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ベルリンの壁崩壊25周年(ドイツ連邦共和国大使館・総領事館サイト)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/824.html
投稿者 無段活用 日時 2014 年 11 月 09 日 11:12:21: 2iUYbJALJ4TtU
 

http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/2014-25jahre-mauerfall.html


ベルリンの壁崩壊25周年


ドイツ分断によって生まれたドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)。

1961年、その国境警備隊がベルリンの舗装道路を壊して石でバリケードを作り、町を横切る有刺鉄線を張りました。そして西ベルリンの周りを取り囲むように、人が乗り越えることのできない3メートルの高さの壁を建設しました。このいわゆる「ベルリンの壁」は、1989年11月9日に崩壊するまで28年もの間存在し続けました。

2014年は、このベルリンの壁崩壊から25周年に当たります。
そこで8月5日から11月9日まで、1989年に起こった重要な出来事、壁崩壊までの道のりを、当時の写真と共にこちらのページで順次紹介・説明します。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140805-mauerfall-1.html



1989年8月5日


(© picture-alliance/ dpa)


ドイツ民主共和国(東ドイツ)が初めて国外脱出者に対する公式声明を発表し、この問題の存在を認めました。

1989年の前半にはすでに東ドイツ市民の不満が高まっていました。彼らは未来への希望が持てず、国の指導部をも信頼していませんでした。そうして10万人以上の市民がドイツ連邦共和国(西ドイツ)への出国申請をしたり、プラハ、ブダペスト、ワルシャワにある西ドイツ大使館や、東ベルリンの西ドイツ常駐代表部に保護を求めました。

1976年から1985年の間に脱出した市民の数は千人を下回る程度でしたが、1986年からその数が増え始めました。1988年の国家公安省の記録では、脱出を試みた人は6,571人にのぼり、その内3,565人が成功しました。1988年には10,676人が脱出を試み、1989年の10月までには既に53,576人が出国に成功しました。

ベルリンの壁建設当時から1980年代末までは、西ドイツに脱出する人が大半でしたが、ワルシャワ条約機構体制の変化の始まりとともに、ハンガリーやチェコスロバキア経由での出国が増大しました。


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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140813-mauerfall-2.html



1989年8月13日


ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民
(© picture-alliance/ dpa)



この日、ハンガリーのブダペストにある西ドイツ大使館は、出国を希望する約180名もの東ドイツ市民が押し寄せたために閉鎖せざるを得ませんでした。ハンガリーは、東ドイツから脱出する市民のために仮収容施設の建設をすでに開始していましたが、東西ドイツ両国に対しこの問題を両国間で解決するように要請しました。

それより数日前の1989年8月8日には、東ベルリンにある西ドイツ常駐代表部に出国を望む130名の東ドイツ市民が押し寄せ、彼らを収容したために窓口業務が一時的に停止されました。


閉鎖された在東ベルリン西ドイツ常駐代表部
(© picture-alliance/ dpa)



ハンガリーは1989年の春に既に国境警備システムの撤去を開始しており、さらに1988年には自国民の出国を許可していました。その結果、ハンガリーを経由して西側に脱出しようとする東ドイツ市民が急増しました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140819-mauerfall-3.html



1989年8月19日


ハンガリー・オーストリア国境に押し寄せた東ドイツ市民
(© picture-alliance/ dpa)



ベルリンの壁建設以来、最大の東ドイツ市民の国外脱出が起こった日。何百人もの東ドイツ市民がハンガリーのショプロンで開催された「汎ヨーロッパ・ピクニック」を利用しハンガリー・オーストリア国境を越えて脱出しました。ウィーンの西ドイツ大使館が彼らの世話をしてバイエルンに移動させました。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」が目指したのは、国境ゲートのひとつを象徴的に開放し、これまで一度も行われなかった越境を実現することでした。これが国境の撤廃へつながることとなり、欧州全体の統合へと向かう第一歩となりました。わずか数時間のうちに、600人を越える東ドイツ市民が国境のゲートに殺到し、この機会をとらえてオーストリアへ脱出しました。

このピクニックを主催したのはハンガリーの政党「ハンガリー民主フォーラム」と欧州統合運動の組織である「汎ヨーロッパ連合」でした。ハンガリー政府にとっては、汎ヨーロッパ・ピクニックが国境開放に対する他の東側諸国の反応を探る良い機会となりました。ハンガリーは、自国民に出国の自由を与えて以来、今後も他の東側諸国のために国境監視の役を担っていく意欲を既に失っていたからです。


(© picture-alliance/ dpa)


「ハンガリーは東ドイツ市民の自由への希求を加速した」とメルケル首相は2009年にショプロンを訪問した際に語り、ハンガリー国民に感謝の意を表しました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140822-mauerfall-4.html



1989年8月22日


プラハの西ドイツ大使館
(© picture-alliance/ dpa)



東ドイツ市民が出国を試みたのは、ハンガリー経由にとどまらず、チェコスロバキアも重要な経由先となりました。プラハの西ドイツ大使館は、大勢の東ドイツ市民が押し寄せたために閉鎖しなければなりませんでした。それでもなお、出国を求める多くの東ドイツ市民が西ドイツ大使館の建物であるロブコヴィッツ城の庭の柵を乗り越えて押し寄せてきました。


プラハの西ドイツ大使館を占拠する東ドイツ市民
(© picture-alliance / ZB)



大使館の建物の紹介はZDF360度パノラマビデオ(1989年ドイツ語)の下記サイトをご参照ください。


http://xt.zdf.de/360_prager_botschaft/



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140904-mauerfall-5.html



1989年9月4日




ライプツィヒのニコライ教会では毎週月曜日に行われる「平和の祈り」の後、初めてデモが行われました。約1,000人もの市民が教会前に集結し、初めて自由の拡大を求めました。その時以来、毎週、月曜デモが開催されることとなり、幾度も警察の監視や妨害を受け、時には強制的に解散させられました。それでもこの大規模なデモはさらに拡大していきました。

ライプツィヒは1980年代初頭に早くも東ドイツの平和運動の中心となりました。1982年から平和の祈りが行われ、1985年にはクリストフ・ヴォネベルガー牧師が着任し、ニコライ教会での平和の祈りを開催しました。1989年5月には、地方選挙の不正をうけて、平和の祈りの後、これまで以上に大規模な集会が開催され、警察に包囲されました。9月4日のデモの際には警察が行動を控えましたが、これは外国メディアが現地入りしていたことも一因でした。





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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140909-mauerfall-6.html



1989年9月9日


(© picture-alliance/ dpa)


東ベルリン近郊では、平和運動の活動家が「出発89−新フォーラム」を発足させ、その設立宣言文に署名しました。これはプロテスタント教会以外で初めて全国的に活動を展開する反体制運動で、東ドイツに政治的なプラットフォームを築き、改革のための民主的対話を推進することを目標に掲げ、同フォーラムに全国の反体制運動が結集するよう求めました。

しかし「新フォーラム」は当初、国家公安省から「反国家的」とみなされ登録が却下されたため、ようやく合法化されたのは1989年11月8日になってからでした。





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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20140911-mauerfall-7.html



1989年9月11日


(© picture-alliance/ dpa)


ハンガリーは0時0分に内務大臣の命令によって全ての東ドイツ市民のために西側の国境を開放しました。この好機をとらえ、数週間にわたって何万人もの東ドイツ市民がハンガリーへ向かい、オーストリアとの国境を越えて西ドイツへと出国しました。


(© picture-alliance/ dpa)


この国境開放によって、ハンガリーは東ドイツとの間で結ばれていた二国間協定の規定を破ったのでした。1969年に発効したこの協定は、有効な書類を所持しない限り、相手国の国民が西側に出国することを禁止していたのです。

東ドイツ政府は、急遽ハンガリーへの出国を禁止しましたが、徒労に終わりました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141001-mauerfall-8.html



1989年10月1日


(© picture-alliance/ dpa)


チェコスロバキアやポーランドに国外脱出した数千人の東ドイツ人が、特別列車で西ドイツへ移動しました。特別列車は、プラハやワルシャワから東ドイツを経由して西ドイツに向かいました。東ドイツ政府は、列車がドレスデンやカール=マルクス=シュタットなど国内を経由するよう要求しました。こうすることで、自国の主権を強調しようとしたのかもしれません。乗客には、チェコスロバキアやポーランドの西ドイツ大使館の敷地内に何週間も滞在した人たちや、多くの子供たちもいました。列車は満員で、出国を望み何とか乗り込もうと試みる人もいました。列車が西ドイツに到着すると、各地で熱狂的な歓迎を受けました。


(© picture-alliance/ dpa)



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141002-mauerfall-9.html



1989年10月2日


(© picture alliance / ZB)


ライプツィヒのニコライ教会では、「平和の祈り」に引き続いての「月曜デモ」がこれまでで最大規模となりました。

ライプツィヒでは、1982年9月から毎週月曜日に平和の祈り礼拝が行われてきました。平和の祈りは参加者の交流の場として定着し、次第に政治的な性格が強まり、参加者も増えていきました。平和の祈りに引き続いて開催されるようになった月曜デモでは、当初は出国の自由を求める声が中心でしたが、次第に政治改革や言論の自由を求める声が高まっていきました。「自由、平等、博愛」「私たちは国内に留まる」「ゴルビー、ゴルビー」といったシュプレヒコールが唱えられました。ゴルビーとは当時のソ連共産党書記長だったミハイル・ゴルバチョフのことです。東ドイツの人々は、ゴルバチョフの演説を通じて政治改革への期待を抱くようになっていたので、ゴルバチョフは自国の政治家よりはるかに人気があったのです。


(© picture alliance / ZB)


警察は当初、デモ参加者に対する行動を控えていましたが、その後、デモ参加者と警察隊との衝突も発生しました。警察が実力行使でデモを鎮圧しようとするなか、負傷者や多数の拘束者が出ました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141004-mauerfall-10.html



1989年10月4日


(© picture alliance / dpa)


プラハやワルシャワから出国者を乗せた列車の第二陣が、ドレスデンを経由して西ドイツに向かいました。駅やホームは出国を決意した東ドイツの人々であふれかえり、特別列車の運行に遅れが生じました。列車には外から人が入れないよう鍵がかけられていました。

列車が東西ドイツ国境を通過する前に、乗客はパスポートを取り上げられ、国籍を剥奪されました。これは、祖国を去るという決断は決して後戻りできないことなのだ、とその重さと自らの力を思い知らせようとした、東ドイツ政権の最後の試みだったのです。ただし、西側への出国を希望する人全員が列車に乗れたわけではなく、何百人もの人々が通り過ぎる列車に無理やり乗り込もうとしました。事態がエスカレートし、乗り込もうとする人々と警察との小競り合いになったところもありました。一方で、大勢の人々が線路脇に立ち、列車で通り過ぎる同胞たちを歓声を上げて見送りました。


(© picture-alliance/ dpa)



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141007-mauerfall-11.html



1989年10月7日


(© picture alliance / dpa)


ドイツ社会主義統一党(SED)政権は、東ドイツ建国40周年の記念式典を開催しました。国家、特に自らの政党を自画自賛する華々しい催しとなるはずでした。ですが振り返ってみるとこの日は、SEDが自らの権力を大々的に誇示する最後の機会となりました。

記念式典では、東ドイツの国旗がはためくなか、軍事パレードやSED青年組織の行進が行われました。行事を確実に成功させるため、大規模な警察部隊が投入されました。式典に招かれたゴルバチョフ ソ連共産党書記長は演説を行い、改革の必要性を唱えました。この呼びかけを聞いた多くの東ドイツ人は、民主的な変革が本当に訪れることに期待を寄せました。


(© picture alliance / dpa)


この式典がきっかけで、SED政権に対する抗議行動が各地で自然発生的に起こりましたが、またしても強硬手段がとられ、多くのデモ参加者が拘束されました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141009-mauerfall-12.html



1989年10月9日


(© picture alliance / ZB)


この日も、東ドイツ各地でSED政権に反対するデモが行われました。ライプツィヒも騒然とした雰囲気に包まれました。月曜恒例の「平和の祈り」に引き続き、大規模な抗議デモが行われ、参加した75000人もの市民が政治改革を求めました。同時に、暴力に訴えないようにという呼びかけが行われました。

6人の著名なライプツィヒ関係者による声明が読みげられました。これは、デモ参加者および警察・軍隊の双方に対し、暴力に訴えず、SED政権側も含め互いに自由な意見交換をすすめることで、国が抱える問題を解決するよう促すものでした。ラ イプツィヒには、警察、軍、動員された労働者階級戦闘団が集結していましたが、介入することなく引き上げました。SED上層部が実力行使を躊躇したためです。


(© picture alliance / ZB)


こうして、内戦状態に陥る危険はひとまず回避されました。2日後、SED指導部は、大量国外脱出と大規模デモの圧力に押された形で「魅力ある社会主義のための提案」を行うと発表しました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141017-mauerfall-13.html



1989年10月17日


(© picture-alliance / Sven Simon)


東ドイツの最高権力者であったエーリヒ・ホーネッカーが権力の座を追われました。建国40周年式典からわずか数日後、SED政治局は、ホーネッカー解任を会議の議題としたのです。

これはホーネッカー自身にとっては予想外の出来事でしたが、SED上層部ではすでに以前から進められていた計画でした。しかし、この計画が絶対にうまくいくと断言できる人はいませんでした。事前にソ連の同意を取り付けてはいましたが、計画は対抗措置を恐れて極秘裏にすすめられたため、改革を目指してホーネッカー解任を支持する人がはたしてどれだけいるかわからなかったからです。

党内で孤立したホーネッカーもこれに同意せざるを得ず、翌日、18年にわたった権力の座を、公には「健康上の理由」で明け渡し、すべての役職を失いました。後任には、後継者とみなされていたエゴン・クレンツが選出されました。こうしてホーネッカー時代は終わりました。


(© picture-alliance / dpa)



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141030-mauerfall-14.html



1989年10月30日


(© picture-alliance / Zentralbild)


SED政権に抗議する人々による数十万人規模のデモが再び行われました。

デモでは、新たな改革の要求が掲げられました。特にライプツィヒでは、月曜礼拝に続き多くの人々が街中を練り歩く抗議デモに参加しました。自由選挙を求める声も上がりました。


(© picture-alliance / dpa)


またドレスデンを皮切りに各地で討論会が開かれるようになり、政治家は市民の批判的な質問に向き合いました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141103-mauerfall-15.html



1989年11月3日


(© picture alliance / Reinhard Kemm)


東ドイツでは3度目の国民の大量出国が起こりました。東ドイツ政府の決定に基づき、国民はチェコスロヴァキア社会主義共和国(当時)との国境を越え、そこから何も手続きを踏むことなく西ドイツに入国することが可能となりました。そうして今度はチェコスロヴァキア国境経由での国民の大量出国が起こったのです。その間、SEDのエゴン・クレンツ書記長は、テレビやラジオの演説で党改革への意思を強調するとともに、国民には、国に留まり共に問題を解決し国の未来に向けて力を尽くすようにと呼びかけました。


(© picture-alliance / dpa)



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141104-mauerfall-16.html



1989年11月4日


(© picture-alliance/ ZB)


東ドイツ史上最大の大規模デモが起こり、約60万人もの市民が警察の許可を受けた大規模デモに参加するために平和裡に東ベルリンに集合しました。警察は介入せずに控えていました。参加者たちは政治改革の即時実施を要求しましたが、この時点では誰もドイツが統一されるなどとは予想だにしていませんでした。参加者たちが要求したのは報道・表現・集会の自由で、アレクサンダー広場で開催されたデモの閉会行事は予告なしにテレビ中継されました。


(© picture-alliance/ ZB)


東ドイツの他の町でも同じように政権与党であるドイツ社会主義統一党(SED)に反対する大規模デモが同時に開催されていました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141108-mauerfall-17.html



1989年11月8日


(© picture-alliance/ dpa)


絶え間ない大規模デモと党員らの不満に押され、SEDの政治局員は総辞職しました。

1989年9月11日にハンガリーの西側の国境が開放されてから、何度も国民の大量出国が繰り返し起こりました。国民からの圧力があまりにも大きかったために、SED指導部は1961年8月13日にベルリンの壁を構築してから阻止し続けてきた国民投票を、今回は阻止できませんでした。

東ドイツに留まることを望み、政治の変化と改革を要求する市民たちは大規模な抗議デモを頻繁に起こし、SED最高指導部に絶え間なく、日増しに大きな圧力をかけ続けました。SEDの政治局はもはやほとんど政治的対処ができず、当初は守勢に回り、その後退却と退任へと追い込まれていきました。


(© picture-alliance / dpa)



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141109-mauerfall-18.html



1989年11月9日


(© picture-alliance/ dpa)


ベルリンの壁崩壊

SEDのシャボウスキー政治局員は、特段の注目点もなく始まった記者会見で、プレス発表の案文を読み上げました。それは「国外への個人旅行は、条件(渡航目的および親戚関係)を提示しなくても申請でき、許可は短期間で出される。東ドイツから西ドイツおよび西ベルリンへの出国に対する査証は、どの国境検問所を経由するものであっても迅速に発行される」という決定に関するものでした。記者からの質問を受けたシャボウスキーは、自分の答えがどのような結果を招くかに思いもよらぬまま、「この決定は遅滞なく効力を有する」と答えました。

この記者会見がテレビで生中継された直後から、連鎖的な反応が起きました。「国境が開放された」とは一言も言われていないにもかかわらず、そうした噂が瞬く間に広まったのです。まもなく、ベルリンの壁の国境検問所に多くの東ベルリン市民が詰め掛けました。西ドイツ・ボンの連邦議会では、この知らせを受けた議員たちが審議を中断し、国歌を歌い始めました。情報を把握していなかった東ドイツの国境警備隊には、どう対処すべきかわからず、事態収拾の術はありませんでした。最初は指示通りに、パスポートを持った東ドイツ人だけを通し、再入国できないようにパスポートを無効とする手続きを行いました。しかし国境検問所に殺到する人の波が膨らみ続けたため、こうした手続きを中断せざるを得ず、ついには検査自体もやめてしまいました。23時14分、まずはボルンホルム通りの検問所で遮断棒が上げられました。28年を経て、ついにベルリンの壁が事実上崩壊したのです。西ベルリン側に着いた東ドイツの市民は、歓喜する人々の熱烈な歓迎を受けました。


(© picture-alliance / dpa)


翌日、さらに数十万人の人々が国境に押し寄せ、東ドイツから出国しました。国境通過がより迅速に進むよう、壁の一部解体が始まりました。人々は歌を歌い、歓声を上げ、踊り、抱き合いました。ヴァルター・モンパー西ベルリン市長は、前夜の雰囲気を「昨晩、ドイツ人は世界で一番幸せな国民だった」と表現しました。

国境が開放された直後の週末、300万人もの東ドイツの人々が西ドイツと西ベルリンを訪問しました。そのまま西側に移り住んだ人も大勢いました。移動する人の数があまりに多かったため、東西双方向の道路で大渋滞が発生しました。西ベルリンや国境周辺地域の交通網は、完全にマヒ状態に陥りました。東ドイツ人には1人当たり100マルクの歓迎金が贈られましたが、その支給手続きにも遅れが生じました。



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http://www.japan.diplo.de/Vertretung/japan/ja/05-politik/25jahre-Mauerfall-2014/20141003-mauerfall-19.html



1990年10月3日


(© picture-alliance / dpa)


ドイツ各地で「ドイツ統一の日」を祝う式典が催されました。この日、ドイツの憲法である基本法第23条に基づき、「ドイツ民主共和国のドイツ連邦共和国への加入」が発効したのです。これによって東ドイツという国は消滅し、45年に及ぶ分断を経てドイツの国家統一が果たされました。

ベルリンの帝国議会議事堂前やブランデンブルク門周辺では、何十万人もの人々が集まって統一を祝いました。国旗掲揚、ベルリン市庁舎の「自由の鐘」、国歌斉唱、花火が式典を盛り上げました。


(© picture-alliance / dpa)



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(投稿者より)

1989年の秋から冬にかけて、ベルリンの壁崩壊・ビロード革命など、欧州にとって大きな転換の時でした。私はその時学生でしたが、フランスから来ていた語学の先生の喜びは相当なもので、当時ちょうど始まった海外ニュースの中継放送を自分で録画・編集して、講座の生徒たちに見せる程でした。

元記事のテキストとは若干構成を変えています。元記事では1990年10月3日の記事が、1989年10月2日1989年10月4日の間にあるのですが、私はテレビやラジオなどを通じて、その熱気と興奮をリアルタイムに伝え聞いており、また、ベルリンの壁崩壊はドイツ再統一の道程にある出来事だったことから、完全に時系列に合わせた方がより自然に思えました。

 

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