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国家「日本」の欺瞞  皇国史観の捏造
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2012 年 12 月 12 日 12:47:03: tZW9Ar4r/Y2EU
 


国家「日本」の欺瞞  皇国史観の捏造


「金日成氏の隠された経歴」に絡みながら、1900年代の朝鮮、満州、そして偽造された北朝鮮の歴史に寄り道してきた。特に歴史の偽造の手口は日本の場合を考えるのにも参考になるだろう。道草も結構役に立つものだ。

金日成主席の世襲政権を正当化するために金日成の経歴ならず、父、祖父の代までさかのぼって歴史が捏造された。
これを日本に当てはめて考えてみると、「天皇制を正当化するために万世一系という作り話が創造された」ということになる。

「創られた天皇制」

引用開始

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P290

近代天皇制国家を必要とした明治維新は、天皇陵に着目し、重要な役割を担わせることにしたのである。つまり、天皇制を復活させるためには、日本の古墳を、庶民の生活の糧を提供する山から、万世一系の現人神の山陵として聖地に転換させる必要があった。それはまず、文久二(1861)年中に、「神武天王陵の創出」=「神武天王陵を築造しようという試み」によって、「改めて神武天皇陵を治定し、神武天皇の実在性を民衆に信じ込ませ、」「近代天皇制を作り上げる踏み台とする」作業から始められていた。

 水戸藩を含む尊王攘夷運動に対する、井伊直弼の弾圧はやがて桜田門外の変(1860)というテロ事件に発展、そしてこの年を境にして公武合体の機運は強まり、そのなかで陵墓の修補が行われて行くという点を見逃しては日本の近代化を語ることはできまい。


P300

 文久3年(1863)年、奈良県の神武田(現在の奈良県橿原市大久保町)に比定して創出させた神武天王陵は、明治―大正期なかけて拡張・整備していく過程で、この陵墓に隣接する被差別部落「洞村」に暮らしていた人々に移転を強制した。天皇・天皇制を「日本の恥辱」「皇室は寄生虫だ」とまでいってのけ、憚らない、住井すゑの小説「橋のない川」(1961〜1973)は同地に暮らしていたある家族を主人公に、部落解放運動史を書いた。
 住井すゑは、明治政府が明治4(1871)年に一代神武天皇の陵墓を造築したのち、明治40(1907)年から明治45(1912)年にさらに陵墓をそろえようとした時期に関して、こう語っていた。

 この時期に根、また天皇陵がめっかったと、でまためっかったんだと、学校で噂出るわけです。それがどこも未解放部落なんです。つまりエタ部落でめっかった。エタ部落には粗末ながら、小さなながら、前方後円墳があったんです。

 一番の疑問わね、自分のところはエタ部落であると、そこに御陵があると、昔天皇は部落に住んでいたのか。


P420
 そもそも、皇位の唯一絶対の印とされた三種の神器(曲玉、鏡・剣)は大陸からの輸入品であり、昔から天皇家にかぎらず、当時の有力な長者などは、大陸伝来の宝として所持していた。それが証拠には大和や九州の古墳からはたくさんの「三種の神器」、それも天皇家と伝説鏡と同一様なものが発掘され、朝鮮各地からも同様なものが発掘されている。


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ということで、天皇陵、三種の神器という物的証拠も明治維新前後に急ごしらえで捏造されたものらしい。また、この時期に宮中祭祀の数々も創設されてたものが多いのではないか。


明治以降、陰陽道に限らず仏教色を廃したことは言うまでもない。その最大の例は京都御所にみられた御黒戸間(おぐろどま)が、東京遷都以後の宮城に見られないことである。御黒戸間には歴代天皇の位牌が祀られていた。いわゆる仏壇が見られたわけである。(中略)
かつての宮廷の恒例行事は仏事が立派に組み込まれていた。一月8日から14日まで、午前と午後に災厄をはらう御修法が行われたのである。その仏事のために、御所の建物のしつらいを仏式に改め、仏画をかける。そこで、真言宗系の寺院の門跡等が、導師となり、院家以下の僧侶が読経を行うのである。その際、門跡の臣である坊官が従ってきた。
 皇室と仏教との結びつきは大きく、日光輪王寺、仁和寺、大覚寺等の門跡寺院には宮家、また天皇家と近しい摂関家の子弟が入った。すなわち江戸期の仏教界の頂点には宮廷関係者が存在したわけである。それを幕末・明治になって還俗させ、宮家関係者にそれぞれ、新たに宮家を創立させた。以前は伏見、有栖川、桂宮、閑院の宮の四家のみであったが、大量に宮家が見られることになった。これは多分にヨーロッパ王室を見習ったためであろうが、仏教色の除去ともとれる。

「神道を知る本」宝島社


天皇制は古いのかというと、古いんじゃない。明治になってからのものです。それまでの天皇というのは、京都にいた時には惨めな暮らしだったんです。(住井すゑ)


最後にとても面白く感じたこの部分を引用する。


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P232

 少年時代朝鮮海峡を密航してきてやって来たあと、パチンコで成功したキョッポウ[僑胞:在日韓国・朝鮮(コリアン)人のこと]が何故か理由はわからないが、「おれは日本で生まれた」と頑強にいい張るように、古墳時代のキョッポウも日本の歴史を抹殺したあと自己の出自を偽造し、朝鮮三国(新羅・百済・駕洛)の歴史を合成して日本史らしきものを創作するという、今にして思えばまことに不可解な犯罪を強引に遂行した。そしてそのために情報を独占し、抵抗するものを皆殺しにしたため、そののちこの国の偽造された歴史に対して合理的な批判が全く発生しないようになった。そして同じ渡来者の子孫であった源平武士団の政権のもとでも、この不法なる状況は変更されなかった。

[日帝時代の朝鮮]総督府の焚書が学術調査の体裁で行われたという事実は、かえってその目的が天皇家の朝鮮かくし、白村江ののちの新羅の焚書令によって、日本の天皇家が新羅の王族であったことを隠し、さらに亡命者であった百済王氏の一族と道鏡と光仁が天皇家を奪った歴史的事実の秘匿、すなわち「百済人垣武の焚書」の本国朝鮮への逆輸出であったことを教える。

 こんなやり方で日本はいつの時代にも系図偽造をおこなっていたのであろう。系図偽造は万世一系を誇る天皇制の必要悪であったのである。これをやらなければ、当の昔に天皇制はつぶれて武士の中から王様が出たであろう。

 天皇制は1世紀の歴史しかもっていない。あったものではなく造り出されたものである。日本の先天的体質ではなく近代の後天的創出であって、必要ならばもう一度天皇制と天皇家を分離しなければならない。それを手がけたのはわれわれだ、という祖父・曽祖父の実感を受け継いで・・・・


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 弥生時代、いやその前からずっとこの日本列島には色々な人間がやってきた。そして、住み着き、先住民(縄文人)を追いたてて国を造ったり、先住民や各地からやってきた渡来人同士で争ったりしてきた。京都は色々な肌の色の人が通りを闊歩する国際色豊かな都市であったらしい。万世一系の天皇ってやっぱり相当無理!なんだけれど無理無理につくりあげたのは、やっぱり北朝鮮と同じような理由があるだろう。

つまり、北朝鮮の政権を作り上げたのはソ連だが、ソ連との関係を隠したかった。だから、必死に革命神話を作り上げた。
それは、明治維新(暴力革命)が日本の中から自発的に起こったことにしておきたかったことと同じである。
北朝鮮の政権に手を貸したのはソ連なら、明治の薩長政権に手を貸したのは英米。ということで皇国神話作りに手を貸したのも英米であろう。


アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。
WIKI 画像あり

アーネスト・サトウは1862年(文久2)に、19歳の若さで駐日領事部門通訳生として横浜に着任。当時きわめて困難であるとされていた日本語の勉学に励み、短期間に身に付けた。
1865年には早くも駐日イギリス公使のハリー・バークスの下で、薩英戦争や下関遠征の現場に赴いた。日英外交の尖兵として、対日外交政策立案の中心人物。日本人の思想や見解に精通、日本語の研究と辞書の出版、日本史の英訳、神道や仏教の研究、日本におけるイエズス会の布教活動やキリシタン版の発掘とその書志の研究、国内旅行案内書の出版など、日本学の権威。

以下は「アーネスト・サトウの神道論」の本末につけられている解説中からの抜粋である。

 天皇服従は政治的強制であって宗教ではない。日本人の至高の道徳的義務は天皇の命に服することだが政治的強制にすぎないとしている。神道は古代の人々の自然崇拝・祖先崇拝であるにすぎないのに、明治新政府はこれを国の宗教として位置付けているが大きな無理があると指摘。また明治新政府が国家神道として仏教より高く位置づけたこの神道は、やがて天皇絶対制思想として先鋭化していったのであるが、明治初期においてサトウその他西欧人たちはその政治的役割を早くも示唆していたのである。


 太字部分は特に失笑・・・
この本、精読したわけではないが、サトウは有能、かつ頭脳明晰でに優れた人物であったであろう。よくぞ、他国の文化を言葉の違いもものともせずに・・と思うが、彼が全て独学で学んだわけでもないであろう。誰か(複数?)に手ほどきを受けたであろう。そうしながら、「これは使える」というものを見つけていったのではないか・・それを日本人(おそらく神職・国学者の類)と一緒に練り上げたのではないか・・・

日本独自の体制を作り出すことにより、日本が実は英・米の属国、(国際金融資本家・合法マフィア・フリーメーソンの牙にかかった)ことを内外問わずカムフラージュしたかったのだろう。
手が込んでます・・・


(それだけの労力かけるならもう少し楽しいこと、皆が幸せになれる事に労力かければいいのに・・と思うが、自己中心的(悪魔的)な考えにとらわれてしまった人間はそんなこと思いもつかないのかもしれない。それで裏切ったり、裏切られたりして勝手に恐怖したり、絶望したりして・・最初の方向性が間違っているんだよ。)


http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/koukoku.html
 

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コメント
 
1. 中川隆[3215] koaQ7Jey 2016年7月09日 17:46:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3565]


本当の神武天皇陵は畝傍山の中腹の洞の丸山だよ


>天皇陵、三種の神器という物的証拠も明治維新前後に急ごしらえで捏造されたものらしい。また、この時期に宮中祭祀の数々も創設されてたものが多いのではないか。


宮中祭祀は朝鮮38度線近くの某寒村の2000年前の祭祀と同じだからね


2. 中川隆[3216] koaQ7Jey 2016年7月09日 17:49:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3566]
懿徳天皇の墓は畝傍町のイトクの森だというのが定説

欠史時代の天皇も実在したよ


3. 中川隆[3217] koaQ7Jey 2016年7月09日 17:54:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3567]

>皇国史観の捏造


大昔の伝承を捏造できる訳ないだろ:

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。


 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。

(2002年1月26日 講演記録より)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


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