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[私の履歴書]小澤征爾(日経新聞朝刊連載)
(1)指揮者として 多くの人の力が支えに 今、音楽をやれることに感謝
体はふわりと軽かった。舞台の上ではラヴェルのオペラ「こどもと魔法」が進んでいる。舞台下のピットにはサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーがいる。
去年の8月。2年ぶりに、僕が総監督を務める長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮をした。色々と大変なこともあったけど、今ここで仲間と音楽をやれている。何とも言えない喜びがどんどん湧き出てきた。音楽家になってよかった。
いつも先のことばかり考えてきた。今日音楽会でやった曲のことは終わった後にすぐ忘れないと、次の曲に入っていけない。目の前のことに集中するには、それ以外のことはすべて忘れることだ。何十年間もそうしているうち、いつの間にか「忘れる技術」が身についていた。だから昔のことを振り返ることもあまりなかった。何せいつも忙しくて、そんな余裕もなかったから。それが変わったのは、病気をしたのをきっかけに時間ができたからかもしれない。
2009年の12月、人間ドックで食道がんが見つかった。摘出手術は無事に成功したが、その新しい体に慣れるのに時間がかかった。音楽監督をしていたウィーン国立歌劇場の仕事もキャンセルしなきゃいけなくなった。体力を取り戻すのに、思いのほか骨が折れた。
それでもいざ指揮台に立てば体調のことなんか全く忘れてしまう。翌年の12月、ニューヨークのカーネギーホールでの復帰公演。サイトウ・キネン・オーケストラとベルリオーズの「幻想交響曲」を演奏した後、楽屋に戻った途端に意識を失った。
3日後、ブリテンの「戦争レクイエム」を何とかやり通したが、肺炎を引き起こしてしまった。その後も体の不調で指揮をキャンセルすることがたびたびあって、とうとう12年3月から1年間、休養に専念するはめになった。たくさんの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なくて気持ちが沈んだ。
でも悪いことばかりではなかった。おかげで音楽を勉強する時間がうんとできた。友人の村上春樹さんと音楽についてじっくり話す機会にも恵まれた。昔のことを思い出すゆとりもできた。
家族や親しい仲間と昔話をしていると、思い出が次から次へとあふれてくる。音楽との出合い。最初はピアニストを目指していたこと。なんで指揮者になろうとしたのか。恩師・斎藤秀雄先生のこと。若い頃に運良く海外へ行けて、そこでも素晴らしい先生たちに巡り合えたこと。いろんな人の応援。
ずいぶん多くの人に助けられてきた。改めて気付いた僕はお世話になった人たちに感謝したくなって、久しぶりに電話したり、会いに行ったりした。
だいたい指揮者という商売は、自分一人ではどんな音だって出せない。演奏家や歌い手がいて初めて音楽が生まれる。宿命的に人の力がいるのだ。
どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」なのかもしれない。それにはまず生まれた時のことから順に追っていくのが良さそうだ。このごろ物忘れがひどくて、よく「アレアレ」「ホラホラ」なんて言っている僕でも、子供のころのことは鮮やかに覚えている。
(指揮者)
[日経新聞1月1日朝刊]
(2)満州生まれ 饅頭ほおばり始まる朝 家族での賛美歌、長兄が伴奏
僕は1935年9月1日、今の中国瀋陽市、旧満州国奉天に生まれた。おやじの開作は山梨県西八代郡高田村の生まれだ。東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、僕が生まれた頃にはもうやめていた。当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。おやじは百姓の息子なので、田植えでは村中が団結して、協力し合わなければならないことを体験していたからである。
満州青年連盟長春支部長を務めていた時に関東軍作戦参謀の石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、やがて親しく交わる。二人の名前から一字ずつもらい僕に「征爾」と名付けた。おふくろのさくらによれば、出生の知らせを聞いた時にちょうど二人と一緒にいたらしい。子供のころは書けなくてよく「征雨」と間違えたものだ。
おやじが新しい政治団体「新民会」を作るというので、僕たち一家は翌年、中国・北京の新開路に引っ越す。落ち着いた先は胡同(フートン)の中にある四合院造りの屋敷。中庭を取り囲むように建物が立ち、立派な門の両脇には狛犬(こまいぬ)がいた。
うちは男ばかり4人兄弟で、上から克己、俊夫、僕、幹雄(あだ名はポン)の順だ。北京の家にいたのは両親と僕たち兄弟のほか、おやじの郷里から呼び寄せた2人のお手伝いさん、中国人のお手伝いの李さん一家。「新民会」の青年たちもしじゅう出入りしていた。おやじは彼らを中国のあちこちへ派遣し、貧しい農村があれば懸命に手助けをした。なかには内地で何年も牢獄(ろうごく)に入っていたような元共産主義者もいて、うちには朝から晩まで憲兵が張り付いていた。
小山さんというその憲兵は丸顔のかわいい人で、兄貴たちとチャンバラごっこで遊んでいた。おふくろは人を分け隔てしないタチだから、食事になると小山さんも呼んで一緒に円卓を囲む。そのうちすっかり仲良くなり、しまいにはうちにいたお手伝いのきよじさんと結婚した。
幼い僕の好物は中国の蒸しパン、饅頭(マントウ)。朝は「要幾個(ヤオジーガ)饅頭(饅頭いくついるかね)ー」という饅頭売りのラッパと声で目を覚ました。朝飯はいつもほかほかの饅頭だ。中庭にゴザをしいて、みんなで頬張った。兄貴たちが学校へ行くと、うちで李さんの娘の亜林(ヤーレン)とばかり遊んでいた。一度、一人で門の外へ出たら、自転車にひかれて目の上を切ってしまった。全く間抜けな話だ。その傷は今も残っている。
北京の冬の思い出はなんと言ってもスケートだ。中庭に水をまいて凍らせて、みんなで滑る。最初は兄貴たちの手につかまっていたのが、すぐに上手になった。北海公園や中南海の池でもよく滑った。
日曜になるとクリスチャンのおふくろに連れられて教会で賛美歌を歌う。家でもみんなで合唱だ。おふくろが歌うとどういうわけか少しずつ調子が上ずっていく。合わせるのが大変だった。
5歳のクリスマス。おふくろが大雪の中、大通りの王府井(ワンフーチン)まで行き、アコーディオンを買ってきた。克己兄貴はみるみるうちに上達し、僕らの合唱の伴奏をするようになった。僕と音楽の出合いだ。
(指揮者)
[日経新聞1月3日朝刊]
(3)敗戦の日 父から「好きなことやれ」 空襲警報気にかけず、間一髪
おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。1940年には言論雑誌「華北評論」を創刊する。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。
「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。
住まいは東京の西、立川市の柴崎町。若草幼稚園に1年間通った後、42年に柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。次第に軍の圧力は強まり、43年、おやじは追放されるように日本に帰ってきた。
だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。
45年8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」
敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学4年生の夏のことだ。
(指揮者)
[日経新聞1月4日朝刊]
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