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「核の栄光と挫折・巨大科学の支配者たち」第1部 1940年代
第1部 1940年代
第1章 原罪
原子爆弾の製造を最初に着想したのは、ハンガリ−人の物理学者レオ・シラ−ド(1)だと言われている。彼は1935年、亡命先のロンドンで、H・G・ウエルズの小説『解放された世界---人類の物語』をヒントに強力な爆弾を製造する幻想にとりつかれた。その基礎になる理論は次の二つである。
1. 1. 『核の連鎖反応理論』……一部の元素(放射性元素)では原子はたえず変化の状態にあり、分裂して電荷を持った粒子を放出している。 その中の一つの中性子が一つの原子を分裂させると二つの中性子ができ、その二つの中性子が二つの原子を分裂させると四つの中性子ができる……という反応をまとめて一度に起こすと突然、巨大なエネルギ−が得られることになる。(当時、彼はその元素がウランとは思いつかずベリリウムを有力候補とみなしていた。)
1. 2. 『臨界質量理論』……放出された中性子がすべて原子に命中する訳ではないので、連鎖反応を引き起こすには、放射性元素の最低限度、すなわち「臨界質量」が必要となる。
彼はナチスが先に原爆をつくるのを強く懸念して、このアイディアを特許に取りイギリス軍に提供しようとしたが、その反応は鈍かった。
1938年12月、ベルリン大学のオット−・ハ−ン(2)とフリッツ・シュトラスマン(3)がウラン元素の原子に中性子をあてると分裂が起こることを証明する実験を行った。その数週間後、フランスのフレデリック・ジョリオ=キュリ−(4)がウラン原子はいったん分裂すると一個以上の中性子を放出することを証明した。
当初、ドイツ政府もフランス政府もその結果に無関心であったが、大戦勃発(1939.9)後は「レ−ダ−」とともに「原爆」の開発がカギを握るとわかって、物理学者が戦争に大量に動員されることになった。(第一次大戦は「化学者」の戦争であった。)
両大戦間は物理学の黄金時代で、その中心はドイツのゲッチンゲン、ベルリン、ミュンヘンの各大学で、アインシュタイン(5) 、マックス・プランク(6)、ニ−ルス・ボ−ア(7)らがいた。その他、デンマ−クのボ−アの原子物理研究所、イギリスのケンブリッジ大学カベンディッシュ研究所、パリのラジウム研究所、レニングラ−ド物理学研究所、アメリカのコロンビア、シカゴ、プリンストン、バ−クレ−の各大学に原子力研究部門が置かれていた。
シラ−ド(1)はアメリカに渡り、イタリア人エンリコ・フェルミ(8)と組んで、コロンビア大学にいて、アメリカ海軍に働きかけをしたが、反応はなかった。
ドイツではジョリオ=キュリ−の実験の直後、ハンブルグのパウル・ハルテック(9)とウィルヘルム・グロ−ト(10)が陸軍に働きかけ、その支持を受けた。
ソ連では科学アカデミ−が「ウラン問題」研究委員会を発足させ、イゴ−ル・クルチャトフ(11)とユ−リ・ハリトン(12)が連鎖反応を起こす計画を開始したが、ドイツ軍の侵攻で挫折した。
物理学ではいちばん進んでいたドイツは原爆製造では結局立ち遅れてしまったが、それは、ウェルナ−・ハイゼンベルグ(13)らドイツの物理学者がヒトラ−に好感を持っていなかったということのほか、彼らが工業技術を一段低いものとみなす「俗物主義」にとらわれていたためといえる。
1939年、ジョリオ=キュリ−たちは放出される中性子を減速して命中する可能性を高めるために、1931年にアメリカのハロルド・ユ−リ−(14)が発見した重水でウランを取り囲む方法を考案した。当時、大量の重水を製造していたにはノルウェ−のノルスク・ハイドロ社だけで、同社の株式の65%はフランスのバンク・ド・パリ・エ・デ・ペ・バが所有、25%をドイツの化学コングロマリット、I・G・ファルベン社が所有していた。1940年2月、フランスはハイドロ社の重水を買い占め、空輸しようとしたが、ドイツ軍の度重なる妨害を受け、苦難の末、スコットランド経由でパリに運ぶことに成功した。しかしフランスはこの年の6月にドイツに敗北したので、重水は結局使用されないままイギリスに運ばれた。
イギリスは、当時の大きなウラン鉱のひとつであったチェコスロバキアの鉱山が既にドイツの手におちていたので、ベルギ−領コンゴ産のウランを狙い、ベルギ−のユニオン・ミニエ−ル・ド・オウ・カタンガ社に近づき、ウランの入手に成功、ここに重水とウランという連鎖反応に必要な材料が揃ったのである。
しかし、ウラン鉱石中の99%以上は非分裂性のU238 で、分裂性のU235 はごく僅かしか含まれていないため、臨界質量に達するには40トンものウランを集めなくてはならず、そんなに重い爆弾は飛行機では運べないので、政府は原爆を非実際的な兵器とみなし、その開発には消極的であった。その時、亡命ドイツ人学者のオット−・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)がU238 とU235 を分離して、純粋なU235 を抽出するアイディアを出し、やっと政府も乗り気になって、暗号名「モ−ド委員会」を設置して、1940年末までにその分離が理論的に可能なことを確認した。しかし、1941年5月のドイツ軍によるロンドン大空襲など、戦局が緊迫してきて、ついに原爆研究を断念、それまでの成果をアメリカに送り、それが後のマンハッタン計画の基盤となった。
アメリカでは、シラ−ド(1)がアインシュタイン(5)を説得し、1939年8月2日、ル−ズベルトに手紙を書かせた。ル−ズベルトはそれに応じて、「ウラン委員会」を設置したが、委員会の活動は緩慢であった。その時、シラ−ドはジョリオ=キュリ−の研究をヒントに、重水のかわりに「黒鉛」を使用するアイディアを得て、これを公表するということを脅しのネタにしたル−ズベルトへの手紙をアインシュタインに書かせ(1940年3月)、その結果、アメリカ政府はやっと重い腰を上げ、ウラン委員会を国防委員会の下に置き、カ−ネギ−研究所理事長だったバンネバ−・ブッシュ(17)を委員長に任命し、「マンハッタン計画」を策定した。これ以後、物理学者たちはビッグ・ガバメント、ビッグ・ビジネスの世界に入りこみ、その後、永久に自分たちの学問の独立を失うことになる。
【登場人物の整理】
(1) レオ・シラ−ド(ハンガリー→米):物理学者(原爆の着想)
(2) オット−・ハ−ン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(3) フリッツ・シュトラスマン(独): 物理学者(核分裂の発見)
(4) フレデリック・ジョリオ=キュリ−(仏): 物理学者(中性子放出の発見)
(5) アインシュタイン(独→米): 物理学者(ルーズベルトに書簡)
(6) マックス・プランク(独): 物理学者(物理学の重鎮)
(7) ニ−ルス・ボ−ア(デンマーク): 物理学者(のちに原爆の国際管理を主張)
(8) エンリコ・フェルミ(伊→米): 物理学者(初のプルトニウム生産)
(9) パウル・ハルテック(独):物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(10) ウィルヘルム・グロ−ト(独): 物理学者(独陸軍に原爆製造の働きかけ)
(11) イゴ−ル・クルチャトフ(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(12) ユ−リ・ハリトン(ソ): 物理学者(連鎖反応実験を計画)
(13) ウェルナ−・ハイゼンベルグ(独):物理学者(ヒットラー嫌い)
(14) ハロルド・ユ−リ−(米):化学者(重水発見、ガス拡散法によるウラン濃縮)
(15) オット−・フリッシュ(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(16) ルドルフ・パイエルス(独→英): 物理学者(U235分離のアイディア)
(17) バンネバ−・ブッシュ(米):実業家(マンハッタン計画を策定)
第2章 従順な行為
1942年、「マンハッタン計画」が始まると、主役は『物理学者』から『技術者』へと変わった。これを管轄する陸軍工兵隊のレスリ−・グロ−ブズ(18)が技術担当最高責任者となり、彼は軍人特有の強引なまでの行動力で、全米から桁はずれの量の必要物資と工業技術のノウハウをかきあつめ、計画を強力に推進していった。
原爆の材料を製造する方法として、次の四つが試みられた。
コロンビア大学では、ハロルド・ユ−リ−(14)が『ガス拡散』によるU235 分離技術を担当。これは、U238 、U235 を含むウランガスを多孔性の障壁を通過させると軽いU235 は重いU238 よりも容易に通過するので、これを繰り返せば最終的に濃縮されたU235 が得られるという方法である。
カリフォルニア大学では、サイクロトロン(原子核破壊装置)の発明者であるア−ネスト・ロ−レンス(19)が『電磁場』による分離技術を担当。これは、ウランガスを強力な磁石の上を通過させると、軽いU235 は重いU238 とは異なった割合で磁石に吸いつけられる、という方法である。
ピッツバ−グのウェスチングハウス研究所では、スタンダ−ド石油ニュ−ジャ−ジ−の技術者イジャ−・マ−フリ−(20)が『遠心分離法』によるU235 の分離を担当。これは、ウランガスを遠心分離器に入れて重いU238 と軽いU235 を分ける方法である。
シカゴ大学では、X線の研究者のア−サ−・コンプトン(21)が、フェルミ(8)、シラ−ド(1)、ユ−ジン・ウイグナ−(22)と共に、黒鉛ブロックで出来た原子炉を建設。 1942年12月2日にはフェルミが世界で最初の核連鎖反応の実験に成功し、微量のプルトニウムを生産することになる。
このうち、『遠心分離法』は、グロ−ブズ(18)が、イジャ−・マ−フリ−の指導力に疑問ありと判断したことにより、最も計画が進んでいたにもかかわらず、放棄され、他の三つの研究が同時進行された。すなわち、『ガス拡散』と『電磁場』による濃縮工場がテネシ−州オ−クリッジに、プルトニウム原子炉がワシントン州ハンフォ−ドに建設された。
しかし『電磁場』は、マンハッタン計画の全予算20億ドルのうちの6億ドルを注ぎ込んだが、結局失敗、以後永久に放棄され、土壇場で『ガス拡散』が劇的な大成功を収めて、その後、この方法が全世界に定着した。ところがこの方法は大量に電力を消費し、(この工場だけで全米の電力の10%を消費し、その後、ソ連、フランス、イギリス、中国で同様の工場が建設されたので、何百万バ−レルもの石油が消費された。)20年後にカムバックした『遠心分離』の方がはるかに電力を食わない、きわめて効果的な方法であることが証明された。
原爆の設計(臨界質量のU235 またはプルトニウムを、事前に爆発が起きないようにケースの中で二分し、それを何百万分の一秒以内にもとに戻す装置)については、バークレー校の39才の物理学者ロバ−ト・オッペンハイマー(23)が抜擢された。FBIは彼がスペイン内戦中に左翼の主張を支持したこと、また、彼の親戚や友人の一部が共産党員だったことから強く反対したが、グローブズ(18)はオッペンハイマーが科学者臭くなく、また、組織能力もあると判断して、それを斥けた。結局、各部門がバラバラに進行していたマンハッタン計画の全貌を知ることができたのは、グローブズを除いてはオッペンハイマ−ただひとりであった。
1. 爆発原理(1):『銃型方式』……臨界質量が約15kgのU235を二つの半球内に収め、それぞれに銃身を取り付け、向かい合わせにして組み立て、銃を発射すると二つが一体となって反応が始まる。
2.
3. 爆発原理(2):『爆縮方式』……プルトニウムの臨界質量は不安定なため、臨界質量に満たない分量を二つの半球に分け、それを爆発物で覆う。そしてそれを爆発させるとプルトニウムは内部にむかって押し潰され、その巨大な圧力によって臨界に達する。
1945年夏の初めまでに両方式とも完成したが、『爆縮方式』には実験が必要ということで、7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルドの砂漠でプルトニウム爆弾の実験が行われ、成功した。フェルミ(8)の速算によれば、その威力はTNT火薬1万トンに匹敵した。
ところがこの実験の前にドイツは既に降伏していたので、シラード(1)やウィグナー(22)らヨーロッパからの亡命科学者たちのシカゴ大学グループは原爆製造の動機を失ってしまい、シラードはその使用に反対する意見書をルーズベルトに提出しようとしたが、ルーズベルトは4月12日に死去し、あとを継いだトルーマンはそれに取り合おうとはしなかった。
トルーマンは決断を引き延ばしていたルーズベルトとは違って、原爆使用については何の疑問も持っていなかった。結局、トルーマンは自分の大統領としての地位を確かなものにするために「決断の人」というイメージをつくりたかったのだ。
【登場人物の整理】
(18) レスリ−・グロ−ブズ(米):陸軍軍人(マンハッタン計画統括者)
(19) ア−ネスト・ロ−レンス(米):物理学者(サイクロトロン発明者。電磁場法担当)
(20) イジャ−・マ−フリ−(米):技術者(遠心分離法担当)
(21) ア−サ−・コンプトン(米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(22) ユ−ジン・ウイグナ−(ハンガリー→米):物理学者(黒鉛原子炉による方法担当)
(23) ロバ−ト・オッペンハイマー(米):物理学者(原爆の設計)
第3章 「最悪の幻想」
1945年5月、ニールス・ボーア(7)は、戦後の原爆製造競争を懸念して、それを避けるためにはマンハッタン計画の秘密をソ連に知らせて国際管理機関をつくるしかないとチャーチルに提言したが、ソ連を潜在的にはドイツよりも大きな敵とみなしていたチャーチルはそれを一蹴した。その後、ボーアはルーズベルトとも会談したが、ルーズベルトもチャーチルと同意見であった。
トルーマンは原爆を政治的に利用しようと、ポツダム会談(7月18日〜)に間に合うようにアラモゴルドの実験を急がしたが、結局、スターリンに原爆完成のことははっきりとは言わなかった。
グローブズ(18)はソ連の工業力とウラン埋蔵量を過小評価して、コンゴのウランさえ押えておけばアメリカの原爆独占は20年は続くとトルーマンに吹き込み、トルーマンもそれを信じて、原爆を戦後の世界支配の切り札に使おうとしたが、広島から4年後の1949年8月ソ連が、そして1952年イギリスが、自力で原爆を製造して、その幻想は破られた。
また、グローブズは、マンハッタン計画について、多額の予算を使ったので国民に報告しなければならないという義務感から、そしてそれに携わった自分たち技術者や科学者を顕彰したいという気持ちから、シカゴ大学のヘンリー・スミス(24)に命じて報告書を作成させ、それは1945年8月12日に公表された。そこには原爆の製造方法は明らかにされていなかったが、どうすればうまくいかないかは説明されており、またプルトニウム爆弾が実際に機能したこと、『ガス拡散』で必要量のU235 が生産できたことなどが書かれており、ソ連などのゼロから出発する国々には計り知れないほどの価値があった。このスミス報告は1948年に、原子力委員会によって、「重大な機密違反」の烙印を押された。
トルーマン政権の国務長官ジェームズ・バーンズ(25)、国務次官ディーン・アチソン(26)らはまもなく、原爆が外交的にはそれほど力のない武器だと気付いて、何らかの国際機関をつくる方向に動きだし、その原案をつくる委員会の長になったアチソンはグローブズを抑えて、1946年1月、TVAを運営してきた法律家デービッド・リリエンソール(27)を長とする顧問団を設置した。
リリエンソール顧問団の課題は、一方では世界から原爆を廃棄し、他方ではそれを平和目的に利用するという二つを何とか結びつけようというものであった。委員のひとりオッペンハイマー(23)が具体的な方式(全てのウラン鉱山と核分裂物質生産工場を国際機関が管理する)を発案した。この案には、鉱山を所有している資本家が「国際化」という名の接収に簡単に応じるのか、またソ連が国内の査察を認めるのか、という問題点があったが、それは克服できないことはないということで、この線で最終的なアチソン=リリエンソール案がまとめられた。しかし、そこにはアメリカの原爆製造の停止は入っていなかった。
この頃、東西の冷戦が公然化しようとしていた。1946年2月、カナダでソ連の原子力スパイ網が摘発され、3月5日、ミズーリ州フルトンでチャーチルの「鉄のカーテン」演説が行われた。
バーンズ(25)はアチソン=リリエンソール案を国連に提案するアメリカ代表としてウォール街の投機家バーナード・バルーク(28)を選んだ。彼は反ソ的な人物で、アチソンはこれではぶち壊しだとバーンズを説得したがうまくいかなかった。はたして、バルークは1946年3月末に自分自身のための顧問団を設けて、アチソン=リリエンソール案を骨抜きにし、またソ連に対してきわめて挑戦的なものにつくりかえてしまった。6月14日、このバルーク案が国連に提案されたが、同19日にソ連のグロムイコ外相はこれを拒否、「まず核兵器を禁止すれば、査察にも同意できる」と逆提案した。その直後、アメリカがビキニで二度目の原爆実験をしたりして、米ソの対立は厳しくなり、7月5日、アメリカはソ連の提案を正式に拒否して、実のある国際管理体制は挫折してしまった。
一方、原子力の国内管理については1945年から話がすすめられ、軍人を含めた管理委員会という法案が提出されたが失敗し、コネチカット州選出の新人議員ブライアン・マクマホン(29)提出の法案が1946年8月1日、原子力法として成立した。このマクマホン法では核兵器の製造、使用に関するあらゆる情報が「部外秘」とされ、違反者には死刑を含む厳しい罰則が設けられた。
【登場人物の整理】
(24) ヘンリー・スミス(米):物理学者(原爆製造報告書作成)
(25) ジェームズ・バーンズ(米):国務長官(原爆の国際管理を志向)
(26) ディーン・アチソン(米):国務次官・長官( 原爆の国際管理を志向)
(27) デービッド・リリエンソール(米):弁護士(米原子力委員会=AEC初代委員長)
(28) バーナード・バルーク(米):投機家(原爆国際管理の国連代表。反ソ派)
(29) ブライアン・マクマホン(米):上院議員(両院合同原子力委員会=JCAE委員長)
第4章 原子力群島
ソ連の原爆は、広大な国土に散在しながらも、非常にしっかりと統合された一連の都市、工場、研究所で製造されたが、その全体像は明らかでない。科学者や技術者の正体も長らく不明で、名前が明らかになってからも世に広く国際的評価を受けていた者はいなかった。そのため西側の分析家たちはソ連の専門知識をなかなか認めようとはせず、当初、1946年のカナダでのスパイ摘発や、1950年の亡命ドイツ人科学者クラウス・フックス(30)の自白などもあって、ソ連の原爆成功は原子力スパイがもたらしたものに違いないと推理した。
しかし実際にはソ連は1939年8月には原子物理学に強い関心を抱いており、イゴール・クルチャトフ(11)を中心にドイツ、フランスの画期的な実験をフォローし、また独自の諸実験も行って、1942年末には原子力の計画を確立していた。クルチャトフはクリミア国立大学で物理学を学び、1925年に22才の若さでレニングラード物理学研究所に招かれ、1937年にはローレンス(19)に遅れること7年目にして、ヨーロッパで最初のサイクロトロンをつくった人物である。
ソ連軍がドイツ領内に侵攻していくにつれて、ソ連当局者は西側と同様ドイツの原子科学者と接触し、マンフレッド・フォン・アルデンネ男爵を引き抜くことに成功した。彼は一匹狼の物理学者で、U235 の電磁分離の端緒になるものを開発していたが、そのスタッフと実験所は黒海沿岸の保養地スフーミに移され、以後10年間、同位元素分離の仕事に没頭した。
1945年8月、スターリンは彼らに急いで原爆をつくるよう命じた。その計画では、政治面をラベレンチ・ベリヤ、科学面をクルチャトフ、そして技術面はソ連版グローブズ将軍ともいうべきボリス・バニコフ(31)とベリヤの副官の一人、アブラーミ・ザベニャギン(32)の二人が管理した。この二人は1920〜30年代にソ連の工業基盤を建設するために厳選されたエリート行政官グループ(西側の学者は「赤いスペシャリスト」とよんでいる)のメンバーであり、自分たちの仕事に非人間的、権威主義的かつ専制的な(即ちスターリン的な)管理スタイルを導入した。
1945年8月に発表されたアメリカのスミス報告はソ連チームに貪り読まれ(モスクワでは第一刷として、3万部が公刊された)、その研究に大きな示唆(とくにU235 の分離に『ガス拡散法』を用いたことなど)を与えた。
ウランの供給を確保するため、ソ連は、世界最古のウラン、ラジウム産出地であるチェコスロバキアのヨアキムシュタール鉱山のほか、東ドイツのザクセンの諸鉱山を開発し、1946年の135トンから1948年には900トンまで生産を伸ばした。しかし、そのためにはナチスの技術者を監獄から釈放して主任顧問にしたり、安全に全く配慮しない奴隷労働を課して多くの死傷者を出すということがあった。
クルチャトフらは1948年に黒鉛原子炉を完成させ、翌49年には別のチームによって重水減速のプルトニウム生産用原子炉が完成し、同年8月29日中央アジアのカザクスタン砂漠で最初の原爆実験がなされるまでに、ソ連は原爆2個分のプルトニウムを所有していた。
【登場人物の整理】
(30) クラウス・フックス(独→英):科学者(ソ連の原子力スパイ)
(31) ボリス・バニコフ(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)
(32) アブラーミ・ザベニャギン(ソ):官僚(赤いスペシャリスト)
第5章 『貧しい関係』
広島、長崎の原爆投下は、戦争に勝つための良策としての大量殺人を容認した軍事思想のクライマックスをなすものであるが、その理論は単純で、つまり民間人をできるだけ多く殺せば、生き残った者の戦闘意欲は挫けてしまうだろうというものである。その前例は第二次大戦の前にも小規模ながらあって、1935年のムッソリーニのエチオピア空襲、1937年の日本による中国諸都市の爆撃、そしてドイツによるスペインの町ゲルニカの攻撃がそうであった。
第二次大戦時のドイツ軍のロンドン空襲は港湾施設を爆撃していたつもりだったのだろうが、実際は住宅地域にまで被害が及んだ。イギリスは反攻に転じてから、ドイツの工業基地を爆撃してその戦争遂行能力を打ち砕こうとしたが、実際には目標に正確に命中させる能力が空軍にないことがわかった。そこでチャ−チルは1941年、空軍による出撃を中止させる決定を下した。
この決定はイギリス空軍の自尊心を大いに傷つけ、参謀総長チャールズ・“ピーター”・ポータル(33)は、チャーチルの科学顧問フレデリック・リンデマン(後のチャーウェル卿)(34)とともにチャーチルを説得して、爆撃禁止令を解除させ、1942年のセント・バレンタイン・デーに行われた爆撃では、新しい主要目標は敵民間人の士気であるとの秘密命令を出した。そしてこの戦略が残したのはドレスデン、東京、そして最後は広島と長崎の廃墟であった。
戦後のイギリスは原爆に関する科学的ノウハウはたっぷり持っていたが、その資金を欠いていた。にもかかわらず、当時の労働党政権は1945年、大国としての地位を守るため、独自の核抑止力をつくりはじめたが、そのことについては国民は何も知らされなかった。新聞は「政府機密法」と原爆計画に関する特別な報道禁止令にしばられ、また議会で質問しても答弁は返ってこなかった。そして1952年、10億ポンドを費やしてつくられた原爆の実験が成功したが、それは当初のもくろみどおりの戦略的、外交的な配当はもたらさなかった。
イギリスは、原爆は製造可能であるとしたオットー・フリッシュ(15)とルドルフ・パイエルス(16)の「フリッシュ=パイエルス・メモランダム」をアメリカに提供することによって、カナダとともにマンハッタン計画には大きく寄与していた。そして1943年8月、ルーズベルト、チャーチル、それにカナダ首相のウィリアム・マッケンジー・キングが秘密会議を開き、「ケべック協定」が成立し、原爆の情報、製造、そしてその利用に関しての三国間の協力体制が約束されていた。しかし戦後アメリカで制定された「マクマホン法」は米英間の原子力協力の扉を閉ざしてしまった。
広島原爆の数日前に首相に選ばれたクレメント・アトリーは、当初、原子力国際管理の方法を検討すべきだと思い、また米英ソの三大国が戦争の廃絶の不可欠性を宣言することを期待したが、一ケ月も経たぬうちにイギリスに原爆保有をめざす特別閣議を召集することになる。この点でアトリーを補佐したのは官房長官サー・エドワード・ブリッジズ(後のブリッジズ卿)(35)であった。
イギリスの官房長官は文官であって政治的に任命されたものではないので、政権交替によっても取り換えられず、伝統的に歴代首相のお守り役という存在である。ブリッジズは高名な詩人ロバート・ブリッジズの息子で、有能な行政官として成功し、大蔵省を経て1938年にこの職に就いた。
彼は行政の隅々まで知り尽くした冷徹な官僚としてチャーチルを補佐してきて、また、イギリス史上初の労働党多数政権のアトリー内閣になっても、即座に次のような三つの重要提案を行って、内閣が原子エネルギーでとるべき明確なコースを設定した。
それは、(A) チャーチルの原子力専門家で、官僚出身の保守党員、元内相、元蔵相のサー・ジョン・アンダーソン(36)を原子力最高顧問に起用すること、(B) 原子エネルギーに関する専任閣僚は任命しない、(C) 原爆計画の担当を科学工業研究省から、戦時中、軍需工場の組織化にあたっていた供給省に移すこと、の三つであったが、これらは1945年8月10日、アトリーの原子力問題に関する閣僚級特別委員会「ゼン(ゼネラル)75」によって承認され、ここに、政治家から独立した原爆製造体制ができ上がった。
第一歩としてロンドン郊外50マイルの旧イギリス空軍飛行場の所在地ハーウェルに「原子力利用のあらゆる面」をみる研究機関が設置され、その所長にはケンブリッジの物理学者で、戦争中、カナダの重水原子炉の担当者だったジョン・コッククロフト(37)が任命された。次いで、1945年11月、アトリーはアンダーソン(36)とともに訪米し、トルーマンならびにカナダの当局者と会い、将来の英米間の協力について話し合った。アメリカのグローブズ将軍(18)は、植民地官僚出身で「尊大なジョン」「神様」と異名をとるアンダーソンの高圧的な態度をひどく嫌った。トルーマン、アトリー、キングは原子力開発における三国間の「全面的かつ効果的な」協力を確認したが、グローブズが固執したために、協力は科学データのみに限定されてしまい、イギリスが最も欲しかった技術的なノウハウ、工業上の細目はアトリーの再三にわたる要望にもかかわらず、結局イギリスには与えられなかった。
「ゼン75」は1945年12月、プルトニウム生産用の大型原子炉建設に関するアンダーソン委員会の勧告を承認したが、原爆製造についての決定は1947年1月まで下されなかった。しかし、工場の建設と運営を担当した、インペリアル化学工業会社の技術者クリストファー・ヒントン(後のヒントン卿)(38)は原爆製造という目的をしっかりと認識していた。
プルトニウム生産の監督には、空軍参謀総長を退任していたピーター・ポータル(33)が起用された。彼は原子力についての知識はほとんどなかったし、ロンドンのシティーで若干の会社の取締役をつとめながら徐々に引退生活へと消えていくつもりであったため、その就任を渋っていたが、アトリーの懇請により受諾した。彼は戦時中の意欲や情熱の多くを失っていたが、第一次大戦中の「空の勇士」以来、ずっと大きな尊敬を集めており、また「人を操る技術に鋭い理解力をもった」、非常にすぐれた能力の指揮者でもあったので、原子エネルギーに引き続き最高の優先性を与えるための、閣僚や参謀本部との交渉に重要な役割を果たした。
「ゼン75」では、ヒュー・ダルトン蔵相、スタフォード・クリップス商務相の二人が大規模な核計画の経済的側面に若干の留保を表明した。また肝心のイギリスの契約社である「ICI」と「イングリッシュ・エレクトリック」も、戦後復興の投資需要があまりにも莫大で核の方にまでは手が回らないとして、核計画と一切の関係を持つことを拒否したが、二人の経済閣僚の意見はその反映であった。そのため「ゼン75」は最終的かつ正式な決定を下さないまま、1946年12月に解散し、1947年1月に新しい「ゼン163」が原爆製造を決定した。「ゼン163」ではダルトンとクリップスは排除されていたが、それはおそらくブリッジズ(35)が官房長官として首相に及ぼした影響力の結果であったと思われる。
政府の「原子力に関する諮問委員会」の委員で、ユトランド沖海戦の海軍士官、ノーベル物理学賞受賞者、戦争における作戦研究の事実上の発案者という経歴の持ち主、パトリック・ブラケット教授は、核計画の秘密世界の中で唯一、反対論を記録にとどめた人物である。彼は1945年11月の秘密メモランダムにおいて、イギリスが原爆を開発すれば、資源や物理学者が他の必要産業分野から奪われてしまい、また、核拡散を刺激することにもなると政府に忠告し、さらに、いったん原爆反対を決めたら、イギリスは原子力施設を国連などの査察に開放して、その誠意を証明すべきだと提案した。しかし彼の提案は1944年にニールス・ボーア(7)がチャーチルから食ったのと同じ肘でっぽうを食った。アトリーはブラケット報告を退け、参謀本部はそれをあっさりと無視した。おまけに彼はもう一人の物理学者ヘンリー・ティザードとともに原子力関係の諸委員会から排除されてしまった。
ティザードは、戦時中、チャーチルの個人的な科学顧問フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(34)が、敵爆撃機の編隊にパラシュートをつけた爆弾を落とすという、いささかバカげた防空対策を提案したとき、レーダーに優先性を置くように反論して、何度も公開の席で激論し、また、チャーウェルの「戦略爆撃論」の効果にも反論するなど、チャーウェルと衝突をくりかえして、戦時の核問題から排除された。1946年、アトリーによって、新設された国防省科学顧問に任命されたが、ブリッジズ(35)とポータル(33)は彼を警戒し、1947年1月の原爆製造の秘密決定のときには、彼をブラケットとともにつんぼさじきに置いた。1949年にティザードは秘密メモランダムの中に、「イギリスはもはや大国ではなく、再び大国にはならないだろう。我々は偉大な国民であるが、もし、これからも大国のように振る舞いつづけるなら、偉大な国民でもなくなるだろう。」と書いたが、この論評は、戦後いちはやく、イギリスの没落を予言したものであった。
【登場人物の整理】
(33) チャールズ・“ピーター”・ポータル(英):軍人(空軍参謀総長)
(34) フレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)(英):(チャーチルの科学顧問)
(35) サー・エドワード・ブリッジズ(ブリッジズ卿)(英):官僚(官房長官)
(36) サー・ジョン・アンダーソン(英):官僚出身の政治家(原子力最高顧問)
(37) ジョン・コッククロフト(英):物理学者(英原子力研究機関・所長)
(38) クリストファー・ヒントン(ヒントン卿)(英):技術者(原子力の父)
第6章 片目の王様たち
1949年9月3日、アメリカ空軍の気象偵察機が、カムチャッカ半島東方の北太平洋上空で大気中の放射能が増加しているのを感知し、科学者が分析した結果、8月29日頃にソ連が初の核爆発実験を行ったことが判明した。
アメリカ原子力委員会(AEC)委員長のリリエンソール(26)からこの知らせを受けたトルーマンはひどいショックを受けた。彼はソ連が原爆をつくるのは10〜20年先だと思い込んでいたからである。ホワイトハウスがソ連原爆のことを発表したのは9月23日になってからであった。
ソ連の原爆実験は、原子力の国際管理を復活させる機会でもあったのだが、アメリカの為政者たちはパニック状態に陥り、カーチス・ルメイ将軍(39)に率いられたアメリカ戦略空軍(SAC)を急先峰としたタカ派の政策により、原爆製造は次々に拡大され、1950年3月のトルーマンの水爆製造決定で頂点に達した。
ウラン、プルトニウムといった重い元素の原子を分裂させることによってエネルギーを得る原爆とちがって、水爆のエネルギーは最も軽い元素(水素同位元素)の融合によって得られる。その融合に先立って、大量の熱爆発と途方もない圧力を必要とするが、それさえ得られるなら、理論的には爆弾の規模には限りはない。初期において制約となったのは運搬可能な爆弾の大きさと重さであった。
リリエンソールはAEC初代委員長として、文民統制のもとで原爆と原子力の発展を維持するために、AECを議会や軍部からできるだけ独立した機関とすることに尽力した。それ以前の10年間つとめてきたテネシー渓谷開発公社(TVA)の経験から、「人は自然の諸力と調和しながらはたらく方法を学ぶことができる」というのが彼の信念で、また、5人のAEC委員のうちただ一人、政治的に中立な人物であった。他の4人は共和党員で、サムナー・パイクは証券取引委員会の元委員、ルイス・ストラウス(40)はウォール街の金融家、ウィリアム・ウェーマックは新聞編集者、ロバート・バッチャーはロスアラモス時代からの科学者であった。そして、この5人のうちの3人の反対を押し切って、トルーマンの水爆製造決定が下され、その後、リリエンソールは辞任する。
当初、原爆製造に最も積極的であったアメリカ空軍は、軍事的な優位を確保するためには原爆400個が必要だと提案し、トルーマンとAECはそれを達成するために、ハンフォードでのプルトニウム増産に同意するとともに、U235 も増産するため、オークリッジにもう一つガス拡散工場を建設した。
こうした当初の増産の背後にあったのは「戦略爆撃思想」の完全な容認であった。この先例はイギリスにもあったものだが、航空戦力の任務は、単に陸軍と海軍を支援するのではなくて、敵の国内軍事能力を破壊することによって直接的に勝利をもたらすことである、というものである。アメリカ人はこの軍事思想に深くコミットし、「戦略的」ということばはアメリカ爆撃部隊を包含するものの名前としてつけられ、「戦略空軍部隊」とよばれた。そしてそれは最初、ベルリン、ドレスデン爆撃として行使され、次いで、ルメイ(39)の指揮のもと、1945年3月9日の東京大空襲を皮切りに、日本でも大々的に展開された。
「戦略爆撃」は対外的な関わりあいを厭う孤立主義的な政治家にも、「遠方からの爆撃」によって戦争に勝つという点で歓迎され、ここに、電撃的な都市大量爆撃の完全容認という「空軍力」のドグマは、今世紀初めの地政学的な「海軍力」中心のドクトリンにとってかわるものとなったのである。
議会では、上下両院合同原子力委員会(JCAE)がAECの活動に未曾有の関心を示していた。JCAE委員長のマクマホン(29)は核の狂信者として、自分の地位を固めている最中で、「ミスター・アトム」の名で自分を売り込んでいた。そのマクマホンを助けたのは、頭の切れる、まだ若い、戦時中の爆撃機パイロット、ウィリアム・ボーデン(41)で、この二人の、マクマホン=ボーデン枢軸は、アメリカに原爆はいくらあっても足りないと信じていた。
リリエンソールはアメリカの核政策の変化に疑念を強めており、これにトルーマンが同情的に耳を傾けてくれるものと信じていたが、死ぬ日まで広島についての自己不信の気持を一度も語ったことのないトルーマンは、国務長官、国防長官、AEC委員長で構成する「三人委員会」を設置して、自らの決定権の放棄を制度化してしまった。そして「三人委」で原爆の増産を検討しているとき、ソ連の原爆実験のニュースが入ってきて、以後、水爆製造という問題がもち上がってきた。この新しい熱核兵器が人類全体に及ぼす影響をリリエンソールは深く憂慮したが、彼の前には、軍部のタカ派、議会の強硬派の他、AEC内部の敵も立ちはだかってきた。
ソ連の原爆実験に個人的に非常に驚いたストラウス(40) は水爆製造の必要性をすぐさま確信したが、それを実現するために、マクマホン=ボーデン枢軸の他、マンハッタン計画でグローブズのナンバー2であり、この時、アメリカ軍特殊兵器計画の指揮にあたっていたケネス・ニコルズを仲間に引き入れた。
原子物理学者の中にもタカ派がいた。その中心人物は、ナチから逃れてきたハンガリー難民のエドワード・テラー(42)で、彼はマンハッタン計画の初期から熱核兵器製造の可能性に魅せられ、戦後も、この兵器の実際化についての研究を続けていた。テラーの同調者として、愛国主義的で保守的な、バークレー放射線研究所長ローレンス(19) とその子飼いのルイス・アルバレスがいた。
水爆に反対したのは、オッペンハイマー(23)以下のAECの一般諮問委員会(GAC)の委員たちであった。彼らは、運搬手段による制約を除けば無限の爆発力を持つ水爆が民間人に及ぼす影響を重視したが、それはまた、水爆賛成論の論拠でもあった。GACは水爆よりも、小型の戦術用核兵器(戦場で使用できる規模の核兵器)を多様に開発すべきだと主張した。
リリエンソールはGAC報告を心強く感じたが、一方、水爆賛成派の勢力も拡大していることに失望し、1949年11月7日、トルーマンに辞意を表明した。トルーマンは慰留に努め、その結果、リリエンソールは後任が見つかるまで1〜2ケ月留まることにした。その二日後、AECは、水爆を製造しないというGACの勧告を3対2で承認した。反対したのはストラウスと、マクマホンの法律事務所の共同経営者で、AEC新メンバーのゴードン・ディーン(43)であった。この問題は、アチソン国務長官(26)、ルイス・ジョンソン国防長官、およびリリエンソールの「三人委」に委ねられたが、なかなか合意に至らず、リリエンソールは決定の延期を提案したが、アチソンはそれを支持しなかった。
アチソンは冷戦下のアメリカの主要な政策イニシアチヴのすべて(トルーマン・ドクトリン、マ−シャル計画、NATO、それに、全面的な軍備強化を勧告した1950年4月の国家安全保障会議報告)をつくりあげた最も重要な人物であり、また、トルーマンに朝鮮介入を確固として進言した他、ヨーロッパ第一主義を推進した。彼はリリエンソールとは1946年にアチソン=リリエンソール案をつくった間柄であったが、1950年までには、ヨーロッパに対するソ連の脅威を、ソ連も「パックス・アメリカーナ」を恐れていることを知ろうとも、理解しようともせずに、数世紀前にイスラムがヨーロッパに及ぼした脅威と同一視するようになって、核爆弾の使用について、もはや道義的限界があるとは思わなくなっていた。要するに、かつてのような理想主義の贅沢に耽ることを許すような国際体制は崩壊しており、アチソンは、いわば、道義的な盲人の国にあって、片目の王様たちの仲間に入り、ソ連の原爆がその新しい立場を補強しただけの話であった。
1950年1月13日、ジョンソン国防長官は統合参謀本部よりGACを批判する報告書を受けとり、そのコピーをホワイトハウスに届けた。そして1月19日にはトルーマンがそれを評価する発言を側近にもらして、水爆についてハラを決めたことを示唆し、1月27日の記者会見でそれを確認した。年老いたバルーク(28) は即座に支持を表明、アメリカ科学界で非常に尊敬されていたハロルド・ユーリー(14) がそれにつづいて、リリエンソールを意気消沈させた。
1月31日、「三人委」で、「水爆を含む、あらゆる形の核兵器開発を続ける」という勧告がつくられ、それをトルーマンに提出した時、トルーマンは「水爆の実現可能性について調査する。生産の決定はその結論が出るまで待つ。」と答えた。ところがそれから48時間以内に、イギリスで原子力スパイ、クラウス・フックス(30) が逮捕されたというニュースが伝えられた。フックスは1943年以来マンハッタン計画に関係していたので、このニュースは、ソ連の核兵器について、再びヒステリカルな疑心暗鬼を呼びおこし、水爆の製造はもはや必至とみなされて、3月10日、トルーマンは製造命令を下した。
しかしそれでも、タカ派はおさまらず、分裂物質の生産をもっと拡大せよと圧力をかけた。リリエンソールが去って抑制力のなくなったAECは、国防省とともに、新型の重水式原子炉2基を新たに建設すべきであると提案するに至ったが、マクマホン=ボ−デン枢軸は満足せず、そこにワシントン州選出の下院議員ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(44)も加わって、結局、10月にトルーマンが2基ではなく、5基の重水原子炉の新設を認めたことで、タカ派は勝利を収めた。
1950年6月にリリエンソールの後継者としてAEC委員長になったゴードン・ディーン(43) は、文民統制を守り抜こうとしてタカ派に抵抗した。しかし、1952年1月、新国防長官ロバート・ロベット(45) が分裂物質の更なる増産を提案したとき、アチソンがそれを黙認し、トルーマンもそれに傾斜するに至って、彼は為すすべもなかった。その結果、アメリカは、国防総省が必要とみなしたよりも多くの分裂物質を生産し、1953年にアイゼンハワー大統領が「平和のための原子力」を提唱したとき、それに提供できる分裂物質は原爆5000個分以上に達していた。
【登場人物の整理】
(39) カーチス・ルメイ将軍(米):軍人(戦略空軍の総帥。東京大空襲を指揮)
(40) ルイス・ストラウス(米):銀行家(AEC委員。水爆製造積極派)
(41) ウィリアム・ボーデン(米):元空軍パイロット(JCAE事務局長)
(42) エドワード・テラー(ハンガリー→米):物理学者(超タカ派。米水爆の父)
(43) ゴードン・ディーン(米):弁護士(AEC2代目委員長)
(44) ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(米):下院・上院議員(JCAE委員)
(45) ロバート・ロベット(米):国防長官(分裂物質の増産を提案)
「第2部・1950年代」につづく
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