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戦後70年 皇居、3つの防空壕 昭和天皇避難や御前会議の場所に
父は工兵将校 研究者が本
宮内庁は8月1日に70年前の終戦玉音放送原盤とともに御前会議が開かれた皇居内の防空壕(ごう)「御文庫(おぶんこ)付属室」の資料を公開する。ただ、皇居内には他に2つ防空壕があったことはあまり知られていない。建設工事に参加した工兵将校を父に持つ市井の歴史研究者が、これら忘れられた皇居の防空壕の詳細を1冊の本にまとめた。研究者は「歴史の舞台の正確な情報を伝えたかった」と話している。
この研究者は東京都世田谷区在住の梶原真悟さん(66)。父・美矢男さん(2014年に94歳で死去)は赤羽の独立工兵21連隊将校だった。梶原さんは様々な文献や美矢男さんの証言・手記などをもとに「昭和天皇の地下壕 『(吹上)御文庫付属室―大本営会議室(地下壕)』の記録」(私家版)を出版した。皇居の防空壕に関する類書はない。
「金庫室」と偽装
皇居内の最初の地下防空施設は1936年(昭和11年)10月25日に完成した宮内省第二期庁舎(通称・内廷庁舎)の地下「金庫室」だった。「金庫室」の名は偽装で、非常事態の際の天皇の「御座所」とされた。太平洋戦争開戦後しばらくの間、昭和天皇と香淳皇后は空襲の警戒警報が発令された際はこの「金庫室」に避難していた。
開戦の年の41年(同16年)5月、吹上御苑で天皇の住居兼防空施設「御文庫」の工事が始まる。航空機の性能向上と爆弾の破壊力が増したことから、より強固な建造物が必要と判断されたためだ。
「御文庫」の天井は500キロ爆弾に耐えるためコンクリートと砂層で3メートル。鉄板の入った外壁など要塞のような建物だった。防空壕は地下2階にあり、空襲が本格化した44年11月以降、天皇はほぼ毎日のように避難している。
「御文庫」が造営中の41年8〜9月、北東に約100メートル離れた地主山で別の防空壕建設が行われた。当初の目的は大本営の会議室だった。工事は情報秘匿のため「戌号(ぼごう)演習」と呼ばれた。
美矢男さんはこの工事に参加していた。「現場責任者の秘書役のようなことをやっていた。昼夜休まずの突貫工事で、父も1日16時間は現場にいたと話していた」と梶原さんは言う。
3〜4トンの鉄扉
防空壕内には厚さ40センチ、重さ3〜4トンの鉄製扉があったが、美矢男さんの記憶では、この扉は海軍の横須賀工廠(こうしょう)で製造されたもので、運搬に苦労したという。
防空壕は4メートルの天井の上にさらに4メートル近い土層が盛られた。外壁も3メートルある「日本最強のトーチカ」だった。この防空壕は「御文庫付属室」と名付けられた。「御文庫」にも防空壕があるため、戦後の文献では2つを混同した記述が目立つ。
敗戦濃厚となった45年(同20年)6〜7月、「付属室」の補強工事「一号演習」が行われる。天皇が長野県の松代大本営への避難に難色を示し、皇居に残ることを選択したことから、「付属室」の防護層を厚くした。同年、「御文庫」と「付属室」をつなぐ地下トンネルも完成した。
梶原さんは「皇居の防空壕について情報が混乱している。そこで何があったかは歴史的に重要だが、その前に防空壕がどういうものだったかを正確に知ることも大切だと思う」と話している。
(編集委員 井上亮)
[日経新聞7月26日朝刊P.34]
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