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国泥棒の見本
一
南北アメリカの間の、大西洋に面して、メキシコ湾の口から東に延びた、西インド諸島というのがある。アメリカ、デンマーク、イギリスなどに属する群島であるが、その中にひとつ、ハイチという独立国がある。それが、最近、欧州戦争のさ中に、火事泥的に、アメリカに泥棒された。
ハイチは建国百十一年の、西半球ではアメリカに次ぐ、古い共和国である。そしてその建国と同時に奴隷を廃止した。ある意味ではアメリカよりも五十年古い自由の国である。どこの国にも何の害をするんでもない。小さな、平和な国だったのだ。それが、何のもっともらしい理由もなしに、勝手極まる、残忍な、武力的征服の犠牲になってしまったのだ。
二
一九一○年、と言えば、十一年前のことだ。アメリカはハイチの国立銀行に投資して、そろそろとこの国の財政的支配を謀りはじめた。
それはまず、何か事のあるたびに、この銀行から政府に、いろいろと難題を持ちかけさせて、その財政をくずして行くことであった。そしていい加減その財政を乱れさせて置いて、やれ関税同盟を結ぼうの、攻守同盟を結ぼうのと言って、ていよく保護国にしてしまうさんだんであった。
一九一四年十二月には、ある条約を迫って来る前日、白昼国立銀行の金庫を持ち出して、紙幣償還基金の五十万ドルをアメリカの軍艦に運びこんだりさえした。こうして財源を奪い取って置いて、言うことを聞かせようというんだ。
が、それもうまくは行かなかった。
三
一九一五年七月二十七日、ある革命団体によって大統領の官邸が夜襲された。その革命団体というのは、一言で言えば、ハイチ共和国の独立擁護団だ。その翌日、大統領は傷ついて、官邸を棄てて、フランス公使館に逃れた。
その日の朝、この夜襲の間に首府ポルト・オ・プレンスの獄中にある政治犯人等が死刑になった、といううわさが町じゅうに拡がった。それに憤慨した犠牲者等の親戚は、すぐにフランス公使館を襲うて大統領を引きずり出して殺してしまった。
こうした混乱した場面が行われている間、一時は、それを防ぐに足る何の団体も政府もなかった。しかしその間に、掠奪も放火も、また故大統領の外には一人の殺戮も行われなかった。そしてこの革命が済むと、すぐに平和は恢復されて、公安委員会が秩序維持の任に当たることとなった。
四
するとやはりその晩のことだ。アメリカの水兵がどんどん町に上陸して来た。そして驚き呆れているハイチアンどもの武器を取り上げて、何の抵抗もなしに町を占領してしまった。
二週間過ぎた。上陸軍はポルト・オ・プレンスとその附近を完全に占領し、なお他の水兵等は北部カプ・ハイチアン市を占領した。
そしてこうして置いて、八月の十二日に、新しい大統領を選挙させて、それにまたある条約を「修正なし」に受け入れることを迫った。
しかしこの強迫も立派に斥けられてしまった。そしてアメリカ軍は、全国のあらゆる税関を占領してそこのハイチアン官吏を放逐するとともに、ついに九月三日、海軍少将ケパアトンは自らハイチ政府を統御し、かつポルト・オ・プレンスおよびその附近に戒厳令を布くという宣言を出した。
かくしてついにハイチはアメリカに泥棒されてしまったのだ。
五
この事実は、五カ年間厳重な軍政の下に緘口されていたハイチアン自身によって、ついに発表された。すなわち、最近、ハイチ愛国者同盟のアメリカ派遣員によって、三万語の報告文となって国務省および元老院外交委員会に呈出された。
そしてその間アメリカの軍政のいかに残忍を極めたかは、次のただ一事だけによっても十分に推察される。
アメリカの占領以前には、カプ・ハイチエン監獄の囚人の数は、平均して一年五十人を超えることはなかった。そしてその死亡率は滅多に一年四人に達することはなかった。
しかるに、このカプ・ハイチエンの監獄で、一九一九年に、毎日八人の死骸が井戸の中に棄てられた。そして一九一八、一九、二○の三年間に、四千人あまりの囚人が死んでいる。
なおこれと同じような数字が、他のあちこちの監獄にも見出される。
そしてなおその外に、女や子供の殺戮、赤熱した鉄の棒での拷問、水攻め、放火、掠奪、その他あらゆる暴行が駐屯軍の犯罪として数えられている。
これが、正義と自由との権化であるウィルソンの国が、そう言って讚めたたえられていた真最中にやってのけた、国泥棒の立派な見本の一つである。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/osugi01.html#08-2
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