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(回答先: 狂った宗教 イスラム教 投稿者 中川隆 日時 2012 年 9 月 15 日 18:53:45)
私はキリスト教徒でもイスラム教徒でもユダヤ教徒でもありませんが、中川隆さんの今回の投稿は、「何が真実か/何が間違いか」という認識・識別の方向性がないような気がします。
|民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ
|石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。
発想・動機(原因)を見ようとすれば:
イエスが「一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」と命じた真意は、「(石を投げる)動機は真実なのか?」との問いを発し、投石を止めさせる為であったと断定できるほど明らかな言葉です。
行動・社会(結果)を見ようとすれば:
|石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。
このような真逆の発想↑が出てくる。と、述べる以前に、このような事実は存在しません。何故、冒頭で、「存在しない事実」を述べて見せたのですか? その発想はどういう意味なのですか?
多分、そのような発想から「結論(結果)ありき」で言葉を述べているのでしょう、根拠・理由となる文献を明示するなり、リンクするなり「していません」ね。中川隆さんって「狂った宗教 イスラム教」という結論が大事だったのですか? ある(特定の)社会なり組織を一括りに善だ悪だと決定することはできないと思います。飽く迄「この部分は問題だ」としか言えない筈です。
次の言葉もそうだと思います。
|女性を守っているとか何とか理由をつけて美化しようとしますが、冗談ではありません。
|自分たちの地位を脅かされないように法律と言う形で宗教を成立させている信じられない
|ほど人道的ではない宗教です。
しかし、この文献を明示すれば明らかなように、イスラムでは社会的な地位による(脳内での)識別・区別はあっても、(行動での)差別は存在しない原則です。
|女性は男性を乱す悪魔と同等の扱い。だからレイプと言う犯罪すら悪魔に惑わされた結果だから
|悪魔を成敗するという意味で被害者であるはずの女性が加害者に仕立てられるのです。
コーランの「光の章」には、女性が加害者に仕立てられるようなことがないようにとの意図が明らかな部分(8と9節)があります。勿論、男性も同様です(6と7節)。
もし、男や女が「加害者に仕立てられる」のならば、それは最早、法の運用者の個人的な意志でしょう。ただ、イスラム社会での女性の人権侵害が非常に大きいのは否定の余地がないという現状もあります。
罪の順序について、このリンクで根拠を明示します。四〇番の(一)より
罪の大小の順序:
[あなたを創ったアッラーに並べて偶像を立てることだ]>[口べらしのために子を殺すことだ]>[隣人の妻と姦通することだ]
但し、神は寛大なお方でもあるので、次のような側面(三三の(三))も忘れるべきではないでしょう。
私は賛成できませんが、コーランの「光の章」には、『2.姦通した女と男は、それぞれ100回鞭打て。もしあなたがたが、アッラーと末日を信じるならば。アッラーの定めに基づき、両人に対し情に負けてはならない。そして一団の信者に、かれらの処刑に立会わせなさい。』とあるのも事実です。複数のチャネリングによる神霊的存在たちは、人間の生理的な側面への考慮を欠いているような気がする時が時々ありますが、これとて、我々が動物を殺して肉を食している側面がある以上、仕方がないのかもしれないとも思います。しかし、人類が肉食を完全に止めてしまった暁には、神は『100回鞭打て』の箇所を取り下げるかも知れませんが、やはり、裏切り(=姦通)は裏切りですし。
石打というのも反対ですが、ムハンマドが石打を命じた話からは、彼が「あなたがたがユダヤ教徒ならば、その律法に従え」との意味だったように思われます。これはユダヤ教徒の場合なのであってイスラム教徒の場合ではないように思うのです。飽く迄、姦通については、コーランの光の章3節で既定されている罰則は、「イスラム、キリスト教、ユダヤ教を除く異教徒としか将来は結婚できない」という「制限が課せられるだけ」に従うだけでもいいとも思います。人間としては、石打や鞭打ちは行き過ぎのようにも思います。イスラムには精神的・霊的なことのために物質的な領域を犠牲にするかのような傾向はあるように思います。
また、女子の割礼というものがイスラムで定められているようなことはありません。イスラム以前からその地域にある原始的な慣習がその理由です。早く止めさせるべきです。
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/nyumonjosei_03.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/イスラム教
蜜蜂章(アン・ナフル)、第58、59節
|『かれらの1人に、女(児の出生)が知らされると、その顔は終日暗く、悲しみに沈む。
|かれが知らされたものが悪いために、(恥じて)人目を避ける。
|不真面目を忍んでそれをかかえているか、それとも土の中にそれを埋めるか(を思い惑う)。
|ああ、かれらの判断こそ災いである。』 (ナフル章58−59節)
この部分の意味・取り上げ方も真逆だと思います。この部分の意味は「女児の出生をまるで悪いもののように考える“かれら”は、悪魔と同じだ」と述べているのです。「悪魔と同じ」と言いました根拠・理由・動機は、この59節に続く第60節にあります。
『60.来世を信じない者たちは、悪魔と同類である。』
「女児の出生をまるで悪いもののように考える“かれら”は、悪魔と同じだ」と、コーランでは述べていることになります。
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