http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/881.html
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来月6日に安倍−プーチン会談が行われ、平和条約や北方領土に関わる交渉も行われるとみられることから、ロシア側の歴史を再確認しようという動きが活発化している。
論考にある「ソ連への攻撃は行われなかった。だがそれは日本の宣伝家たちが主張しているような、日本が中立条約の条件を誠実に遂行したからではなく、ドイツの『電撃戦』が失敗し、ソ連の防衛力が同国の東部で維持されたからだ」という説明は誤りである。
ドイツの『電撃戦』が失敗に終わったと認識される時期は、真珠湾奇襲攻撃(対米戦開始)の前日に始まったソ連軍の大反撃である。
(真珠湾奇襲攻撃を1ヶ月(半月でも)先に予定していれば、ドイツの対ソ戦失敗が明らかになり、日本が対米戦に踏み切ることはなかったはずである)
むろん、賢明な軍略家であれば、冬期を迎えた10月の時点で作戦目標を達成できず、夏服に象徴されるように冬の備えがないドイツ軍が劣勢に陥るのはそれほど難なく見通せる。
日本が関東軍特種大演習を発動しながら対ソ戦に踏み切らなかったのは、論考にも書かれているように、ソ連が満ソ国境の防備を固めていたからであり、ノモンハン事件の痛い敗北を経験しているからである。
シベリアで「ロシア革命への介入戦争」を経験している日本は、冬季に入る前の9月いっぱいで決着を付けなければ日本軍が勝てる見込みがないこともわかっていた。
WW2時の日ソ関係において、どちらが狡猾だとか、どちらが中立条約に違反したとかいっても子どものケンカレベルを超えない。
論考のなかに、「1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃した時、日本の松岡外相は、急いで昭和天皇のもとを訪れ、ソ連を即刻攻撃するよう執拗に提案した」とあるが、松岡洋右氏は、ナチスドイツの実力を過大に評価していたが、対米関係に漂う不穏な空気が濃くなるなか、米英を刺激する「南進論」をなんとか押さえ込むことで対ソ戦より困難な「対米戦」を回避したいという思いで対ソ戦を進言したと考えている。
松岡洋右氏は、執拗な対ソ戦進言が徒となって、翌7月22日に外相を更迭される。そして、その直後に南部仏印進駐が開始され、強力な制裁を解除するために続けた対米交渉も膠着し12月8日を迎えることになる。
※関連参照投稿
「「北進論」と「南進論」 − 「空間をもって時間となす」戦略を打ち破らなければならない「北進論」 −」
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/369.html
「「北進論」&「南進論」と陸海軍の作戦統合」
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/378.html
「『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇著:戦前満州での大慶油田発見は対米戦争回避につながったか?」
http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/260.html
「日本側“建前”損害データとソ連側“機密”損害データを比較しても意味がない」
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/566.html「
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中立条約は日本の狡猾さの証拠[スプートニク日本語]
オピニオン
2016年04月14日 10:24(アップデート 2016年04月14日 18:55)
アンドレイ イワノフ
今から75年前、ソ連と日本は中立条約を締結した。ソ連は条約の期限が切れる1週間前に日本に廃棄通告し、8月8日に8月9日から日本との戦争状態に入ると考えていることを正式に発表した。
この事実は長年にわたって日本の歴史家や政治家たちが、狡猾さや不誠実さ、日本への予期せぬ攻撃、そしてその結果の南クリル諸島のいわゆる「不法占拠」でソ連を非難するために利用されてきた。しかしロシアの著名な歴史家で東洋大学教授のアナトーリー・コシキン氏は、事実は日本の行動が狡猾だったことを物語っていると述べ、次のように語っている‐
「1946年5月から1948年11月まで行われた東京裁判は、ドイツとソ連の戦争における日本の『中立』が、実際にはソ連が日本に攻撃するまでドイツを支援するための衝立となっていたことを認めた。日本では1960年代に、東京裁判のこれらの結論の正当性を確認する文書が公表された。目撃者の証言によると、中立条約署名の際にクレムリンで開かれたバンケットの最中に、ソ連の指導者スターリンが、日本代表団に対する乾杯を提案し、特に日本代表団の軍人たちの条約締結への貢献を指摘した。これに対して日本の松岡外相は率直に、これらの軍や艦隊を代表する人々は中立条約を締結したものの、実際には常にどうやってソ連を打ちのめすか考えていると述べた。スターリンは日本の軍人たちに、『ソビエトロシアは、皆さんが一度勝利した腐りきった帝政のロシア帝国ではない』と言及せざるを得なかった。」
コシキン氏によると、このスターリンの警告を日本は無視し、ソ連との戦争に向けて準備を続けた。1941年4月、当時陸軍大臣だった東条英機が「条約を無視して、我々はソ連に対する軍事的準備を積極的に行う」と述べた。その少し後には、ソ連との国境付近に配置された関東軍司令部のキムラ司令官が、関東軍統合司令官会議で、対ソ作戦を準備する必要性について発表した。
1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃した時、日本の松岡外相は、急いで昭和天皇のもとを訪れ、ソ連を即刻攻撃するよう執拗に提案した。2週間以内に開かれた秘密会議で、枢密院の原嘉道議長が天皇同席のもと、「中国の事件」で日本が忙しいことを認めながらも、最初のチャンスが訪れた時にソ連を攻撃することを提案した。原議長は、「誰かが中立条約に関連して、日本がソ連を攻撃するのは非道徳的だと言うかもしれない… だがもし我々がソ連を攻撃したならば、誰もそれを裏切り行為だとはみなさないだろう。私はソ連を攻撃する機会を待ちわびている。ソ連は破壊されなければならない」と述べた。
コシキン氏は、それから間もなくして日本の参謀本部は1941年8月29日にソ連を攻撃すると決めたと述べ、次のように続けている‐
「しかしソ連への攻撃は行われなかった。だがそれは日本の宣伝家たちが主張しているような、日本が中立条約の条件を誠実に遂行したからではなく、ドイツの『電撃戦』が失敗し、ソ連の防衛力が同国の東部で維持されたからだ。いつ始まるかわからない日本の攻撃を撃退するための準備として、ソ連軍全体の28パーセント超に相当する549万3000人の中から156万8000人と数千台の戦車や航空機が極東と南の国境近くに配置された。この戦力は、ソ連とドイツの前線で効果的に使えたはずだ。そのため、軍国主義日本の政策が、戦時中に中立条約の規定に違反し、全体として大祖国戦争と第二次世界大戦を長引かせ、ソ連や他の国民の犠牲者を増やしたと考える十分な根拠がある。」
http://jp.sputniknews.com/opinion/20160414/1955357.html
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