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ロスチャイルドとリンカーン暗殺 (さてはてメモより)オーガスト・ベルモント
サバティアン/フランキスト・イルミナティ・ロスチャイルドのグループはエイブラハム・リンカーン暗殺事件の責任を負うべきか? By Clifford Shack
オーガスト・ベルモント[1813-1890](1865)
老齢のジェームズ・ド・ロスチャイルド男爵[1792-1868](1866):オーガスト・ベルモントの背後の権力
20代のオーガスト・ベルモント、カール・マイヤー・ロスチャイルド[1788-1855]:ベルモントの秘密の父
オーガスト・ベルモント、ネイサン・マイヤー・ロスチャイルド[1777-1836]:ベルモントのおじさん
ベルモントのニューヨーク事務所です。エイブラハム・リンカーン[1809-1865]の暗殺計画を練ったのはここですか?
ブースはベルモントの使命を達成。
訳注追加:ブースは1865.4.26に26歳で死んだことになっているが、以下参照。<リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、フリーメーソン33階級であり、マッチーニの作ったヤング・アメリカのメンバーであった。その彼を暗殺者として選んだのは、「金の輪の騎士達」であった(後のKKK)。彼らはロンドンのフリーメーソン銀行家たちから資金援助を受けていた。暗殺者の隠蔽工作を指揮したのは、陸軍長官エドウィン・スタントン(フリ−メーソン)であった。彼は、事件直後にワシントンDCのすべての道路を封鎖したが、ブースの逃げ道だけは空けておいた。エドウィン・スタントンは、ブースと同じ背格好の酔っぱらいを殺して死体を焼き、それをブースの死体として「認定」した。(アイクの「大いなる秘密」第9章)>のが真相であるそうな。
リンカーンを殺した銃
フォード劇場
リンカーンがフォード劇場にかぶっていった帽子
パート1
「5番街の王:オーガスト・ベルモントの運命」からの抜粋開始:
「内戦が終わった。
前回の大統領選挙の直前、M.ベルモント氏は・・・一万ドルの賭けの広告をうった。もしリンカーン氏が再選しなければならないなら、 彼の2期目を通じて戦争が長く続くだろう。と。ニューヨークタイムズ紙は、後でほくそ笑んだ。
「B氏はその問題について、何を今お考えですか?」
その旗がフォート・サムターで揚げられて10時間と15分後、リンカーンはジョン・ウィルクス・ブースによってワシントンのフォード劇場で暗殺された。スワードもまた、自宅で寝ているところを、襲撃された。
陰謀の噂が広がった、そしてオーガストが大統領殺害計画のメンバーだったという信じられないような話が再び浮上した。
ニューヨークからスタントンに送られた匿名の手紙は主張していた。「マクレラン将軍、 A.ベルモント、フェルナンド・ウッド、チャールズ H. ハスウェル[最初の汽艇の設計者] 、およびジェレマイア・ラロック [バーロウ法律事務所のパートナーの一人]は、すべてがリンカーン大統領、あなた自身、およびスワード秘書官の暗殺陰謀の共謀者だった。わたしはベルモントの使用人を通して知ったのだが、これらの関係者はベルモント邸での夕食会で全員そろっていた。ウィルクス・ブースとともに。昨年11月。」・・・
オーガストは、民主党全国委員会の委員長として、このようなうわさの明白な対象だった。
彼は憲法を骨抜きにしようとする共和党員のごとく公然と、頻繁に、そして激しく非難した。:リンカーンのスタントンへの信頼とスタントンの勝手な権力の行使。軍事的検閲。電信線の支配。新聞(記者)の口止め。正直な異議の弾圧。反逆罪でのでたらめの告発、そして苛酷な政策がそのような告発を正当化した。不法な逮捕、そして請求なしに投獄された囚人。選挙で用いられた不正戦術。ワシントンへの集権化とワシントンでの共和党員による締め付け。
他の多くのものと同様、オーガストは共和党員がホワイトハウスに戻って、共和国を解体し専制政治を確立すると信じていた。だからもしオーガストが陰謀に加担していたとして、彼の動機-−あと知恵で理解するのは困難だが−愛国的だったかもしれない。その状況は絶望的で絶望的な救済措置が要求されるように見えた。
しかし、他の競合する陰謀説があった(1つは、スタントン自身の暗殺への関与)。そしてオーガストに対する証拠は貧弱で確定的ではない。マクレランの側近の日記記録は何も明らかにしなかった;そしてスタントンに匿名の手紙を書いた人物は単にオーガストにとってのトラブルを作り出したいと望んだだけかもしれない。
匿名の非難は復讐のための微妙な兵器でありえるし、オーガストには多くの敵がいたーーそのうちの誰かが大統領の暗殺の悲劇の中にオーガストに対して持っているかもしれない効果をうれしがる理由を見いだしたのかもしれない。
「そこには共同社会はついに準備が整ったかもしれないという希望に満ちた兆候がある、」 と暗殺数日後にストロングは述べた、 「バーロウ、ラロック、ベルモント達に対する行動のための。」
本当かどうかは知らねど、 噂はオーガストに烙印を押した。
多くの人々が彼が陰謀を主導したと信じていたし、この信念は絶えず彼に影のごとくついて回り、公的にも私的生活でも彼がどう眺められるかに影響を与えた。彼はあるものにとっては英雄で共和国の守り手であった;他のものにとっては裏切り者だった。
うわさはオーガストに秘密で遠くまで及ぶ.権力を与えた。それは時間と共にその噂の詳細がぼんやりするにつれて国民の想像力のなかで成長した。――オーガストが国家の歴史をおおって漂うように思われるまで。」――「五番街の王:オーガスト・ベルモントの運命」デビッド・ブラック著からの抜粋終わり。
パート2
オーガスト・ベルモントは、彼がロスチャイルド兄弟の遠く貧しい親戚だというふうに主張していたけれども。ニューヨークの社交界に広まっていたうわさがあった。それは、彼はロスチャイルド兄弟の一人の庶子であるというものだった。
ベルモントの母親は、フレデリカ・エルザスという名でドイツ・マンハイムの出身だった。彼女は24歳でシモン・ベルモントと結婚したが、彼は花嫁より一歳若かった。彼らは、1813年に結婚した。
「彼女は黒い髪で、驚くほど大きく、長円形で、ほとんど東洋の目を持ち、かつて彼女は『魅力的で親切なのとちょうと同じように美しい』と記述されている。 彼女の12000フローリンの持参金は高かった。彼女の両親は新しい義理の息子には満足していた。彼は近代的で、積極的だった;彼はあごひげを生やさなかった;そして彼は率直な目をしておりそれが自分の周りの世界を大胆に見ています。彼は、頭をかがめて非ユダヤ教徒を刺激するのを恐れて視線を暗くする古いゲットーのユダヤ人ではなかった。他方で、同化されたドイツ人でもなかった。」
もし彼女の両親がシモン・ベルモントに満足しているなら、彼らは、ロスチャイルド兄弟ならどの一人であれ有頂天だったろう。1813年3月、ただ2人のロスチャイルドの息子だけが結婚適格だった。
最年少のジェームス・ロスチャイルドは19歳だった。
カール・ロスチャイルドは、25歳 1年フレデリカより年上だった。
オーガスト・ベルモントは1813年12月8日に生まれた。よって、受胎は、同年3月あたり。
もし五人のロスチャイルド兄弟のうちの一人が父親だった場合、質問はどの一人かだ。
どの息子に機会があったか。
1813年3月の期間中に、ロスチャイルドの息子達はナポレオンを打ち負かすことを追求中の英国の代理として大規模な密輸操作に携わっていた。
兄弟達は英国の金の延べ棒をナポレオンの目と鼻の先フランスを通り抜けて密輸し、それはそこでウェリントンの陸軍に融資することに使われた。その軍が最終的にナポレオン軍をワーテルローの天下分け目の戦いで破ることになる。
「ロスチャイルド家:家族の肖像画」 、フレデリック・モートン著からの次の抜粋を考慮してみよう。
「...数百時間の中で、メイヤーの最年少の息子 [ジェームズ]は、フランスを通って英国のゴールドを運んだだけでなく、ナポレオン自身がいだいていた財政的なはかない夢に呪いをかけた。10代の年齢のロスチャイルドが帝国政府を騙しそれが滅びることを助けるまさにそのプロセスを是認するようにし向けた。ベスマン兄弟に起こったことが今帝国に起こった。」
その家族機械は鼻歌を始めた。
ネイサンは大規模に英国ギニー、ポルトガルのゴールドオンス、フランスのナポレオン・ドル(しばしば新しく英国で鋳造された)を船で海峡を横断して送り出した。
海岸から、ジェームズはパリまでそれらを小分けして運び、そして秘密裏にその金属をスペインの銀行家の札に変えた。
首都の南にカルマン[カール]が姿を現し、札を引き継ぎ、ピレネーに沿って1000もの隠れた峡谷をわからないようにすすみ-そして、再び現れた。ウェリントンの領収書を手に持って。
サロモンはどこにでもいた、トラブルシューティング、通過点を確認することは、フランス人の妄想あるいは英国ギニーの変換レートいずれもかき乱さないに十分なくらい散漫であいまいもことしていた。
アムシェルは本部要員となりフランクフルトにとどまり父のメイヤーを助けた。
フランスは真実の兆候をほとんど捕捉できなかった。時々、その疑いから彼らの疑いを好都合にも追放できた。カレーの警察本部長は、例えば、突然、彼が海岸線を徹底的にパトロールすることは難しいことを発見するほどの、目をそらさせる贅沢な生活を送ることが可能になった。他方で、パリ警察の署長は、一度ならず若いジェームズを逮捕することを提案した。しかし、大蔵省大臣の保護はより強力だった。
ナポレオンは、ロシアの冬の中で苦戦し勢力を消耗したいっぽうで、帝国の裏口に穴を開ける陸軍への金の血管がフランス自身を通り過ぎていた。
すぐに、ロスチャイルド一族は英国の生命線になった。ウェリントンのみならず英国の同盟国にとっても。
ナポレオン戦争の最後の年月の間、英国はオーストリア、プロイセン、ロシアにたいして巨額の報酬金を充当した。しかし英国は支払いを有効にする便利な手段を持っていなかった。金銀地金の配送は手が出せない危険性を包含していた。英国国庫に基づく1つの巨額な為替手形発行は英国ポンド貨幣を没落させるだろう。
ジョン・ヘリーズ、英国大蔵省の国外資金調達担当財務官、は一つの確かな答えを知っていた:ネイサン[ロスチャイルド]に任せよう。ネイサンと彼の兄弟はそれを行った。彼らの様々に移動する基地から同時に操作することによって。かれらの間では、マイヤーと息子達は最初の大きな国際決済銀行を構築した。彼らは英国がその友人達に融通した1500万ポンドの大半を急送した。これらの膨大な商取引が音もない優雅さでとても軽快に操作されたので、ポンド相場は決して下落しなかった。唯一の感知しうる動揺は勘定所(銀行)でのそろばんをはじく音だった。
今日にいたるまで、ロスチャイルドの業務は未知不明で計りがたい。」 -「ロスチャイルド一族:家族の肖像」、フレデリック・モートン著(p47)から抜粋終わり
ロスチャイルドの息子達は、1811から1815のナポレオンの敗北まで、ウェリントンへの資金調達(融資)に関与していた。この期間中に骨の折れる道路走行のほとんどを行ったのはカールだった。父親の健康状態の悪化が始まって以来、仕事のこの側面については、カールがもっとも経験があった。
カウント・コルチの「ロスチャイルド家の台頭」 より:
マイヤー・アムシェルは、Buderus近くのその選挙人のところに、勘定書やその他の情報を伝えるために頻繁に送られた。常に敵の手に落ちる危険性を伴いながら、それによって委任された手紙とともに、ろくでもない大型四輪馬車ででこぼこの道をいくこれらの7日間の旅は、マイヤー・アムシェルにとって時と共に過剰な重荷に感じられるようになった。彼は64歳を超えない年だったが、彼の健康状態はそのころには、大規模な商社の長にのしかかるただならぬ要求によって悩まされていた。それ以降、彼は通常、これらの北へ旅を彼の息子カルマン(あるいはカール)に任せた。というのも、彼の2人の年長の息子達、アムシェルとソロモンはフランクフルトの本店での仕事で全くふさがった状態だったので。「これらの旅は今や非常に頻繁に行わねばならなかった...」-ページ55。
だからカールは、彼が最終的にナポリ支局に落ち着くまでは、家族の旅行係だった。すべてのロスチャイルド兄弟のうち、ベルモントの父親になる機会を持っていたのは彼だ。カールは、フレデリカの一時的な友人だったが、しかし、彼女より一年年長だった。カール・ロスチャイルドは、彼の遠い親戚の美しい花嫁を誘惑する厚かましさを持っていたか?
私たちは、フレデリカに子供が生まれたことを知っている。
その子供は彼女の夫シモンに似ていなかった。
その子供は、しかし、シモンの遠いしかし華々しい親戚で仕事仲間のカール・ロスチャイルドに似ていた。
20代のオーガスト・ベルモント、カール・マイヤー・ロスチャイルド、ベルモントの生物学上の父
フレデリカ・ベルモントが1821年6月9日死亡、彼女の3番目の子供を出産後のことだった。オーガスト・ベルモントは、7歳半だった。9カ月後、彼の父親、シモンは、アルゼイからフランクフルトへの40マイルの旅をした。彼はオーガストをフランクフルトに連れて行った。彼の祖母ゲルトルードに抱き上げられに。彼はまたカール・ロスチャイルドの近くにもいただろう。彼が最終的にその少年に責任を取っただろう。
ベルモントの祖母の夫、ハジャム・レーマン・ハーナウは、ロスチャイルド兄弟の最年長者と義理の兄弟だった。彼ハジャムの妹、エバ(1779-1848)、はアムシェル・ロスチャイルド(1773-1855)と結婚した。
アルゼイに戻る前に、シモンはオーガストを博愛院に入学させた。ユダヤ人の学校でフランキスト・サバティアンであるマイケル・ヘス博士の運営であった。ベルモントはめったにアルゼイに戻らなかった。7年後に学校で、シモンは、みみっちいとの評判があった人物だが、授業料を払うのを拒否した。
学校から除籍になった後に、彼はロスチャイルドのために働き始めた。彼は床ふき、家具磨き、そして走り使いから始めた。
「彼はきちんとしていた。彼は約束の時間を厳守した。1828年の9月、仕事を始めて数週間後に、彼は父親に書いた。 「健全な助言とご親切な忠告をいただきどうもありがとうございます。あなたの希望に従いそしてそれによって親愛なるおばあちゃんとおじさん[イサック・ハナウ]の満足を私の雇用者の満足と同様得るよう努めるつもりです。」
誇らしげに彼は付け加えた。「今のところ、私は事務所でかなりうまくやってきました。」
そして彼は彼の父親に知らせた。「英語のレッスンに加えて、算術と作文のレッスンにたいする手配をしてきました。」 「さて、私は2つの学生同好会をみつけようとしていて、すでに一つフランス語のレッスンに参加するものを見つけました。それで、」 彼はややひょうきんに結論した、「私はカール・フォン・ロスチャイルド男爵の命に従うでしょう。彼が、私が今まで述べたクラスをとることを推薦したんです」
彼の父親は、彼がヘス博士の博愛院にいたとき彼に英語をとらせることに反対できたが、彼はカール・フォン・ロスチャイルドに反対することができなかった。とりわけ、彼自身がオーガストに男爵のところへ特定のビジネスの問題について手紙の配達することを依頼しているときにはできなかった。
1832までにベルモントは機密係職員になった。1833、彼はある使命でナポリ派遣された。そこではカール・ロスチャイルドが彼らの銀行のナポリ支店の頭取をしていた。一年後に彼は私設秘書に昇進した。
1837年5月14日、ベルモント;米国に到着。彼はアメリカでのロスチャイルドの代理人だった。彼は速やかにアメリカの隠れた監督になった。彼がリンカーンを殺害しかつ、30数年後、その責任を逃れることができたことが、このことの証明である。
100年後の未来に、ロスチャイルド一族は、もうひとりの米大統領を除去する必要があると決心した。
1963年11月22日における彼らの代理人は、シッフとウォーバーグだった。
For an informed opinion as to the Rothschild's motive for the Lincoln assassination click here
http://www.skolnicksreport.com/popes1.html
元記事は
The Rothschilds & the Lincoln Assassination
Were the Sabbatean/Frankist Illuminati Rothschild Group Responsible For the Abraham Lincoln Assassination? By Clifford Shack
http://www.geocities.com/cliff_shack/belmont.html
政府紙幣を発行したJFケネディ
合衆国憲法
第一条 〔立法府〕
第八節
(一)連邦議会は次の権限を有する。合衆国の国債を支払い、共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、付加金、消費税を賦課徴収すること。ただし、すべての関税、付加金、消費税は、合衆国全土で同一でなければならない。
(二)合衆国の信用において金銭を借り入れること。
(三)諸外国との通商、および各州問ならびにインディアン部族との通商を規定すること。
(四)合衆国全土で同一の帰化の規則および破産に関する法律を定めること。
(五)貨幣を鋳造し、その価値および外国貨幣の価値を定め、また度量衝の標準を定めること。
To coin money, regulate the value thereof, and of foreign coin, and fix the standard of weights and measures;
参考
Illuminati Murdered at least Two Other Presidents
http://www.henrymakow.com/002009.html
http://satehate.exblog.jp/7980329/
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