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北爆開始決定に至るまで マクジョージ・バンディとバンディ覚書  潮田 啓
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2012 年 12 月 12 日 19:47:57: tZW9Ar4r/Y2EU
 

4年 潮田 啓
目次
序章
一 マクジョージ・バンディその人
1.  アメリカ的信条の形成
2.  バンディのケネディとの出会い
二 エスカレーションをめぐる
  政権内部の動き
1. ジョンソン政権誕生
2. ジョンソン政権におけるバンディ
三 エスカレーション反対派
1. ジョージ・ボール
2. ボールの論議
四 バンディ覚書とその歴史的意義
1. バンディ覚書が提出されるに
    至るまで
2. バンディ覚書の歴史的意義 
終章
序章
 リンドン・ジョンソンが大統領に再選されて就任した1965年、南ベトナムにおけるアメリカが関わっている状況は、抜き差しならないものになっていた。アメリカ軍は南ベトナム民族解放戦線に対する有効な軍事的行動を起こせずにあり、アメリカが南ベトナムに樹立した傀儡政権は、民衆の支持を全くといって良いほど獲得できず、民心から完全に離反し、崩壊の危機に瀕していた。
 有効な手だてを打てずにいたジョンソン政権は、1965年3月に、起死回生のための策として、北ベトナムにおける軍事拠点を破壊して北ベトナムからの共産主義勢力の浸透を防ぎ、南ベトナムにおける反米、反南ベトナム政権勢力に対する北からの援助を妨害し、南ベトナムにおける反共勢力の士気を鼓舞するという目的で、北ベトナムに対する恒常的且つ持続的な空からの爆撃機、戦闘機による爆撃(ローリング・サンダー作戦)を開始した。
 この恒常的北爆開始の直前の1965年2月に、南ベトナムを政治的、軍事的状況の視察のために訪れたのが、当時の国家安全保障問題担当大統領特別補佐官である、マクジョージ・バンディであった。彼は計4日間に渡る南ベトナム視察を行い、南ベトナムにおいてアメリカが立たされている状況は、「新たなアメリカの行動がなければ、数週間あるいは数ヶ月以内といわないまでも、ここ一年ほどの間に敗北は不可避であると思われる」とし、「情勢を逆転させる時間はまだ残されているが、それは長い時間ではない」と分析し、逆転のためには、「空と海からの行動」が「不可避的」であると結論づけ、これを1965年2月7日にリンドン・ジョンソンに対して覚書の形で報告した。これが、一般的に「バンディ覚書」と呼ばれるものである。
 本論文では、1965年3月に開始されたアメリカ軍による北ベトナムに対する空爆は、一体どのような政策決定過程の末に出てきたアウトプットであったのか、という大きなテーマの中でも、大統領を中心とした安全保障に関わる側近は、大統領、軍部、あるいはその他の関係者とどのようにして政策決定過程に携わり、決定を行う際の各々の役割を担ったのか、ということを主目的として設定する。上記の目的のもとに、ケース・スタディに近い形で、時系列的な観点においてケネディ就任を一つの出発点として設定し、ケネディ政権と、1966年までジョンソン政権において国家安全保障問題担当大統領特別補佐官であったマクジョージ・バンディに焦点をあて、バンディがバンディ覚書を提出した背景と、北爆開始決定においてバンディ覚書が果たした役割を追求する。 
 バンディ覚書が提出された背景は、純粋にバンディのみの性格や計算によるものなのか、それとも周到な計算の産物なのか、あるいは様々な要素が複雑に絡み合って生まれたものなのか___ジョンソン大統領や、マクナマラ国防長官といった他の主要政策決定参画者との関係に触れつつ、彼が抱いていた信念、考え方、受けた影響等を分析して明らかにする。また、バンディがジョンソンに提出し、北爆開始を決定的にしたとされる「バンディ覚書」について、彼はなぜそのような内容を作成し、覚書がいかなる役割を果たしたのかを明らかにする。
 ベトナム戦争に関するアメリカ側の様々な動きの代表的な先行研究としては、David Halberstam, The Best and the Brightest や、Stanley Karnow, Vietnam : A History  などが挙げられる。
 前者は、ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にして最も聡明な」人材だと絶賛されたエリート達が、なぜアメリカをベトナム戦争という泥沼に引きずり込んでしまったのかを、綿密な取材で克明に綴ったものである。膨大な取材に支えられたドキュメントにより、本書はケネディの大統領就任に始まり、ベトナム戦争 の集結までを描く。最も聡明であったはずのケネディのブレーン たちが、なぜあの不毛なベトナム戦争という過ちを犯したのか。その問いにこの本は答えている。勿論答えは一言で済まされるものではなく、ハルバースタムは多角的かつジャーナリスティックな視点からこの問いに答えている。
 ロバート=マクナマラ、マクジョージ=バンディ、ジョージ=ボールなどの面々が正義と信じながらもケネディ、ジョンソン政権において悲惨に、そして大々的にベトナムへの介入を深めていく様子が刻々と記されており、アメリカにとってのベトナム戦争の起源が明確に著されている。また、ベトナム戦争へのアメリカの関与に焦点を当てることによって、当時の政府と軍の首脳部によるアメリカの外交政策の決定過程が明らかになる。外交政策決定過程において、大統領の権限が比較的強かった当時のホワイトハウスの内部で行われた、様々なベトナム戦争をめぐるものに限らない出来事の詳述は、アメリカ史を学ぶ上で非常に興味深い。
 後者は、非常にベトナム戦争を総括的にとらえているものである。アメリカが従事した戦争の中では最長のものといわれているベトナム戦争を研究する際に、全期間に渡ってみていくということは、非常に困難である。論文においては、北爆開始の時期周辺を研究しているが、それに至る経緯をみていく以上、総括的、包括的な視点によってベトナム戦争を捉えることで、研究対象を一連の流れの中で捉えることによってより詳細な背景をつかみたいと考える。
 本書は量的にも多いものになっているが、そのため、ベトナム戦争をアメリカ介入以前の時期の、いわゆるベトナム戦争の起源となっている時期から対象としてとらえ、そしてベトナム戦争という約20年間を様々な段階に分け、時系列的に追っている。ベトナムにおけるナショナリズムの芽生え、フランスとの戦争、アメリカの介入、そしてサイゴン陥落からその後に至るまで、各段階を詳細に記述している。これは上記の目的に非常に合致するものとなった。筆者は各界の重要人物へのインタビューや様々な一次的な資料からの抜粋、引用を多用することで、人物に着目することが重要な歴史という分野、この場合はベトナム戦争であるが、において、重要な資料を提供してくれている。
 さて、上記の先行研究と比較して、ベトナム戦争においてマクジョージ・バンディが果たした役割を追求する本論文の独自性に関してであるが、それは、マクジョージ・バンディその人自身に焦点を当てる事自体に独自性があるといえる。
 ジョンソン政権におけるバンディは、ラスク国務長官や、マクナマラ国防長官と比較すると、相対的に見ると政策立案者、企画者、もしくは現状打破的な政策の提言者としての能力よりも、むしろ膨大な数に上る官僚的な仕事の遂行、煩雑を極める事務の処理能力、数ある安全保障問題の中から、最優先課題を選び出す能力を備えた者としての側面が買われていた。本論文においては、そういった事はもとより、マクジョージ・バンディが政策決定にどの様に直接的に関わっていたのか、あるいは彼がどのような政策決定をしたのか、そして彼は一体何を考えていたのか、ということに焦点を当てる。つまり単なる純粋な補佐官としての彼の役割だけでなく、一人の政策立案、遂行者としての彼の役割に焦点をあてることが、本論文の独自性であり、目的の一つなのである。
 これはまた、マクジョージ・バンディという一人の人物に焦点と視点をおくことによって、よりミクロな意味でのベトナム戦争においてきわめて重要な転換点となった北爆開始を分析することが出来ることも意味している。
1. マクジョージ・バンディその人
第1節 アメリカ的信条の形成
 マクジョージ・バンディは1919年にボストンで裕福な弁護士の家庭に生まれた。貴族的色彩が色濃い当時のエスタブリッシュメントの典型家庭にあって、彼はデクスター・スクール、グロートン、とアメリカ随一の学校に進んだ。上流階級がその息子に、規律と名誉という古典的な価値と現体制の正しさを教育させるために送る学校である。また、然るべき人間と出会い、のちにウォール街であれワシントンであれ、役に立つコネクションを最初に作り出すのもグロートンである。彼は生徒総代でグロートンを卒業し、トップの成績でイェールへと入学した。
 大学においてもバンディは学生の中でも中心的な役割を担って活躍し、また抜群の成績を収めた。大学在学中の頃から、バンディは外交問題に深く手を染め、国際主義者、対外介入主義者としての立場を明確にしていった。1940年アメリカに対する脅威について、気鋭の論者の論文集『ゼロ・アワー』と題する本の中で、バンディはその生い立ちとその精神に注入された価値観に対する深い自信を示す文体で、次のように述べている。「私の言わんとする所を一言で示せば、次の通りである。私は個人の尊厳、法による政治、真理の尊さ、及び神を信じ、これらの信念は私の生命よりもかけがえのないものであって、よくアドルフ・ヒトラーと分かち合うべきところのものにあらず。」
 イェールを卒業したバンディは、特別研究員であるフェローとしてハーバードから迎え入れられた。その後第二次世界大戦のために徴兵され、終戦後は戦後計画関係の仕事でマーシャル・プランなどを手がけ、政治分析者として外交問題評議会で働いた後、ニューヨーク州から上院に立候補したジョン・フォスター・ダレスのスピーチ・ライターとなった。 
 バンディはその後の50年代をハーバードで教員として過ごした。彼の当初の講義科目は政治学であり、学生から圧倒的な人気を博していた。ハーバードにおける彼の主要な講義は政治学「講義番号180:世界情勢と米国」であった。この講義の最たる主張は、アメリカによる世界情勢への介入の正統性と、力の行使の正しさであった。
 既にしてバンディは、後に自らが政策決定者として行動する上で規範となり、鍵となる力の行使の理論に深く与し始めていた。当時、ハーバード及び東部の他の主要な大学での政治学部では、この立場が主流であった。彼らは超現実主義派として知られていた。彼らは、世界の現実の姿の何たるかを知っていると考えており、外交の基本的要素として武力の行使を容認しなければならない、と信じる強硬論者であった。強硬な立場には強硬さをもって対処しなければならず、スターリンが東欧で強硬な措置に出ているのだから、従って西側も、いずれか他の地域で強硬な行動をとらなくてはならない、共産主義が我々の行動を正当化している、力には力を持って当たらなくてはならない、というのが彼らの立場であり、それが当時の彼らにとっての、そして冷戦に正義、民主主義、自由のために従事する国家アメリカの最たる信条であった。
 これに関してバンディの友人で同僚であったが、アドレイ・スティーブンソンの直系の弟子であるジョン・ケネス・ガルブレイスは、後に回想して、ハーバード時代にも、また政府で共に仕事をした頃も、良くバンディと力の行使について議論し合ったが、バンディは失望をかくせぬ表情で、「ケン、きみは気がついているかどうか知らないが、いつも力の行使には異論をとなえるね」とよく言ったものだ、と語っている。たしかにバンディの言ったとおりだ、とガルブレイスは振りかえって考える。自分はいつも力の行使に反対していた。武力を使って事がうまくすすむ場合はほとんどない、と自分は確信していたのだから、とガルブレイスは語っている。
 1953年にジェームズ・ブライアント・コナントがハーバードを去り西ドイツの高等弁務官としてボンに赴くと、次期ハーバード総長にバンディを、という声が高まったが、当時マッカーシズム旋風のなかで攻撃の矢面に立たされていたハーバードは、同窓会にも配慮し、中西部出身の敬虔な宗教家であるネイサン・ピューシーを次期総長とし、その結果バンディは、ハーバード・カレッジの学長となったのであった。
第2節 バンディのケネディとの出会い
 マクジョージ・バンディは忠実な共和党支持者であった(極東問題担当国務次官となった兄のウィリアムは、二股をかけるというバンディ家の伝統にしたがい、民主党を支持していた)。二度にわたってアイゼンハワーに投票している。
 しかし50年代の終わりに、彼はハーバード大学の監督理事会の一員ではあるが、民主党員でありアイルランド系移民の子孫でもあったジョン・F・ケネディとの関係をも始めた。その主たる仲介役を果たしたのは、アーサー・シュレジンジャーであった。バンディとケネディの二人は様々な意味で多くの共通点を有していたと言える。二人とも頭の回転が早く聡明であり、共に合理主義者であった。一人は旧いボストンの名門、いま一人はアイルランド系の新興名門、そして政党は異にするが、二人とも互いの背景の違いにとらわれる時代の生まれではなかった。
 ケネディが大統領となるまでに来た道のりは、バンディの歩んだ道よりも、長く厳しいものであった。選挙で当選を重ねるごとに、ケネディは彼自身の堅固な地盤を作り上げてきたが、バンディには彼固有の地盤は何もなかった。もしバンディがアメリカの政策決定において何らかの役割を演じようとするならば、それはケネディのような人物を通ずる以外に道がなかったのである。ただし、人が何を望んでいるか、何を考えているかを察知するという、最も官僚や実務的政策決定者にとって必要とされる能力にかけては、バンディは人並外れた能力をもっていた。この能力がバンディの役に立つことになるのである。
 このようにして、マクジョージ・バンディは国家安全保障問題担当大統領特別補佐官としてケネディ政権の一員となるのである。しかしここで付け加えておかなければならないのは、この役職は当時、まだ現在ほど政権内で権限と重要性をもったものではなかったということである。国家安全保障問題担当大統領特別補佐官が現在のように国務省に匹敵するものになるのは、バンディ以降、60年代の終わり頃である。つまり、裏を返せば、バンディはこの職を巨大なものへと成長させるのに多大な役割を果たしたということになるのである。
 ホワイトハウスにおいて、大統領へ助言する機会の多さと、大統領への情報のフィルター役となっていることから来るバンディの権威と影響力は絶大であった。1日12時間労働のうち、バンディは重要な大綱すべてに目を通し、政府の政策決定過程を管理し、そして海外情勢における状況進展の中から大統領に真っ先に伝えるに値する項目はどれかということを決定するのであった。
 ラスク国務長官らのような他の大統領の側近らからの大統領へのアドバイスと、バンディの大統領へのそれがどのように違い、それはどういった性質のものであったかは、大統領を取り巻く、限られた一部のものにしか知られていなかったが、前節において説明したように、海外における強硬論をバンディが強力に支持していることは、全く疑う余地のないことであった。また、バンディはケネディと(後にジョンソンともそうなるが)非常に強力かつ親密な関係を築き上げた。バンディが政府で「大統領の意向は…」と言う時は、聞いている者に彼が権威と共にあるということを改めて認識させるのであった。
 一方で、これは政権内部に何人かの不満をもつ人々を生み出すことにもなり、彼らはつまはじきにされた、と感じていた。何年か後にガルブレイスはこう回想している。「我々はケネディ当選のために働いたので、政府内でなんとか場所を与えられたものの、こと外交に関しては、外交問題評議会の連中以外に口出しは許されなかった。だが連中は専門家でもなんでもない。生まれがいいことと、然るべき教育を受けたということだけのことなのだ。世界を広く旅行したわけでもないし、アメリカのことも世界のことも何一つ分かっていない。彼らが知っているのは、共産主義者と反共産主義者の違いくらいだが、この違いがそもそも無意味なのだ。それでも彼らは、この神話を信じ、しかも権力をもっていたから、グッドウィン、シュレジンジャー、それに私など、そんな神話を信じないものは、砦の外から時々矢を放っている哀れなインディアンのようなものだった。」
第2章エスカレーションをめぐる政権内部の動き
1. ジョンソン政権誕生
 ケネディはベトナムに対して限定的な介入(ケネディ暗殺時のベトナム派遣アメリカ軍の規模は約16,900名、内戦死者は約70名)にとどまったものの、彼はその介入を少なからず深めた。冷戦の後半期に登場した彼は、当初は冷戦体制に挑戦せず、政権最後の時期に初めて、穏健な方向を志向しはじめたに過ぎない。しかしながらより重要な点は、ケネディがベトナム派兵の理由とそのレトリックを著しくエスカレートさせたことである。たしかに彼は、戦闘部隊の投入について重大な疑念を抱いていた。そして最後の段階では、反ゲリラ計画自体、すなわちベトナムにおけるアメリカ軍の存在そのものについて疑問を感じていた。しかし、彼はこれらの疑問を決して公式の場で、演壇の上から投げかけたことはなかった。彼が疑念を公式に表明した唯一の問題は、ジェム政権のあり方だけであった。ジョンソンに引き渡されたのは、ケネディの心に秘められた疑念ではなく、ベトナムの重要性と意義を強調した彼の公的声明だったのである。ケネディの演説と具体的諸計画は、アメリカ国民の意識に占めるベトナムの比重を高めていたのであり、ベトナムに対する介入政策も、それを吹聴すればするだけ、死活的な意義を与えられる結果となっていた。
 ケネディが集め、側近とした者達は、ジョンソン政権へと引き継がれたが、当時政権内部において主流であった反共強硬主義的な態度は、ジョンソンという実行とタフさを売りとする大統領の誕生によって、強力な支持者を得ることとなった。いずれにしても、ケネディが集めたブレーン達は、昔であれば部下として仕えるどころか、一票すら投じることがなかったリンドン・ジョンソンのために働いているのであった。議会の偉大な指導者についてすら様々な欠点を見抜いていたジョンソンが、このチームについては驚くほど無批判であり、自分の配下の判断であれば疑問を感じたであろうような判断でも、彼らから提示されるとそのまま受け入れたのである。何年か後、ジョージ・ボールはこの時代のジョンソンとケネディ・ブレーンとの関係についてこう言った。ジョンソンにとって問題なのは、彼が凡庸な教育しか受けていなかったということではなく、凡庸な教育しか受けていないと自分で思い込んでいたということなのである。
 ジョンソンがケネディ暗殺後、新大統領となって間もなく1964年となったが、この年はくしくも大統領選挙の年であった。ベトナム問題が深刻な様相を本格的に帯びつつあるなかであるにもかかわらず、ジョンソンと政権内部の指導者層は選挙戦で手一杯であり、ベトナム問題はニの次であった。1964年の唯一の例外がトンキン湾事件である。彼らは、ベトナムについての根本的な決定を敢えて遅らせ、その間、軍官僚が戦争計画を練り上げるのを放置していた。当時、大統領周辺の政務担当者たちは、ジョンソンの選挙運動や「偉大な社会」計画に追われていた。ベトナムが多少「偉大な社会」の障害になることはわかっていたが、そのためにつまずくことはありえない、と確信していた。戦争の拡大は望まない、とジョンソンは演説していたし、彼自身、相手側を説得できると考えていた。
 しかし1964年初め頃から、ベトナムをめぐる政策決定劇の舞台は狭められ、参画者の数は減少し、懐疑派は徐々に舞台から締め出されていった。残された参画者は、単純な物量的な基準でしかものを考えず、情報機関からの種々の情勢分析を棚に上げた。これらの報告によれば、見通しは依然として非常に暗かったが、政策決定者の態度は、依然として実務的な域を出ていなかった。
 とりわけ重要なことはこの段階において中立化構想を含め、ハノイやベトコンとどのような話し合いが可能であるかについて、真剣な検討が全くなされなかったことである。政治的可能性追求のための1964年は浪費されたのである。この原因は、一つにアメリカ合衆国国務長官の性格と考え方にあった。国務長官ディーン・ラスクは武力を信奉し、介入政策を信奉していた。彼は軍部による見通しが正確であり、将軍たちは公言した目標を達成できるであろう、と信じて疑わなかった。この当時、彼は交渉による和平を信じなかったし、それを強く推すこともなかった。交渉という考え方自体が、サイゴンの脆弱な基盤をいっそう弱めることを恐れていたからである。 
2. ジョンソン政権におけるバンディ
 1965年に入り、政府首脳部の間でより一層の焦燥感が募る中で、政府がベトナムに対して取る手段の選択の幅は徐々に狭められていった。そのような中で北ベトナムに対する空爆は、起死回生のための有効な手段として急速にその支持を広げつつあった。政府首脳にとって北爆は戦争突入を意味せず、むしろ戦争を回避するための手段である、という理屈があった。これは、武力行使を避けるための武力行使であり、短期かつ迅速に終了するはずのものであった。過去一年半にわたり、思うように事態が進まず窮地に追い込まれた政府首脳は、何らかの効果的な行動とその根拠を求めて、北爆理論に傾斜していった。
 バンディは1965年2月にベトナム視察に訪れるまで、強硬姿勢は維持していたものの、北爆に関しては明確な態度をとっていなかった。また彼は、それまでベトナム問題で主要な役割を果たしていなかった。初期の介入政策にも、ジェム政権時代の決定にも、また北爆についての当初の論議にも、彼は深い関わりを持たなかった。彼はアジアにとりわけ関心があったわけでもなく、またサイゴンの混沌とした状況は、彼の秩序だった頭脳には何の魅力もなかった。
 北爆とエスカレーションに関する論議が激化すると、彼はいずれの側にもつかず、むしろ討論の審査員的立場に立って、その内容と各種の政策案について冷静かつ客観的に、大統領に報告していた。そして、時間という緩衝地帯が狭められてくると、彼は大統領に、いつ決定を下すべきかを伝えた。彼は長期的な展望に立つことはなく、その態度は、実務的、機能的であった。
 バンディは特にベトナムに関しては、意見代表者ではなく、裁定や審判を担う者であった。彼はそれが簡潔で、計算によって裏付けされていることである限り、一般的な慣習からそれることをも許可し、そしてむしろ推奨した。彼には受け継がれてきたベトナムの混沌とした問題に関して明確な主張がないのであった。彼の忠誠心とは大統領、そして国家の安全保障に対するものだけだったのである。
 彼と共に国家安全保障会議の一員だったジェームズ・トムソンは言う。「私が1964年におきたサイゴンでの反乱が中立仏教徒によるクーデータで終結し、彼らがアメリカに撤退を要求してくるだろう、と報告すると、バンディは嬉しそうにうなずき、笑ったのであった。私がベトナムへの介入全体に関して疑問を表明すると、彼は私にそれを私的文書にして秘密裏にしておくように頼むのであった。」つまり、この時点では、伏線的ではあったものの、大勢はエスカレーションの方向へと流れつつあったのである。
 ジョンソンが1964年に大統領選挙に勝利し、いよいよベトナム問題に取りかかろうとした時に、バンディには大雑把に三つの選択肢があった。一つ目が完全撤退、二つ目が核攻撃を含む全面攻撃、そして三つ目が最も現実的であった、緩慢で持続的なハノイが降伏するまでの北ベトナム爆撃であり、これを採択することとしたのである。
 トムソンは、「私は戦争の技術的なことはよく知らないが、外国勢力に対するベトナムの抵抗の歴史については色々勉強しました。私は北ベトナムを徹底的に爆撃して石器時代に戻そうかとも思いましたが、ホー・チ・ミンの根性の入った革命家たちは、もし彼らが撤退したら我々がそのうち撤退するということをわかっているようです。バンディはため息をつきながらうなずいて、あなたが正しいかも知れないな、と言った。」と回想している。 
 1965年1月の時点で、強硬派の急先鋒であるマクナマラは介入のエスカレーションを主張していた。国務長官のラスクは撤退に不安を感じ、戦闘規模の拡大にも疑問を抱き、未だ去就を決めかねていた。そしてマクジョージ・バンディは、マクナマラの側に立っているように見えた。彼は、それまでにも北爆に反対こそしなかったが、ベトナム問題については、自分の立場を明確にしていなかった。しっぺ返し的報復措置は支持していたが、本格的北爆計画論にはくみせず、むしろ情勢を見守り、機が熟するのを待っていた。
3.  エスカレーション反対派
1. ジョージ・ボール
 1964年末の段階で、最高レベルの政策決定者の中で、エスカレーションに代わる選択肢は何なのか、ベトナム国民はホー・チ・ミン支配のもとで幸せなのか否か、国民のこの意識がベトコンの成功にどのように反映されているか、というような種類の問題について疑問を持ち、この種の問題について何らかの知識と洞察力を備えていた人々は、すでに主要政策決定現場から姿を消していた。この戦争を政治問題として捉える立場の人々も締め出されていた。ただ一人、首脳部の間で公然と疑念を表明したのは、ジョージ・ボールだけであった。彼は、初期の政策抗争には参加していなかったし、ケネディ・グループに関する限り、彼はアウトサイダーであった。それに彼はヨーロッパ優先主義者であり、ベトナム問題をそれほど重視していなかった。だが、1964年から1965年にかけ、ボールはエスカレーションに反対し、持論を強く展開した。
 ボールは、伝統的な19世紀的なパワー・ポリティックスの信奉者でもあった。彼にとって権力とは、非常に具体的な実体であった。ここから彼は、ベトナム介入に反対したのである。効果的でない領域で権力を行使して、浪費してはいけない。権力の行使を誤れば、必ず権力を破滅させてしまう、というのが彼の考え方であった。
 エスカレーションに対するボールの反論は、それが失敗に帰す運命にあるとの一言に尽きていた。ボールは自分の見解を、何回も覚書や小論文にしてジョンソンに渡した。会議の席で反論するよりも、この方が大統領に効果的に接近できると考えたからである。
 ジョージ・ボールがエスタブリッシュメントを批判し、ハト派の先鋒となるというのは、一見意外であった。彼は何よりもまずヨーロッパ優先主義者であり、その点、ヨーロッパ重視で知られていたマクジョージ・バンディを含めても、政府内部で彼の右に出るものはおそらくいなかった。彼は常に、ヨーロッパ問題と経済問題の畑で育ってきた。しかしながら、ボールがアジア問題について鋭い的確な見通しを立てた人物として初めて広く国民にその名を知られるようになったということは、ベトナム戦争が生んだ、いま一つの皮肉である。なぜなら、ボールがベトナム問題に強い関心を持った最初のきっかけは、これが世界において最も重要な関心事たるべき大西洋同盟の問題からアメリカの注意を逸らすことになるのではないか、と考えたからである。彼の夢は、世界の主要先進工業国間の同盟であった。ヨーロッパ、ソ連、日本、アメリカといったパワー・センターの同盟である。彼は権力主義的で強硬派であったが、根っからの反共主義者ではなかった。世界は、共産主義と反共主義の線ではなく、経済力、工業力の差で分割されていると彼は信じていた。
 彼は、冷静で懐疑主義的な目を持ち、一般に妥当とされている前提に挑戦する態度を持ってワシントンにきた。例えば、アフリカのほとんどが共産化してもさして問題ではないと彼は考えていた。新生諸国が抱え込んでいる難題を共産主義者に押しつけるのも悪い話ではない、彼らは結局泥沼に陥り、アフリカ国民の友好を勝ち取ることは出来ないだろう、というのが彼の考え方であった。
 また彼は、マクジョージ・バンディに特に感銘するところもなかった。バンディはあまりにも実務家すぎる、と彼は思った(これに対しバンディはボールを「神学者」と呼んだ)。二人の緊張関係は、彼らが互いに相手をラスクの有力な後継者と見ていたことにも原因があった。
 後年、ボールは友人に、1964年から1965年にかけ、二つの決定的な過ちが犯されたと語っている。第一は、民主的政府があまりにも安易に隠密作戦を展開し、そのためそれに参加した政府の最上層部を汚したことであり、第二は、常に選択の余地を残しておくことが出来るという幻想を抱いたことである。現実はそのようなものではなかった、とボールは語った。事態は常に変化し、行動をとらないこと、それ自体が選択の幅を狭めてしまう。事態が悪化しているときは、時間が選択の余裕を与えない。ことがうまく運んでいるときには、選択の幅など不要である。したがって、最も選択の道が多く残されていた時点は1946年であり、最も数少なくなった時点は1965年である。
2. ボールの論議
 ボールはまず、自分の疑念を表明した覚書をラスク、マクナマラ、バンディに渡した。バンディがそれを大統領に回すと期待していたボールは、その期待を裏切られた。そこでボールは、覚書をビル・モイヤーズに渡した。モイヤーズは、ジョンソンの若い聡明な補佐官であったが、彼自身ベトナムについて懐疑的であり、政府内の批判派に積極的に発言するように促していた。モイヤーズはボールの覚書を大統領に示し、これを契機に彼は異議申立人として浮上したのである。
 ボールは、地上軍部隊の導入は効果を生まないこと、及び、アメリカはフランスのニの足を踏みつつあり、南ベトナムにまだ残っているかもしれない数少ない友人も失うことになるであろうこと、また状況は、「世界の目には、1950年代のフランスのおかれた状況に近いものと映りつつある」ことを論じた。だからといって北爆に訴えることは誤りである、とボールは主張した。もしアメリカが空軍力を使えば、ハノイはその対抗措置として、自ら空軍力を備えていたい以上、陸上兵力の南下を強化せざるを得ないであろう。
 ボールは情報機関の推定を引用して、ハノイはラオス国境沿いの非武装地帯のルートを通じて、二ヶ月に二個師団を浸透させることが出来る、と指摘した。要するにボールは、アジア専門家を擁する情報機関が集め、通常ならば上層部にまでは届かない資料を、主要参画者の前に体系的に提示したのであった。
 彼は、北爆が、その提唱者の主張するように、南ベトナムの士気を高める上で大きな効果を持つことはないと論じた。確かに、サイゴン政権の上層部は喜ぶかもしれないが、その効果も一時的なものに過ぎない。まして、一般国民の間には何の効果も及ぼさないであろう。他の参画者たちは、あたかも南ベトナム政府が国民と何らかのつながりを持っているかのごとく話していたが、ボールから見れば、南ベトナムは国家の体裁をなしていなかった。
 ボールは、特にマクジョージ・バンディが好んで用いた論点である、もしアメリカがベトナムで敢然と戦わなければ、ヨーロッパの同盟国はアメリカに対し不信感を抱くであろう、というものも否定した。現実はむしろこの逆である、とボールは言った。ヨーロッパの人々は南ベトナムを正統性を持つ国家だと考えてはおらず、むしろヨーロッパは、アジアにおけるさほど重要でもない冒険のためにアメリカが対ヨーロッパ関係をなおざりにするのではないか、と懸念しているのだ。また、ボールにとって、北爆により南ベトナムの士気を高めなければ、現在ぐらついている南ベトナム政権が完全に崩壊してしまうという、マクジョージ・バンディやマクスウェル・テーラーの議論は、最高度の愚論であった。このように弱体なものに、アメリカがその威信と力を結びつけるべきではないと論じて考えるべきなのだ、とボールは考えたのである。
 ボールはさらに問題を追及し、アメリカは、主観的にどう考えるかは別として、現実には、弱い立場でこの戦争に臨んでいると論じた。われわれが何をしようと、相手は座してそれに甘んじざるを得ないだろうという、アメリカ側の大前提に彼は反駁したのである。彼は、必ずしもアメリカが戦争の規模、強度、進展について決定権を持っているのではない、と指摘した。1964年10月、ボールはマクナマラとバンディに答えて次のように書いた。「一方が動くことにより、次の決定権は相手側に移る、というのがエスカレーションの持つ本来の特質である。また、負けていると思う側は、常に賭けを大きくすることにより、本来の損失を取り戻そうとするものである。自分の動きに対する相手の反応を左右できるというような、その種の動きは、最初から効果のないものである。自分の動きが効果的であればあるほど、相手がどのような行動に出るかを、左右したり、正確に予測することがそれだけ困難になる。いったん虎の背にまたがると、降りるべき適当な場所があるとの保証はどこにもない。」
 これはつまり、エスカレーション支持派が犯したミス、見誤り、見落とした点を、最も端的に表すものであった。エスカレーションを行うことによって、アメリカはベトナムにおいてより有利な立場に立てると考えていたが、実際の所、状況は本質的により拘泥の度合いと、脱却からの困難さと、アメリカとベトナム間の立場の差を、より拡大させたるものとなってしまったのである。
第4章 バンディ覚書とその歴史的役割
1. バンディ覚書が提出されるに至るまで
 1965年1月末の非公式な会合において、ジョンソンは、バンディ、マクナマラ、ラスク、ボールに対して、彼はベトナムで戦い、南ベトナムを救うためにしなければならないことをする、と強調し、次なる行動のための指針策定と南ベトナム情勢視察のためのバンディの視察団の南ベトナム訪問を許可した。
 ベトナムでの情勢の急速な悪化と、東南アジアにおける中国の影響の表面化は、ソ連にとってアメリカと北ベトナムに対して全面戦争を始めるきっかけを与えかねないものだった。当時のソ連首相アレクセイ・コスイギンは、バンディが南ベトナムを訪問するのと時を同じくして、北京と北ベトナムを訪問していた。アメリカの国内メディアとCIAは、コスイギンの訪中と訪越を、中国との関係を悪化させることを代償としても、北ベトナムにおいて影響力を強めようとする動きであるとみていた。コスイギンは北ベトナムに対して抑制を促す一方で、ベトナムにおいて拡大するアメリカの軍事努力に対抗するための軍事的、経済的援助を与えているのだと考えられた。
 中ソ間の対立は、アメリカのインドシナでの運命にとって、利益を与えるものであり尚かつダメージを与えるものでもあった。日に日に深まる中ソの分裂は、東南アジアにおける中国の驚異に対して暫定の米ソ間同盟のようなものを作り上げる機会でもあった。中ソの二共産主義国間の対立は、北ベトナムにとって両国に良い顔をし、中ソ両国から協力と援助をとりつけることによって、よりいっそう自国解放のためだけの戦力充実を図る機会でもあった。アメリカが恐れていたのは、戦争がアメリカ対北ベトナムという構図になった時に、中ソ両国が、「西洋帝国主義」に対する戦いのために利害の一致を見いだして結託することであった。バンディは南ベトナム訪問に際し、このような地域的、世界的な戦略的考えを頭にいれながら国内を視察したが、中ソ対立に関係なく、ベトナム情勢は重大且つ危険な状況にあり、自由主義世界にとって重大な脅威であることもジョンソンと同じく認識したのであった。
 1965年2月の第一週、バンディは南ベトナム視察を行った。彼は大統領の個人的なアドヴァイザーとして多大な権力と権威を持ち、南ベトナム大使のテーラーや、統合参謀本部などからの直接的な影響からは離れたところに存在していた。彼の視察は四日間に渡り、テーラー大使、国務省、国防省、統合参謀本部、国家安全保障会議からの首脳部を含む一行が同伴した。彼らは、まともに国家としての体裁をなしていない南ベトナムの元首として、昨年の大半その位置にあったカーン将軍とも会談した。カーン将軍はバンディに、アメリカには「北へ行き」、われわれの国を共産主義から開放してくれるかと尋ねたが、バンディは、北ベトナムを征服することはアメリカの政策ではない、と答えた。
 バンディの政治的、軍事的状況の調査は、彼が既に信ずるところを改めて確認した。それは、アメリカは南ベトナムにおける介入を限定的なものに留めなければならない一方で、撤退はあり得ない、というものであった。改めてもう一度、彼は自分の信ずるところを再確認したのであった。アメリカの戦略的、政治的な利益はベトナムにおいて膨大であり、それを失うのを防ぐためには、アメリカは北ベトナムからの浸透を防ぐ作戦を活性化させ、南ベトナムを正統な国家としての基盤を持つものとして作り上げなければならない、ということであった。そのような中で、バンディは南ベトナム軍が有効であるとは考えたものの、ワシントンへの報告の中で以前テーラー大使が述べていたようなベトコンの戦力の充実ぶりと、そのダメージからの復活能力には驚かされるものがあった。これは、つまり北ベトナムに対する限定的な軍事的圧力が死活的重要性をもつことを意味したのである。1964年から構想されていた、注意深く抑制された北ベトナムに対する軍事的行動は、南ベトナムの士気を高め、共産主義者の侵攻に対して物質的、精神的打撃を与えるために、不可欠なメカニズムであった。1965年2月のプレイクにあるアメリカ顧問団の宿舎に対する攻撃は、バンディのジョンソンへの1965年2月7日のメモによれば、北ベトナムに対して報復攻撃作戦を開始する「実際的な出発点を作り出した」。実際、バンディは彼がベトナム視察中に行われたプレイクへの攻撃に対して、即刻報復爆撃を行うように、ワシントンへ電話で要請したのであった。
 山村の人々がしばしば足を運ぶだけであった、山間の隔離された市場があるだけのプレイク村は、ラオスやカンボジアからの共産主義勢力に対する南ベトナム軍の軍事拠点としての重要性を担っていた。アメリカの軍事顧問団と特別部隊の一部が、援助物資とヘリコプターのための発着場がある約5キロ離れた厳重な警備と防御を施した場所に駐在していた。1965年2月7日日曜日の午前2時に、銃撃が始まると、警備についていた南ベトナム兵とアメリカ軍兵は突如として驚かされることになった。夜明けまでに、9人のアメリカ人兵士が死亡、120人以上が負傷し、19機のヘリコプターと、6機の戦闘機が破壊された。ベトナム戦争に、より拡大した、過激な次元での戦闘が訪れたのである。
 これまでのアメリカ軍に対する攻撃の中で、プレイクへの攻撃がそれまでで最大規模のものであっただけでなく、それは綿密且つ周到に計画され、果敢に実行され、破壊的なまでに不意を討つものであった。それはまた、特に微妙な時期に実行された。というのも、それはアメリカの南ベトナム状況査察団による視察と、ハノイをソ連の書記長のコスイギンが訪れている時期と重なっていたからである。
 トンキン湾事件以降のアメリカ人のベトナム駐在員や、アメリカの施設に対する何回かの攻撃は、ベトナム問題が重大化しつつあることを示唆していた。1964年11月にビエンホアにあるアメリカ空軍基地を南ベトナム民族解放戦線が攻撃されると、統合参謀本部長は、駐ベトナム大使であるテーラー将軍と共に、北ベトナムに対する空爆を勧告した。この時ジョンソンは幾つかの理由のために、これを拒否した。それは、大統領選挙が数日後に控えていることや、北ベトナムを攻撃することが中国とソ連が介入してくることを招くかもしれないこと、あるいはアメリカ側についているものに対する報復攻撃に対する懸念や、南ベトナム政府の安定性に対する疑問などであった。国務長官ラスクと、国防長官マクナマラも、同じような見解を有していた。
 1964年12月24日、サイゴンの中心部にあるアメリカ軍将校の拠点となっていたブリンクスホテルが爆撃され、2人が死亡し、58人が負傷した。憤慨したテイラー将軍は、またしても北ベトナムに対する空爆を勧告した。未だに、ジョンソンはこれを拒否した。なぜなら南ベトナム政府はあまりにも脆弱に見えたため、いかなる報復措置もアメリカが頼りにしている細い綱が切れてしまう可能性があったからである。ホワイトハウスに入って来る情報は、瓦解していくベトナム情勢を現していた。ジョンソンは、空爆のみがそれを有効的に打開できるかどうか、疑問を持ち始めていた。
 南ベトナムにとって、1963年11月のジェム大統領暗殺以来、うまく運んでいることは殆どなかった。南ベトナム軍の、民族解放戦線に対する攻撃は衰え、テイラー将軍の駐ベトナム大使就任は、期待されていたほどの南ベトナム政府の強化をもたらしていなかった。しかし今、プレイクへが攻撃されたことは、特別注目を惹くきっかけとなった。マクジョージ・バンディに率いられたジョンソンの視察団は、プレイクへの攻撃の数日前にベトナムに到着し、この事件はバンディがマクナマラと共にジョンソンに提言した内容をさらに補強するものとなった。それはつまり、二人は「現在の政策は、我々を壊滅的な敗北へと導いているとほぼ確信している」というものであった。バンディが最初にプレイクでの事件について報告を受けた時、彼はホワイトハウスのシチュエーション・ルームを呼び出して、国防副長官であったサイラス・ヴァンスと会話をして、空爆の実行を勧告し、テーラー、ベトナムにおけるアメリカ軍司令官のウエストモーランドやその他が同意したことも付け加えた。
 緊張ととげとげしさが、サイゴンのアメリカ軍司令部でのバンディの会話を支配しており、他の誰もがベトコンが遂に賽を投げた、と感じていた。持続的な北ベトナムへの爆撃作戦(ローリング・サンダー作戦)が展開されるのは3月に入ってからであるが、これはベトナム視察より帰国したバンディが報告を出した後である。しかし、持続的な爆撃を推進する趣旨の1965年2月7日のバンディ覚書は、プレイクでの惨状を目撃したバンディによって作成された。ベトナム帰国からの途中、バンディは今回の視察の大統領に対する報告書を作成した。
2. バンディ覚書の歴史的意義
 1965年2月7日のバンディ覚書はこう書き出している。
「…ベトナムの情勢は悪化しており、新たなアメリカの行動がなければ、数週間あるいは数ヶ月以内といわないまでも、ここ一年ほどの間に敗北は不可避であると思われる。情勢を逆転させる時間はまだ残されているが、それは長い時間ではない。
ベトナム情勢の帰趨は極めて重大である。アメリカは既に多くを投資しており、アメリカの責任は、アジアの状況の中で、そして全世界の状況の中で、何人も否定することの出来ない厳然たる事実である。ベトナムで直接問われているのはアメリカの国際的威信であり、我が国の持つ影響力の実質的側面である。…今日交渉によりアメリカが撤退することは、なし崩し的降伏を意味するだけである。付属文書Aに概説した持続的報復の政策は、私の判断するところ、現在可能で最も有望な選択である。この判断は、ワシントンから私に同行したもの全員、及びベトナム駐在のアメリカ代表部全員の支持するところである。」
持続的爆撃計画を勧告する付属文書Aがこれに続いた。 
「われわれは、可能で最良のベトナムにおけるわれわれの成功の機会を増大させるための方法は、北ベトナムに対する持続的な報復攻撃の政策を発展させ実行することである。これは北ベトナムに対して空と海から行動を起こすことであり、ベトコンによる暴力と恐怖の行為全てに対抗するものであり、正当化なものである。我々はこのような政策のリスクは許容範囲内のものであると信ずる一方で、そこからくる代償は本当のものであると強調する。全面的な空戦にはならなくとも、重大なアメリカ側の損失をもたらすことを示唆するものである。そしてそれは最終的には、北ベトナム全体を空から守ることが必要となってくることを意味し、それは長期的で高費用の努力を伴うであろう。…そしてこの政策が大勢を転換することができなくとも、われわれにはこれらの努力の価値がそれに伴うコストを上回るように感じられるのである。」
その後1965年3月2日、アメリカ軍の恒常的で持続的な北ベトナムへの空爆(ローリング・サンダー作戦)が始められた。
それまで政権において、限定的介入としか立場を明確にしてこなかったバンディが、強い調子でジョンソンに対し直接的に持続的な北爆を要請したことは、今後のアメリカのベトナムに対する介入の度合いの帰趨を決定する上で、まさしく決定的であった。ただ、稀とも言えるバンディのベトナムに対する態度の変化には、ベトナム視察が大きな影響を与えたこともたしかである。国家安全保障会議でバンディのスタッフであったジェームズ・トムソンは語る。「二ヶ月後に起きたことは、重大な転換点であった。リンドン・ジョンソンは絶対に南ベトナムが共産主義者の手に渡らないという確信を得たかった。しかし、彼は戦争をエスカレートすることには不安を抱いていた。彼は時間稼ぎをし、そして結局最も信頼の置ける彼の相談役であるバンディをベトナムへと送ったのであった。バンディはプレイクのアメリカ顧問団宿舎をベトコンが爆撃する直前にサイゴンに到着したのであった。そして死亡し、傷ついた若いアメリカ人たちの姿が、視覚的効果としてバンディの判断に影響を与えなかったとは言い切れない。そして実際に、その直後にバンディはあの有名な北爆をエスカレートするよう勧告する報告をジョンソンに提出したのである。非常に冷静なバンディが、少しの間、感情に支配されたのである。」
また、プレイク事件のあとの政策決定過程をみていくことにより、バンディ覚書が空爆開始に果たした役割を明らかにできる。
バンディ覚書を、ジョンソンは注意深く読んだ。彼はその時、1964年のウィリアム・バンディの研究グループが提出した報告書や、最近のその他のアメリカの介入政策に関する報告と共にバンディ覚書に目を通した。
プレイクの攻撃に対する脆弱性は、マクジョージ・バンディと彼の視察団にとって、南ベトナムが直面する病の典型的な症状の現れであった。バンディ覚書によれば彼は、「ベトナムではアメリカの栄光と名誉がかかっている」と強調し、「撤退はほぼ不可能」である、と強調した。「ベトナムは彼ら自身だけで負担と重圧を処理することはできない」とバンディは考え、「現在の段階において将来の成功を保証するような、平和的なベトナムからの撤退は何一つありえない」と付け加えた。
ジョンソンは、以前統合参謀本部と、軍部が提出したベトナムに関する評価と報告が、奇妙にもバンディ覚書と全く似ていることにことさらの皮肉を感じたかもしれない。なぜなら、それらの軍部による報告の提案するプログラムは、以前マクナマラとラスクに猛烈に反対され、バンディに至ってはそれは気にも止められなかったからである。しかし、ジョンソンは、「状況は変わったし、我々のそれに対する行動も変わらなければならない」ことを認識していた。
1965年の2月8日、午前十時の少し前、ジョンソンは、バンディ覚書によるバンディの新しい提案について話し合うために、国家安全保障会議を召集した。閣僚室を見渡すと、そこには、病気のラスク国務長官の代理のジョージ・ボール、国連大使トンプソン、ジョンソンが言うところの「あのもう一人のほう」のウィリアム・バンディ、国務省のレナード・アンガー、マクナマラ、ヴァンス、国防省のマクノートン、財務省のディロン長官、統合参謀本部のバス・ホイーラーとアンドリュー・グッドパスター、CIA長官ジョン・マコーン、USIAのカール・ロウアン、国際開発庁(AID)のウィリアム・ゴードとデイヴィッド・ベル、数人のホワイトハウススタッフ、そしてマクジョージ・バンディが出席していた。そこにいた全員が、バンディ覚書を読んだか、主旨を理解しているかしていた。ジョンソンは、会議の満場一致の北ベトナムに対する持続的報復に対する支持を得た。どのようにして計画が実行されるかについては、数人が意見を異にした。ホイーラーとグッドパスターは徹底的な攻撃を最初から行うことを支持し、残りの者は段階的に行うべきだと主張した。
会議が始まってからすぐ、ジョンソンはマコーマック議長と、下院からジェラルド・フォード、上院からマイク・マンスフィールドとエヴェレット・ダークセンを招き入れた。全員が、マクナマラから最近の空からの報復攻撃についての報告を受けた。ボールはプレイク事件に関して国連とソ連に対しての外交的な行動に関して議論した。そして最後にジョンソンが数ヶ月に及んだエスカレーションに関する報告、提案、更には敵の行動についての評価に関して話した。アメリカ軍兵や基地に対する極悪な行動に対しては反撃が必要だ、と彼は言ったが、同時に個別のケースに対してではなく、「侵攻とテロリズムによる全体的なパターン」に対して行う必要があると強調しながらも、既存の政策の延長に過ぎないとした。彼は行動を約束しながらも、アメリカの対応は「慎重且つ注意深い」ものになると付け加えた。アメリカの目的は、北ベトナムの攻撃を防ぎ、彼らを負かし、彼らに「南ベトナムを放っておく」ように説得させることだ、と説明した。
駐ベトナム大使テーラーは、ジョンソンが敵に対して「持続的な行動」を開始する決定を下したことを同日、後になって聞いた。それは、その時点では小さい、遅々としたエスカレーションに見えたが、ベトナム戦争へのジョンソンの本当の介入を記す一つの分岐点となったのだ。
バンディは1965年3月のエスカレーションの後、国家安全保障会議のメンバーにハノイと交渉する可能性を追求するように命令している。これはバンディが一枚岩で持続的な全面空爆を根本から支持していなかったことの裏付けともいえる。
ただ、バンディ覚書が、持続的な空爆開始のきっかけとなったのは事実といえる。それは、政権ではナンバーツーにあり、ジョンソンに最も近く、最も信頼されていたアドヴァイザーであり、そして周囲から冷静で計算緻密な戦略家とみられていたバンディが強く北ベトナムへの持続的爆撃を要請することで、開始されたのは極めて当然だったのである。
終章 
 マクジョージ・バンディは、ケネディ、ジョンソン両政権において国家安全保障問題担当大統領特別補佐官という要職にあり、外交問題全般においてその権限をフルに発揮したが、それ同等あるいはそれ以上に、彼には大統領の側近として、日常的な実務処理にあたるという役割も大きかった。大統領が誰と会い、どの文書に目を通し、何処へ行き、という細かいことに関すること全て、バンディにはまかされていたのである。
 ある時バンディが休暇をとってカリブ海の旅にでてみると、ホワイトハウスの機能が完全に麻痺してしまい、彼がいないと誰もいかに書類を整理し、ことを動かして良いか分からず、バンディなきホワイトハウスでジョンソンは、彼、もしくは彼に匹敵する人物がいかに必要かをしみじみと味わわされた、という逸話が残っている。
 バンディは、全面的信頼と、圧倒的な知性の持ち主として、政権内部に君臨していたのである。それは、ジョンソンに最も近く、最も信頼されていたアドヴァイザーであったというだけでなく、冷静で緻密と評判の高い計算によって戦略を立てる頭脳の持ち主であると周囲から見られていたということなのである。
そのようなバンディが、1965年2月にジョンソンへ提出した覚書は、北爆に関する議論の帰趨を決定する上で決定的な役割を果たしたのである。政権にはジョージ・ボールや、あるいは政権に近いところではマイク・マンスフィールドらの北爆反対派が存在したが、バンディは彼らの声が聞けなかった。アメリカ的信条の失敗はありえなかった当時にあって、全面的撤退という選択が現実的ではなかったにせよ、バンディはその最も重大な局面において、自らの反共的信条とアメリカ的倫理観にとらわれてしまったのである。
アメリカの国際的威信の維持とベトナムにおける成功への期待が、国内と国外において政策的な代償となったのである。バンディはアメリカの力を誇示しないことに対する国際的な批判への気兼ねに捕らわれた。何もしないことは、国内において重大な政治的反動を引き起こすことになるであろうと危惧した。
バンディ覚書が提出された背景として不可欠なのは、国際的なアメリカの威信の誇示の必要性、台頭していた強硬派からの圧力、そしてきっかけとしてバンディの直接のサイゴンとプレイクへの視察であった。これらが複雑に絡み合い、総合的に作用した結論は、以前と同じエスカレーションしかなかったのである。

http://fs1.law.keio.ac.jp/~kubo/seminar/kenkyu/sotsuron/sotsu11/kushioda.html


 

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