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昨日は龍馬暗殺の黒幕について自説を述べました。龍馬暗殺の糸を引いていたのはトーマス・グラバーであると言うのが結論です。
グラバーは、1859年にスコットランドから上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。
その後長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立しました。
ジャーディン・マセソン商会は、サッスーン商会とともに、上海でアヘンや武器の売買で大きく成長した会社です。サッスーン、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなど上海ユダヤ四大財閥はイギリスのロスチャイルド家との縁戚関係にありイギリス政府を意のままに動かすことができます。彼らはインドで作らせた膨大な量のアヘンを清国へ持ち込み、人々を麻薬中毒にしたうえ、洪秀全という神憑りの男を使って太平天国の乱と言う内戦を演出しています。
太平天国の乱
洪秀全像
洪秀全は農村の読書人の家庭に生まれ科挙及第を目指していましたが、試験3度失敗し25歳の時、失望感から病床につきました。その6年後に再度試験試に臨むも落第。
この時、梁発(りょうはつ)という中国人のキリスト教徒が書いた『勧世良言』と言う本を読んで衝撃を受けた洪秀全は、孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗します。『聖書』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として拝上帝教を説き始めます。
そして彼は、自分をキリストの弟であると思い込み、各地で布教をはじめます。不思議なことに入信するものが増えて行きます。しかし清朝はこれを嫌い弾圧し始めます。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と対立するようになり、1851年1月に起義を宣言し、清朝に反旗を翻し、自分を天王と自称して太平天国を建国しました。
1852年、太平軍は広西から湖南へと進出、1853年には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を行い、その軍事権は仲間の東王楊秀清に任せていました。
太平天国VS清国の陸戦
太平天国VS清国南京海戦
僅か2〜3年で清朝と互角に戦えるほどの兵力、軍事力が何故ついたのか不思議なところです。中国には馬賊という野盗の集団みたいなものが多数いて、これを糾合すればすぐにでも軍隊を組織できます。
馬賊はキリストの弟の言うことなど聞く耳を持っていません。効くのはお金です。そしてお金を出すのは誰か?そこには矢張り上海ユダヤ4大財閥とイギリス政府の影がちらつきます。
太平天国の洪秀全にはイギリスの宣教師ロバート・モリソンとウイリアム・ミルンという工作員がついていたと思われます。しかし、このカルト天国は内紛が起き互いに殺し合いになり弱体化します。1864年3月、天京が包囲され城内の食料が不足するようになり、多くの信者が離れて行きます。洪秀全は草木で飢えを凌いでいましたが、やがて病にかかり、1864年6月1日に毒を飲んで自殺したと言われています。
アヘン戦争
アヘン窟
太平天国は消滅しましたが、アヘン、そして欧米列強の国土割譲を迫る圧力で清国はどんどん力を失っていきます。
そこで日本の新政府が利用され始めます。レイムダックの「清朝」乗っ取りのためにイギリスは日本を使いました。それが日清戦争です。
司馬遼太郎
秋山好古
秋山真之
作家「司馬遼太郎」氏は小説「坂の上の雲」で秋山好古・真之兄弟の活躍をロマン一杯に歌い上げています。「竜馬がゆく」もそうでしたが、明治維新から日清・日露戦争が全部日本人の意思と力で成し遂げられたかのように書いていますが、そのようなことは断じてないのです。
明治維新そのものがイギリス・フランスの日本植民地化の分捕り合戦の代理戦争であったことをひた隠しに隠しているのです。西南戦争も邪魔者の一掃が目的でした。日清戦争へ日本が突入したのは清国とロシアが朝鮮半島(李朝)を分捕ろうとしているから、それを阻止して開放してはどうかとイギリスから焚きつけられたかです。
朝鮮を摂るのは誰か
作・ジョルジュ・ビゴー(フランス人画家)
言葉は重宝なものです。その裏には日本が朝鮮半島を植民地にできる絶好のチャンスだとけしかけているのです。だから清国と戦って彼の国を潰せと言っているのです。またイギリスはロシアが対馬や朝鮮を奪いに来ることを危惧しており、ここで日本の侍を活用しない手はないと一戦を交えることを勧めます。金も軍艦も大砲も戦術もイギリスのノウハウをすべて提供しよう。ここで勇敢に戦って清国に勝てば日本は国際舞台で一流国としてデビューできますぞ、とそそのかされて、議会は一挙に開戦に傾きます。
そして1894年(明治27年)、朝鮮国内の甲午農民戦争(内乱)を治めるという名目で、朝鮮に出兵した日清両国は同年8月1日宣戦布告して開戦します。ここから「坂の上の雲」の秋山兄弟の武勇伝が展開されるのですが、日本の軍艦は総てイギリス、ビッカー社の最新モデル。そして、観戦武官としてイギリス海軍のベテラン将校たちが乗り込んで作戦を立て各艦長に指示していたのです。
イギリスはかつてフランス・スペイン連合軍とトラファルガー海戦で戦い圧勝しました、この時イギリス艦隊の総司令官はネルソン提督でしたが、日清日露戦争でもこのネルソン戦法が使われています。
ネルソンの戦闘計画
イギリス艦隊の司令官ネルソンは戦闘に先だって各艦長に次のような戦闘計画を示していました。
1.敵艦隊を風下に置き、我が艦隊は順風にのって敵に接近する。
2.我が艦隊は迅速に航行し、敵軍に我が艦隊の行動を読まれないようにする。
3.敵軍の死角から敵の縦隊の中心に接近し、全力で敵艦隊の先頭にある5〜6隻の戦艦に集中攻撃を加えて敵の戦列を突破する。
4.可能な限り敵艦に接近して戦闘する。
と言うようなことを手取り足取り教えてもらっています。
幕末に咸臨丸で太平洋を横断した日本人艦長「勝海舟」も司馬氏は英雄的に書いていますが、実際は単独航行ではなくアメリカの旗艦ポーハタン号が並走し、幕府の使節木村摂津守は安全のため、アメリカ軍艦に乗っていたと言う話もあります。
咸臨丸はアメリカ海軍将校が総指揮をとっていたことも判明しています。艦長であるはずの勝海舟は太平洋の荒波の経験が無くハワイから「船酔い」でアメリカに到着するまで船底の部屋から出てこなかったという、逸話もあります。そして、アメリカに到着する自分の艦長旗をせっせと船に掲げたと言います。
日本人を元気にするために司馬遼太郎と言う方は大きな功績を残された方ですら、あまりケチは付けたくないのですが矢張り、ホントはどうだったの?と言いたくなります。
日清戦争では結果的に、西太后が戦費に使うべき費用を義和団事件で破壊された「頤和園」という離宮、西太后の避暑地修復に使い果たして国庫が空になったこと、そして中華思想で凝り固まった、時代を読めない守旧派、保守派が、救国の志士たちを弾圧して自ら滅びの道を選びました。
彼ら保守派は、国を守るという意識がなく、自分の地位を守ることしか頭にありません。袁世凱(李鴻章の子分)が変法派を裏切り、西太后に寝返ったためだといわれています。これでは日英連合軍に勝てるはずがありません。
この作戦で日本は清国を破り、清国から多くの賠償金と朝鮮と遼東半島の割譲を得ます。
素人がヤクザのインチキ麻雀で勝たせてもらったような感じです。後で身ぐるみはがされるのも知らないで・・・・
この時の日本の総理大臣は伊藤博文、2回目内閣の時でした。そして外務大臣が海援隊で龍馬の部下だった陸奥陽之助、後の陸奥宗光です。
日清戦争の原因について開戦を主導した陸奥宗光外務大臣は、「本源にさかのぼれば日清両国が朝鮮における権力競争であった」と回想したそうですが、明らかにイギリスのエージェントである伊藤博文の意向が大きく働いていたと思われます。伊藤が合計4回も総理大臣になり、ひたすらイギリスの国策に協力しています。
伊藤博文は長州で高杉晋作の下で、忍びをやっていました。孝明天皇とその長子を暗殺し、代わりに大室寅之助と言う自分の部下を明治天皇に祭り上げた真犯人だと言う説があり、今それが独り歩きを始め、真実だと言う風になってきています。
日本初代総理大臣である伊藤博文をNHKの大河ドラマにしようなどと言う話は一度も聞いたことがありませんが、なんとかやってみませんか?
http://d.hatena.ne.jp/k1491n/20101201/1291185439
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