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[中外時評]産業遺産の光と影と 歴史の痛苦に謙虚な目を
論説副委員長 大島三緒
その異形を眼前にすれば誰もが言葉を失うだろう。長崎港から南西に19キロの沖合に浮かぶ端島(はしま)の炭鉱跡、通称「軍艦島」だ。
「明治日本の産業革命遺産」として、こんど世界文化遺産登録が決まった23資産のなかで、ここは知名度がひときわ高い。わずか6万3000平方メートルの島に密集するコンクリートの建造物群は、壮大な廃虚と化してむしろ圧倒的な存在感である。
台風余波で風雨の強い先週初め、上陸ツアーの船に乗った。洋上1時間、いきなり岸壁にガツンと横付けされて下船すると、朽ち果てた建物の間に見学用通路が巡っている。みんなガイドに導かれ、そこをこわごわ歩くのだ。
海面下1000メートル、気温30度、湿度95%という環境での過酷な採炭作業。娯楽の少ない島ゆえにテレビの普及率は全国一だった。そんな明け暮れのなか、ひとたび事故が起きれば悲しいサイレンが全島に響いた……。
説明を聞くほどに、切ない気分が募る。そもそもこの特異な光景は、採炭基地として島を極限まで生かした結果だ。かつて労働者やその家族5000人余が哀歓をともにし、エネルギー政策の転換で島ごと葬られた無念を思わずにいられない。
閉山から40年余。そういう場所が世界遺産に決まったのだから時代の変転とは不思議なものだ。そして島を瞥見(べっけん)しただけでも、この遺産は日本近代の栄光と痛苦の記憶をともに宿していることが知れる。
加えて目を背けてはならない過去は、端島のほか三池炭鉱など今回の登録施設の一部で、朝鮮半島や中国から動員されてきた多くの人々が働いていた事実だ。
韓国はその点にこだわって登録に反対し、ぎりぎりの駆け引きの末に日本側が「意志に反して連れてこられ」た労働者の存在を認めて折り合うという展開があった。
もとより徴用工問題は、外交的には日韓国交正常化の時点で決着ずみだ。それをあえて持ち出してきた韓国への疑念も湧こう。しかし、だからといって過去そのものを消し去るわけにはいかぬのも現実である。遺産登録の対象年代は幕末・明治期だが、歴史は常に地続きである。
さて、炭鉱を知るのに重要な地域といえばやはり三池である。そこで熊本県荒尾市の万田坑と、隣接する福岡県大牟田市の宮原(みやのはら)坑に足を運んでみた。
どちらも立て坑のやぐらなどがよく保存され、周辺の施設をつないでいた専用鉄道敷の跡もまざまざと残っている。明治国家による産業革命の、まさに原点だろう。しかし世界遺産登録を祝う演出のかげで、ここにも炭鉱史の苦渋はのぞいている。
たとえば宮原坑は、草創期から多数の囚人を使役していた。近くにあった三池集治監は、まさに炭鉱の労働力不足を補うために設置された刑務所である。「囚人たちは重労働の苦しさから、宮原坑を『修羅坑』と呼んでいました」。案内板の記述は、この遺産群の陰画を直視させる。
荒尾市には、そうした負の歴史を見据えてきた僧侶がいる。真言宗金剛寺の名誉住職、赤星善弘さん(80)だ。
「歴史には光と影がある。光が強ければ影も濃いんです。その真実を語り伝えなければいけません」。こう言い切る赤星さんは、三池で命を落とした中国人や朝鮮人の慰霊塔を1970年代初めに相次いで建てた人である。托鉢(たくはつ)して浄財を集め、建立にこぎつけた。
赤星さんは子どものころ、炭鉱で働く中国人労働者を目の当たりにしていた。後年、高野山での修行から地元に帰り、思い立ったのは戦後ずっと顧みられずにきた彼らの供養だ。「弘法大師も同じことをされるはずだと考えましてね。托鉢中に石を投げられたこともありましたが」
淡々と語る住職だが、よほどの信念がなければできないことだろう。いまも毎年4月には慰霊祭を開いている。「三池が世界遺産に決まって良かったですよ。それもこれもひっくるめての歴史であり、世界遺産なんです」
光も影も、歓喜も痛苦もありのままに見る――。物議を醸すこんどの世界遺産との向き合い方は、これに尽きるだろう。それは近現代史全体への、大切な視座でもあるに違いない。
そういえば、かの軍艦島は対岸の長崎半島から眺めても独特のシルエットが海上に鮮烈である。遠景となって、なおその意味を問いかけてやまぬ20世紀日本の姿のようでずしりと心に残るのだ。
[日経新聞7月19日朝刊P.10]
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