱山の労働者の10~20%が肺ガンで死んでいることが判明した。
地殻内のウラン鉱床ではどこでも放射能を介しての鉱物の自然崩壊がラドンと呼ばれる放射性ガスを産み出す。このガスは人体内に吸入されたとき「ラドンの娘たち」と呼ばれるガス自身の自然崩壊物をつくり出し、これはアルフア放射線を放射するので、肺の筋肉に滞留すると、ガンの原因となることがある。
しかし、雇用者たちは労働者に、作業終了後1時間ですべての放射性は肺からきれいに出てしまうので心配は無用だと言ってきて、1960年代に初の死者が出るまで何の措置も取られなかった。ヨーロッパではすでに1879年にこの問題が取り上げられ、1940年代には坑内換気について強制的な規準が設けられていた。鉱山業界の強力な反対や、上下両院合同原子力委員会公聴会での核擁護派の証言を押し切って、鉱山での「保健規準」が制定されたのはようやく1967年になってからだった。
この公聴会での核社会側の中心的な証人はマサチューセッツ工科大学のロブリー・エバンズ教授(89) だった。彼は、それ以下では人体にいかなる害も及ぼさない放射線の水準、いわゆる「敷居線量」が存在するという主張の指導的存在だったが、放射線専門家のほとんどはもはやその理論の肩を持たなくなっていた。それにエバンズの客観性にも疑念が表明された。彼はその研究の支援のためにAECから数百万ドルを受け取っており、ウラン鉱山会社の顧問の仕事もしていたからである。
研究者たちは、ラジウム文字盤塗装工、広島・長崎の生存者、イギリスにおける脊椎炎の患者について追跡調査や、動物についての研究結果から、大部分の専門家がずっと以前から想定したこと、すなわち、放射線の影響は被曝量に直接比例する、という結論を確信しはじめ、また、低い被曝量でも何らかの影響があるという証拠が増え、ついに「敷居線量」という考えを捨てることを納得させた。
となると、きわめて低い量での被曝について新たな不安感が生まれてきた。1956年、イギリスのアリス・スチュアート(90) という疫学者がX線が人間の胎児に与える影響を研究した。スチュアートによると明らかに無害と考えられてきた妊婦のX線検査が子供の白血病を大幅に増やしているらしいという。当時は誰もこれを大して気にとめず、専門家たちは彼女の分析を統計学的に見当はずれだとして否定した。しかし、1960年代になって、アメリカ北東部の37産院での75万件近くの出生例の研究から、妊娠中にX線検査を受けた母親から生まれた子供は、そうでない子供よりも40%も多く白血病やその他のガンにかかっていることがわかった。スチュアートの発見を支持しないいくつかの研究結果が依然として発表されたものの、結局、胎児の放射線に対する感受性は特別に強いというコンセンサスが生まれ、妊婦にX線をかけることをやめたが、それ以外は変わらなかった。一部の保健物理学者はそれに抗議し、そのリーダーの1人、カール・モーガン(56)は、1967年、現在の水準で医療にX線を使っていることが毎年アメリカで3500件ないし2万9000件の死亡を引き起こしていると発表して、激論を巻き起こした。
それは科学的な見解の対立として始まったが、たちまち政治上の対立に変わった。低水準での放射線の危険が認められれば、原子力の将来はない。当時ちょうど100万キロワットの原子力発電所が計画されており、公衆に必要なのはモーガンらの警鐘ではなく、放射線は大丈夫だという保証だった。そこでAECは、アーネスト・スターングラス(91) という科学者が、ネバダの核実験による死の灰によってすでにアメリカの乳児40万人が死んだと主張した時、AECは反撃する決意を固めた。核実験の死の灰を研究するためにAECと契約していたバークレー校出身の若いアーサー・タンプリン(92) に白羽の矢が当たった。カリフォルニア州のローレンス・リバーモア研究所で研究を続けたタンプリンは期待されたとおりにスターングラスの数字に挑戦するような結果を生み出した。ただ彼は、スターングラスよりは控え目にみても100分の1以下であるという結論を出していた。これではなお4000人の死亡件数があったということになり、AECにとってPR上、頭の痛い問題となった。
報告書草案から4000人の死亡推定を削除する要求をAECから受けたタンプリンは、リバーモアの上司のジョン・ゴフマン(93) に相談した。ゴフマンは、全国規模の原子力発電計画からの大規模な放射線放出の健康への影響についての長期的研究で、タンプリンとともに作業に従事していたが、AECが自分に都合の悪い情報を圧殺しようとする態度をとることにかねがね反発していた。1963年彼は、ヨード131と甲状腺ガンを関連づけたエドワード・ワイスの好ましくない結論をチェックするために設けられた再検討委員会の委員に任命されたとき、彼は委員会の全メンバーとともにワイスの研究を支持したが、結論が公表された時、それがショックを与えないように手直しされていたのを見て、二度とこのような偽りには加担しない決意を固めていた。だから、タンプリンが4000人という数字を発表することに固執した時、ゴフマンはそれを全面的に支持し、この二人は核共同体から破門される方向に一歩踏み出した。また、全国的な原子力発電システムの健康への影響についてのゴフマン=タンプリン共同研究の結論にもAECは不満だった。アメリカの放射線に起因するガンや白血病による死者数は以前予想されていたよりも20倍は増えるとみてよいこと、遺伝的な被害もこれまで過小評価されていた、という内容で、現行の公衆放射線保護基準の数字があまりにも高すぎると判定していた。
二人はAECから、さまざまな厭がらせや圧力を受け、自分の意に反して、リバーモア研究所を辞職した。いずれも、はっきりとした政治的殉教の理由を持っていたわけではなかったが、二人とも、職業的良心の強い感覚を持っていた。そして二人とも自身の安泰を最大の関心事としていたが、政治的抑圧のトーンがきわめて強い当局側の彼らに対する敵意の強さは、これに続く何年かのうちに彼らを核共同体への強力な反対者に変えた。
【登場人物の整理】
(88)エドワード・ワイス(米):疫学者(ヨード131とネバダ周辺住民の甲状腺ガンの関連の研究)
(89) ロブリー・エバンズ(米):MIT教授(代表的な「敷居線量」存在論者)
(90)アリス・スチュアート(英):疫学者(X線の胎児への影響など「低線量被曝」研究の先駆者)
(91)アーネスト・スターングラス(米):科学者(ネバダ核実験の胎児への被害を告発)
(92)アーサー・タンプリン(米):ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
(93)ジョン・ゴフマン(米):ローレンス・リバーモア研究所(ネバダ核実験の死の灰の研究)
「第4部・1970年代(前)」につづく
「まえがき」 「詳細目次」 「国別・登場人物一覧」
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