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大正天皇の実像詳細に[NHK]
7月1日 17時25分
13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになり、日本の近代史の実像に迫る手がかりになると期待されています。
黒塗り解除の経緯や何が明らかになったのか、社会部の鈴木高晴記者が解説します。
“悲運の天皇” 大正天皇
天皇陛下の祖父の大正天皇は、激動の明治と昭和の狭間の時代を治めた悲運の天皇として知られています。明治天皇の三男として生まれ、兄たちが幼くして亡くなったことから8歳の時に次の天皇と定められました。
生まれながら病弱でたびたび重い病気にかかりましたが、成長とともに健康を回復し、皇太子として全国各地や朝鮮半島を訪れて人々と触れあいました。
しかし、明治天皇の崩御を受けて32歳で即位すると日常が一変します。
軍事演習や式典などが中心の窮屈な生活を送るなか、第1次世界大戦や大正デモクラシーの動きに伴う政局の混迷の影響で心労が重なり、病状が悪化。やがて話すことも困難になり、大正10年には、皇太子、のちの昭和天皇を摂政として、事実上引退しました。その後は療養に専念しましたが回復せず、47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わりました。
大正天皇実録とは
その大正天皇の日々の動静を記した公式の記録集が「大正天皇実録」です。
昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さんしました。大正天皇の47年余りの活動が年代順に日誌のような形で記されていて、本編は85巻5000ページ余りからなります。
黒塗り範囲見直し 大部分公開
完成後長らく公開されなかった大正天皇実録。情報公開法の施行を受けて平成14年から段階的に公開されましたが、当時は個人情報の保護などを理由に全体のおよそ3%が黒く塗りつぶされていました。
一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能な限り公開するとして黒塗りは行われませんでした。
そこで、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。
黒塗り部分には何が
黒塗りが解除されたところは、本編だけでも1000か所以上におよびました。
この中には歴代の天皇で初めて学校に通った大正天皇の小学校での様子を記した箇所もあります。明治26年7月、学習院初等科の卒業式の記述のあとにあった、父親の明治天皇に宛てられた学校の成績などの報告書です。これまでは21ページにわたって黒塗りにされ全文が伏せられていましたが、今回、成績の順位とみられる箇所を除きほぼすべてが公開されました。
そこでは、大正天皇は、明治20年、8歳でいまの小学2年生にあたるクラスに編入されたものの、病気で83日欠席し、進級試験も受けられなかったため留年することになったと記されています。
その後、体調が安定して進級を重ね、4年生の時には1年間、1日も休まず、「学期末の御成績も著しく」、「精勤証書」(皆勤賞)を受けたと書かれています。しかし、6年生になると再び大きな病気をして12月から3月まで74日間にわたって欠席していました。成績が心配されたが、回復後は心身の気力が以前にも増し、卒業できたと記されています。
体調や病状の詳しい記述も
病弱だった大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述もあります。
このうち大正7年8月、38歳の時、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がありました。
大正天皇は、その後病状が悪化し、大正10年に摂政を立てて事実上引退します。
崩御の1年前、大正14年12月に起きた「脳貧血」の発作については、当時の発表では軽症だったとされ、実録では日付けと「脳貧血にて」「漸次御恢復あり」という部分以外黒塗りにされていました。
ところが、今回黒塗りが解除されたことで、「一時人事不省」に陥り、3か月あまり寝たきりの状態になるほどの重症だったことが分かりました。
即位後は多忙な日々
大正天皇は、即位後、多忙な日々を送る中で心労が重なって体調を崩したと当時の宮内省が発表していましたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえます。「大正4年1月3日」の動静は、日付以外すべてが黒塗りにされ内容が伏せられていましたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩餐をともにしていたことが分かりました。
長州出身で陸軍元帥の山県は、当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいました。
軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていましたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことがわかりました。
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「実質的な最高実力者の意見を聞いておく必要があるという天皇や側近の判断があって実際にはしばしば顔をあわせていたことが分かった。短い記述だが、天皇としての本来の職務をうかがい知る上での重要なポイントだ」と評価しています。
また、同じ年の4月30日には、海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが分かりました。
掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が軍の幹部将校から聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていました。古川教授は「天皇がストレスに感じるような仕事が実は多かったということがわかり、体調悪化の背景が具体的に裏付けられた。戦前の天皇は最高の公人であり、実質的に活動していた時期を中心に多くの記述が読めるようになったことは、当時の国の動きや大正天皇の人物像の研究を深める手がかりになる」と話しています。
黒塗り判断に疑問も
大正天皇が政府の要人や軍の幹部と面会していたことはなぜ伏せられていたのか。宮内庁は「公式には発表されていない、私的なものだ」として、公開を見送っていたということです。これについて古川教授は、「本来公開されるべき情報が長年伏せられていたことは大きな問題だ」としています。さらに今回黒塗りが解除された中には、なぜ隠されたのか首をかしげたくなるものもあったと言います。
大正4年に行われた即位の儀式の記述では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがありました。今回解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけのことばでした。古川教授は、「天皇にとっていちばん大事な儀式で情報が伏せてあったのでよほどのことが書いてあるのではないかと想像していたが、肩すかしだった。宮内庁の当初の黒塗りの判断が形式的すぎて無意味だったという典型例だ」と指摘しています。
大正天皇実録はどこで見られる
専門家が、日本の近代史の実像に迫る手がかりになるとする大正天皇実録。全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されています。
去年完成し話題になった昭和天皇実録は、ことし3月から段階的に出版が始まり、書店に並んでいますが、大正天皇実録は今のところ出版の計画はありません。新たに公開された記述を目にするためには、公文書館を訪れて閲覧やコピーを申請する必要があります。
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html
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