http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html
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1. 母性を滅ぼした欧米人に残されたのはロマンチック・ラブの世界だけだった
欧米人が愛するロマンチック・ラブというのは性的な倒錯です。
古来、中国にはポルノ小説は有っても恋愛小説は存在しません. そちらの方が人間としてまともなのです.日本人は西洋の恋愛小説に洗脳されて、金髪碧眼の主人公の猿真似をしてるだけなんですね。
ロマンチックラブは美男美女でなければ滑稽になるというのに気付かないのかな?
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『近代中国と「恋愛」の発見』
「愛してます」なんて口が裂けても言えない、なんかバタ臭くて…。
なぜバタ臭いか?
我々が今普通にかんがえる「恋愛」もまた、近代受容の過程において文明開化期に取り入られた西洋の概念だったからである。このバタ臭さは、中国においてはなおさらだった。
中国や日本が「西洋」を本格的に受容し始めたのは19世紀。そのころの欧米の恋愛風習は、一言でいうと、未婚男女が自由に恋愛でき、自由に結婚相手を選択できるということである。
しかし当時の中国では親の取り決めた人と結婚するのが常識。 しかも、女は年頃になると外に出てはならないという風習があったから、そもそも異性との出会い自体がなかった。 だから、恋を語り合うなんてことは今までやったことがなかったのだ。 つまりシチュエーションからして既に、西洋の「恋愛」はあり得なかったのである。
小説においても、「浮生六記」みたいな夫婦間の情愛や、才子佳人小説によくみられる遊郭での恋が、そのころの中国では愛情の物語としての常識だったのだ。
でも中国近代文学者は「恋愛」小説に感心した。男女が同等にそして自由に、時には大胆に恋愛を語り合うさまは「近代」の自由・平等・民主を連想させたのである。だから彼らは中国でも恋愛小説を作ろうと奮闘を開始した。 中国人文学者が中国の「恋愛」小説を試行錯誤させながら作り上げてゆく過程、時にはすごい勘違いをしながらも、だんだんと「恋愛」らしくなってゆくプロセスは、中国の「近代化」の過程と似てスリリングだ。 現代の中国小説には深みのあるものが増えてきているが、それもこれも彼らの格闘あってこそだといえるだろう。
しかしながら、新世紀を生きなければならない我々が押さえておくべきところは、以下のところであろう。
たしかに
「東アジアにおいて、恋愛の受容はたしかにわれわれの想像力と表現力を豊かにした」。
しかし、
「『恋愛』は近代人の身体、性意識ならびに感情表現を『近代文明』の管理下に置こうとする過程でもある」。
たとえば
「恋愛を拒否することや、恋愛の儀式にのっとらない行為は、『異常』や『病的』あるいは『非常識』として排除される現象が生じた」りするのだ。
そう、わたしたちが普段考え実践する恋愛もまた、西洋近代からの輸入品である「恋愛」であって、近代的価値観が普遍的でないのと同様、恋愛という概念もけっして普遍的なものではないのだ。それならば否定はしないまでも、「恋愛」について一歩引いて考え直してから、実践してみることが必要だ。
ちなみに、1989年の統計では、中国の都市部では61.3%、農村部では70.2%が見合い結婚だそうだ。
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Jiyugaoka/990209Ren-ai.htm
20世紀に神は死んだ、と言われ、一応先進国では宗教という概念は終わったとされている。 じゃあ、あの強い信仰心に変わるものはなんだろうか。
それはずばり、ロマンチックラブ・イデオロギーでしょう。 つまり、「愛」ってやつですね。一般的には男女の愛。
宗教による戦争などの痛い経験のあと、20世紀のひとたちがすがりついたのは、身近なひとたちによせる信仰心のような、愛情だったというわけ。
宗教と純愛はよく似ている。 宗教をなくしたひとたちが、すがるように手に入れたのはが「愛」ってやつだったんですね。だから、狂信者と愛を信じるひとたちはとてもよく似ている。蘇りを信じたり、永遠をうたったり。死はすべての終わりではない、と考えたがる。(気持ちはわかるけどさあ)
みんななにかを信じて、それにすがりたいんだよね。
新興宗教ブームと純愛ブームって根は同じなんだと思う。すがりたいひとたちのよすがだ。 もちろん、それを信じて、信じることで救われるとしたら、ほんと手軽でいいと思う。できれば、私も入信したいけど、もはや、そういった信仰心をもてない身。
宗教も純愛もない荒野を歩いていくしかないのだった。 とほほ。
http://yaplog.jp/akane-y-dairy/archive/158
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2. ロマンチック・ラブの世界とは
カール・グスタフ・ユングは、男性の人格の無意識の女性的な側面をアニマの元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影されることもある。フィルム・インタビューでユングはアニマ・アニムスの原形が、「ほんの僅かな意識」または無意識と呼んで、完全に無意識のものであるかどうかは明らかにしなかった。
彼はインタビューで、恋に落ちた男性が、女性自身よりも寧ろ自身の無意識の女性像であるアニマと結婚した事に気付き、後になって盲目な選択に後悔するのを例に出した。アニマは通常男性の母親からの集合であるが、姉妹、おば、教師の要素を持つこともある。
ユングはまた全ての女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムス(animus)を持つと信じた。アニムスは女性の人格の無意識の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。
アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は沢山のアニムスを持つとされた。ユングはアニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E
アニマ
アニマは男性が無意識の中に持っている女性原理──男らしくあるべきという社会的要請によって抑圧された女性的要素──情緒、感情、恋愛などを司るものです。いわば『魂の女性』で、そのアニマに基づいて、男性は心の中に『理想の女性像』を作り上げるといわれています。
自分のアニマイメージを現実の女性に投影して、恋に身を滅ぼすこともあるそうです。アニマの存在は男性にとって、男性に足りない女性的情動や感情、潤いを補って、完成した人間へと導く存在でもあり、また一つ間違うと破滅の淵に引きずりこんでしまうような、危険な存在でもあるわけです。
まだ発達していないアニマは、動物の姿や黒っぽい女性だったりすることがあるそうです。男性の夢に登場する女性はすべてアニマと考えてもいいでしょう。
アニムス
アニマが男性にとっての『永遠の女性』なら、アニムスは女性にとっての『心の中の男性』──女性の心の中に形作られた、内なる男性です。
一般に知性や理念、決断力、論理性などを象徴します。アニマが『魂』なら、アニムスは『精神、ロゴス』であり、女性が成長するため必要な存在です。
アニムスをきちんと認識していないと、やたら理屈っぽいだけになったり、妙な男性に自分のアニムスイメージを投影してのぼせ上がったりと、やはり男性同様危険な側面があるようです。
アニムスは父親のイメージではじまることが多く、やはり認識されないうちは黒っぽいえたいの知れない男性の姿を取るといいます。女性の夢に登場する男性は、すべてアニムスなのだそうです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/rush/anima.html
水の中を覗きこむと確かに自分の姿を見ることになるけど、それ以外にも魚、水の精などがいます。水の精は人間を誘惑し、理性のコントロールを失わせます。
それはからかい好きな生き物であって(中略)ありとあらゆる悪戯をしかけ、幸福なまたは不幸な錯覚、抑うつ状態や恍惚状態、コントロールのきかない感情等々をもたらす。
これがアニマだとユングは言います。しかしアニマは元々、「魂と呼ばれ、なんとも言えずすばらしい不死のものを指している」とあります。
しかしユングによるとこれはキリスト教によって教義化されたものであり、本来のアニマとは違うと言います。本来のアニマは「気分、反応、衝動およびその他の自律的な心的作用の、ア・プリオリ〔非経験的なもの〕な前提である」んですね。
アニマ元型と関わることによって、われわれは神々の国に入りこむ。
(中略)
すなわち絶対的で、危険で、タブー的で、魔術的になる。
(中略)
世間では無意識に没頭すると道徳的抑制が壊され、無意識のままにしておいたほうがよいもろもろの力を解き放つことになると言われているが、アニマはその無意識への没頭に誘うために(中略)納得させるに足る根拠を提示する。
いつでもそうだが、この場合にも彼女は間違っているわけではない。なぜなら生そのものは善であるだけではなく、悪であるからでもある。
(中略)
妖精が生きている国には善悪という範疇は存在しない。
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/50791497.html
人間はもともと両性具有的(シュズュギュイ)なのですが、大人になるにつれてどちらかの性を発達させなければならず、顧みられなかった方の性がアニマやアニムスとして無意識の深奥に封印されるのです。
アニマの属性はエロスであり、アニムスの属性はロゴスです。
アニマは男性に情緒性やムードをもたらします。アニマの力によって、男性は想像力を湧き上がらせることができます。一方でアニムスは女性に論理性や意見をもたらします。アニムスの力を借りれば、女性は行動力を発揮することができます。
さらにアニマとアニムスは、心の深い部分にある元型として、後で述べるセルフと自我のコンタクトを手助けする役割も果たします。
しかし、アニマやアニムスが自我に取りつくと、自我を守るペルソナが破壊される危険性があります。アニマに憑かれてエロスに魅入られた男性は、アニマの持つムードに冒され、自分の殻に閉じこもって社会に背を向けることがあります。逆に、アニムスに憑かれてロゴスに支配された女性は、アニムスの持つパワーに振り回され、本末転倒な論理をヒステリックに振りかざして社会に無謀な戦いを挑むことがあります。
いずれの場合も、その場にふさわしいペルソナ形成が度を越えたアニマとアニムスの介入によって阻まれるため、自我が周囲の環境に適応できなくなったり外界の刺激によって不必要に傷つけられたりします。
アニマとアニムスは、心の成長と共に四つの段階に従って姿を変え、成熟します。アニマの場合は、生物的な段階、ロマンチックな段階、霊的な段階、叡智の段階があり、アニムスの場合は、力の段階、行為の段階、言葉の段階、意味の段階に分けられます。
つまりアニマは、最初は暗く性的アピールの強い娼婦のようなイメージとして登場し、次により明るく清純な女優のようなイメージに変化し、さらに性的な雰囲気のない巫女や尼僧のようなイメージになり、そして最後に性を超えた光り輝く女神や観音菩薩のようなイメージに昇華されます。
一方でアニムスは、まず肉体的に逞しく力強いスポーツマンのようなイメージとして現れ、それからより精神的な行動力のある実業家のようなイメージに変化し、さらに教養のある学者や僧侶のようなイメージになり、やがて超越した神や仙人のようなイメージに到達します。
また、男性にとってアニマはさまざまに姿を変えながらも永遠の女性として唯一存在します。それに対して、女性にとってアニムスは複数の英雄として現れます。
アニマとアニムスは現実の恋人や配偶者と同一ではありません。この元型的イメージが現実の異性に投影された結果、全ての恋愛がもたらされるのです。
また、恋愛関係にある男女のアニマとアニムスは相互的な関係にあります。例えばアニマに憑かれた男性は、同じようにアニムスに憑かれた勝ち気な女性に自分の未熟なアニマのイメージを投影し、彼女に惹かれます。一方でアニムスに憑かれた女性は、同様にアニマに憑かれた弱々しい男性に自分の未熟なアニムスのイメージを投影し、彼をパートナーに選ぶのです。
http://relache.web.fc2.com/report/jung.htm
ユングは恋愛感情や性的欲動も、アニマ・アニムスの元型イメージの投影(projection)によって説明できると考えます。アニマやアニムスは、『意識的な人生の生き方・対社会的(対他者的)な適応的な態度』を補償して、その人に精神的な安定感や幸福感を与えてくれるだけでなく、進むべき人生の進路や選ぶべき選択肢を暗示的に教えてくれる存在でもあるのです。
夢やイメージとして体験されるアニマやアニムスは、自己の性格特徴や行動パターンとは『正反対の特性』を示すことが多いとされています。それは、エナンティオドロミアの補償を行って、『心全体の相補性・全体性』を取り戻させようとする自己から独立した機能と無意識の目的性を持っているからです。
『影(シャドウ)』の元型は、『意識的態度に対する同性像のアンチテーゼ』として心にバランスのとれた全体性を回復させようとしますが、『アニマ・アニムス』の元型は、『意識的態度に対する異性像のアンチテーゼ』として自己に欠如した要素や特徴を補って心の相補性を実現しようとするのです。
影(シャドウ)をイメージで体験しているときには、不快感や抵抗感、否定感情を感じますが、アニマ・アニムスをイメージで体験しているときには、幸福感や恍惚感、肯定感情を感じやすくなるという特徴があります。
影(シャドウ)にせよ、アニマ・アニムスにせよ、物理的現実ではなく心理的現実に属するものですが、多くの場合、それらの元型のイメージが持つ感情や影響力は現実世界を生きる他者に投影されます。嫌悪感を抱いているそりの合わない人物には『影(シャドウ)』が投影されやすく、異性として理想的な魅力や誘惑的な特徴を持っている人物に『アニマ・アニムス』が投影されやすくなります。
内面の変容や経験としては、社会常識や性別役割分担などによって社会的に要請された『男らしい生き方(行動パターン)・女らしい生き方(行動パターン)』への反発や抵抗として、無意識領域に抑圧され排除された『反対の性の表象(アニマ・アニムス)』が立ち上がってくることになります。
http://phenix2772.exblog.jp/9847999/
ダンテの「神曲」におけるベアトリーチェはダンテを神の世界に導きますが、文字通り彼女は彼を「案内」します。
ゲーテの「ファウスト」にも最後の一説に謎めいた言葉
「永遠に女性なる者、我らを牽きて上らしむ」
があり、確か後書きだったと記憶していますが、その著者が心理学に深いらしく「この一文はフロイト心理学と関係がある」ような書き方をしていました。これもユング心理学的に言えばアニマになります。
つまり心の伴侶であるアニマまたはアニムスは、人間の心の変化・成長・革命に関係し、その変化を導く働きがあるのですが、ちなみにニーチェは
「私はゲーテの言う『永遠に女性なるもの』の秘密を暴いた最初の人間かもしれない」
と言っています。さらに
「男性は『永遠の女性』を信じるが、女性については『永遠の男性』を信じているのだ」
と、ユングのアニマ・アニムス論を先取りすることを述べています。
アニマの意味する範疇は広く、秋葉原系アニメの美少女キャラクタも勿論、一つのアニマの現れですが、これは多く恋愛・性欲の対象ですので「低次アニマ」と表現して良い物で、この段階では心の成長に関わる機能は殆ど無いと思います。
これがあるきっかけにより、(私の場合は完全に一種の偶然ですが)自分の心の変容が開始するとともに自分が投影するアニマも成長し、より凛々しく、高貴に、そして恐ろしく厳しく成長します。
非常に高次に達したアニマはギリシアの女神アテナのようになると言われていますが、私の経験から言えば「男性と見まごうごとき勇ましい女性」に進化しました。
簡単に言ってしまえば、自分の自我が成長すると、無意識としての伴侶のアニマも成長し、まるで2人で階段を上って行くように感じます。「神曲」にもこのような表現がありますが、非常に多くの錬金術絵画がそれを描いています。
別の言い方をしますと、最初は可愛らしい愛でるべきアニマ(性欲の対象)であるのですが、次第に本人を「告発するアニマ」となり最後には、アニマ対自我の命を賭けた一騎打ちのような様相になります。
中高校生の時は理解できませんでしたが、プラトンの言葉「エロス(美しい肉体への愛)からフィロソフィア(愛智)へ」にも、おそらくこの意味が含まれているのでしょう。
一部のキリスト教でYHWHの妻をソフィア(智)と呼ぶことがありますが、まさにそのような「智」を愛人とするような状態になり、はっきり言いますが、この段階のアニマは外見が美しくとも性欲の対象として絶対に見ないような「凄まじく厳格な人」のようなものになります。
実際、月と太陽が馬上で一騎打ちするような図や、雄雌のライオンが噛みつき合うような図が錬金術にありますが、正にこのように厳しいものであり、「アニマが勝つか自我が勝つか」という状況になります。
このようなことで抜きつ抜かれつつ精神の階段を上って行き、上り切る時、終に自我は「永遠」と遭遇することになるのですが、これがゲーテの愛した「永遠」でありニーチェの言う「永遠回帰」の根拠になっていると考えています。
ユングはこの「そら恐ろしい宇宙のようなもの」を「自己(セルフ)」と呼びましたが、この時言うならば一種の全能感「宇宙と一体化したような気分」になります。(この時が自我インフレーションの極限状態です。)
ユング心理学ではこの自我インフレーションが極大になった状態を「エナンティオドロミー」と呼びます。
ちなみにニーチェはユングより先にセルフという用語を使用しており、また「ツァラトゥストラ」の中で自己(セルフ)を「偉大なる天体=太陽」に喩えています。
ニーチェの永遠回帰(永劫回帰)は、色々と文章的に小難しく解釈する哲学関係者がいますが私はこれは、一つの精神的変容の究極段階に達した状態と深い関係があるものと考えており、この、まるで時間を静止したような、「永遠(∞)=無(ゼロ)」というべき非常に仏教的境地と関係が深いと思います。
これがニーチェが「西洋の仏陀」と呼ばれる理由なのでしょう。 しかしこれは文章に書いただけでは理解不可能であり、実際に体験しないと分からないのですが、経験してみると正にこのようにしか言えないものです。
http://www.seijin.asia/wps/?p=50
ユングは、
男女・パートナー同士の関係には、二人でなく、四人の関係性があるといっています。
男性の心のなかには「アニマ」といわれる女性像が存在します。
女性の心のなかには「アニムス」という男性像が存在します。
すると、二人の関係性においては、現実の男女関係の他に、このアニマ・アニムス関係があることになるんです。
ここで、大切となってくることは、男性なら、相手のパートナーとの関係に、
自分の中の女性像「アニマ」を多々投影しているのだ、ということに自覚的になる必要があること。
相手に不満を持つ時、あなたはアニマとの関係性を見直す必要があります。
あなたの心が投影しているアニマは、一人の人間としての現実のパートナーとは異なっている、ということに気づくかもしれません。
ここまでくると、パートナー関係に変化があります。
つまり、あなたとパートナーとの関係性(外的)、あなととアニマとの関係性(内的)に分化されるのです。
この内的・外的関係性がごっちゃになってしまうと、自分の内面の異性(アニマ)を常に相手に投影して、現実の相手はその投影に動かされる、悩まされることになってしまうからです。
人間関係はこうした投影をもとに成り立っているともいえます。
しかし、僕らが少しでも自分の内面に意識の光を当てる努力をしていくことで、関係性は変化してきます。より深まります。
男女関係は古来より神秘的なものと考えられてきました。
男女関係は、個人の内面を映し出してくれる鏡です。 恋愛がすごいのは、この二つの異なる存在が出会い、結ばれることにあります。対立物の統合
http://ameblo.jp/mundi/theme-10009990410.html
即ち、ロマンチック・ラブというのは実際の異性を愛するのではなく、自分の心の中に住むアニマ・アニムスを勝手に異性に投影して、その幻覚に執着する倒錯的行為です。
自分のアニマ・アニムスのイメージに近ければ相手は誰でもいいのですね。
まあ、自己愛の変形でしょうか。
太古から全く変わらない心性を持つ日本女性はグレートマザー憑依型の行動様式を取り、魔女狩りで母性的な女性をすべて焼き殺した西欧の女性はアニムス憑依型の行動様式を取ります。
グレートマザーが恋愛する事はありませんから、本来の日本女性は不特定多数の男からの夜這いは受け入れても、西洋的な恋愛はできないんですね。
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3. アニマを映像化したヒッチコックの名作 めまい (1958):
アニマが出現する場面
http://www.youtube.com/watch?v=EN6xyG82c90&feature=related
キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。
しかし、後半、栗色の髪をしたキム・ノヴァクがホテルのグリーンのネオンに当たると髪が金色に見えるというのはどういうことなのだろうかと考え込まざるを得ない。
ヒッチコックの金髪好きは有名な話であり、この作品でも、ジミー・スチュアートを突き動かす衝動は、ほとんどレストランの赤い壁に映えるキム・ノヴァクの金髪に起因しているわけだが、それはヒッチコックにとって死に至る病だということを証明してみせたのだろうか。
因みに、この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。 ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。
ジミー・スチュアートはアメリカ人の素朴さを体現する国民的俳優と称せられ、ヒッチコック作品でも『知りすぎていた男』では子供の命を救うために謎と陰謀に立ち向かう理想的な父親像を演じているが、この作品では死体マニアのような妄執にとり憑かれた男であり、『裏窓』では出歯亀のカメラマンに扮して、彼に与えられたイメージを気持ち良く裏切っている。
ドナルド・スポトーは『ヒッチコック−−映画と生涯』の中で、ヒッチコック作品におけるスチュアートは、ヒッチコック自身を仮託されているのだと指摘しているが、これはなかなかの卓見だと思う。
この作品におけるマデリーン/ジュディ役は、当初、『間違えられた男』に主演してヒッチコックのお気に入りとなったヴェラ・マイルズが演じるはずだったが、マイルズは妊娠したことを理由に断ってきた。これもスポトーの著書によると、ヒッチコックの欲望に危険を感じたからだとかさまざまな憶測がなされている。
この頃、ヒッチコックはやたらと女優にしっぺ返しを喰らっているのは事実であり、オードリー・ヘップバーンは『判事に保釈はない』の主演を撮影直前に断ってきてこの作品を頓挫させているし、キム・ノヴァクも『めまい』の撮影中はヒッチコックとの対立が絶えなかったという。
こうしたことがトラウマとなって、『北北西に進路を取れ』では女性とは信用できない存在であるというように描き、『サイコ』ではジャネット・リーとヴェラ・マイルズをさんざんな目に合わせると共に息子を束縛する恐怖の象徴である母親を登場させるに至った。『間違えられた男』と『サイコ』でヴェラ・マイルズの扱い方が全然違ってしまったことに対するヒッチコックの精神的変貌を見る上で、この『めまい』は重要な作品であるだろう。
この作品からタイトル・デザインにソール・バスが加わり、次の『北北西』で脚本のアーネスト・レーマンが参加したことにより、ヒッチコック・ファミリーとでも呼ぶべきものが確立した。さまざまなプレッシャーやゴシップのネタがつきまとい、スポトーの著書から受けるイメージからは異常者ではないかとさえ思えてくるこの時期のヒッチコックではあるが、それでもなおそうしたスキャンダルを払拭してあまりあるほど彼を偉大たらしめているのは、彼がそうした要因をすべて作品に転化してしまうパワーを持っていたからである。
『めまい』『北北西』『サイコ』『鳥』と、ヒッチコック生涯最大の名作がこの時期に集中しているところを見ると、どんな逆境にも負けない強さが、まさしくヒッチコックの天才の原動力であったということに気づく。
そういう意味で『めまい』は、作品の性格とは裏腹に生きる強さとしたたかさを与えてくれる映画であり、最大限の賛辞を持って称されるべき名作である。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm
ヒッチコックは完全に倒錯していますね。 こういうのが欧米人に特有な情動なのです。
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映画でアニマが現れる場面で奏されているのはワーグナーのトリスタンとイゾルデ:
男女の愛の物語、つまりロマンチック・ラブ・ストーリーは、12世紀の騎士と貴婦人を主人公にした宮廷風恋愛叙事詩にはじまったものといわれています。また、西洋文学の中でロマンチック・ラブを扱った最初の物語は、「トリスタン・イズー物語」であるともいわれています。
ロマンチック・ラブは結婚の枠の外にあり、それは極めて霊的な関係であったのだ。(略)そのようなラブが結婚と結びついてくるのは、西洋人が教会のもつ宗教的な力から離れてゆくことと関連している(略)。
本来なら宗教的経験としてもつべきことを、公式の宗教に魅力を感じなくなったために、日常生活の中での恋愛に求める。その動機は素晴らしいが、そこで途方もない聖と俗の混交が生じてしまう。
ロマンチック・ラブの象徴的意義を認めて、象徴的実現をはかるのではなく、無意識に現実化しようとすると、欧米においては、男性は家父長的地位を守ったままで、たましいの像としてのアニマの役割を、女性がそのまま背負うことを要求する。
それは、女性を尊重しているように見えながら、途方もない押しつけによって、女性の自由を奪っていることにもなるのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
アニマはしばしば現実の女性に投影され、そのときには烈しい恋愛感情がはたらくことをユングは指摘しているが、その際は、その女性はアニマイメージのキャリアーなのである。(とりかえばや、男と女/河合隼雄)
http://homepage1.nifty.com/risako/report/yaoi2.htm
めまい(1958/米/パラマウント) VERTIGO
製作・監督=アルフレッド・ヒッチコック(※製作ではノンクレジット)
原作=ピエール・ボワロー、トーマス・ナルスジャック(『死者の中から』)
出演=ジェームス・スチュアート(ジョン・“スコッティ”・ファーガソン)
キム・ノヴァク(マデリーン・エルスター/ジュディ・バートン)
Vértigo (Hitchcock)
http://www.youtube.com/watch?v=o9UiyfXibP8&feature=related
「スコティ」ことジョン・ファーガソン刑事は、犯人を追う途中に同僚を死なせてしまったショックで、高所恐怖症によるめまいに襲われるようになり、警察を辞めてしまう。そこへ学生時代の友人エルスターが現れて、何かにつかれたかのように不審な行動する妻マデリンを調査してほしいという。
スコティはマデリンを尾行するうちに、彼女の先祖であり過去に不遇の死を遂げた人物、カルロッタの存在を知る。カルロッタは、髪型から首飾りまでマデリンそっくりであり、後にスコティはエルスターに、マデリンはカルロッタの亡霊に取り付かれていると聞かされる。尾行を続けていると彼女は突然海に飛び込み投身自殺を図る。そこを救い出したスコティは初めて彼女と知り合うことになり、やがて二人は恋へと落ちていく。
スコティは彼女を救おうと思い、マデリンが夢で見たスペイン風の村へ向かうが、マデリンはカルロッタの自殺した教会へと走っていく。スコティは追いかけるが高所恐怖症によるめまいのために追いつくことが出来ず、マデリンは鐘楼の頂上から飛び降りてしまう。
マデリンの転落は事故と処理され、エルスターは彼を慰めながら自分はヨーロッパへ行くと告げる。自責の念から精神衰弱へと陥り、マデリンの影を追いかけ続けるスコティはある日、街角でマデリンに瓜二つの女性を発見する。
追いかけると、彼女はかつてマデリンの通っていたカルロッタの旧居のアパートに住むジュディという女だという。スコットはジュディとデートの約束を取り付けるが、ジュディは自責の念にかられる。知らないフリをしてはいるが、スコティに「マデリン」として会っていたのは誰でもない彼女自身だったからだ。高所恐怖症のスコティを利用して、エルスターの妻殺しという完全犯罪に加担していたのである。
ジュディはスコティの狂気じみた要望に素直に応え、洋服、髪型、なにもかもをマデリンと同じにし、死んだはずの「マデリン」へと次第に変貌していく。
ジュディとスコティはいびつな愛を育もうとするが、ある時二人でデートにいく際、その愛は破綻を迎える。ジュディのたのみでスコティが首にかけようとしたネックレスは、マデリンがカルロッタのものとして身に付けていたネックレスそのものだった。真相がはっきりと見えてしまったスコティはジュディを、マデリンが転落した教会へと連れて行き彼女を問い詰める。高所恐怖症も忘れ、鐘楼の頂上でジュディに迫るスコティ。しかし、そのとき暗がりから突然現れた影におびえたジュディは、バランスを崩してマデリンと同じように転落する。絹を裂くような悲鳴。
スコティは、呆然としてその鐘の音を聞いているばかりだった。
___________________________
ヒッチコックはこの作品をゴシック・ホラーに仕立て上げようと、19世紀の風景が数多く残るサンフランシスコに舞台を設定した。ジミー・スチュアートがキム・ノヴァクを尾行する前半部分がロジャー・コーマンなどの恐怖映画における導入部分を思わせるのはそのためで、『レベッカ』における開かずの間を配したマンダレー屋敷をそのまま一つの街にスケールアップしようとした気配が感じられる。
この作品を支配しているのは、光のコントロールだ。
幻想シーンを除くとほとんど影らしい影のないこの映画においては、光が当たっているか当たっていないかのいずれかで画面設計がなされている。
書店主のポップ・リーベルがカルロッタ・バルデスの伝説を語る場面では、雨雲が近づいていることを表現するために照明をどんどん落としていくという古典的な手法を敢えて使っていて、この場面も、重要なのは「暗くなること」でなくて「光が消え去っていくこと」と考えると納得がいく。
この映画は、平凡で先の見える人生を送っていたジミー・スチュアートの刑事が、ある日突然妖しい光彩を放つ女性に出会い、その光が失われることに神経質になっていく作品なのだから、光のコントロールは見事に作品の性格を表現していて完璧である。
キム・ノヴァクを象徴する光は、グリーンのセロファンをライトの前に置いた暗い緑色がメインになっているのだが、これは死や墓穴を象徴するカラーであるというのは有名な話だ。
この場面に始まる、一連のキム・ノヴァクを昔死んだ女そっくりに仕立て上げていくジミー・スチュアートの行動は、屍姦を意味しているのだとヒッチコックは語っている。
ジミー・スチュアートの行動は、まさしく死んだ女を「死者の中から」呼び覚ますものなのだろう。だから、墓穴の緑が失われた女の記憶を呼び覚まし、別の女の髪をブロンドに輝かせるのである。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/mizutami/vertigo.htm
本作に対しては一つの大きな疑問が提起されているのです。それはこの映画の後半部全体が、主人公スコティの夢の中の出来事ではないかというものです。
<一年後・・・?>
精神病院のシーンを最後に前半部が終了し、後半部の展開がサンフランシスコの大パノラマで幕を開ける時、その俯瞰の映像には、普通なら映し出されるであろう「数ヶ月後」、もしくは「数年後」を表すテロップが表示されないのです。(およそ三十分後に発せられるスコティの台詞から推測するに、正確には「一年後」だと思われます。)
これはその直前のシーンにおいて、「彼はどのくらいで治るでしょうか?」と問うミッジに対する、医師の「数ヶ月か、もしくは数年か、全く見当が付かない」という返答が説明になっていると考えて、安易なテロップを省略したのだと解釈する事も出来るのですが、もう一つの疑問の方は、そう簡単には片付きません。
<ミッジの不在>
スコティの事を気遣い、あんなにも親身に接していたミッジを演じるバーバラ・ベル・ゲデスが、後半部からは全く登場しなくなってしまうのです。
スコティとミッジが以前に婚約していたという事実も語られていますが、ミッジが今でも彼を愛している事は一目瞭然です。観客は彼女の嫉妬に狂う様子さえ目にする事が出来ます。彼が入院している病院にも足繁く通うミッジ。そんな彼女がスコティの事を見捨てて、突然どこかに消えてしまうものでしょうか?
実はこの疑問に対する答えは、ミッジ自身の口から語られていました。病室において、放心して椅子に腰掛けているスコティに向かって彼女は言います。
「私がここに居る事も分からないのね」
そう、スコティの世界からはミッジは居なくなってしまっていたのです。
彼の「世界」の中には、巨大な「マデリン」という存在があるのみです。ミッジはその「存在」ではなく、彼女自身の「不在」を強調するために、映画の前半部おいて、あんなにも観客に印象付けられていたのです。そして、その不在がほのめかすものは、上記した「夢説」に他ならないのです。
おお、なんという巧みな脚本でしょうか! そしてなんという悲しい物語でしょうか! ミッジは居なくなったのではありません。今でも変わらずスコティの病室を見舞っているのです。
そう考えると、後半部の始まりにテロップが表示されなかった事にも合点がいきます。あれは「数ヶ月後」でも「数年後」の出来事でもないのです。映画はあの画面の暗転を境に、スコティの夢の世界に突入したのです。
大パノラマ直後のスコティの登場場面のカッテイングにも違和感を覚えたものですが、あれも夢の感覚の表現だと考えれば納得がいきます。
普通ならこうした「場所の移動」を行った場合には、車から降りる映像やバス停の前を歩いている映像などから始めて、「到着」の感覚を表現するものです。しかし、本作ではカメラが上から下に振られると、スコティがその場に立ち尽くしていて、まるで彼が街の中に忽然と出現したかのように感じられるのです。彼はあの瞬間、夢の世界に足を踏み入れたに違いありません。
<夢と贖罪>
愛する人を見殺しにしてしまったという罪の意識に苛まれ、現実を受容できなくなったスコティは、その夢の中で、不幸な現実を犯罪物語に仕立てて自らを贖罪すると同時に、マデリンの死を否定するのです。
でも、本当は彼にも分かっているんです。もう彼女が戻らないという事が。それ故に、最後には、自らが作り出した「マデリン」のイメージを、彼は破壊してしまうのです。
ラスト、高所恐怖症を克服したスコティは塔の上からマデリンの死体を見下ろしています。彼が克服しようとしたのは高所恐怖症などではなく、「マデリンの死」だったのです。
http://www.h7.dion.ne.jp/~eiga-kan/Vertigo.htm
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Lr'_´三´  ̄ `` ヽ、 ヽ/ /ヾfヽ、
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4. 髪結いの亭主
まともな女なら3日で逃げ出す欧米人の愛の世界
髪結いの亭主 trailer
http://www.youtube.com/watch?v=gcD3u2EE8Wk
髪結いの亭主
http://www.youtube.com/watch?v=sEyjRJvaQrc
http://www.youtube.com/watch?v=R8UKIpOuaz4
http://www.youtube.com/watch?v=Fv3r0wVHT7Y
http://www.youtube.com/watch?v=bI8ZevygiUU
http://www.youtube.com/watch?v=fd3y7s0zS2M
http://www.youtube.com/watch?v=KKVNMxpGK9E
http://www.youtube.com/watch?v=BScKDapM-kc
ドーヴィルの海岸沿いの家に住む少年アントワーヌ。彼は床屋に行くのが大好きだった。一人で店をやっている、ふっくらとした美人のシェーファー夫人の髪に触れる手触りや彼女の体臭にうっとりする時間は彼にとって至福のときだった。
ある暑い日、白衣のボタンを多めにあけたシェーファー夫人の胸に見入ったアントワーヌは、興奮して何も手につかず、夕飯の時に「女の床屋さんと結婚する!」と宣言してしまう。突然のことに驚いた父は彼をブン殴ってしまうが、彼は心を固く決めたのだった。それから10数年後、大人になったアントワーヌは、一軒の床屋で美しい女理髪師マチルド(アンナ・ガリエナ)を見かける。
「自分の結婚相手はこの人しかいない」と心に決めたアントワーヌは店に入り、散髪の途中で唐突に求婚の言葉を咳く。彼女は聞こえなかったようにそれを無視し、彼を外に送り出す。彼女の気持ちを測りかねながらも、アントワーヌは、「強く念じれば必ず願いは叶う」という父の言葉を胸にひたすら念じる。
三週間後、店を訪れたアントワーヌにマチルドは「あなたの言葉に心を動かされました。あなたの妻になります」と。彼の夢は叶ったのだ。ささやかな結婚式をあげ、2人は一緒に暮し始める。
夢が叶ったアントワーヌは彼女以外何も要らなかった。仕事も、友人も、子供さえも。2人の店に様々な客がやって来ては帰って行き、幸福で静かな日々が続く。
昔のことはあまり語りたがらないが、アントワーヌを深く愛しいつも静かに微笑んでいるマチルド。
しかし、ある雷雨の日、客のいない店の中で愛を交した後、マチルドは「買い物にいく」と言って雨の中に飛び出していく。
次に出会った時、マチルドは川から引き上げられ息をひきとっていた。彼女は水の中に身を投げたのだ。
「あなたが心変わりして不幸になる前に死にます」という手紙を残して。
マチルドのいない店の中で、一人アラブの音楽にのせて踊り続けるアントワーヌの姿があった。
_______________________
「子どものころの写真は」
「一枚も持っていないわ。見たくないの」
「どうして?」
「昔のことよ」
女はそんなことを言いますが、男を見つめる微笑には何の迷いもありません。
理髪店に客が入ってきてしまいました。女は、ウェディングドレスを着たまま客を椅子に座らせます。女は、カミソリをゆっくりと滑らせます。
ヒゲをそり終えて、客は嬉しそうな顔を女に向けました。女は、客にあてがっていた前掛けをほどきます。前掛けをほどく女の手首には、静脈を横断する大きな傷跡がありました。
夕立が降りはじめることにより「髪結いの亭主」のストーリーが展開します。
男の上に乗っていた女は、何かに追い立てられます。服を調えながら、レジの引き出しから手紙を出します。買い物をしてくると言って、大雨のなかに裸足で出て行きます。「髪結いの亭主」は、クライマックスを迎えます。
女は、予感していたのだと思います。へんてこなダンスを踊る12歳の心を持った男は、いつか自分に飽きてしまう。天井にはいるヒビのように、それは必然的に訪れること。そして、自分は、捨てられる。
女の過去は、最後まで語られません。
しかし、語られることのなかった女の物語が、女をラストシーンで行動に駆り立てたのだと思います。 たまゆらな幸せを、永遠にするために。「髪結いの亭主」を見終わって、
そんな女の語られなかった物語が、心の中に広がりました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/movie/068.html
「ひとつだけ約束して、愛してるふりは絶対しないで」
少年の頃から理容師の女性と結婚するのが夢だったアントワーヌはふと
立ち寄った理髪店でマチルドに会い、結婚を申し込む。彼は望む力が強ければ、
その望は必ず実現すると確信している。マチルドは彼のプロポーズを素直に
受入れる。そして、現実から隔離された小さな理髪店で二人の甘美で至福に
満ちた時が始る。
客のいなくなった夕刻、店の中でアントワーヌとマチルドは愛し始める。
豊かなマチルドの胸に顔を埋めるアントワーヌにせつなく訴えるマチルドの言
葉が冒頭のセリフである。このセリフに私はドキリとした。
男と女の情熱はいつかは冷める。愛しているふりをするのも億却になり、
日々の生活に埋没する。そのことが分っているからこそ、女は全人格を込めて
男を愛する。男もそれに応え、子供はつくらず、夫婦の間隙を埋める友人も
必要としないほど女を愛する。閉ざされた世界で女は髪を切り、男はアラブの
歌に合せて踊る。そして見詰めあいセックスをする。二人のセックスは美しく、
エレガントでさえある。それは、二人のセックスが純粋に愛情の発露で
あるからだろう。
狂言回しの常連客が言うように、ものにはすべて原型がある。二人の愛は
その原型である。二人の店に現実世界に生きる夫婦が紛れ込む場面があるが、
二人の前ではいかにもみすぼらしく滑稽だ。
そして、かの常連客が言うように、死は突然夕立とともに訪れる。
それは、必然であり、用意されていたものである。マチルドは、二人の愛を
そしてその幸福感を永遠なものにするため、つまり「あなたが死んだり、私に
飽きてしまい、やさしさだけが残ってしまう」まえに、死を選ぶ。残された
アントワーヌはその死を理解し受入れる。
私は、二人の原型の愛に魅了されるが、我身に引き寄せやはり怖い気がする。
あんなふうに裸に愛されて受け止めることができるのか、そして応えて愛する
ことができるのか。なによりも中途半端に愛して、愛しい大切な人に去られる
のがなによりつらい。現実の愛は始ればいつか終わる。それじゃ、
愛を始らせないストイックな愛があってもいいのじゃないかと考える。
http://fukio.web.fc2.com/fukio/lines/lines25.html
301:バンドエイド:2009/05/14(木) 22:16 ID:i-1Fk
髪結い亭主みました
あの映画
たんたんとして
たんたんとあっけなく終わるのに
いったい何がおきたの?
ひとつひとつを拾い集めて考えてしまう映画の作りで
世界は綺麗なのに
日常がまるで不安定
不安定だから
「もう生きてなんていられないもう御仕舞いよ」
そんな声が聴こえて悲しかったです。
幸せ、ってなんなんだろう
 ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
'~" ̄ヽヽ;i;;;i;;;;i;;;;i
ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
__,,,,,,,,,,,___/:/;/:/;;i::ノ/
/^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://
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5. 欧米の男のアニマは幼女の姿をしている?
成熟した女性には多かれ少なかれグレートマザー的なところがあるから、欧米の男には生理的に受け入れられないんでしょうね。
E・H・カー著「ドストエフスキー」筑摩書房 筑摩叢書106
ドストエフスキー伝記作家ストラーホフがトルストイに送った手紙の中の一文
「彼はけがらわしさに対する愛好癖があって、それを誇りにしていたのです。 ヴィスコヴァトフがこんな事を語りだした事があるのですが、ドストエフスキーはその家庭教師につれられて自分のもとへやってきた少女と浴場で姦淫したと自慢していたそうです。
( 中略 )
彼に最もよく似通っているのは「地下生活者の手記」の主人公、「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、 そして「悪霊」のスタヴローギンです。
ソフィヤ・コワレフスカ(ドスト氏が求婚して拒絶されたアンナ・コルビン・クルコフスカヤという女性、の妹)の回想記 〔 ドリーニン編『ドストエフスキー同時代人の回想』(水野忠夫訳。河出書房1966年刊。)に所収。p214。〕 には、ドスト氏自らが、彼ら姉妹の家(その時はその姉妹の母親も同席)で、彼らの前で、思い出して大胆にも告白した言葉
「かつて、夜遅くまでさんざん飲み歩いたあと、酔った仲間たちにそそのかされて、十歳になる○○を○○した」
という告白が記されていますが、 ( 注:自分の過去の体験のことを告白したのではなく、ドスト氏が構想していた小説の中の一部として、彼女らに紹介した話のようです。) この記述は、かなり信憑性が高いように思います。
アンドレ‐ジイド著『ドストエフスキー』を初め、他の書でも、ドスト氏は、自分が少女を○○したことを、友人や知人の何人かに(なんと、ツルゲーネフにも。) 告白した事実が、ドスト氏の知人が証言したものとして、紹介されている。
http://www.coara.or.jp/~dost/30-5-o.htm
【ロンドン7日時事】フランス後期印象派の巨匠ポール・ゴーギャンの絵画「二人の女」が7日、ロンドンで競売商サザビーズによりオークションに掛けられ、1232万8000ポンド(約25億円)の高値で落札された。
落札したのは、ゴーギャンが没する前年の1902年の作品で、すみれ色の壁のそばに座る2人の若い半裸のタヒチ女性が描かれている。
フランス植民地タヒチでのゴーギャンの「幼女性愛」は、一度も倫理的に非難されたことがない。
ゴーギャンの生き方は、モームの「月と六ペンス」のモチーフにされたりして、白人たちによって理解を示され、美化されてきたが、非難されたことはない。むしろ南国バカンス白人の理想型とされているといえるだろう。
この鬼畜行はそれほど昔の話ではない。日本が台湾を併合したころのことである。
ゴーギャンはフランス植民地の原住民女性を自由にもてあそんで、ひょっとしたら、カネすら払わなかったのではないか。
白人や進歩主義者の基準では、どんな事実上の力関係が背景にあろうと、形式的な合意があって「無料の」セックスであれば、「自由恋愛」として正当化される。
その時点で彼らは、一切の罪悪感を感じなくなる。ただし、それも「男が白人」の場合のみである。
晩年のゴーギャンは、女を自由にできる環境を求めて、島から島へと渡り歩いたという。
フランスはいまなお、植民地「仏領ポリネシア」にしがみつき、核実験による放射能汚染にも罪悪感も責任もこれっぽっちも感じていない。 アフリカ植民地で奴隷狩りをやっていたころと同じ植民地主義の延長が、いまなお、フランス人の心にもアジア太平洋にも、脈々と生き残っている。
この事実を省みるだけでも、日本があの戦争を戦ったことには「義」があったといえるのではないか?
しかし、その仏領ポリネシアを、「フレンチポリネシアはすばらしい」と言ってよろこんで訪れるバカな日本人ツーリストがあとを絶たない。
そういうこともまた、フランス人の植民地支配の自信を後押しする要因になっている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/2006/08/25_3095.html
70年代ロックスターを12歳少女淫行容疑で拘束=ベトナム
2000年1月11日、ロンドンでメディアと会見したゲイリー・グリッター容疑者【AP】
【ライブドア・ニュース 11月21日】− AP通信によると、70年代にグラムロック界のスターとして英国で活躍したゲイリー・グリッター容疑者(61)が、ベトナム・ブンタウの自宅で12歳少女らと性交渉を持った疑いで地元警察に拘束された。警察が21日、発表した。
警察の発表によると、3月から同市に住んでいたグリッター容疑者は、借りていた自宅に12歳と18歳の少女を招き、性交渉を持った。その後、12歳の少女が警察に通報、同容疑者は19日、ホーチミンのタン・ソン・ニャット国際空港で、タイ・バンコク行きの飛行機に乗ろうとしているところを警察に拘束された。
また、地元紙タン・ニェンは、21日付で、12歳の少女を含む2人の少女は1回の性交渉につき、15万ドン(約1200円)をもらっていたと報じた。12歳の少女は同容疑者と3回、性交渉を持ったという。
ベトナム国内法によると、「児童に対するわいせつ行為」は最高12年の禁固刑、「児童に対するレイプ」は最高が銃殺刑とされている。当局筋によると、12歳の少女との性交渉は、同意があったかどうかを問わず、レイプとみなされるという。現在、少女の証言の確認と、グリッター容疑者の取調べが行われている。同国外務省スポークスマンは、「(グリッター容疑者の)容疑を裏付ける証拠が確認された場合、厳罰に処されるだろう」と述べた。
グリッター容疑者は1999年に英国で、児童ポルノを所持していたとして起訴され、2カ月拘置されたことがある。その後、カンボジアに移住したものの、2002年に永久国外退去処分とされた。
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かつてカンボジアの子供買春といえばプノンペン近郊の「スワイパー村」が有名だった(児童買春というと日本では18歳未満なので正確に子供買春という)。この村は内戦のせいでできたというよりも「国連関係」の人たちのためのものだったそうだ。児童買春に反対する欧米NPOボランティアの青年たちもひそかに子供を買っているという噂があった(あくまでツーリストの噂なので違うというなら反論してください)。
女の子を買うのは近年比較的取り締まられるようになったが、男児を買う白人連中はまだまだチェンマイあたりでも羽を伸ばしてるはず、と思う。
そういえば今年の春、ネパール、カトマンドゥのタメルの街中でネパール人の小さな女の子の手を引いて歩くツーリスト風の白人男をよく見かけたが(一人二人ではなかった)、あれはなんだろう。今年は例年になく地元の子供をつれた白人を多く見かけた。
子供と遊んでやるボランティアでしょうかね。妙に堂々としてたからキリスト教ミッショナリーの仕業か?ミッショナリー主催のツーリストが子供と遊ぶボランティアかなあ。タイ北部ではミッショナリーによるチャイルドアビューズも白人自身から告発されている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/2006/08/7012_2dfa.html
2007年1月 3日 (水)
59歳のアメリカ人男がチャイルドセックスで逮捕 11歳と12歳の少女とプノンペンのホテルで カンボジア
59歳のアメリカ人男が11歳と12歳のカンボジア人少女とプノンペンのホテルにいるところを警察に逮捕された。月曜日、元旦のこと。
これは児童買春というより、幼女奴隷といったほうがいいのだろう。
白人の場合、同時に二人の幼女と性行為をすると逮捕される確率が高いようである。このケースは男が2人の幼女と一緒にホテルにいるところを逮捕されている。身を隠そうとする形跡すらない。
このケースの被害者はベトナム人少女でなく、カンボジア人少女のようである。(なおさら悪質性が高いように感じられる。ことさら幼女を求めて貧しい家庭と交渉したことが考えられる。というのは、ベトナム幼女の人身売買には「市場」があるが、カンボジア人幼女の人身売買には市場がないからである)。
最近のカンボジアでも、白人が逮捕され報道されるケースはこのようなエゲツナイものばかり。
幼女を連れて歩いているくらいでは逮捕もされないのだろう。
孤児援助のボランティアだ、NGOだ、ミッショナリーだなど、白人にはどんな言い訳でもして開き直る用意がある。実際、その手のボランティア、NGO、ミッショナリー等が、白人のチャイルドセックス、児童性奴隷、人身売買の温床にもなりカバーにもなっているのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339173/index.html
ドイツ人男2人が14歳未満の少女との「遊蕩」と人身売買の罪で告訴される
やっぱり「英語教師」 プノンペン カンボジア – AFP
まだがんばっていたんですね。さすがはドイツ人。買春と幼女が何より好きな民族。
裁判所は昨日、ドイツ人2人とベトナム人3人とを未成年者の性的虐待とヒューマン・トラフィキングの容疑で告発しました。(カンボジアは糾問主義のようです。裁判所が告訴告発も行い、捜査を指揮する)。
「女を買う」だけでなく、人間をも買っていたようです。つまり少女を物として買い取っていた。
ドイツ人カール・ハインツ・へニングKarl Heinz Hening(61歳)が、「遊蕩」Debaucheryと、未成年の少女をセックスのために買ったヒューマン・トラフィキングの罪で、同じくドイツ人、ミュンヘン出身のトーマス・ジグヴァルト・オイゲン(42歳)Thomas Sigwart Eugenが「遊蕩」Debaucheryの罪で告訴されました。
Debauchery(遊蕩、放蕩、遊興)は、当地の当局が性的虐待の意味で使う用語。
42歳のオイゲンEugenのほうは、私立大学の英語教師でした。(どこの私立大学かは不詳。オイゲンの学歴も不詳。しかし白人なら誰でも「英語教師」になれそうな雰囲気)。
性的虐待を受けた少女のうちの一人の母親も、月曜日、他の2人のベトナム人と一緒に逮捕され、ヒューマントラフィキングの罪で告訴されました。三人はブローカーとして働き、へニングHenningに少女を斡旋していた。
プノンペン首都裁判所の検察官Ngeth Sarahは、訴訟を維持する十分な証拠があるとしいう。有罪になれば彼らは、10年から20年の懲役に服することになるという。
警察はヘニングを家宅捜索の後日曜日に逮捕したが、ヘニングの借家からは全員14歳以下の4人のベトナム人少女が発見されました。(児童ポルノが見つかったのではなく、実物の少女が見つかった。4人監禁して幼女ハーレムにしていたようです)。
警察はまたこのドイツ人が子供たちとオーラルセックスをしているビデオを押収しました。1000枚ほどの児童ポルノも見つかった。
オイゲンは、ヘニングのビデオの中で2人の少女とセックスしているのが見つかり、翌日逮捕された。(こいつらはドイツ人同士で幼女セックスの写しあいをしていたんですね)。
ヘニングは警察から逃げようとして2階の窓から飛び降りて怪我をしたため現在入院中である。
2003年、カンボジアでは約24人の外国人が児童買春で逮捕されたり追放されたりしている。カンボジアはいま、幼女性愛者の溜まり場というイメージを払拭しようと努めているということです。−AFP
根っこにあるのはアジアでの「白人セックスツーリズム」という文化なのです。
さらにその根底にあるのは、白人のレイシズム、植民地支配者意識です。
日本人男が一人でも、ヨーロッパの片田舎でこのドイツ人と同じようなことをやったら、白人世界全体の日本人に対する怒りがどんなに凶暴に荒れ狂うだろうか考えてみてください。しかし、彼ら白人は自分たちがアジアで何をしてもまったく何も感じない。
アジア人レンタルワイフを雇っているような白人が100人いるから、一人の児童性虐待者・児童監禁者が紛れ込む余地が出てくるのです。児童買春が他のセックスツーリズムと無関係なわけではない。とくに家を借りた長期監禁型の児童性搾取や児童人身売買は、白人が愛好する「レンタルワイフ・バカンス」形式の買春文化と密接な関係があるということによく注意する必要があります。
これらの児童性愛白人たちには、目的達成のための特有の情報ネットワークがあり、欧米伝統の(白人同士の)「隣人愛」「助け合いの精神」に支えられていることにも注目すべきです。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6328454/index.html
児童買春(子供買春) 2008年10月 2日 (木)
クアラルンプルでまた幼女(10歳くらいに見える)を連れた白人男を見る
あまりに堂々としているので写真も撮らなかった。「正当な理由」があるのかもしれない。「正当な理由」を準備して堂々と振舞うことで白人は世界を制覇してきた。
今日、クアラルンプルの中華街で、10歳くらいに見える幼女を連れた30歳くらいのバックパッカー風白人男を見た。10歳くらいに見えるというのは、もし日本人の女の子だったらそのくらいの年頃に見える、ということ。東南アジアの子だから12歳か13歳くらいかもしれない。
どう見ても白人の子には見えないが、父親に似ないこともあるのでこの汚い白人男の子でないとは断定できない。かわいいアジアの女の子、どっちかといえば中国系の子に見えた。
「正当な理由」はいろいろある。
「養女(義理の母親もあり。カネで現地女を雇う)」
「孤児と遊ぶボランティア」
「少数民族の子供にただで英会話や勉強を教えてあげるありがたい白人青年ボランティア」
「現地妻の連れ子(現地妻を雇うがそのオバサンが目的ではもちろんない)
など。
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また嫌なものを見た。クアラルンプルで。12歳くらい(日本人なら10歳くらい)のアジア人幼女を連れ歩く30くらいの汚い白人男。妙に堂々としているが、どう見ても白人の子には見えない。そりゃわかりませんがね。かわいいアジア幼女だったな。汚い格好をしたバックパッカーのような男。 (2008年10月02日)
クアラルンプルの中華街で。あまりに堂々としていて、屋台で幼女に何か買ってやったりしているので、その光景だけからは「正当な理由」があるのかもしれないと思わざるを得ない(現に写真を撮るのははばかられた)が、いろいろな「正当な理由」(養女、孤児と遊ぶボランティア、少数民族の子に英会話を教える教師、アジア人妻の連れ子)を偽装して児童性的虐待をするのは白人の得意技である。
幼女と遊ぶためにダミーの母親役タイ人女を雇うというのはタイの田舎では普通に行われている。
ぺドフィルにとっては幼女の親にカネを払うほかに偽装用アジア女を雇うくらいの出費はなんでもない。
念のためにいうと、このような児童虐待遊びは日本人はやっていない。まず、長期のバカンスが取れないとできない遊び。いろんな準備が必要なので、ネットワークと交渉力がなければならない。
一番大きいのは「現地警察が大目に見てくれなければなりたたない」遊びだといううこと。白人がやることに対してはアジアの警察はよほどはっきりした目に余ることでない限り取り締まらない。
現地当局としても、その国で児童買春ツーリズムが行われていると世界に宣伝したくないし、また白人を逮捕して白人世界を敵にしたくない。
日本人の児童買春はカンボジアの置屋から児童がいなくなると同時に終息したといえる。
もし日本人がこんな遊びを少しでもしていたら、すかさず現地警察が介入して、まず恐喝されたっぷりせびり取られた後、逮捕されて国外追放。現地マスコミで日本人全体が笑いものにされる。
東南アジアのマスコミの日本関係報道は、現地人の日本人への嫉妬心を満足させると同時に日本を叩いて白人が喜ばせるというのがすべて。白人に媚びることが東南アジア人の基本的な生業。
日本人が東南アジアで欧米人より買春しているとか、日本人が児童買春の主役だとか、そういう日本のメディア(ネットを含む)の報道はまったく事実に反するでたらめである。(2008年10月02日)
http://kuantan.aboutme.jp/user_statuses/show/82392
白人の強みは情報、ネットワーク、「野蛮の地」における惜しみない相互扶助、重要なことにはカネを惜しまないこと、長いバカンスが取れる「生活の質」などである。これらの諸要素は、「正当な理由」付の児童買春・児童性的虐待遊びや「ガールフレンド」遊びにも有効である。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-116.html
http://journal-ibrahim.blogspot.com/2007/03/kl.html
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html
アジアの現地警察は(日本を含めて)、白人の性犯罪に関してはよほど目に余ることをやっていない限り手を出せないということにも注意すべきである。
カンボジア警察はよくやっているほうだが、これは国連が作り出した「スワイパー村」での幼女買春(お客は国連関係者)が問題になった経緯があり、国連機関・国際警察機構が取締りの後押しをしているからである。
タイ当局は「取り締まらないことによって問題がないことにする」政策を貫き、映画「闇の子供たち」をも弾圧している。
「闇の子供たち」、タイで上映中止に=バンコク国際映画祭
(私はこの映画を見ていないし原作も呼んでいないので、その内容についてはここで評価することはしないが)。
実際、タイの田舎を回ってみれば、不自然な3人家族を見かけることは珍しくないはずである。白人の「父親」とタイ人「妻」と12歳前後の「娘」が、会話も交わさず人目を忍ぶように、あまり人の来ないようなホテルに滞在し、転々としている。
タイ北部の田舎でゲストハウスを経営していたあるアメリカ人は、そういうドイツ人の「父親」から宿泊の依頼を受けたが断ったと言っていた。しかし、このアメリカ人は「良心的」といえるか?
「野蛮」の地では白人同士はやばいことでも遠慮なく頼むし、頼まれたほうもできるだけ力になろうとする。野蛮人の警察に通告したり恐喝したりはしないのである。
タイなどで日本人同士足を引っ張り合うことばかりしている日本人は、白人のこの相互扶助精神を少しは見習ったほうがいいかもしれない。
アジアの白人ツーリズムは異常である。中東から西では、これに類するような嫌なものは見なかった。ごくまれに土人売春婦連れの白人を見たくらい。
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エイズ予防のほんとうの決め手は、結婚外のセックスをしないことです。婚姻と性交に関する伝統的なルールを守ることなのです。エイズはもともとアフリカの風土病だったんでしょうが、白人が拾ってきて世界中に広めました。
梅毒はアメリカ大陸の風土病だったようです。これも白人がアメリカに達するとただちに拾って、たちまち日本にまで伝わりました。
「エイズ以前」の東南アジア、とくにタイを中心とするインドシナのセックスツーリズムなど今よりさらにひどいものだったので、それを考えるとエイズは天罰というほかありません。
Lonely Planetミャンマーに、「ミャンマー政府が悪いので、エイズ対策をしていないので、ミャンマーはエイズが危険ですから、気をつけましょう」などと書いてあったのを思い出す。
彼らはどこまで恥知らずなのだろう。インドシナに、東南アジアに、エイズをばらまいたのはどこのだれなのか?隣国のタイに、大量のエイズウィルスを投下した人種は何色人種なのか?
「セックスが安全」なら大量のセックスツーリストが「貧しくてタブーの少ない」地域に押しかける。
体力のある若い男なら(むなしさを感じる感性もなければ)、一日4回でも5回でもセックスが出来る。貧しくタブーがなく住民のすれていない地域で誘惑すれば、一人のツーリストが一日4人でも5人でも買春または「恋愛」できるということ。
「タダで、生で、処女で、何人やった」ことを誇る白人ツーリストは、いまでもタイ北部ではあとを絶たないのである。そういう話は容易に立ち聞きすることができる。
性的本能として、妊娠の可能性の高い行為からより強い刺激を得ることが出来る。男にとって安全(死ぬほどの病気にならない)であれば本能のままにやり放題になる。
実際にこういう白人ツーリストが大量にやってきて、貧しい地域を中心に大量の売春婦を創出した。
売春によって初めて貨幣経済の洗礼を受けた山岳少数民族などにとっては、経済(お金)=売春・娘(幼女)売りということになる。
いったん貨幣経済の洗礼を受ければカネなしで生活できない、しかし売春以外にカネを得る方法を知らない。また、売春婦は遠隔地からもどんどん集まってくる。地元で売春をする者は少ない。
セックスツーリストは時に大量にやって来て、売春婦不足を起こす。
売春婦はある意味で慢性的に不足している。客はすぐに今までの売春婦に飽き、売春ズレした女に飽きる。白人客がアジアに求めるものは「ゴーギャンのような体験」なのであり、未踏の地の桃源郷に咲くだれも見たこともない花を摘み、独占するというイメージである。
新たな付加価値のある売春婦が大量にリクルートされることになる。若い売春婦、幼女、処女などが農山村から常にリクルートされる。
しかし客が大量に来る時期は限られている。来ないときは来ない。
同じ売春婦を繰り返し買う者も少ない(タイの売春バー、レンタルワイフバーは、同じ売春婦を継続的に買わせる制度という面もある)。
いったん売春生活に入って「近代生活」に入ってしまった者は、客が来ない間以前と同じ生活に戻るわけにはいかない。第一、あまりに若い時期に村を出て、売春婦またはレンタルワイフとしての生活を始めた者は近代生活しか知らない。
売春婦はツーリストの少ない間も何とか貨幣を得ていなければならない。
それゆえにまた、売春婦の慢性的な供給過剰が生じる。
売春市場においては、同地域においても、需要過剰と供給過剰とが同時に起こりうるのである。すなわち、売春においては供給過剰の中でも供給不足がおき、さらに売春婦がリクルートされることになり、さらなる供給過剰を惹起する。そして供給過剰は買春客の創出を引起せざるをえないし、また「自由な市場」においてはすることができる。これが売春力商品の特殊性の第一である。
「自由な」売春市場の隆盛は、売春への倫理的ハードルを低くし新規参入者による供給を創出することにより売春価格を押し下げ全般的に売春婦を抑圧すると同時に、新鮮で若い売春婦の参入は、よりエキセントリックで狂気じみた楽しみの分野を開拓する。
「マジメな場所」や「清純な場所」にセックスを持ち込むことがセックスの大きな刺激であってみれば、(というのは男性の性欲は多かれ少なかれ「破壊」のイメージと不可分であるから)、これは伝統文化、倫理規範の破壊自体を楽しみとするものとなり、同時に多くの児童幼女少年たちを犠牲にしていくことになる。
供給上の都合からも需要からも、両面からの要請により、売春婦は限りなく低年齢化に向かうことになる。
このようなプロセスを経て売春価格は慢性的に下落し、売春婦は安い値段で回数人数をこなさなければならなくなり、売春施設・売春産業の拡大、ツーリスト以外の顧客層、ローカル客の開拓が要請されることになる。
タイは「豊かな国」であるにもかかわらず、タイの売春価格がもっと貧しい国より安く抑えられていることの理由のひとつはここにある。(奴隷労働者に近い少数民族や外国人労働者、広範な家内奴隷的使用人の存在と、大量の貧乏白人ツーリストとが、サービス業一般の物価を低く抑えているという背景もある)。
売春ツーリズムおよび売春産業は、「自由」に放任しておけばこのように爆発的に膨張するとともに、地場に根を張り伸ばし、地域の伝統的な性的倫理規範を猛然と破壊していくことになる。
倫理規範という「ハードル」を失った社会においては、売春市場は、先にも述べたとおり、「売春婦の創出」と「顧客の創出」の両輪をフル回転させながら膨張していくのであるが、必ずしも単線的に膨張するわけではない。売春市場は常に不安定な市場である。この不安定に対応するために、売春市場の巨大化と成熟は、売春システムに一種の柔構造を与えることになる。すなわち、それは売春の慢性化と普遍化であり、これは言い換えれば社会全体のの「売春宿」化である。社会の売春宿化とは、とりもなおさず社会のタイ化にほかならない。
具体的にいえば、次のような現象である。
ごく普通のホテルのフロントで事務の仕事をしている女の子が宿泊客の求めに応じてごく普通に売春し、終わるとまた仕事に戻っていく。ゲストハウスの下働きの少女が若い白人客に押し倒される(北タイならミャンマー籍タイヤイだったり少数民族だったりする、イサーンならラオス籍だったりする)、「やや強引な恋愛」だと思っていた白人客は意外にも直後に純朴そうだった少女から3000バーツを請求され、いくらなんでもそれは高すぎるだろうといって交渉して1500バーツにしてもらう(それでも「素人」となまでやれたから彼にとっては結構いい思い出である)。少女は何もなかったかのようにまた普通の仕事に戻るが、また遠からず別の客に「押し倒される」だろう。これは「普通の仕事をしながら押し倒される」という形式の売春である。
タイマッサージについてはあらためていう必要がない。タイマッサージは健全なものである。しかし、タイマッサージをしながら恋愛に至ることもある。生活が大変であることを理解してもらい援助してもらうだけである。1時間でも2時間でも恋愛は恋愛である。きわめて健全なタイマッサージを普通に行っている女性が、ときどき客を選んで売春するのである。この客を選ぶというモメントが、売春力商品の性質を曖昧にし、その商品性を隠蔽する。これが売春力商品の特殊性の第二である。売春婦が客を選ぶというモメントが、売春に過ぎないものにあたかも自由恋愛のような情緒とカバーを与える。
白人は恥知らずにも自分が買った売春婦を「ガールフレンド」と呼ぶ。日本人男たちは売春婦に「嫌われないこと」に躍起になって卑屈に立ち回る。白人男たちの中には、レッドネックバー(おもに白人用の売春バー)で女の取り合いをして喧嘩を始める者もいる。売春の慢性化、社会の売春宿化、社会のタイ化は、売春に対する社会全体のマトモな感性を麻痺させる。上等なところに売春婦丸出しの女が白人ジジイを連れて入ってきても平気である。
一方で、10歳前後の少女少年が白人バーを回って薔薇を売る。客が売春婦にやるためだが、白人客の中には必ず少女少年たちを買おうとするものがいる。実際に買っていく。それを見ている他の客も、ローカルも何もいわない。やってるのはどうせ山岳民族の子である。白人がいっぱいいる中で白人がすることには、アメリカの全面的な精神的バックアップを受けるタイ国家の警察はよほどのことがない限り手を出さない。アメリカとは実は、「白人世界」の利益を代表する権力のことである。。
このようなキチガイ沙汰を少しでも抑え込めるものは、実に、天罰しかなかったのである。
エイズが第一の天罰であり、第二の天罰はプーケット津波であろう。
人間の側からこれに立ち向かう正道は、「倫理」以外にはない。
エイズ特効薬を作ったり、エイズ予防のために割礼をしたり、という横道に行くのではなく、「社会倫理規範を取り戻すこと」こそ重要なのである。
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白人は、ごろつき滞在者やいわゆるセックスツーリストだけでなく、「地元に根付いて」「地元に貢献し」ている実業家など、堅気に暮らしているように見える者も、ほとんどこの範疇に入ると思ったほうがいい。
なぜなら、これはもともと白人にとっては「普通のこと」だからである。彼らが何百年間アジア太平洋で普通にやってきたこと、地道にやってきた騒ぐほどでもないこと、アジア太平洋(というより世界中の非白人世界)における「白人の権利」であったことだからである。
何度でも言うが、白人世界でゴーギャンが非難されたことが一度もないように、白人のこの種の「特権」概念がラディカルに批判されたことは一度もない。彼らがそれを自己批判する道理もない。
われわれが注意すべきは、彼らにとっては、東南アジアも日本もそれほど区別されていないということである。日本は東南アジアより金がかかるとか(役所で)英語が使えないというだけの違いであって、彼らの基本的な「特権」観念上の違いはない。この際、日本と東南アジアとはまったく違う世界、と思っているのは日本人だけだと思っておいたほうがいい(実際まったく違う世界なのだが、白人はそうは見ていないという意味)。
彼ら白人にとって、アジアはもともと「それをやっていい土地」だったのだ。いつから「いけない」ことになったのか腑に落ちないくらいなのである。
彼らがアジアを見る目は、「最近ちょっと金持ちになってお澄まししているが中学生のときからずっと誰とでも寝て金をせびっていた女」に対して男たちが投げかける視線のようなものである。「どうせ・・・・」「条件次第ではいまだっていくらでも・・・・」「警察さえ何とかすれば・・・・」という感覚である。
「アジア」に来ればあたり構わず女に声をかけ代金を示して交渉する、年齢にかまわずスキのある女児男児に付け入ろうとする、というのが白人の常態である。
外国人犯罪抑止のためにもこの事実は正しく知らなければならない。
だから英語教員・補助教員などの名目で多数の白人を日本に動員することは、女児だけでなく男児を持つ親にとっても、たいへん危険なことなのである。
中卒ゴロツキのオーストラリア男でもアジアではいくらでも「英語教師」の資格を得て「キャリア」を積むことが出来る。
白人好きの女の子をナンパすることができて英語でおしゃべりしながらセックスできるくらいの社会適応能力があればアジアの英語教師は勤まるのである。
そんな「キャリア」をタイで10年間積んだ英語教師を日本が拒む理由はなくなる。英語教師を受け入れるという以上、それは「差別」といわれるであろう。彼らはタイその他の国で「英語教師」の「実績」があるのである。
その結果どんな毛唐が日本に流れ込んでくるか、彼らが日本に来てどんな犯罪を起こそうとするかは明らかだろう。
白人英語教師の導入は(児童に白人に英語を習わせることは)非常に危険なことなのである。
これは偏見でも差別でもない。多くの事実に基づく合理的な判断である。
2006年12月20日 (水)
【"Paedophile Paradaise"=幼児性愛者の極楽】 児童買春・チャイルドセックスツーリズムが猖獗を極めるパタヤPattaya【タイ】
幼女目当てのセックスツーリストは、いまさらプノンペンあたりをうろついて警察に捕まるよりも、素直にタイのパタヤに行ったほうが早いようである。
(ただしパタヤの売春少年少女が非白人客をどれだけ相手にしてくれるかは別問題である)。
カンボジアは国際機関が監視の目を強めている国のようであるが、タイのセックスツーリズムにはアメリカをはじめとする欧米列強の大きな後ろ盾がある。
何しろ、ベトナム戦争中大々的に兵隊の下半身を世話してもらい、その後も10歳前後の少女がバンコク繁華街の路上に陳列されて売られているという状況に苦言も呈さず容認し、大量のセックスツーリストを送り込んできた人権大国アメリカとしては、(とくに「セックスがらみの人権問題」で)タイには強いことは言えない。
ここでもチェンマイと同じく、「花売り娘・少年」が白人セックスツーリストのターゲットになっているようだ。
今日の新聞から
ベトナム戦争の初期にアメリカ兵の「慰安所」「リラックスするところ」になるまでは小さな漁村だったパタヤだが、いまは何でもありの「ぺド天国」である
誉れ高きプミポン大王の統治するタイ王国政府観光局(TAT)も、恥ずかしげもなくこの街のセックス産業を自慢するのである=これがタイという国なのだ
マッサージパーラーは、誉れ高きプミポン国王陛下の統治するタイ王国政府推奨の娯楽施設のようである。どんどん利用しようではないか。
なお、タイのマッサージパーラーの起源については、タイヲタが泣いて喜ぶ泰日友好の逸話がある。日本に留学したタイ人が日本の現在のソープランドを体験してそのサービスのすばらしさに感激し、「これしかない」と思いタイに帰って始めたのがその起こりということである)
厚化粧させてきわどい服装をした少女たちを置いた売春オープンバーが無数にある。少女たちの多くは14歳といった年齢
いまさらながら、なぜこれを取り締れないのか不思議になってくるが、あらためてタイ当局は(タイ警察、タイ軍をふくめて)白人のお楽しみのお邪魔はどうしても出来ない権力なのだということを痛感する。
しかしタイ国家は弱者には恐るべき権力である。タイ国家は、白人以外の者、とくに弱い少数者には圧倒的な実力を行使することをためらわない。だからこそ、タイ国家だけは破滅させなければならないのである。
イスラエルを消すよりもタイ国家を世界地図から消し去ることのほうが喫緊の課題である。これは人類に課せられた倫理的要請である)。
この子供たちの中にはもちろん、タイの永久IDも買えない山岳少数民族の子供たちがいるだろう。深南部パッタニのバーにさえ(ほとんど客がいないが)北部から山岳少数民族らしき少女が来ていた。
パッタニだってナラティワトのビーチだって、イスラム教がなかったらパタヤと似たようなことになっていたかもしれない。白人の蹂躙に対する楯としての東南アジアのイスラム教の役割を軽視することは出来ない。
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アンコールワットの近くにあるレストランなどにも多くの白人ツーリストがたむろしている。
そして、実にかわいらしい(カンボジアの子供はたいていかわいらしいが)幼い少女たちが、彼らのところに笛を売りに来る。白人男たちはまず買わないが、物売りの幼女たちと会話を楽しんでいるようだった。
3,4年前のタイで。「チェンマイの花売り少女」は8歳ぐらいから20歳近いのまでいた。多くは山岳少数民族の女の子たちで、ロイクローの売春バーにたむろする白人酔客たちのところに行って薔薇を売っている。(チェンマイのバーは売春バーでもオープンバーで花売りが自由に客のところまで行ける)。客は花を買ってバーの女(多くが売春婦で少数民族の少女が多い)にやるのである。
花売り娘たちは夜更けまでチェンマイの街中をうろついていた。中にはかわいらしい12歳の少女で、なぜか英語が上手すぎる子もいた。
NGOのようなところに出入りしていた14歳のアカ族の少女は、バーの白人客から500バーツでホテルに行こうと持ちかけられたことがあると言っていた。彼女は学校には行っていなかったが英語が話せた。キリスト教ミッショナリーに侵食された村の出身らしく、自分もクリスチャンだといっていた。英語は村の教会(高床式の村の中でひときわ目立つけばけばしくペンキを塗りたてた小屋など)で教わったようだった。
タイの山岳少数民族はお金に困ることが多い。彼女らのほとんどが「永久IDカード」は持っていなかった。タイ族なら無条件にIDカード(=タイ市民権)が交付されるが、山岳少数民族には難しい。町に出てきている山岳民族の多くが期限付きのIDしか持たず、その更新をするには警察に大金(私が聞いたときは4000バーツ)を払わなければならない。(IDカードなしでも自分の村には住めるが、移動の自由はなく町に出ることができない。
彼らは本来山岳地域を移動しながら焼き畑農業などをしてきたので、移動を禁じられることは自給自足の生活さえ脅かされることを意味する。また貨幣経済の浸透により、現金収入も必要になっているからどうしても町に出ざるを得ない。一方ミャンマーではすべての山岳民族が永久IDを与えられる。山岳少数民族の市民権に関する扱いではタイよりもミャンマーのほうがより「人権」に配慮している)。
彼女たちにとって4000バーツは気の遠くなる大金である。このような状況に陥った少女たちに対してファラン(白人)の「援助」の手が差し伸べられることは、大いにありそうなことであろう。
東南アジア全域で、花売りや物売りや乞食の少年少女(幼女)に「援助」を持ちかける白人男は数え切れないと思われる。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339172/index.html
/: : /: / :/ : l : : ヽ ※ヽ ',
l: : /: : /: : /: /: ハ : : :ヽ { '、
: l!: :⊥、/: : /.:/. /|: : .l ヽソ ハ
|l: :l :トリ_`ー':^/: {、 ヽ: : : | : : |_,..ィ'´ ̄
人:弋 じぇ、"´ 、 `丶、_ヽ.:l: /: : l|:. |
ム `ト `"'゙ '^ぅテォ-テ/./: /: /l.:..:.|
∧ 八 , ヾジ /.イ: :/. /: .l : |
こ}※ \__ トー‐、 __ ノ_ .イ//_:_:_l..|
匸l/⌒ 、 )ヽ___ノ _ .. イ ̄※ ノ厂兀l.|
て/ ´ ヽ`三/ ┴、 / ノし }: : l|
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6. 結論
グレートマザーを殺してしまった為に、欧米人はみんな精神の片端になったのさ。
まともな男女関係とはこういうものかな。 まあ、中国人と全然変わらなくなっちゃうけどね:
セックスのために女のつまらない話に相槌を打ち、紳士的に振舞い
したくもないデートをし、愛情を注ぐ演技をしている。
そして「バカな女だw」と内心ほくそえみ体を頂戴する。
飯食うのは遅い、買い物も遅い、 女とは趣味や考え方も
まるで合わないし基本的にバカが多い。セックス以外で女といてもつまらないだけ。
一回目のセックスでマンコ、乳首の色や形、具合、匂いなどをチェックし、
好みの体であれば継続して付き合う。 で飽きたらトンズラ。
(性格が良くて家事能力が高ければ稀に「彼女」に昇格できる場合もあり)
男は1人の好きな女とずっとセックスしたいんじゃなく いろ〜んな女と
セックスしたい。 動物と同じで複数のメスと中出ししてトンズラ中出ししてトンズラのが基本中の基本。
イケメンや財力、社会的地位のある甲斐性のある男はみんな浮気する。
真面目に一人の女と付き合うなんてモテない男のやる事。
Q:そんなにセックスしたいなら風俗の方が手っ取り早いんじゃないの?
A:風俗嬢相手のセックスは所詮お金が絡んだ味気ないものです。
素人女を騙くらかして、心も体も犯すのがセックスの醍醐味です。
それにセックスのために毎回風俗に行っていてはお金がかかって
しまいますので定期的な無料セックスを確保する意味でも
素人女のほうが効率がいいのです。
Q:性欲しか頭にない男性なんてごく一部でしょ!
A :健康な男性であれば性欲しか頭にないのが普通です。
もちろんそんな顔を見せては女性に嫌われますからたいてい演技してます。
考えてみてください。たった一回の射精のために3〜5万も風俗で払う男性がいることを。
痴漢や盗撮など人生をふいにしてまでも性犯罪に走る男性が大勢いることを。
行動に移さないまでも願望として持っている男性は非常に多いです。
それだけ男性の性欲は凄まじいのです。恋人がいようが結婚してようがいつも
「セックスできる女がいないか」と虎視眈々と常に狙っているのが男という生き物です。
Q:ただ単に女性を愛した事がない寂しい男性なんじゃないの?
A :男性は恋愛映画やドラマなどをほとんどみません。つまり愛や恋などには
本能的に興味がないのです。男が大好きなのはAVです。つまり興味の中心は
セックスなのです。 それが普通であり一般的です。それから恋愛映画に出てくる
男性像は現実とかけ離れたものばかりで白馬に乗った王子様など存在しません。
AV女優を見て「これは作り物。こんな女はいない!」って女性は思うでしょう?それと同じです。
Q:そんなことして空しくならないの?罪悪感はないの?
A: 男には400万年かかって形成された撒種本能があります。これができるだけ
多く、1人でも多くの女とセックスしたい、 と考え行動する理由です。男はほぼ同時期に100人の女を妊娠させる事ができますが女性は1人の男の子供しか産めません。
そういう体の構造からして浮気願望は男の本能の欲求であり健全な願望です。
罪悪感などは感じません。 むしろオスとしての満足感、達成感に満たされます。
【女は男の性欲に支えられている】
男に性欲がなかったら女性は今のようにチヤホヤされることはありません。
肥え太り、運動神経は皆無で、体力、腕力もない。平均的に知能指数も低い。
飛びぬけた才能がある人間もほとんどいない。生理というハンデがある。
客観的に女性という生き物を見れば能力が低いことがわかると思います。
もし男に性欲がなかったら・・女性は男のいじめのターゲットになったり
社会に出ても単純労働でしか働くことができず社会の最底辺に属するのではないでしょうか。
(性的な魅力の皆無な女性の悲惨な現状を見ればそれはわかると思います。)
皮肉にも女性が一番嫌う男の「スケベ心」のおかげで生きていけるのが今の社会です。
快適に生きていけるのは決して女性の実力ではありません。男の「性欲」のおかげです。
【甲斐性のある男ほど「若い女」を選ぶ】
社会的地位のある男、財力のある男など「中身のある男」ほど
若い女を選びます。女性の価値は若さなのです。それは出産能力の高い
若いメスに妊娠させたいという男の本能から来るものです。
男は女性が考えている以上に女性の「若さ」しかみてません。
【甲斐性のある男ほど「浮気」をする】
社会的地位のある男、財力のある男など「中身のある男」ほど浮気をします。
男ならほとんどが「浮気願望」がありますが、浮気は財力があったり
魅力がある男にしかできません。つまり甲斐性がなければ浮気はできないのです。
だからもてない男性は浮気をする能力がありません。「しない」のではなく
「したくてもできない」というのが浮気をしない男性の現状です。
【やり逃げは男の「特権」である】
男の最大の特権は「妊娠しないこと」です。ガンガンやり逃げしましょう。
女は妊娠リスクの代償としてチヤホヤされたりただ飯食ったりさんざん
いい思いをしています。だからやり捨て→妊娠→中絶するくらいでプラマイゼロ。
なんの罪悪感も感じる必要はありません。
男の特権を生かしガンガンやり逃げしましょう。
【男にとって失恋の悲しみはセックス出来なくなった悲しみ】
男にとって失恋の痛みとは「セックスする相手がいなくなった悲しみ」
という場合がほとんどです。
自覚がない場合が多いですが、ためしにオナニーしてみればわかります。傷心の心が癒されますから。 失恋相手の ことなどどうでもよくなることすらあります。
相手が恋しいと思ってるときは ただ単に溜まってるだけの場合が多いです。 セフレでも作って一発抜けばケロっと治ることがほとんどだと思います。
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「エステで500人以上の中国人とセックスした男」
いまや中国人系のエステは5割は本番店だ。
と、言い切ってもいいくらいに本番エステが実は横行している。
さておき、なんと500人以上の中国人とセックスをした、しかも違法エステ限定!!というツワモノから投稿があったので、 お話を聞いてきた。
場所は埼玉県郊外の一軒家。 両親がなくなり、この家と5000万円の遺産が残ったという、工場勤務の安藤さん(仮名)42歳。
・500人の中国人とセックスしたそうですが、その経緯は?
「働いている工場が板橋にあるんです。それで大塚とか池袋で飲んでたら、
エステって看板が見えたんです。初めは軽い気持ちでマッサージを受けるつもりだったんですが、 なんとあれよあれよといううちに、そのユンソナ似の中国人がコンドームして、騎乗位で挿入してきたんですよ!!
、で、 こんなに気持ちいいのがあるのかと、もうそれからは2年間ほとんど毎日通いました。」
・単純計算でも1回1万円としても500万円、かなりの額ですが。
「ちょうどその時に両親がなくなって、遺産が入ったんです。それからはほとんど気が狂ったみたいに。
仕事も止めてHPでお店を見つけては突撃する日々です。500人って言っても、お気に入りの子ができると10回くらい通うから累計では1000回以上は店に通ってますね。」
・1000回!!1000万円以上を違法エステにつぎ込んでいるんですか?
「そう。だから大塚とか池袋に行くと見知らぬ人に超えかけられるんですよ【社長、今日新しい子入ったから社長に一番先に、どうです】って。だから嫌になっちゃって、最近では北関東とか大阪のほうに足を運びます。」
・ちなみに500人の中国人売春婦の中で、ベストを決めるとしたら?
「ハルピンの女の子がいいですね、純朴で。いま違法エステは7対3の割合で日本語学校生徒7:純粋な売春婦3
の比率なんです。だから違法エステで働いているからといってみんあすれていなくていい子ばかりなんですよ。 特にハルピンの子は真面目で素直でいいですね。あるとき本当に好きになった子がいて10万円チップで渡そうとしたけど、返されましたもの。受け取れないって。」
・意外や泣ける話なんかもあるんですね。
「そうなんですよ、意外に売春で稼いだ金をほとんど家に仕送りしていて、
その金がなくなると家族が飢え死ぬなんて子もいたりして…。」
・今日はありがとうございました。
500人以上の中国人娘とセックスをした安藤さん、
なんと気になる性病だが一度もかかったことがないという驚き発言があった。
というのもゴムフェラの場合が多いので、性病が蔓延しないのだとか。
違法エステに1000万円以上をつぎ込んだ男、今度は温泉地を攻める予定なのだという…。
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まあ、こういう女性には気を付けてね:
116 :名無しさん@入浴中 :2006/03/15(水) 07:43:29 ID:NVPgT3mQ0
同僚が保菌者です。
乱暴な客がいると分かってても本番OKするらしい。
やめなよ〜って言ったけど復讐だよって笑ってた。
その日彼女は生理だったからかなりの確率で移ってると思う。
そのおっさんより家族が可哀そうだ。
http://2chnull.info/r/furin/1143817315/1-1001
50 :名無しさん@毎日が日曜日 :2009/02/02(月) 02:12:32 ID:JjLfXxVE (2 回発言)
この世への復讐だとか言って
エイズウィルスばらまいてる嬢が居るから気を付けろよ猿共
http://logsoku.com/thread/namidame.2ch.net/dame/1231974424/
エイズ売春婦の恨み根強く
「私は人身売買で珠海の風俗店で売春を強要され、エイズに感染させられた。買春した奴らに復讐のためエイズを性感染させてやる」。
一九九九年六月、香港週刊誌のトップ記事は黒社会に人身売買された末、珠海で売春を強要されたエイズ感染の中国人女性が恨み骨髄で心境を告白した独占インタビューが掲載され、密かに中国本土に「北上」して買春を繰り返していた香港人男性たちを震え上がらせた。
http://blog.swingby.jp/archives/221002.html
商業旅行新聞は11日に1通の手紙を受け取った。これはエイズ病の患者だという売春婦からの手紙で、エイズだとわかってから3年もたつが、報復したいという気持ちから、この3年間に数多くの男性と関係を持ったという。
また生きているのがいやになり、自殺するとも書いてあった。海口警察は通報されると、すぐに緊急捜索を開始し、この女性の行方を追っている。 うわっ、こわいぞこれは。中国に来てエッチなことをしようとおもっていたあなた、今ならまだ遅くはない、潔くあきらめなさい。
今年22歳になる湖南出身の蘭ちゃんの手紙はこちら
「私がこの世に生まれてきたこと自体が、神様の間違いだったのだとおもいます。父親は生まれてきたのがまた女の子だとわかると、無情にも私たちを残して家を出て行きました。14歳で中学1年生さえも修了せずに働くことになりました(お金に困っていたからです)。
家政婦に始まり、夜店の店員になり、ウェイトレスを勤め、マルチ商法も経験しました。その後、勧められてキャバレーで働きました。18歳のとき、ドラッグをやっていた彼と付き合い始めました(ドラッグのことは初めは知りませんでした)が、その彼にエイズをうつされたんです。そしてこの恐ろしい病気をうつした彼のことをうらみました。
皆さんがこの封筒を開けたときには、私はもうこの世にいないかもしれません。これこそが私の帰するところだとおもいます。この世で一番申し訳ないと感じるのは、やはりお母さんです。お母さんは、苦労して育てた娘の成れの果てがこんな結末だとは夢にもおもっていないに違いありません……お母さん、親不孝の娘をお許しください!娘は今から大海原に身を預けます。もし来世というものがあるなら、たとえ畜生に生まれ変わってでも恩返しをします!」
http://blog.goo.ne.jp/wowow_turk/e/cf90c93aaa2d0c73f97173d5857e4977
李恵
やっとカモがきたな
日本の男性は誠実でウソをつかない、家庭に対して責任を持っている、だけど私は正反対、騙されやすい日本人が悪いのよ、日本の環境は最高、金と男に溢れているわ、中国国内より絶対に行きたい、
富○社長の人柄は”悪”そのものだけど、別の会社なんか連絡したらメだからね、結婚したら恐怖のトワイライトゾーンにご招待してあげるわ、一生幸せになるには金を騙しとるしかない
貴方中国のわたしたちの生活知っているの?すでに沢山の先発隊が流れ込んでいるから寂しくないわ、勉強なんかできるわけないでしょう、免許?、年齢なんかどうでもいい、だってカモ相手だもん、
借金はいうまでもないわね、両親の収入は貧困層だからとくに言う必要ないわね、畑も田んぼのはなしも全部ウソ、気にしないで、私1人のもんだいだもん、日本には中国人の手配屋とかに紹介してもらえるから結婚したら準備万全で上陸するわ、
売春常習犯だからとくに中国ではボーイフレンドなんか無限大にいるわ、だけど結婚はできないの、わかるでしょう、もちろん彼氏は中国人、沢山付き合いがあるけどよく分かれるわ。
子供より現金の話が大事よ、私達中国人は見た目より強くて攻撃的な女なんだから、いざとなったら日本人なんか殺してやることもできるわ。
貴方の収入と財産をすべてイタダキに中国側の仲間と日本にいつ仲間にも連絡済みよ、あとは早く結婚して在留資格をゲットしたいわ。
幸せな家庭をつくるって言えって親戚やブローカーの仲間がウザイけど、本当によく日本人が騙されて結婚して大金ゲットした友達の話をよく聞くけど、日本人て最低のバカの集まりなのね、あんたらただ、若い娘とヤリたいだけなんでしょう、
もう一歩ってとこね、貴方の仕事の手だすけになるように、私仕事するわって、業者に言えってマニュアルがあるんだもん、
仕事はするけど中国人のナカマがいるから、心配しないでいいわ、貴方はただの金づる、取れるだけ取ったらバックレル手はずなのよ。
結婚した理由は実はだれでもOKなのよ、
ってゆうのも日本の業社が調べている手はずだから、収入とか家持ちとか、つまり私が心配することないんだ。日本の業社がなぜあるか知ってんの、中国じゃよくあんたの国のこと分かんないでしょう、だから兵隊として偵察するように業務提携しているって手はず。その分大金儲けさせてるんだから使うだけ使わないとね。そこれへんお互い信用が大事かな、警察や公安なんかにつかまりたくないもん。
顔なんか会わせなくても実際はなんでもOKよ、ただちょっと耐えられないキモオヤジとか爬虫類とかアトピー皮膚男なんかはオコトワリするけど、ま、見た目許容範囲ならなんでもいいかなって軽いノリよ、
両親の仕事もすべてウソはっぱくやちょうの八百長だけど信じてくれますよね。とにかく、貴方のお仕事ちゃんとやってくれないと在留資格とれないんだからちゃんと仕事してね、仕事の内容なんかどうでもいいわけ、でも金持ちなら尚グットかな、
心がスコシ痛むけど、こちらは身元はっきりしたカモが必要なんだから、日本の業者さんにもそういうふうに話つけてんだから書類審査パスしてんだでしょ貴方、わたしはいま家を出ていますよ、中卒で勉強なんかしたことないし、中国でもまともな仕事あるわけないじゃん、だから私たちは都会にいくのよ、だから何してるなんていわないでください、離婚なんかしません、不利になるだけじゃないですか、離婚しないで蒸発か、でなきゃ1年まてば堂々と離婚できるしそれまでトコトン暴れてやるわ、
いまの気持ちはとてもよいから、早く金もって中国に来てね、子供は好きよ、ただし中国人のね、家族や親戚のこともとても気遣ってます、同胞ですから、
だからって結婚したら同じ同胞と思うわけないでしょう、あなたただのカモだもの、みんなで芝居してお金取る為に騙しているだけなのよ、
でも貴方のご両親には頭が下がるわ、私こんなことしてても、ちょっぴり悪いな〜て感じちゃった。だから親と同居って好きじゃないんだ、同居する友達もいたけど、ウザイから殺しちゃったって、もちろん証拠なんか残さないでね、配偶者ってとってもお得なのよ、なんでもできるから、
あたしあんまし時間ないの、来るなら早くしてくんない、業者なんかと話してるとだいたい1ヶ月ぐらいで決まるじゃん、なのにあんた、ぐたぐた質問してくるし〜ウザイから。
感情が気になります”って、いつもの決まり文句を言えって言われているから、その意味わかる?結婚した後わかるよ、。びっくりするからね。あと体気をつけて”なんて捨てぜりふ言いたくないけどホントニ最悪、言えって業者が言うから、というか私が書かなくてもブローカーが勝手に代理で書いてくれるから問題ないかな、
こんにちは結○です。プラス思考でいきましょう。子供ができれば安心ですよ、我々はあくまで本当の結婚をただ紹介しているだけですから、なにもトラブルがあるんだなんて正直に答えたら詐欺になるでしょう。でもリスクって言葉でうやむやにしてるけど、ごめんなさい、リスク住宅ローンの十分の一ですね、そのくらい普通のサラリーマンならドブに捨てるぐらいの覚悟がなくちゃ、日本人の女の子に嫌われますよ。
あなたなぜ応募したんですか、日本人の女の子にもてないからでしょう、自分が悪いんでしょう
あまり、言うと疑われるから、シンプルに慎重に相手を騙しこんでいくのが当社のマニュアルです
http://blogs.yahoo.co.jp/my7878716/folder/1216324.html?m=lc&p=3
女性側は、男の心理をうまく利用している、性的な欲求だ
つまり、男は若い女性を買いにきたと、セックス目的だと
登録女性は、全員、結婚などという問題より詐欺集団、いわゆる風俗嬢と同じで
店の店長に予め約束を教え込まれている
本番 セックスの回数は、帰国後の男性の女性への愛情を奮起させる為に1、2回と教えられている
あとは、泣く、電話で連絡するなどして避けるのである
彼女達は、男性の回避手段として、泣く、わめく、という手口を使う
(これは、貧しい女性が、ヒトを騙す手段として使う手口なのだと思う)
平気で嘘をつき、行動も偽造である。
もっとおそろしいのは、結婚して結納金を手に入れた段階で、用なしと判断すれば
離婚も可能であり、喧嘩して女性側が、中国ブローカーを呼び出して始末される可能性もある
日本人など殺しても構わないと考える
性病も、結婚式までに、さらに来日前、中国にいる間に感性してから来日する
HIVまで感性してくるかは分からない
絶対に、結婚しようなど考えないこと、中国人は日本人を好きでない、だから
女体目的で中国に渡ると、よほどの人脈がない限り、中国側も日本人に体を売るときは何か裏を考える、リスクがあり公安局に通報されると厄介
女性側は、まじめなフリをして、セックスなど当然やりたがらない
http://blogs.yahoo.co.jp/my7878716/folder/1216324.html
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7. 恋愛物語とはなにか
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Love.html
恋愛物語以前
物語は<愛>に満ちています。例えば、
(1) 英雄志願者がたまたま訪れた村では怪物に毎年人身御供をせねばならない。今年は村長の娘の番である。そこで英雄は見事に怪物を退治し、娘と結婚する。
(2) 娘は不幸な境遇にある。しかし、清らかな心とたぐいまれな忍耐力によりそれを堪え、やがて王子さま(長者の息子)と出会い、結婚する。
(3) 若者が信じられないほど美しい娘と出会う。娘はなぜか若者の家まで付いてきて、そのままいっしょに生活し始める。子供にも恵まれ、順風満帆というところで夫は妻との約束を破ってしまい、妻はもとの場所(異界)に戻ってしまう。
(1)はすでにとりあげた男の子の物語、いわゆる英雄冒険物語です。
(2)はやはり以前に分析したシンデレラ・ストーリーにその典型がみられ女の子の物語です。
(3)は異類婚の話です。
(3)については日本でも「鶴女房」「雪女」の話などがありますが、西洋でもケルト系の話をはじめとして多く見られます。日本の羽衣伝説は異類婚の悲恋物語ですが、羽衣をアザラシの毛皮に置き換えれば、映画「フィオナの海」(ジョン・セイルズ監督、1994)で語られる挿話になります。西洋のメリュズィーヌ伝説では、土曜日には見てはならない妻の姿を夫レモンダンが見てしまうと妻は龍の姿で飛び去ってしまいます。このように(3)も世界中に拡がる物語パターンと言えます。
それでは<愛>に満ちた物語群において、<愛>は実際にはどのように記述されているのでしょうか?ここで驚くべき逆説に遭遇します。
物語で愛は実は記述されることはあまりないという逆説です。
例えば、冒険ものでは愛は男の主人公が怪物退治をしたご褒美に与えられます。しかし、それは結婚という儀式の形をとるだけで感情としての愛は描かれません。
シンデレラ・ストーリーは女の主人公がやはり結婚という儀式に到達するまでのプロセスを追うだけです。結婚は忍耐の、あるいは善意の対価に他なりません。冒険(あるいは忍耐)の目的あるいは結果として置かれた結婚が愛の形式(うつわ)なのであり、うつわの中身が問われることはないのです。
今日の冒険物語(例えば、007シリーズ)では褒賞はさすがに結婚という形はとらないかもしれません。その代わりをするのが女性の性的所有であり、これが古典的な結婚と物語構造上は等価です。愛の内容が問われない点では伝統的冒険物語と同じです。こうした物語においては、<愛>は交換を司る経済的な媒体だということができます。
男の子の物語、女の子の物語についてはすでに紹介しましたので、ここでは異類婚の物語についてくわしく見ていきたいと思います。以下に挙げた民話は日本の代表的な異類婚の話です。まず、物語の基本的図式をあてはめてみました。
異類婚の主人公はここでは男性であり、彼は貧しく、独身であるという点で二重の欠如状態にあると想定することができます。この欠乏状態はふつうはある試練(やさしさチェック)を経て、異類の女性との出会いにより解消されます。魔法の小道具により富を得、さらに異類の女性との結婚にいたるわけです。
民話の世界ではあらゆる富は異界からやってきます。財宝は天、山、地、海といった異界から村にもたらされます。あるいは英雄物語ならば、異界へ英雄自ら獲得にゆきます(「桃太郎」「スタンド・バイ・ミー」)。女性も異界からやってきます。さらに子宝すらも「桃太郎」、「かぐや姫」のように異界からもたらされます。
異類婚の話に戻りますと、せっかく獲得した二つの富(財宝と女房)を主人公は女性から課せられていた「見るな」あるいは「開けるな」の禁止を破り、失ってしまいます。異類の女性は異界に戻ってしまい、男は富の源泉も失います。
「浦島太郎」のふつうの物語は玉手箱を得るだけで女性との結婚は生じませんが、御伽草子版では死後の世界(異界)で乙姫と結婚したというエピローグのつくものがあるようです。「浦島太郎」のバージョンとしてはそのユニークに驚かされますが、一般に恩返しものでは助けられた動物自らが嫁になるというパターンが多いわけで、御伽草子版「浦島太郎」はこのパターンに素直にしたがっただけにすぎないと考えることもできましょう。
英雄の誕生は洋の東西を問わず、しばしば異類婚が介在します。英雄は異類を祖とすることが多いのです。「古事記」も英雄の誕生を説明する説話にあふれていますが、豊玉 姫の挿話にその典型が見られます。豊玉姫は海神の娘ですが、山幸彦はこれを連れ帰り、彼女は子を産みます。この出産が「見るな」の禁忌の対象になるのですが(「あだし国(異界)の人は、産むときになれば、本つ国(もとの国)の形をもって生むなり。願わくはあ(妾)をな見たまいそ」『古事記』)、物語の統辞論にしたがい山幸彦はこれを見てしまいます。これは上表の「魚女房」と同じ、男が女房を異界から連れ戻るパターンです。これに対して、「鶴女房」、「母の目玉 」などのように恩返しに女房が押しかけてくるパターンもあります。
天人女房型(「天降り乙女」)は女房連れ戻り型の話です。映画「フィオナの海」の中のエピソードでは女房は天女ではなくアシカの精霊であり、羽衣の替わりにアシカの皮が同じ物語機能をもちます。このパターンの物語は女房が衣を発見し、異界に戻ってしまうという悲恋で終わるものと思いがちですが、ヨーロッパではこの後に「失踪した女房を探す男」(MT400)のモチーフがあらわれ、さらに女房との再会後、女房の父親が婿に難題を課し、これに対して女房が男を助ける(「婿の逃走を助ける女」MT313)というシークエンスが続くロング・バージョンが多いようです。
なお、上では女性が異類である異類婚のパターンを扱いましたが、男性が異類として登場する物語は英雄物語以外にも実は多くあります。
AとBは同じパターンで、性を入れ換えたものとみなすことができます。超自然的存在(水神さまの申し子)「たにし長者」
動物「猿の婿どの」[岩波・]
水田:蛇婿入り、乾田(焼き畑、山村):猿婿入り
別バージョン「僕の知っているその話[足尾]は、一年後に猟師が娘に会うんですよ。そうしたらその娘は猿の格好になっていて、体中毛が生えて、しっぽが生えて、仲の良い猿の夫婦になっていました。それでまた楽しそうに山の中に入っていったという話なんです。」小松/立松『他界をワープする』122
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恋愛物語とは何か?
恋愛物語ではどうでしょうか。古典的な恋愛物語では<愛>は英雄的行為のご褒美(結果 )というより、それ自体が目的として機能します。
その目的に到達しないかぎり物語は続きますから、<愛>は恋愛物語という名のドッグ・レースのラビット(囮)の役を果 たすということができます。その囮に到達すると同時に幕が閉じられますから、やはり<愛>はその意味を問われることはありません。
恋愛物語はこのようにたえず<愛>を指さしながら、その意味を与えることはないのです。ヒッチコックは冒険物語の目的となる対象物を「マクガフィン」と名付けました。この大切な何かを探し当てるために、あるいはそれを敵の手から守るためにヒーローたちは命がけの冒険に挑みます。しかし、それほどの冒険を動機づける「マクガフィン」とは果 たして何なのでしょうか。国家の命運がかかっている秘密文書でしょうか?あるいはポオの『盗まれた手紙』にあるような恐喝の道具なのでしょうか(「書類の所有者は、名誉と平安が危険にされされているさる有名な方に対して、有利な位 置に立っている」)。
ヒッチコックならばこう答えることでしょう。それはすべてであり、なんでもないのだと。要するにそれは内容(シニフィエ)のない記号(シニフィアン)なのです。物語全体がそれを指さしています。しかし、指先に何があるかは結局明らかにされません。たとえ、マルタ騎士団の秘宝だといういわく付きのものであっても「マルタの鷹」もマクガフィンにすぎません。悪魔の手形のようにそれを手にとってしまうと手の平には枯葉が残るだけなのです。
恋愛物語における不可欠な要素、最も大切な要素<愛>もまた「マクガフィン」、つまり物語を導く空虚な記号なのです。以下ではこの空虚な記号の振る舞いを見てゆくことにしましょう。
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古典的恋愛物語(モデル1)
恋愛物語では出会いがあり情熱恋愛(amour-passion)が生まれますが、その情熱の充足を妨げる障害が用意されています。逆に障害があるからこそ、情熱(恋愛物語のエネルギー)が持続するわけです。そして、本来無定形な情熱が形を得るのも、この障害という作用に対する反作用として自らを形成するからに他なりません。この意味で、恋愛の情熱は与えられた障害(凸)のネガ(凹)として自己形成をとげるということができます。
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主人公たち
出会いがあるためには当然ながら、男女が登場しなければなりません。
出会うのは古典的恋愛物語では若くて美しい男女です。
シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」ではロミオは15歳、ジュリエットの14歳の誕生日前に物語が始まります。フランスの17世紀古典演劇の主人公たちも極めて若く、舞台上では「相手の気を害さずに、14歳のお嬢さんに愛を告白しても」よかったといいます。その代わり老いるのも早く、「女性は30才を過ぎれば醜い」という言葉も残っています。
現実の結婚は年齢差があったようです。伝統的な結婚が個人同士の結びつきよりも家と家との結びつきを目的としていた点を忘れてはなりません。
さらに、産褥などによる死亡率が高かった上に寡婦の再婚率が寡夫の再婚率よりもはるかに低かったことなどを考えれば、かなり年上の男性(寡夫)と若い女性の結婚が多かったことも納得ゆきます。
14,15世紀のフランス農村社会では再婚する寡夫、あるいは寡婦に対し、村の若者組が儀礼的な喧噪行為[シャリヴァリ]をおこなう習慣があった点もこれを裏付けています。しかし、恋愛物語の世界では若い女性と結婚しようとする年輩の男性は嘲笑の的であり、若い男女の間に障害としてわけ入っても所詮は排除される障害にすぎないのがゲームルールということになります。
モリエールの喜劇にそのパターンがしばしば見られますが、特に『女房学校』の主要テーマがこれです。コキュ(女房を寝取られた夫)恐怖症から孤児をもらいうけ、その子アニェスが大きくなったところで結婚しようと企むアルノルフ老人を主人公とするこの戯曲では、アニェスは老人の親友の息子と恋に落ちて結ばれることになりますから、喜劇の世界では年齢差は認められないことがわかります。
無知・無垢の女子を自らの妻にふさわしい存在に育てあげるというピグマリオンのテーマがここにすでに見られますが、20世紀に入ってジードは『田園交響楽』でこのテーマをふたたび取り上げます。結末でその女子ジェルトリュードが愛するのはやはりピグマリオン役の牧師ではなくその息子ジャックで、ジェルトリュードはジレンマのうちに自殺してしまいます。
当然のことですが、若い男女の役を演じる役者は必ずしも若かったわけではありません。役者によって役どころはある程度決まっており、小津安次郎の映画でおなじみの笠智衆のように若いときから老人役専門の人もいれば、逆に年とってからも女性にもてる役を続ける俳優もいます。
ヒッチコックの「めまい」をとったときに、主演のJ・スチュアートは50歳、K・ノヴァクは25歳。映画を見たひとは恋人同士を演じているのが実は親子ほども年齢の離れた役者だとは思わなかったはずです。
「ロミオとジュリエット」などは14,15歳という年齢ですから、当然、これを演じる役者は何歳も下の役を演じていたはずです。もっとも、F・ゼフィレリ監督の「ロミオとジュリエット」(1968)では当時16歳のL・ホワイティングをロミオに15歳のO・ハッシーをジュリエットに据えて話題をよびました。
また、古典的恋愛物語の男女は美男美女でなければなりません。
「公の姿をはじめて見た場合はだれでも目を見はるのがふつうである。とくにこの夜は身支度に念をいれてあっただけ容姿の美しさは格別だった。一方クレーブの奥方の美しさもはじめてみる人間を呆然とさせるほどのものであったのは言うまでもない。」 『クレーブの奥方』
現代の読者が、女性の美しさが描かれるのには何ら不自然さを覚えないにしても、古典期の恋愛物語で女性の美と同様に、あるいはそれ以上に男性の美が言及されるのにはいささか奇異な感じがするはずです。この点については注釈が必要でしょう。貴族社会では男性が女性以上に見られる存在だったのです。ルイ14世がよくその例に出されますが、一般の貴族もそうでした。革命後でも、19世紀前半はダンディズムという男性の表象モードがはやり、異性を魅惑し堕落させるのは「宿命の男」だったといいます(M・プラーツ)。「宿命の女」の登場は19世紀後半を待たなければなりません。
話を古典時代にもどしましょう。言うまでもないことですが、外面的な美しさだけがすべてではありません。ペロー自身、「シンデレラ」の教訓で次のように言っています。
「美しさは女性にとってまれな財産、みな見とれて飽きることはない、しかし善意と呼ばれるものは値のつけようもなく、はるかに尊い。」
外面の美よりも内面の善の方が大事だというのです。しかし、内面の善を支える象徴的価値として外面の美に言及しない物語は少なくとも古典的恋愛物語にはありません。結局のところ、読者がお伽話の数学として受け止めるのは美と善の等式に他ならないのです。この点でボーモン夫人の『美女と野獣』は法則を証明する例外のように一見みえるかもしれませんが、最後には魔法が解けて野獣が美しい若者に変身するわけですから、野獣の姿でいる間はむしろ美女の心の優しさをテストする試練のときと考えるべきでしょう。
20世紀の映画でも事態はそれほど変わりません。映画に登場する善意の人々は俳優の顔がそれを表徴しており、恋愛物語の主人公たちは相も変わらず美しい男女であり、それを強調するカメラ・アングル、メイク、照明などはすべて計算づくで選ばれているのです。
E. Scola 監督の「パッション・ダモーレ」Passione d'amore(1980)や B. Blier 監督の「美しすぎて」Trop belle pour toi (1989) は正に「恋愛物語の主人公たちは美しくなければならない」という古典法則を破ることによって、その物語としての新しさを出している一方、その新しさの根拠をやはり暗黙の古典法則に依っている作品といえましょう。「パッション・ダモーレ」の最後で醜女を愛するようになった主人公は「美しくない女を愛するのは自然に反するとでもいうのですか」と問うていますが、その答えはイエス、やはり「恋愛物語の自然法則」には違犯しているということになるでしょう。
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出会い
求愛行動としての出会い
それでは若く美しい男女はどのように出会うのでしょうか?
舞踏会はそもそも男女を出会わせるという社会的機能をもっていましたから、「シンデレラ」から「クレーブの奥方」「戦争と平和」に至るまで舞台装置として頻繁に使われています。舞踏会で誰にもダンスに誘われないことをフランス語では faire tapisserie [壁の花となる]という表現で残っているぐらいですから、舞踏会がもつ出会いの場としての重要さとそこで誘われないことへの女性の不安の大きさも想像に余りあります。
異類婚の物語「雪女」では巳之吉と雪子の出会い(雪子の視点からは再会)が次のように語られます。
「翌年の冬の、ある夕暮れのことであった。巳之吉が家にかえる途中、たまたま同じ道を歩いてゆく一人の娘に追いついた。背の高い、ほっそりした、たいへん器量のよい娘で、巳之吉が挨拶すると、まるで小鳥の歌のように快い声で答えた。それから、彼は娘とならんで歩き、二人は話をしはじめた。[・・・]巳之吉は、すぐにこの見も知らぬ娘に、ひどく心をひかれて、見れば見るほど、ますます美しく見えてきた。で、巳之吉は、もう約束した人があるのか、と娘に尋ねた。娘は笑いながら、そんなものはない、と答えた。」 「雪女」
田舎道ももちろん男女の出会いにふさわしい場所です。この出会いの場面では、民話的な話線のなかで、実に雰囲気に富んだ描写が施されています。笑いながら答える娘の色気は西洋人ハーンの目に映った若い日本女性の色気なのでしょうか。
異類婚の物語における出会いの場としては、この他に森や海といった異界があります。
森は異類婚に限らず、17世紀の牧歌的な恋愛物語でも重要な場です。ペロー童話の一つ「グリゼリディス」もやはり王子が森で道に迷い、奥深い森のなかで羊飼いの娘グリゼリディスに出会うところから始まります。羊飼いの娘もまた異界の女性のように超人的な力をしばしば付与されれていました。
吸血女の物語『死霊の恋』も一種の異類婚の物語と申せましょう。ここでは出会いの舞台は叙階式で、主人公ロムアルドはこれから司祭になろうする若者です。
「それまでじっと伏せていた顔をヒョイとあげたとたん、私は眼前に見たのです。手でさわれそうなほど間近に、とはいっても実際はかなり離れて手すりの向こう側にいたのですが、世にも稀な美しさをそなえ、王族のように美々しく着飾ったうら若い女性を。まるで瞳から鱗が落ちた思いでした。不意に視力を回復した盲人といった感じを味わいました。[・・・]何という眼でしょう!キラリとひらめく一瞥で、男の運命を決めてしまうのです。人間の眼には絶対に見たことのない生命力、深さ、熱気、うるんだ輝きをたたえています。」
しかし、『死霊の恋』で重要なのは再会の場面の方でしょう。司祭になった私がある女性の臨終に立ち会うことになります。相手はすでに息絶えています。ところが、主人公の司祭はその死体に妖しく惹きつけられるのです。
「その完全無欠の身体つきは死の影によって純化され聖化されながらも、あやしいまでに私の欲情をかき立て、その安息は眠りと見間違うほどでした。[・・・]
世がふけてゆき、永別のときが迫ったのを感じた私は自分が一途に愛したひとの死の唇にキッスするという、あの悲痛だが最高の喜びをわが身に禁ずることができませんでした。
ああ、何たる不思議ぞ!かすかな息が私の息に混じりあい、クラリモンドの口が私の押しつけた口に答えたのです。
眼が開いて幾らか輝きを取り戻すと、彼女はため息を一つついて腕を解き、言いしれぬ恍惚の面もちでその腕を私の首の後ろに廻しました。
「まあ!あなたなのね、ロムアルド」」
吸血鬼は予め死んだ者のことですから、クラリモンドにとって死は何ほども意味をもたないのです。実際、この再会を契機に二人の愛欲の生活が始まります。やがてクラリモンドに本当の死がおとずれ、二人の愛に終止符が打たれます。
主人公がエクソシストであるセラピオン師とともに悪魔払いを施すやいなや、クラリモンドの美しい身体は粉々に砕け散ってしまうのです。これなど吸血鬼ものの最期の典型ですが、少し視点をずらしてみますと、ある禁じられた行為をおこなったため(この場合はセラピオン師への密告)に異界の女性を失う異類婚(例えば「雪女」)の最期を思わせる場面 でもあります。しかもロムアルドは最後にこうつぶやくのです。
「魂の平安を得るのに何と高価な犠牲を払ったことでしょう。神の愛も彼女の愛に取って代わるほど大きくはありませんでした。」
吸血鬼の死が平安をもたらすという通常の吸血鬼物語とは明らかに異なります。これは真の恋愛物語なのです。
現代の恋愛物語では、出会いの場も多様化しています。旅先での出会いは恋愛映画がもっとも好むものでしょう。異国情緒のある風景はそれだけで映像効果 をもちますし、それに何よりも旅行者の心持ちは日常性の楔から解き離れた自由に満ちていますから、冒険心の混じった恋愛願望の素地がすでにあります。
イタリア旅行での出会いを描いた恋愛映画は多くあります(「終着駅」「旅情」「旅愁」「ローマの休日」)。やはり、南の国が旅の恋愛にふさわしいのでしょうか。ギリシャ(「シャーリー・バレンタイン」)、バリ島(「南太平洋」)。駐留軍人の現地女性との恋愛(「サヨナラ」など)。
とこうみてくれば、旅先(駐留先)というのは世間の眼差しから解放された一種の異界であることがわかります。
さらに言えば、伝統的な出会いの場である舞踏会や村祭りも日常(ケ)をカッコに入れたハレの世界であるわけで、これも現世に導入された異界的時間ということができるでしょう。
恋愛物語での出会いには異界という空間もしくは時間が必要なのです。
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出会いの技法
映画は出会いの場面を演出する技法を練り上げてきました。クローズアップされた男女の顔はすでに出会いが運命的なものであることを語っています。
画面いっぱいに映し出されたM・ディートリッヒを見るのは観客ではなく、観客はG・クーパーの視線を通じて彼女を見ているのです。
かすみフィルタにより幻のように浮き上がったディートリッヒの顔はクーパーの熱い眼差しを暗示しています。後へ引くことのできない決定的な出会いであることが観客にはすぐにわかります。
中世の恋愛物語では媚薬が宿命的な情熱を生み、それが熱病のように主人公たちの脳裡にはびこるのですが、フランス語で「雷の一撃」(un coup de foudre)と呼ばれるこの眼差しの交換も媚薬と同様の効果を主人公たちの脳裡に残すことになります。
「雷の一撃」のパロディであるポオの「眼鏡」は一目惚れが視覚による体験であり、それを越えるものでないことを痛烈に皮肉った作品ですが、そこでは出会いの場面 が次のように描かれています。
「たとえ千年生き延びようとも、この人物を見つめた際の強烈な感動は忘れることが出来ない。かって目にしたもっとも美しい女性の姿であった。[...]
この時の私の感情は、これまでいかに高名な典型的な美女たちを前にしても、ついぞ覚えた例しのないものであった。一種名状しがたいー磁気的と呼ばざるを得ない魂と魂との交感が、私の視力のみならず思考と感情の全能力までも・・」
伊達男の主人公はド近眼であるにもかかわらず決して眼鏡をかけないためにある女性に一目惚れしてしまうのですが、この女性が実は彼の曾曾祖母であったというオチがつきます。
ここでの眼鏡の欠如は一目惚れ、さらには情熱恋愛一般に不可欠なフィルタの存在と等値です。
このフィルタをスタンダールは「結晶作用」crystallisation と名付けました。
「恋人に会うごとに、あるがままの彼ではなく、自分でつくった甘い映像を楽しむでしょう。」
「恋をした瞬間から、最も賢明な男も対象をあるがままに見ない。」
恋は盲目とはよく言ったものですが、本人がそれでもなお相手を見ていると信じて疑わないのはこの主観的フィルタが本人にのみ見えないものだからです。
よく考えてみますと、フィルタにより理想化(審美化)された相手のイメージとは恋する人が自分で作り上げたイメージに他ならないことになります。
恋する人はそのイメージに恋するわけで、相手の存在は場合によってはイメージを描くためのカンバス程度なのです。
ポオの「眼鏡」が描いているのはまさにこうした情熱恋愛がもつ自己愛的側面 と申せましょう。恋愛物語の考察とは少し離れますが、この眼差しの病に対するワクチンをモンテーニュが紹介していますので、引用しておきます。
「本当に、その道の大先生方が、欲情を抑えるには、求める相手の身体をくまなく見よと教え、恋愛を冷ますには、愛するものをじろじろ見さえすればよいと教えていることも、一考に値する。」
もっとも、まさにじろじろ見えなくなるのがこの病の症状なのですから、そう簡単にことが運ぶわけもないのですが。
最後に、出会いを準備する映画技法であるパラレル・アクション(カット・バック)についてふれておきましょう。J. ドラノワ監督の「賭はなされた」Les Jeux sont faits (1947) (脚本サルトル)は階級を異にする男女が別々の状況で殺され、死者の世界で出会うまでを二人の間を行き来するカメラが同時進行的に追います。ここで本来無関係に起こっているはずの二つのシークエンスが予め運命により結びつけられていると感じさせるのがパラレル・アクションと呼ばれるモンタージュ技法です。見るものは二人の出会いが宿命であることをパラレル・アクションのおかげで強く感じます。ただ、「賭はなされた」では死者は身体性がないために真の出会い(ふれあい)はないとされています。そこへ二人の死が「役所」のミスであることがわかり、生還(蘇生)を認められることになります。したがって、ドラマ進行上は二人が現実世界に戻ってはじめて、再会を出会いとして演じることになるわけですが、観客にとっては出会いはすでにパラレル・アクションにより死の世界でなされていたのです。
→「賭けはなされた」の分析
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Jeuxfaits.html
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外在的障害
それでは障害にはどのようなものがあるでしょうか。お互いに愛し合っているカップルが登場する恋愛物語では障害はふつう外在的なものです。「ウェストサイド・ストーリー」の恋人R・ベイマーとN・ウッドは敵対する不良グループ(ジェット団とシャーク団)に属しています。ベイマーは両グループの抗争に積極的ではありませんが、仲間が殺されたことで激情し、ウッドの兄(G・チャキリス)を殺してしまいます。愛を貫くためにどこか別の土地へ旅立つことに二人が決めたとき、ベイマーはシャーク団の復讐の手にかかり死んでしまいます。所属する集団が敵対関係にあるために愛し合う二人の<愛>が妨害されるという話はもちろんシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をその嚆矢とします。アメリカの移民問題を背景とした「ウェストサイド・ストーリー」は「ロミオとジュリエット」の現代版なのです。
家と家の対立
フランスの演劇ではコルネイユの「ル・シッド」がやはり家と家の対立を障害に据えています。ロドリーグとシメーヌは愛し合っていますが、ロドリーグの父がシメーヌの父に侮辱を受けたため、ロドリーグはその侮辱をはらさなければならない立場に追い込まれます。相手は恋人の父です。愛をとるか名誉をとるか、この二律背反(ジレンマ)こそ悲劇に不可欠な文法要素です(ジレンマのない「ロミオとジュリエット」は厳密には悲劇ではありません)。しかし、このジレンマは実は偽りのジレンマです。なぜなら、コルネイユの倫理学では愛と名誉は等価値のものではないからです。愛はそれに値する英雄的行為(選択)の結果 に対し与えられるのであり、ロドリーグがはじめから愛を選んだとしたら、シメーヌはそんな安っぽい愛には答えなかったことでしょう。ここでは愛は選ばれない限りで価値を持つのです。名誉を選んだロドリーグは決闘によってシメーヌの父を殺してしまいます。ロドリーグは名誉を選ぶという英雄的選択により愛に値する存在(英雄)となったのですが、同時にシメーヌの父の仇ともなってしまうわけです。さて、シメーヌの方ですが、彼女に残された英雄的な選択とはロドリーグの愛を受け止めることではなく、逆に父の復讐を選ぶことです。それがまた唯一シメーヌを愛に値する存在にするわけです。そこで有名なシメーヌの台詞がでてきます。
「あなたは私の怒りを招いて私にふさわしい男となった。私もあなたの命を奪ってあなたにふさわしい女となろう。」 『ル・シッド』
シンメトリーへのすさまじい欲望です。ロドリーグとシメーヌは相補的な男女というよりも、左右対照的(シンメトリック)な位置関係に置かれ、それを是が非でも維持しようとする相似的存在なのです。このように、愛に値するために選んだ英雄的行為が愛の妨害となり、愛をある意味で純化・抽象化する、これが「ル・シッド」の基本構造ということになります。この後、物語は外的状況の助けを得てハッピーエンドを迎え、悲喜劇として終わります(ハッピーエンドで終わるものは喜劇ですが、トーンが悲劇調のものに限ってフランス古典時代は悲喜劇という名称をあてました)。
戦争
愛を妨害する外的状況として戦争があります。恋愛物語において障害として機能する戦争は、何よりも愛する二人の間に空間的距離を設定します。物語の結末で片方を戦死させた場合、二人は永遠に引き離され、愛は超越的な不可侵の価値(永遠の愛)を得ます(「グレン・ミラー物語」「慕情」)。
戦争はまた、愛が芽生えたときに愛する二人を空間的に引き離し、両者の間のコミュニケーションを遮断することもできます。「シェルブールの雨傘」(J・ドゥミー監督)では恋人が戦争へ行った後、C・ドヌーヴは妊娠していることに気がつきます。相手との音信が途絶え、ドヌーヴは理解ある金持ちとの結婚という現実的な選択をせざるを得なくなります。「ひまわり」(V・デシーカ監督)は反対に戦地で行方不明になった男を女(S・ローレン)が捜す物語です。男(M・マストロヤンニ)は現地で別 の相手と結婚生活を営んでいることがわかります。「哀愁」(M・ルロイ監督)でR・テイラーはロンドン空襲時に出会い、愛し合い、再会を約束した女性(V・リー)を戦後になって探しますが、彼女が生活のために娼婦になっていたことを知ります。
保護者である男性が家を離れたとき、女性は世の中の攻撃性に対して、まるで子山羊のように無防備(vulnerable)になり、愛を取り逃がしてしまうというのがこの種の物語の基本的パターンということになります。
犯罪者
犯罪者にとっても愛は不可能な贅沢です。犯罪者は警察、あるいは他の犯罪者に常に追われる存在だからです。「望郷」(J・デュヴィヴィエ監督)のジャン・ギャバンはアルジェの貧民街カスバに潜む犯罪者です。カスバにいる限りは警察も手を出せません。しかし、愛する女性がフランス本国へ出航すると知ったとき、ギャバンはカスバを離れて見送りにゆき、待ち伏せている警察につかまります。彼女を乗せる船の出航を見ながら自害してしまいます。『郵便配達夫は二度ベルをならす』(J・M・ケイン)や『異邦人』(カミュ)の主人公たちも明日に迎えた処刑のために愛の物語を中断せざるをえません。一人称の物語では死は語られる行動だけではなく、語る行為そのものを終焉させるからです。
また、愛する者と愛される対象は人間でなければならないというのも恋愛の規範です。恋愛物語ではこれに反すると外在的障害が生じます。
異類婚の話では女性が自分の真の姿を隠していますが、それが暴かれたときに二人の関係は終わります。「人魚姫」の場合は、王子との愛を目指すために自分の声と交換に人間の姿になる必要がありました。『死霊の恋』の最大の障害はクラリモンドが吸血女であったことです。また、SFの「ブレード・ランナー」では主人公(H・フォード)はレプリカントと呼ばれる人造人間たちを「解体」する仕事を引き受けます。彼が愛するようになる女性(S・ヤング)は人間として育てられ、本人も自ら人間だと思いこんでいるレプリカントです。彼は社会の法に反して彼女をまもることになります。 ここでも外在的障害が恋愛の成就を難しくする一方で、情熱を維持・強化している面 が見られます。
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内在的障害
義理と人情はすでに単なる外在的障害ではありません。義理は制度的ルールが内在化されたものですし、人情は内在性そのものともいえます。外在と内在との区分は常に明快なものではないことをまずお断りしておきましょう。
外在的障害が消えるやいなや、物語の幕が閉じれば問題はありません。 しかし近代的な恋愛物語ではその後も物語が続き、重要な事実が明らかになります。
それは二人は決して融合することはなく、二つの意識として絶対的な距離により距てられているという事実です。
古典的物語とちがって、媚薬の効果のもとで愛の化身になることはできないのです。
愛に内在的な障害とはこの存在論的な距離そのものに他なりません。それは相手に対する不信や誤解、さらにはコンプレックスといった形をとります。
しかし、外在的障害と同じで、愛をエネルギーとして支えるのがまさにこの障害なのです。ユマニストの箴言は愛のこうしたパラドックスを巧みにとらえています。
「恋は燃える火と同じで、絶えずかきたてられていないと持続できない。だから希望を持ったり不安になったりすることがなくなると、たちまち恋は息絶えるのである」ラ・ロシュフコー
「愛は疑いを嫌う。ところが、愛は疑いにより大きくなり、確信により消えるのだ。」ル・ボン
融合への願望と意識の対峙という矛盾した現実、この存在論的矛盾のうちに危うく燃え続ける炎が<愛>なのでしょう。
「完全な愛には(人間の内において相矛盾する)二つの徴がある。一つは恋人同士の間での融合(絶対的一体性)の必要性、すなわち、二重性の拒否である。もう一つは他者の人格・自由を重んじる気持ち、すなわち、二重性の尊重である。」ティボン
このティボンの箴言の後半では、完全な愛を実現する上での倫理的規範が問われているのですが、この点だけは問題をはらみます。そもそも他者の意識がこちらの意識を離れ自由であることの認識はサルトルがいうように対他存在の宿命とも言うべきで、決して態度として選び取れるようなものではないはずです。二重性はたとえ相手を権力により奴隷化したとしても、否定しがたい存在論的所与のはずです。
二重性は意識内部にもあります。狂気とは制御なき欲動のあらわれなのでしょうが、愛の狂気には自意識がつきまとうからです。ニーチェは『ツアラストラはこう言った』のなかで書いています。
「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし、狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。」
愛における自分と相手の二重性。自分内部での二重性。これは古典的恋愛物語にはない意識の運動です。古典的恋愛物語では<愛>という名の状況を生きる存在者(わたし・あなた)の二重性・他者性を拒否しました。古典的恋愛においては、他者との融合の夢は即自的に実現されるのです。
「恋人よ、我らはかくこそ。我なくばおんみなく、おんみなくば我なし。」(マリー・ド・フランス)
また外的障害がある限り、登場人物たちは<愛>が何であるかを問わずにすみました。
愛とは克服すべき障害の彼方にご褒美として確実に存在する何かだったのです。
あるいは愛は『ル・シッド』におけるようにそれを選ばない限りで価値をもつ倫理的観念でした。しかも、それを選択しないという選択(行為)のみが与うる観念である以上、やはりその観念自体が問われる必要はなかったのです。
他者との融合を夢見つつ、他者との緊張の中にその不可能性を感じるのは近代的人間の不幸に他なりません。この不幸を背負った人間がそれでも<愛>を語り得るとしたら、それは他者そのものの代わりにその似姿(イメージ)との、不安感を糧とした独我論的ゲームによるか(「はじめは欲望により生まれた愛も、その後にはつらい不安によってしか持続しない」 (プルースト)、
あるいは他者との緊張を心理的に否定する、主客の区別以前の状態を模した(ある意味では日本的な精神構造「甘え」に則った)人間関係に依拠するしかありません。
松山俊太郎によれば、日本的な愛とは
「母性的感情の発露を原型とする彼我の情緒的合一」であり、「欲である場合は少ない」といいます。
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不倫物語
「トリスタンとイズー」の物語で、トリスタンは伯父マルク王の元へ嫁ぐイズーをエスコートする役を負っています。イズーの母が調合した媚薬も元々は伯父とイズーのためのものでした。ところが道中、二人は誤ってこの媚薬を飲んでしまうのです。伯父の婚約者(後に妻)と愛し合うことは封建社会ではもちろんタブーです。トリスタンにとっては育ての親ですから、義理もからみ、媚薬の作用による強烈な情愛との間で揺れ動くことになります。イズーも人妻となった以上、トリスタンへの情熱は倫理に悖った感情に他なりません。義理と人情の板挟み(ジレンマ)は結局この世では解消できず、二人は死んでしまいます。二人の墓からスイカズラが伸びて絡み合ったとありますから、あの世でやっと結ばれたのでしょう
→「トリスタンとイズー」梗概
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/Tristan.html
義理と人情の板挟みといえば、歌舞伎の世話物を見逃すわけにはいきません。近松門左衛門の「曽根崎心中」もまた、ジレンマを物語の核としています。町人である主人公は遊女と恋仲なのですが、彼には家庭があり、親があります。彼にとっては義理(家)と人情(愛)が同価値で、どちらを選ぶこともできません。
論理的に選択不可能の状態にある場合、歌舞伎の世界には究極の解決法(アウフヘーベン)があります。 それが心中です。
これは儒教と仏教の教えに同時に合致する見事な解決法でもあります。なぜなら、儒教では愛はこの世には場所をもたないのですが、一方、仏教の方はこの世で不可能な愛でもあの世ならば実現できるとするからです。
「トリスタンとイズー」が影響を受けたといわれるキリスト教の異端、カタール派もこの点に関しては仏教に似た考え方をとっていたようです。これは恋愛物語に根強い考え方なのかもしれません。
「ロミオとジュリエット」の結末も「トリスタンとイズー」の結末の一種のヴァリアントと考えてもよいのではないでしょうか。「若きウェルテルの悩み」の主人公もやはり自殺を選びます。
独我論ゲーム
相手を追うとき、相手はイメージ化されます。自ら作り上げたイメージを追うことになるわけです。
「ベニスに死す」ではH・ボガード演ずる作曲家アッシェンバッハはベニスで出会ったポーランド貴族の美少年の後を追います。少年は自分がこの初老の男を惹きつけていることを知っており、わざとらしい流し目すら送ります。しかし、現実的な関係が築かれることはなく、アッシェンバッハもまたそれを求めてはいないのです。
ポオの「群衆の人」で夜を徹して尾行した当の相手が悪の化身という抽象的な存在であった(となった)ように、アッシェンバッハが後を追う少年も美の化身として手に触れることもできない羽のように軽い存在です。
相手が制御不可能な自立した、あるいは奔放な存在の場合、似たようなチェイス劇が今度は具体的な関係を交えながらも続くことになります。アベ・プレボーの『マノン・レスコー』やP・メリメの『カルメン』はそうした作品の典型と考えられています。モラビアの『軽蔑』は一種のコキュ・コンプレックスを描いた作品ですが、結婚して愛しあっていると思っていた妻の豹変を一人称の内的視点で描いた、サスペンスに富んだ小説です。夫婦でありながら、今や日光浴する露わな妻の肢体を草陰からこっそり盗み見することしか許されていない夫。
妻の様子の変化が何を意味するのかがわからず、語り手である夫は何とか真実を知ろうとします。
あるいはこちらの勝手な思いこみにすぎないのだろうか?
妻との関係に本質的な変化はないのだろうか?
現実の心変わりなのか、こちらの思い過ごしにすぎないのか、
不幸な恋愛物語の主人公はまさに幻想物語のように解釈の非決定性を生きなければなりません。
その矢先に妻の口からとうとう真実が告げられます。
「私はあなたを軽蔑しています。」
幼なさを残す新妻との関係を描いたエリア・カザンの「ベビー・ドール」もコキュ・コンプレックスを描いた作品です。ナボコフの名作『ロリータ』は下宿先の一人娘ロリータへの思慕からはじまります。ロリータのクラス名簿にLO-LI-TAという名が現れるやその音韻の官能性に恍惚となる場面 にも見られるように、主人公ハンバート・ハンバートはロリータのイメージを追い、そのイメージに囚われています。ロリータの失踪によりそのイメージはさらに強化されますが、何年か後に突然ロリータから無心の手紙を受け取り、再会を果 たすと彼女はすでに子持ちの幼妻となっていました。これでロリータのイメージから解放されたハンバートはしかしながら、失踪中に彼がイメージとして追っていたロリータを現実的に所有していた男(映画ではピーター・セラーズが演じる)が許せず、復讐します。
お互いに愛しあっているにもかかわらず身を引く人というのがいます。「カサブランカ」M.Curtis (43) のハンフリー・ボガード、「旅愁」W. Dieterle(50) のJ・フォンテインは相手の夫婦・家族生活を守るために身を引きます。デュマ・フィスの『椿姫』では、ヒロインは恋人の父親のとなえる現実原則を前に自らの快楽原則を引っ込めます。A・ジードの「狭き門」のヒロインもまた霊的価値をまえに、地上的快楽を断念し、そのまま病死してしまいます。ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』も一種の姦通小説として始まりますが、姦通の唯一の障害である夫が死を迎えた後も恋人を受け入れません。
こうした物語に共通するのは愛の消費・消尽の拒否です。
愛が所詮燃え尽きるものであるという予感は『クレーブの奥方』以外では明示されませんが、愛が不可能となったと考えたときにその愛を捨てることによって、現実には不可能な愛をより高次のレベルで観念的に維持することには結果的には成功するわけです。
負ける(捨てる)が勝ち。悲恋物語の情緒的メカニズムがここに見られます。
求愛行為としての出会いのない物語もあります。恋する人が思いを打ち明けないというマゾヒスティックな物語群です。チャップリンの悲喜劇(例えば、「街の灯」)などに見られる、相手を思いやる主人公の純粋さは一部こうしたマゾヒズムに負っています。このカテゴリーの嚆矢はE・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」でしょう。
美を解し、愛するがゆえに自分の顔にコンプレックスをいだくシラノは、友人の騎士のために彼の恋の成就に一役かってでます。しかし、友人の愛する女性とはシラノ自身も愛するロクサーヌその人だったのです。ロクサーヌに宛てた愛の告白、手紙、すべてはシラノの手になるものでした。ロクサーヌはそれらに心うたれますが、書いたのがシラノだとは知る由もありません。友人は戦死し、ロクサーヌは死者の想い出とともに生き続けます。時はながれ、いつものようにロクサーヌを慰めに向かう途中で、シラノは悪漢に襲われ致命傷をうけます。そんなこととも知らぬロクサーヌは昔に愛人からもらった手紙をシラノに読ませます。シラノはロクサーヌへの思いの丈を記したその手紙を切々と朗読し続けますが、ロクサーヌはシラノがそれを暗闇の中で諳んじて読んでいることに気がつきます。書いたのはシラノだったのです。
負ける(捨てる)が勝ちという悲恋物語の情緒的メカニズムがここにも見られます。シラノの死と共に彼の情熱は永遠の輝きをもつことになるでしょう。シラノの態度が西洋の騎士道精神の表れとは俄には思われませんが、騎士道のもつサディズムの裏面として、一種審美化されたマゾヒズムの表現ではあるのかもしれません。これよりマゾヒズムが一層端的に表れているのが我が国の武士道ということになります。山本常朝は『葉隠』のなかで次のように書いています。
「恋の極は忍恋と見立て候、遭ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死すること恋の本意なれ」
忍恋(しのぶこい)とは愛情表現はおろか、コミュニケーションそのものの徹底した拒否です。相手との距離を最大限に保つという覚悟は欲望のマゾヒスティックな抑圧以外のなにものでもありません。しかし、抑圧を越えて、まさに抑圧ゆえに一層鮮烈にあらわれるものがあるはずです。それは相手のイメージです。最大限の抑圧により、最大限、イメージ化、結晶化されてしまった相手です。忍恋とは自家中毒的に肥大化するイメージとの戯れに他なりません。禁欲に貫かれたこの愛は相手に対する思いやりなどかけらもない自己愛と言ってもよいでしょう。「日の名残り」J.Ivory(93)[原作カズオ・イシグロ]はイギリスの階級社会を舞台とした現代の忍恋を描いていますが、A・ホプキンス演ずる執事は外界に対する未練を残しながらも、各駒の動きが決められたチェスのような自己完結した世界から決して抜け出すことができない存在です。家庭教師への感情はゲームのなかで彼に与えられた役割を越えるものですから、彼には行動できないのです。「日の名残り」は忍恋のマゾヒスティックな純粋さを巧みに描いた作品だと申せましょう。執事もまたサムライと同様に階級社会で課せられた役割の犠牲者なのです。原作では老執事が語り手ですが、自分の心理状況を克己的なほどに語らない省略法にこそ実は彼のマゾヒズムが間接的にあぶしだされます。
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反=恋愛物語
愛は物語の中にあり、その中にしかない。
もしも<愛>が語れないとき、人が語りうるのは正に<愛>の不在ということになります。
以下では反=恋愛物語についてみてゆきましょう。
存在しない<愛>の観念がそれではどこで生まれたのでしょうか。
それはもちろん恋愛物語の中です。『ボヴァリー夫人』のヒロインは恋愛物語の熱心な読者であり、物語に描かれた世界を真実と取り違え、そのまま結婚します。
「エンマは自分がそれでいいと思っている理論にしたがって、愛情を感じようとした。月明かりの庭で、暗誦しているかぎりの情熱的な詩句を朗唱し、物悲しい緩やかな調べの曲を溜息をつきながら夫に歌ってきかせた。しかし、そのあとでも、彼女は前と同じくらい冷静だったし、シャルルもいっこうに恋心をそそられたようでもないし、また感動した様子でもなかった。」フロベール『ボヴァリー夫人』
夫のシャルルはもともと現実的な男で、現実という名のカンバスに幻想的なイメージをダブらせるようなロマンチストではありません。
結晶作用とは所詮縁のない男なのです。そんな夫を相手にロマンチックな気分に浸ることはそもそも無理な話なのですが、エンマにしたところで聡明な女性ですから、思い描いていた小説的世界と現実との齟齬を直観せざるをえません。
小説的世界と現実が本質的に(存在論的に)異なることを明らかにした哲学者がサルトルです。彼の小説作品にも次のような考察があります。
「私はこう考えた。最も平凡な出来事が、ひとつの冒険となるには、それを<語り>はじめることが必要であり、それだけで充分である、と。これは人が騙されている事実である。
人間はつねに物語の語り手であり、自分の作った物語と他人の作った物語とに取り囲まれて生活している。
彼は日常のすべての経験を、これらの物語を通して見る。
そして自分の生活を、他人に語るかのように、生活しようと努めるのだ。[・・]
しかし、生活するか、人に語るかを選ばなければならない。たとえば、エルナと同棲してハンブルグにいたとき、私はこの女を信用していなかったし、また向こうでは私を怖れていたので、へんてこな生活をつづけていた。しかしその中にいた私は、そんなことは考えもしなかった。しかしある晩、サン・ポーリーの小さなキャフェで、彼女は席を立って化粧室へ行った。私はひとり残っていた。レコードが『青空』を演奏していた。そのとき私は、下船したときから過ぎていった日のことを、反省しだした。そして独語した。−三日目の晩、「青い洞窟」というダンスホールに入っていったとき、半分酔っぱらったいた背の高い女に気が付いた。いま『青空』を聞きながら私の待っているのがその女であり、いまに私の右側にもどってきて座り、私の頚に両腕をまきつけるだろう、と。そのとき、私は冒険を経験しているんだということを、はげしく感じた。しかしエルナがもどってきて私の横に座り、私の頚に腕をまきつけたとき、なぜであるか理由はよくわからなかったが、私はその女を嫌悪した。いまになって私にはわかる。それはそのとき、再び生活をはじめねばならなかったからであり、冒険の印象が消えてしまったからである。」サルトル『嘔吐』
<愛>の物語とは所詮何かを待つ物語なのです。
決定的な<何か>が待っているはずなのですが、その<何か>は決して現れません。
決定的な<何か>とは目的であると同時に終焉でもあるからです。
ヒッチコックのいうマクガフィンです。
それを求め、崇めている間はそれがあたかも存在するかのようにすべてがとりおこなわれます。
<愛>が存在するのは、例えば私が喫茶店で愛する人を待つときです。相手は時間に来ません。私は時計に目をやります。どうしたのだろう。不安がよぎります。時間はすでに数学的に刻むことをやめ、情緒的な強度を帯びつつあります。
R・バルトは待つときの不安には三段階あると書いています。
約束の場所、時刻に間違いはないか、と思い始める第一段階は推測の段階。
これが第二段階では怒りに変わります。「ひどい奴だ」。
第三段階では純粋な不安が生まれます。「相手があたかも死んだかのように、私は蒼白となる。」
待つ人は第三段階で不在の人の喪を生きるわけです。
<愛>とは<待つ>ことそのものなのです。
「私は恋をしているだろうか?然り、こうして待っているのだから。」『愛のディスクール断章』
待つことにより、待つ対象は非現実化されます。
待つ人は妄想にとりつかれたかのように、待つ対象を幻覚化してしまいます。
私は待つ人を生身のまま思い描こうとするのですが、あらわれた映像・幻覚にはある意味がすでに刻印されています。その意味とはその対象自体の決定的な不在ということです。
この決定的な不在こそ<愛>を存在させ、<待つ>という物語シークエンスの形で維持し続けるのです。『嘔吐』の主人公に到来した「冒険意識」というのもこの情緒的・想像的な時間意識です。そして、この感覚は待っていた対象が生身で姿を見せるやいなや瓦解してしまったわけです。
前提そのものの問題化
今日、<愛>はメトニミーによってしか語ることできません 。
<愛>は物語の意味(signifié)ではもはやなく、物語化のプロセスそのものであり、不可能な意味へ到達しようとする無益な情熱、一種の受難(passion)に他なりません。
<愛>は欲望 desire(すなわち<〜への>超越)の弁証法としてしか語られえないのです。
いずれにしろ<愛=欲望>の主体は安定した<わたし>ではありません。それは人称を失った死に瀕する<なにか>にすぎません。
「欲情するとは、世界の中に自己を投げ出し、ある女の肉体のかたわらで危険に瀕することだ、この女の肉体そのものの中で危険に瀕することなのだ。それは肉体をとおして肉体の上で、ひとつの意識にーヴァレリーの語るあの《神聖な不在》にー辿りつこうとのぞむことなのだ。[...]それは、本来みずから拒否する結合を求めているのではないか。本質的に欲情から逃れてゆくものである他者の自由、それを欲するものが欲情ではないか。要するに、人間存在の真正なる姿は《死ーへのー存在》であるということが真実ならば、真正な情熱は、いかなるものであれ、灰の味わいをもつはずである。死が愛のなかに現存するとしても、それはけっして愛の責任でもなく、なにかしれぬ ナルシシスムの責任でもない。それは死の責任だ。」サルトル「ドニ・ド・ルージュモン『愛と西欧』(書評)」『シチュアシオン I』所収
欲望を<愛>のメトニミーとして描いた作品の例として、マルグリット・デュラスの『愛人』があります。
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/amant.html
恋愛物語の文法
(1)「愛は12世紀に生まれた」
12世紀南フランスの貴族社会では「雅の愛 fin amor」とよばれる情熱恋愛(amour-passion)が胚胎しつつあった。
時間的にも空間的にも限定をうけて生まれたという点で風土病ともいうべきこの熱病は、それにもかかわらず文学を媒体として中世以降のヨーロッパを席巻したのみならず、はてや小説や映画さらにはコマーシャルを通 じて20世紀極東の大衆社会にまで我が物顔で蔓延し続けている。
風土病であったはずの<愛>が、今や人間の存在の普遍的な証ででもあるかのように振る舞い続けているのである。
誰もが<愛>を語る。
誰もが語れるということは、<愛>はロックなどよりもはるか以前に文化の国際化というプロセスを経て、受容と文化変容(acculturation)の歴史を生きてきたということである。
日本の開国後に費やされた西洋受容のためのエネルギーの一部もこの得体の知れない記号に向けられたという事実がある。
それにしても<愛>とはなにか?
ここで忘れてならないのは吟遊詩人(troubadour)にうたわれた<愛>はその生い立ちからして文学臭をただよわせ、今日の存在媒体も基本的には物語(小説・映画・テレビ)であるということである。
「愛」を語るとき、人は知らずに<物語>を引用しているのだ。
それでは<物語>における<愛>とはなにか?
この問いに答えるためには12世紀西洋に生まれた<愛>の変遷(さらにはその文化変容)の歴史を記述する文化史のようなものが必要であろう。それは<物語>そのものの本質・形態を問う記号論的分析、<愛>の存在論分析・精神分析、さらに<愛>とその<物語>をかこむ環境への社会史的視点を総合したようなものでなければならない。
個々の恋愛物語の分析はジャンルとしての恋愛物語(一般文法)を多かれ少なかれ射程におかざるをえない。したがって、「恋愛物語」の一般的定式とでもいうべきものを提示しておく。
1) 恋愛物語においては、<愛>はそれ自体としては存在しない。
<愛>はそれ自体としては存在しない。存在しえない。
それは意識に似た自由な運動そのものだからである。
現代哲学は人間存在を「己がそうでないところのものであり、己がそうであるところのものではない」(サルトル)存在と規定しているが、<愛>の存在様式もこれに近い。
独楽は回転している限りで独楽なのであり、回転を止めたとき、残るのは回転の残像と「独楽」とよばれる木片にすぎない。
<愛>も同じである。求める限りは在るが、手に握りしめたとき掌にはなにも残っていない。なぜか?
それは<愛>がなによりも運動だからである。しかも意識がになう運動だからである。
2) 恋愛物語においては、この運動をささえるための障害が用意されている。
<愛>が持続的な情熱として生き延びるためには抵抗が必要なのだ。
その抵抗に対する反作用として、<愛>は自らの根拠(中心)を問うことのない遠心的エネルギーの形に仮託される。言い換えれば、障害があってはじめて<愛>は形を与えられるのであり、形を与えられた<愛>が物語の結構を成す。
なお、障害には外的障害と内的障害がある。
外的障害:家/名誉(「ロミオとジュリエット」)、法/道徳[義理・人情](「トリスタンとイズー」「曽根崎心中」)、相手の死(ポオの「愛の物語」群)、相手が自分を愛していない(ジード「田園交響楽」、モラビア「軽蔑」)等々。
内的障害:相手への不信・誤解(ヒッチコックの一連の作品)、相手を愛していない(「アドルフ」)、愛=美=情熱の一般 的不在[反ロマン主義](「ボヴァリー夫人」)、障害の(無)意識的捏造[愛という観念の根源的矛盾の自覚](「クレーブの奥方」)、等々。
3) 障害を乗り越えたとき、<愛>は消滅する。
「トリスタンとイズー」では障害をすべて乗り越え、マルク王の許しを得るのはあの世においてである。古典的恋愛物語における<愛>はこの世では成就しない。
喜劇・悲喜劇では確かに障害を乗り越えたあとに結婚が待っている。
しかし、結婚は<愛>の成就ではない。
結婚するとき、<愛>の物語はすでに終わっている。と同時に、物語としての<愛>も終わっている。
12世紀に生まれた情熱恋愛は姦通恋愛である。
つまり、結婚は<愛>の媒体ではなく、障害としてのみ<愛>に資することができるのである。
いずれにしても、恋愛物語において<愛>は能記(signifi氏jなき所記(signifiant)として、つまり不可能な記号(signe)として機能する。
<愛>はそれ自体で即自的に充足して在ることはできない。
<愛>がそれを望むとき、それは<死>を意味する。
「トリスタンとイズ−」「ロミオとジュリエット」ではヒーローとヒロインの死に時間的ずれがあるとはいえ、ある意味での心中であり、死においてはじめて愛=死が即自的に成就される。
なぜ、死においてなのか?
なぜなら、<愛>には根源的な矛盾があるからである。
<愛>が運動としてあり続けるためにはある距離が必要である。
しかも、<愛>は同時に距離の絶対的否定への情熱でもある。
ティボンは次のようにのべている。
「完全な愛には(人間の内において相矛盾する)二つの徴がある。一つは恋人同士の間での融合(絶対的一体性)の必要性、すなわち、二重性の拒否である。もう一つは他者の人格・自由を重んじる気持ち、すなわち、二重性の尊重である。」
距離の否定(一体性)と距離の尊重(他者性)。古典的恋愛は<愛>という名の状況を生きる存在者(わたし・あなた)の二重性・他者性を観念的に否定する。
トリスタンとイズーの<愛>をマリー・ド・フランスのレーは次のように唄う。
「恋人よ、我らはかくこそ。我なくばおんみなく、おんみなくば我なし。」
古典的恋愛においては、他者との融合の夢は即自的に実現されるのである。他者との融合を夢見つつ、他者との緊張の中にその不可能性を感じるのは近代的自意識の不幸に他ならない。この矛盾(アポリア)を解消する一つの戦略はポオにみられる。
ロレンスはポオにおける恋愛が他者性に基づくものではなく、その否定による不可能な融合・一体化をめざす、所詮<死>によってしか完成されない企てであるとみなす。
ただし、こうつけ加えなければならないだろう。ポオにおける<死>は「トリスタンとイズ−」「ロミオとジュリエット」と異なり心中ではなく、ヒーローは生き残る、と。
「アッシャー家の崩壊」ですら、ヒロインの屍体化とヒーローの 屍体化との間には時間的ずれがあり、そのずれに意味がある。つまり、ポオの<愛>とは 屍体愛なのだ。相手はすでに死んでいなければならない。
死者との<愛>はもちろん他者をイメージ化した自体愛にすぎない。したがって、ここでも<愛>は存在しないことになる。
相手が死んでいるかわりに眠っていた(プルースト)としても事情が変わるわけではない。眠っている者も他者そのものではなく、眠っている者を眺める主体が投影するその似姿(イマージュ)であり、そこで演じられる<愛>とは、その主体が安心感/不安感を糧として演じる独我論ゲームに他ならないからだ。
本稿のはじめに<愛>は運動としてしか存在しないと定義した。<愛>は不幸・不安を糧とする運動としてのみ語りうるのであり、逆に語られうる限りにおいてはじめて<愛>は存在するのだ、と。
ここで物語を機能させる運動として定義された<愛>について、それが運動するかぎりにおいてしか存在し得ない所詮不可能な企てであるというのは、じつは同語反復(トートロジー)にすぎない。
<愛>=運動という定義そのものにその不可能性はすでに含まれている。
問題はそれにもかかわらず、多くの恋愛物語では<愛>というの名の独楽が回転を終えた後も回転し続けているかのごとく振る舞い続けるということなのである。
障害を乗り越えたカップルが結婚にゴールインしたところで幕が上がれば、幕の背後世界で独楽は永遠に回転し続けると人は思う。
ゴールインする前にトリスタン/イズーのように死を迎えれば、<愛>は外的障害のために挫折を余儀なくされたのであり、<愛>そのものの存在不可能性によるものだとは考えない。
「タンド伯爵夫人」(ラファイエット夫人作)
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Composition/articles/tende1_95.html
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Composition/articles/tende2_96.html
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8. 欧米人の倒錯と幻覚の世界
楽劇「トリスタンとイゾルデ」(R. ワーグナー作曲)
FURTWÄNGLER 1930 - TRISTAN UND ISOLDE - PRELUDE ACT 1
http://www.youtube.com/watch?v=6T5HaCt0isk&feature=related
Kirsten Flagstad and Ludwig Suthaus - Liebesduett
http://www.youtube.com/watch?v=B-ImojzMOAs
蓄音機で フルトヴェングラー トリスタンとイゾルデから「愛の死」
http://www.youtube.com/watch?v=JS0GA_0vIFc
Kirsten Flagstad and Furtwangler - Liebestod
http://www.youtube.com/watch?v=4tgn511ceNQ
下の楽譜は、総演奏時間三時間以上にわたるこの楽劇の最初の部分(左:「前奏曲」より)と、最後の部分(右:「イゾルデの愛の死」より)です[Edition Peters Nr. 3407より改変]。このほんの数小節の中にも「トリスタンとイゾルデ」の魅力は満載されていますので、これを使って私なりの解説を試みます。
まず矢印で示した小節の和音。これは、この楽劇が始まって最も初めに聴衆の耳に入る和音です。そして、この和音は、極めて絶妙なバランスの上に成り立っています。
和音はFを基音にH、Dis、Gisと4つの音から構成されています。一見単純に見えますが、実はこれは従来の機能和声法では解釈できない非常に特殊な音の並びなのです。不協和度は少ないものの、非常にストレスの大きな響きで、解決を待たねばならない不安定な音の固まりです。
これが、次の小節になるとE majorの和音に帰属し解決され、ここに至って聴衆は安堵を覚えます。逆にいえば、従来の理論では、一見、解決策のない不安定な音に聞こえた和声は、極めて単純な和声に落ち着きうることを、ここで初めて知ることができるのです。
この複雑怪奇な「トリスタン和声」は、機能和声法をきりぎりの所まで拡大解釈して見せたワーグナーの偉大なる手腕の発露です。
この和声は後にドビュッシーやスクリャービンらによってさらに拡張されていくことになります。実際、この和音の発見をもって、クラシック音楽全史を「トリスタン以前」と「トリスタン以降」に分類することさえできるのです。
さて、我々は、ここでもう一つ重要なことに気づかねばなりません。それはトリスタン和声が解決したその和音に、Dの音が含まれていることです。トリスタン和声があまりにも怪奇であったために、我々は次の小節で完全に和声が解決されたような錯覚を覚えるのですが、じつはその和音は属7を伴った「未解決」な和音にすぎません。
こうした語法は曲全体にわたって使用されています。和音の解決が再び次の不協を生み、このストレスの解決もまた・・・といった具合に、問題は次々と提起され、解決されないまま引き継がれていくことになります。この延々と続く和声のうねりは、トリスタンとイゾルデ二人の永遠に解決されることのないであろう愛を意味していることは言うまでもありません。
そして、なにより我々が注意しなければならないのは、トリスタン和声の持つ独特な生理的効果です。この絶妙な和声は、なぜか官能的に響きます。まさにこれこそがこの楽劇の最大の魅力です。
この音楽以前に、これほど官能美をたたえた音が鳴り響いたことはなかったでしょう。この法悦感を喚起する原理は、「四度音程」の累積に基づいたF、H、Dis、Gisという音の選択にあるようです。
実際、この原理は楽劇を隅ずみまで支配しています。結果として麻薬的効果が聴衆を陶酔の世界へと誘い、音楽的快感の虜とさせるのです。我々はこの和声のもつ圧倒的な煽情効果の前になすすべもありません。楽理を超越した仮想界。その抗い難いメフィスト的求心効果。幻影への陶酔。カタルシス的な憧憬。情動の浄化。「音楽」というものの魅力を余すところなく表現しつくした芸術中の芸術。それが「トリスタンとイゾルデ」なのです。
さて、トリスタンの魅力はなにも和声だけではありません。上の楽譜(左)に赤色でしめしたメロディーライン(モティーフ)に注目して下さい。Gis、A、Ais、Hという、単純な上行性の半音階進行です。
しかし、トリスタン和声に乗ったこの音の動きは、上へ上へ、高いところへ高いところへ、という至高なものへの憧憬を思わせます。もちろん、トリスタンとイゾルデ二人の至上な愛への憧れを示しているのでしょう。しかし、彼らの羨望もHの音で未解決のままに終わっています。
実ることのない愛。切なくも悲痛な終焉を想像させるに十分の旋律です。
この4つの音からなるモティーフもまた、楽劇中で何度も繰り返し現れます。しかも、その度に、解決を見ることなく音の渦へと消えていくのです。そして、二人の理想世界への憧れは望蜀として膨張し、最後には二人の死という形で結実します。
その瞬間、憧れのモチーフは、上の楽譜(右)の様に、Gis、A、Ais、H、Cis、Disと、Disの音まで到達し、これと同時に和声も極めて純粋なB majorの主和音に解決されるのです。このモティーフが不安に満ちたトリスタン和声と共に初めて聴衆の前に提示されてから、じつに3時間以上たった終結部で、ようやく死(浄化)による解決を迎えるわけです。
この楽劇は、最後の協和音「救済」に向かう葛藤を描いた壮大なドラマであると言えます。大河のうねりは聴くものの心を毟裂き、そして清らかに透きとおった高次の解決を迎えるその瞬間、我々は鳥肌の立つ思いを覚えます。
http://gaya.jp/myprofile/tristan.htm
<愛>は空虚な記号です。ただ、その空虚さ、あるいは無根拠性を隠蔽し、<愛>を実体化する道具として媚薬があります。
『トリスタンとイズー』の媚薬が有名ですが、古典的恋愛物語に登場する愛する若者たちはみな、あたかも媚薬が効いているかのように強い持続的な情熱にかられています。
実は媚薬こそがこうした若者の不条理な情熱のメタファーなのかもしれません。
実際、<愛>は麻薬のように心身に大きな変化をもたらすことがあります。<愛>の炎は身も心も焼き尽くすと言いますが、恋愛物語では全身にあらわれる症状が描かれることがあります。
「トリスタンの心臓の血の中には、鋭いとげをつけ、かぐわしい花を咲かせた、一本のいばらが根をはりひろげて、肉体も、心も、欲求も、そのすべてが、イズーの美しい体に、なにかこう強いきずなでもって巻き付けられているように、思われるのだった。」 『トリスタンとイズー』
「あなたを垣間見ただけで、私の声はうちふるえ、舌はこわばり、全身が微細な炎にちりちりと焼かれる」サッフォー
フィッシャーは『愛はなぜ終わるのか』のなかで次のK・ユングのことばを引用していますが、今日の大脳生理学の知見からすればこれもすでにレトリックではなく、字義通り科学的にある程度説明がつく内容です。
「ふたりの人間の出会いは、ふたつの化学物質の接触のようなものだ。何らかの反応が起こると、両方とも変質する。」
それでは愛する人の大脳ではどんな化学反応(情報操作)が起こっているのでしょうか?(以下、『愛はなぜ終わるのか』による)
人間の脳は主に三つの部分からできています。
最も原初的な本能を調整する脳幹(爬虫類脳とも呼ばれる)。
情動を司る大脳辺縁系(同じく哺乳類脳)。
感覚、言語機能をはじめ、各機能の統合をおこなう大脳新皮質。
<愛>は情動の一種ですから、それが活躍する舞台は大脳辺縁系ということになります。そして、中心となる作用素は、興奮、歓喜、恍惚などを引き起こす興奮性伝達物質フェニルエチルアミン(PEA)であると考えられています。
「ロマンス中毒患者」と呼ばれる人たちがいまして、彼らは実を結ぶはずのない恋を病的に求め、高揚と陰鬱の状態を交互に味わい続けるのですが、彼らにはPEAの分泌が多いことがわかっています。
ロマンス中毒患者にMAO抑制剤を投与しますと、数週間で「相手を選ぶのに前よりも慎重になって、さらには恋人なしでも快適に暮らせるようにさえなった」といいますから、恋愛を病ととらえた12世紀以前の西洋人の考え方には根拠があったことになります。
トリスタンとイズーが飲んだ媚薬というのは今風に解釈すれば、PEAの分泌を高める興奮剤だったのかもしれません。
ただし、PEAと<愛>の病が一義的に関係しているわけではないことは付け加えておくべきでしょう。
「PEAは高揚と不安を引き起こすだけで、そんな化学的状態になる経験はたくさんあり、恋の情熱はそのひとつでしかない。」
<愛>がPEAに依るとしても、PEAによる高揚感、不安感は愛以外の様々な形をとりうるということです。
PEA効果には時間的に限りがありますから、ロマンティックな恋愛の期間はずっと続くわけではありません。18ヶ月〜3年もすれば、恋に落ちた人も再び相手に対し中立的な感情を抱くようになるといわれています。
つまり、その間は相手を、そしてさらには世界全体を高揚と不安を通じて情動的にみる態度が維持されうるわけです。結晶作用という知覚的な麻痺ももちろん伴うことでしょう。
PEA効果が切れると同時に愛もお終いになるというわけではありません。激しいロマンチック・ラブのあとには落ち着いた愛着による新しい愛の可能性もあるからです。この愛を司る物質はエンドルフィンで、心を落ち着かせ、苦痛をやわらげ、不安をしずめるといった、まさにPEAと反対の作用があります。
小さい頃に下垂体不全をおこした人の中にはPEA分泌不良による「愛の不感症」という症例もあるようですが、エンドルフィンによる静かな愛はこれとは別で、これこそ永続的な、現実的な人間関係の源でしょう。しかし、恋愛物語が対象とするのはやはり、PEA効果による病に苦悩する激しい愛ということになります。
「意識はある対象についての意識である」というのが現象学の出発点です。人はある対象を憎むべきものと捉えることにより、はじめてそれを憎むのであり、形をもたない憎しみエネルギーみたいなものが予めあり、それがたまたま見つけた対象に向けて発散されるのではない、というのが現象学的なとらえ方です。
しかし、これと反対の考え方もあります。人の情動とは無定形のマグマみたいなもので、それが外界の対象にそそがれるのは偶然であり、そのマグマが仮の形を得て持続するためのアリバイを外界の対象が与えるにすぎない、という考え方です。
このような考え方をとるならば、PEA効果が自己を持続させるために、高揚と不安状態を創出するアリバイが必要となり、それを外界にもとめる。情熱恋愛とはPEAの自己保持のアリバイであり、恋愛(物語)における障害とは、まさに保持時間をできるだけ延長するための仕組みに他ならない。要するに、恋愛物語の主体はPEAだという逆説です。
外在的障害がない場合、あるいは解決されたあとになおも内在的障害が待ち受けているのは、PEAの麻薬効果が自己を維持するためにあらゆるアリバイを捏造するせいなのかもしれません。
http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Culture/love/lovemac.html
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中川隆_宗教関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/132.html
中川隆_日本文化関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/910.html
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