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2015.8.16 08:48更新
「軽井沢爆撃するな」大戦末期 軽井沢から米英に電報 「国体護持」スイス仲介か[産経新聞]
第二次世界大戦末期に長野県軽井沢町の「深山荘」に疎開していたスイスのカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局がフランス語で「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)と記載した電報を、本国の外務省や米英のスイス公館に約2カ月間で19通送っていたことが15日、軽井沢町と筑波大学の調査で明らかになった。「イミュニテ カルイザワ」が「国体護持(天皇制維持)」の符号であるとの見方も浮上、スイスが仲介役となって米英の意向を探る和平交渉が行われた可能性もある。
軽井沢町と筑波大学がスイス連邦公文書館で戦時下の交換電報を調べたところ、昭和20年6月8日から7月30日の間、ゴルジェ公使らが本国の外務省や、外務省を通じて米英のスイス公館に打電した27通のうち19通に「イミュニテ カルイザワ」などの記述があった。
ゴルジェ公使は本国の外務省に送った6月8日の最初の電報で、「そろそろ『イミュニテ カルイザワ』を働きかけるべきです。(天皇制維持を主張した)米国の国務長官代理、ジョセフ・グルー前駐日大使もよくご存じだ」などと打った。これに対し7月7日、ゴルジェ公使は「ゴルジェ氏の提案は、すでに外務省に報告しているが、結果としてまだ、正確な確証は得られていない」とするロンドンの回答などを受け取った。
ゴルジェ公使は7月6日にも再び電報を打ち、20日に「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、それが故に、かれらはコンタクトした」とする回答を受け取っている。
東京などへの空襲は、都市部を標的としたもので町村は原則対象外だった。このため、ゴルジェ公使が6月8日に「軽井沢を爆撃しないでほしい」と要請するのは唐突との見方が浮上。スイス側が軽井沢を爆撃対象から外す要請について、在外公館を総動員し複数回にわたり念入りに米英の意向を確認したのも不自然だ。
東郷茂徳外相と軽井沢で会談していたことを記したゴルジェ公使の日記も発見されており、「イミュニテ カルイザワ」は「爆撃対象から外す」ではなく、国体護持を意味する符号で、ゴルジェ公使が日本を終戦に導く目的で米英に意向を確認した可能性がある。
軽井沢町と筑波大学は22日午後2時から同町中央公民館大講堂で「深山荘の謎を解く」と題して公開シンポジウムを開催。ゴルジェ日記を発掘したフライブルク大学のクロード・ハウザー教授らが講演する。(編集委員 岡部伸)
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2015.8.16 08:49更新
スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか[産経新聞]
「軽井沢爆撃するな」=国体護持の見方
長野県軽井沢町に疎開していたカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局が2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)という謎の電報を交換したことが15日、明らかになった。中立国スイスが仲介役として米英から国体護持(天皇制維持)ができることを聞き出して日本側に伝え、昭和天皇が確信をもって終戦決断の根拠の一つとした可能性もある。(編集委員 岡部伸)
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戦時中、軽井沢町の「深山荘」に疎開したスイス公使館は外交団の中心で、連合国と交戦状態にあった日本はスイスを通じて交渉。スイスは日本で米英豪などの利益代表を務める一方、こうした国々では日本の利益代表を務めた。開戦で双方の国に取り残された民間人の交換交渉や捕虜の問題も話し合った。
ゴルジェ公使が最初に「イミュニテ カルイザワ」との電報を本国に送ったのは昭和20年6月8日。5月8日にドイツが崩壊して1カ月が経過し、御前会議で本土決戦の方針が確認された一方、6月9日には木戸幸一内相が「時局収拾対策試案」(ソ連仲介工作)を報告してひそかに戦争終結に向けた動きが出ていた。日本側の戦争終結の条件は国体護持だった。
7月20日の米英からの最終回答は「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、それが故に、かれらはコンタクトした」。「軽井沢を爆撃しないでほしい」という要請に対する回答としては、「ほとんど何も意味をなさない」との指摘が出ている。
しかしスイス政府はこの最終回答に対し、「光栄です」「喜んで」「このような内容をお教えいただきありがとうございました」と好意的に反応しており、スイス側が最終回答を通じて米英から国体護持に関するメッセージを受け取った可能性が指摘されている。
この直後の26日にポツダム宣言が出され、30日に「イミュニテ カルイザワ」と書かれた最後の電報がベルンからワシントンの公館に送られている。
今年刊行された「昭和天皇実録」には、「自ら戦争終結を決意した」「国体については(連合国も)認めていると解釈する」と記されており、昭和天皇が国体護持を確信して戦争を終わらせたことは明らかだ。
昭和天皇が天皇制維持の確信を抱いた根拠はこれまでいくつか指摘されている。例えば、ドイツ降伏後の5月8日から8月4日まで14回にわたり、米国のザカリアス大佐が「主権は維持される」などと、天皇制存続を認める可能性があることを短波放送で伝えたことはその一つとされる。
軽井沢町の藤巻進町長は「終戦に軽井沢町とスイス公使館が果たした役割が解明されることを期待したい」と話している。
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スイス当局の符号
昭和史に詳しい作家、半藤一利氏「『イミュニテ カルイザワ』はスイス当局の符号だったのだろう。『国体(皇室)をつぶすな』の意で使用していたと解釈すれば、ゴルジェ公使を通じて中立国スイスが米英に『国体護持』の可能性を打診し、和平交渉を行っていたことになり、興味深い。スイス本国からゴルジェ公使を通じて米国の皇室保持の方針が東郷茂徳外相らに伝わっていたならば、ザカリアス放送などとともに天皇が阿南惟幾陸相に『確証がある』と語り、終戦を聖断した根拠の一つとなった可能性がある」
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【プロフィル】カミーユ・ゴルジェ 1893年生まれ。第二次世界大戦中、駐日スイス公使を務めた。1924年から27年まで日本の外務省に法律顧問として赴任。日本に魅了され、13年後の40年に希望して公使として再び日本に着任した。41年に日米戦争が始まると、スイスが中立を維持したため終戦まで赴任を続けた。終戦後はスイスに帰国し、78年に亡くなった。
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