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日韓黒幕のアルバム発見 国交50年、児玉誉士夫氏が残した2冊 KCIAトップと「前祝い」/ちらつく米国の影
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投稿者 あっしら 日時 2015 年 6 月 23 日 02:57:10: Mo7ApAlflbQ6s
 


特集ワイド:日韓黒幕のアルバム発見 国交50年、児玉誉士夫氏が残した2冊 KCIAトップと「前祝い」/ちらつく米国の影
毎日新聞 2015年06月22日 東京夕刊

 日本と韓国は22日、国交正常化50周年を迎えた。その交渉の舞台裏に政財界のフィクサーで右翼の大物、故児玉誉士夫氏がいた。氏は自らの韓国とのかかわりを2冊のアルバムに残していた。半世紀を経て明かされる「児玉アルバム」が語るものは−−。【鈴木琢磨】

 「面白いものがあるんだが……」。なじみの東京・神保町の古本屋に教えられ、中央線沿線の古書即売会に出かけてみると、それはあった。百貨店の伊勢丹特製アルバム2冊で、赤い表紙にそれぞれ太い油性ペンで「第一次訪韓記録」「第二次訪韓記録」と書き込まれている。計86枚、写真説明はないが、見覚えのある顔が写っている。ロッキード事件の頃、新聞やテレビでしょっちゅう見たあのイガグリ頭、すごみのある目、児玉氏だった。

 ときは日韓国交正常化の3年前にさかのぼる−−。1962年晩秋、難航していた交渉は大詰めを迎えていた。前年の軍事クーデターで実権を握った朴正熙(パクチョンヒ)国家再建最高会議議長(後の大統領)が側近の金鍾泌(キムジョンピル)KCIA(韓国中央情報部)部長を2度にわたって日本へ派遣。大平正芳外相との会談の結果、最大の懸案だった日本から支払われる経済協力資金の額が「無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」で決着、いわゆる「金・大平メモ」が交わされる。だが、韓国側はまだ安心はしていなかった。自民党実力者の大野伴睦副総裁を韓国に招き、朴議長との間で確約させたかったのである。

 そこで極秘に動いたのが大野氏と親しかった児玉氏だった。アルバム冒頭はソウルの金浦空港、ノースウエスト機のタラップを下りるコート姿の児玉氏である。同行の駐日韓国代表部参事官が携える毎日新聞の見出しから、この日は12月7日とみられる。出迎える政権関係者に交じってアメリカ人らしき男がひとりいる。そしてKCIA施設へ移り、金部長と話し込んでいる。児玉氏は15歳も年上。儒教の伝統で、年長者の前でたばこは控えるはずが、金部長の手にはたばこが。さらに金部長の自宅で豪勢な夕食を共にする一枚もある。まるで旧知同士「前祝い」の雰囲気である。

 それもそのはず、遅れること3日、12月10日に大野氏がやってくる。金浦空港で「私は両国親善の橋渡しになるため訪韓した」とのメッセージを読み上げた。朴議長との会談では池田勇人首相の親書が手渡され、交渉妥結のムードは一気に高まる。メディアは13日の帰国まで大野訪韓を大きく報道したが、児玉訪韓には触れていない。すべて隠密行動だった。アルバムを眺めれば、この間、児玉氏は陸軍士官学校、朝鮮王朝時代の王宮・昌徳宮、完成間近の高級ホテル、板門店などを精力的に視察、戦闘機や戦車など兵器と写真に納まったりもしている。

 「政治は義理と人情だ」が口ぐせだった党人派政治家の大野氏と、戦時中、軍の特務機関にいた情報のプロの児玉氏−−。2人の関係を物語るエピソードがある。追想録「大野伴睦 小伝と追想記」で児玉氏が紹介している。

 戦後、大野氏は旅先の名古屋で韓国人に殴られ、前歯を折る。そんな自分がなぜ韓国か、疑問を投げると児玉氏がすぐ返した。「先生、韓国は日本に数十年取られておりました。先生の恨みは数本の歯にすぎません……」。大野氏は居住まいを正す。「児玉君、勘弁しろ。僕は少し間違っていた。日韓問題は大野伴睦が引き受けたぞ」。<この先生の一言で、日韓国交正常化は事実上片付いたと言えば言える。……何故(なぜ)なら、所謂(いわゆる)腹芸で日韓国交の基礎的な問題を解決してしまったからである>

 大野氏の「腹芸」が近くて遠かった日韓を近づけたということか。2005年に韓国政府が公開した外交文書で、児玉氏が駐日韓国代表部参事官と定期的に接触していた実態が判明した。日本政界の情勢を伝え、誰を説得するのがよいかまで助言していた。「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」の著者、有馬哲夫早稲田大教授(メディア論)は「児玉氏は希代の政治プロデューサーだった」と評した。「日韓国交正常化へ尽力した実力者で児玉氏に比肩できるのは岸信介元首相ぐらいでしょう。ただし岸元首相は裏社会までは動かせない。アルバムは朴政権が児玉氏の非公式ラインを使い、正式の外交舞台を整えていった動かぬ証拠です」

 李鍾元(イジョンウォン)早稲田大大学院教授(東アジア国際政治)が注目したのは、児玉の出迎えのなかにいたアメリカ人らしき男である。駐韓米国大使館職員だろうか?「おそらくそうでしょう。日韓正常化には東京とソウルの米国大使館が深くかかわっていました。ホワイトハウスにとって最重要課題だったからです。米国はベトナム戦争へ突き進もうとしている頃で、韓国を支える余裕がなくなり、日本に期待したのです。むろん交渉過程では日韓とも米国をうまく利用した。この1枚は当時の日米韓の関係を示す貴重な資料です。撮影者が誰かも興味あります」

 ところで、どうして児玉氏のアルバムが? 出品した主人に聞くと、数年前、古本業者の市に出たという。ほかにも児玉氏にまつわる資料がまとめて出たらしく、金炯旭(キムヒョンウク)第4代KCIA部長から贈られた功労をたたえる表彰盾(共産主義に勝つとの意味から「勝共牌(はい)」と刻まれている)もあった。詳しい流出経路はミステリーだが、元は東京・等々力の児玉邸にあったもののようである。72年に全3巻の著作集が刊行されていて、そこには国交正常化後の「第二次訪韓記録」アルバムも含め4枚の写真が収録されている。関係者によれば、両アルバムの表紙に記された油性ペンの文字は児玉氏の筆跡に似ているといい、児玉氏自身でまとめた可能性が高い。

 ロッキード事件が発覚したのは76年のことである。児玉氏は外為法違反と脱税で起訴されるが、公判中の84年1月にこの世を去る。享年72だった。アルバムはいつできたかはわからないが、児玉氏が晩年、日韓正常化の礎となった己の足跡を後世に伝えようとしていたのではなかったか。日韓癒着など黒いうわさがたえない人生だったが、少年時代を植民地支配下のソウルで過ごした日本人のひとりとして、隣国との関係改善を願っていたことは間違いないだろう。

 そして児玉氏と水面下で日韓国交正常化へ道筋をつけた金鍾泌氏は首相になり、韓国政界きっての大物政治家となった。89歳のいまもソウルに健在で、韓国の大手紙・中央日報で証言録「笑而不答」を連載中である。<安倍晋三首相のような戦後世代の指導者が祖父や父の世代から教訓を得ていないことは残念なことだ>。そう嘆息している。

http://mainichi.jp/shimen/news/20150622dde012010002000c.html?fm=mnm


 

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