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井上準之助と国際金融資本家の関係を、(1)第9代日銀総裁時代、(2)震災内閣蔵総時代、(3)第11代日銀総裁時代、(4)浜口・若槻内閣蔵総時代の4つの時代に区分して整理したいと思います。これはそれぞれ(1)大正バブルの崩壊(1919〜20年)、(2)震災恐慌(1923年)、(3)金融恐慌(1927年)、(4)昭和恐慌(1930〜31年)に対応しています。
井上準之助
(1)第9代日銀総裁時代(1919-23年)
井上準之助が第9代日銀総裁に就任した時期に、モルガン商会のラモントが中心になって新四国借款団構想の交渉が進められました(新四国借款団構想は以前にこのブログでも書きました)。その際、日本のカウンターパートとして認知されたのが井上準之助でした。ここから井上準之助とモルガン商会(特にラモント)との関係が強化されていきます。
1932年の井上の暗殺後に、ラモントが井上の未亡人に寄せた書簡に下記のような記述があります(井上準之助『井上準之助傳』井上準之助論叢付録より)。
「私があなたのご主人に対してつねに変わらぬ敬意を抱いていたことを述べさせてください。われわれは、1920年の春と冬に私が日本を訪問した折に、中国借款団の問題について協力し合ったものです。その時に、私は井上さんの人格とその素晴らしい能力や識見に対して、深い賞賛を抱きました。われわれは親密な友人となり、最後までそうあり続けたのです。」
また、ラモントの書簡から、彼らが井上準之助に信頼を寄せていたことを読み取ることができます(岸田真『昭和金融恐慌後のアメリカの経済認識と日米経済関係』見た学会雑誌2003年10月)。
「井上はノーマンやストロングやわれわれと同じ金融語を話す。私は彼が正しい線から外れたのを見たことがない。私は彼のいうことを信ずる。」
(2)震災内閣(第二次山本権兵衛)蔵相時代(1923-24年)
関東大震災が発生し、第二次山本権兵衛内閣が誕生した際、井上準之助は蔵相に任命されます。ここで30日間のモラトリアムと日銀特融を打ち出します。
また、経済復興のためには外貨が必要であり、外債の募集が当時の政府の課題となりました。震災復興外債に加え、大正十四年(1925年)期限の外債の借り換えと合せて、5 億5000万円の外債を起債し、モルガン商会が中心となった英米銀行団が引き受けることになりました(国債発行の条件が不利だったので「国辱外債」と呼ばれています)。
この外債発行の際に、ニューヨーク市場でどの銀行に協力を依頼するかが一つの論点となっていました。候補としては、井上準之助がコネクションを持つモルガン商会、そして高橋是清が日露戦争以来の付き合いを持つクーン・レーブ商会が挙げられました。ニューヨーク市場では、第一次大戦以降、英国とのチャネルを持つモルガン商会がクーン・レーブ商会(ドイツ系)を上回る勢いを持っていたため、結局、日本もモルガン商会を中心に外債発行を行うことになりました。当時の状況を津島寿一『森賢吾さんのこと』芳塘随想第十一集から引用します。
「実は日露戦争の外債は別として、その後の日本政府の外債はロンドン、パリで発行し、市場の情勢上一回もニューヨークで発行したことはなかったのである。しかし、震災復興外債については、金額が多額に上り、ロンドン市場が窮屈になっているという事情もあり、とくにアメリカから多量の物資輸入を行うために多額のドル資金の調達を必要とする関係もあり、外債発行は主としてニューヨークに依存するほかはないという見通しであった。ただ、引受銀行団についてはここにむつかしい問題が存在していたのである。それは当時の蔵相井上準之助氏はクーン・レーブ商会とは、あまり縁故も無く、一方ジェー・ピー・モルガン商会とは相当深い関係があった。というのは、対支四国借款団のアメリカ代表はモルガン商会であり、日本代表は横浜正金銀行であり、全社はトーマス・ラモントが代表者であり、後者は長い間井上氏が頭取であった関係上、モルガン商会およびラモント氏と井上氏とは密接な関係があるのである。」
このように井上準之助はモルガン商会とのチャネルを存分に活用しながら、当時の国際金融エリートが描く理想像、つまり金本位制への復帰に向けてひた走る訳です(これについても以前ブログで触れたことがあります)。
(3)第11代日銀総裁時代(1927-28年)
1927年に金融恐慌が発生し、井上準之助は第11代日銀総裁として高橋是清蔵相とともに、モラトリアムと日銀特融で恐慌を鎮圧します。
が、時を同じくして、モルガン商会のラモントが来日し、金本位制復帰に向けた日本の取り組みに関する疑念を井上準之助に突きつけます。モルガン商会をはじめとする国際金融エリートたちは、日本の金本位制への復帰を新たな借款条件とする態度を、ますます強く見せるようになります。
(4)浜口・若槻内閣・蔵相時代(1930-31年)
1930年1月、浜口雄幸内閣のもと、井上準之助は蔵相として金解禁に踏み切ります。このとき、金本位制復帰のために金準備を補完するため、モルガン銀行から1億5千万円の借金を新たにしています。
では、この時期にモルガン商会と井上準之助がこれまでのように歩調を合せていたかというと、必ずしもそうではありません。井上準之助は「旧平価」による金本位制復帰を主張していたのに対し、モルガン商会は「新平価」での復帰を進言していました。少しずつ井上とモルガン商会の間に溝ができ始めます。
結局、無理をして旧平価による金解禁に踏み切るわけですが、前にブログで書いたように、金が海外に流出していきます。前年(1929年)にウォール街の株価下落(いわゆるBlack Thursday)で痛い目にあっていたナショナル・シティ銀行は、世界恐慌の可能性を念頭に、日本から金貨を輸入しまくります。他の銀行もこれに追随し、金解禁後わずか二ヶ月で一億五千万円(今のお金に換算すると、約九兆六千億円)もの金貨が外国に流出してしまいました。
このナショナル・シティ銀行の大株主こそ井上準之助が盟友と仰いだラモント率いるモルガン商会でした。さらに、日本の金本位制離脱を先読みした彼らはドルの先物買いを浴びせます。これに対し、井上は先物の期限の来る昭和六年(1931年)の年末に金利をいっきに引き上げ、円代金支払いのため円建ての借り入れを必要とする彼ら(ナショナル・シティ銀行や三井を初めとする財閥金融機関)の息の根を止めようとします。が、井上準之助がターゲットとしていた12 月15日のわずか二日前に政変が起こります。犬養毅内閣の誕生により金輸出が再禁止され、ナショナル・シティ銀行や三井を初めとする財閥金融機関は巨額の儲けを得ることができ、結局、井上準之助の完敗に終わってしまったのです。
そして、犬飼政権誕生の約2ヵ月後の昭和七年(1932年)2月9日に、小沼正と菱沼五郎の手によって井上準之助はこの世を去ることになります(いわゆる血盟団事件)。
以上、井上準之助の政策を4つの時期に分けて整理をしてみました。井上とモルガン商会の関係は終始良好だったわけではありませんでした。モルガン商会からすれば、利用価値があるうちは関係を良好に保ち、利用価値がなくなれば捨てる、そんな考えを持っていたのかもしれません。
私からすると、「日本国民が金本位制に振り回され、デフレによる不況に苦しむ中、モルガン商会は日本という新たな市場を開拓し、多額の富を得た」という事実だけが残ったような気がします。この時期の経済政策の失敗が第二次大戦へ日本を向かわせた社会不安の大きな要因になっていることを考えると、我々はこの時代からまだまだ学ばなければならないことがたくさんあるような気がします。
http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101218
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