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「解放者」を過度に崇拝 第18回 マッカーサーを抱きしめて(昭和) 「寛大」な敵将に民主主義を実感
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投稿者 あっしら 日時 2013 年 12 月 31 日 19:15:43: Mo7ApAlflbQ6s
 


[熱風の日本史]「解放者」を過度に崇拝
第18回 マッカーサーを抱きしめて(昭和) 「寛大」な敵将に民主主義を実感

 第2次大戦後、6年半に及んだ日本占領は史上もっとも成功したといわれている。戦後日本の骨格をつくり上げた占領期の数々の改革は、マッカーサーという強烈な個性の存在なくしてはありえなかった。日本人は「解放者」として彼に感謝し「慈父」としてあがめた。敗戦という屈辱を支配者ともども「抱きしめる」ことで日本の戦後は始まった。


 いざ来いニミッツ、マッカーサー
 出て来りゃ地獄へ逆落とし

 1944(昭和19)年12月につくられた軍歌「比島決戦の歌」の一節だ。戦争末期のフィリピンでの戦いの間、太平洋戦域の米海陸軍司令官への敵意むき出しの歌がラジオで流された。
 それから約9カ月後の45年8月30日、「憎っくき敵将」が日本占領統治の最高司令官として神奈川県の厚木飛行場に降り立った。まったくの丸腰である。サングラスにコーンパイプ。「バターン号」のタラップから傲然と周囲を見わたす姿は、まさに支配者であった。
 降伏したとはいえ、関東平野には完全武装の日本軍約30万人がいた。「それは並々ならぬ勇気のいる行為であった。(略)占領軍総司令官が、圧倒的な兵力がまだ武装解除されていない敵地に、このようなかたちで乗り込むのは前代未聞であった。だがそれこそがマッカーサーのスタイルであった」(袖井林二郎『マッカーサーの二千日』)
□   □
 マッカーサーは「尊大な態度のほうがアジア人にはかえって、感銘をあたえるという考え方で演技していた」(シドニー・メイヤー『マッカーサー』)という。
 「マッカーサーは『東洋の精神』は『勝者へのへつらい』になりがちであり、したがって、日本に民主主義が根づくかどうかは、自分の言葉を日本人が信じるかどうかにかかっていると考えていた。事実、最高司令官は偉大であり、それゆえ民主主義も偉大なのだというのが大多数の日本人の反応であった」(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』)

 占領開始後にマッカーサーは「敗戦の結果、日本は4等国に転落した」と言い放った。「4等国」は意気消沈した日本人が自己卑下する流行語になる。
 だが、マッカーサーは怖い「カミナリおやじ」と「慈悲深い父親」の両面を演じた。45年9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で行われた降伏文書調印式で、マッカーサーは「自由、寛容、正義」の実現こそが自分の望みであり、人類の希望であると演説した。
 調印式に立ち会った外交官の加瀬俊一はこの演説にすっかり魅了された。「何と心をうつ雄弁であり、何と気高い理想であろう。(略)最悪の侮辱を覚悟していた私は本当に驚いた。私はただただ感動した」(『ミズリー号への道程』)
 戦時中、もし負ければ「男は奴隷、女は売春婦にされる」と吹き込まれ、戦々恐々としていた日本人は、占領軍の意外な「寛大さ」に驚いた。
□   □
 作家の司馬遼太郎は「日本民族は参謀肩章をつっている軍部の人間に占領されていたわけですね。(略)戦後、アメリカ軍がなるほど占領にやってきたけれども、その占領のほうがやや軟弱なる占領であって、その前の占領のほうがきつかったという感じ。(略)戦後社会を見たときに、これが初めて日本人がもった暮らしやすい社会なんじゃないかという感じがしましたですね」(『戦争と国土 司馬遼太郎対話選集6』)と語っている。
 マッカーサーは五大改革(女性の解放、労働者の団結権の保障、教育の民主化、秘密警察の廃止、経済の民主化)を指令。婦人参政権、労働組合法の成立、農地改革などにつながった。
 「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた」(『マッカーサー回想記』)ゆえに可能だった改革だが、決して与えられたものではなかった。これらの改革は戦前から日本人自身が要求していたものだった。急進さゆえに、日本人は当初、マッカーサーが頑強な反共主義者だと気づかなかった。
 ロイター通信員として日本に滞在していたデービッド・コンデは「“ひとりよがり”で“傲慢”なマッカーサーが、リベラルな、あるいは民主的な改革者ではありえない」といい、「積極的な改革政策がすでにルーズベルト政権によって用意されており、日本の政治、軍事、経済などあらゆる面の大変革と、民主政治の実現が約束されていた」(『朝日ジャーナル』1965年8月15日号)と述べている。
 著名なジャーナリスト、ジョン・ガンサーは「このはかりしれぬエゴから、自信、磁力、部下に絶対的な献身を起きさせる能力、といった彼の最も有用な性格が生まれてくるのだ」(「太平洋のシーザー」)と書いた。
 マッカーサーの磁力により、日本人は自発的に「絶対的な献身」をささげるようになる。

手紙は50万通 12歳発言に幻滅

 「勝者へのへつらい」の代表例として挙げられるのが、作家・久米正雄の「日本米州論」(50〈昭和25〉年)だ。久米は「日本は講和などして独立を望むよりは、合衆国に併合されてアメリカの第四十九州となる方が本当の幸福」と書いた。

 久米ほど極端ではないが、マッカーサーにこびるような振る舞いは数多く見られた。マッカーサー元帥杯と冠したテニス・卓球大会、全国各地からの感謝状、マッカーサー礼賛の書籍――。

 「こうした人が最高司令官なればこそアメリカは勝つたのだと、今更の様に思ひ、又、この様な人物を、日本管理の最高司令官として、日本に迎へたことは、日本の将来にとつてどんなに幸福な事であろうか」(山崎一芳『マッカーサー元帥』、45年12月)

 「マッカーサーげんすいに おれいの はなたば あげましょう。あんな おいしい チョコレート、わたくしたちは はじめて です。どんなに みんなが よろこんで たのしく それを いただいたか」(絵本『マッカーサー元帥』、47年5月)
□   □
 そして、日本占領のもっとも特異な現象といえるのが、国民がマッカーサーに送った手紙だった。それは占領開始直後から届き出し、45(昭和20)年10月下旬の新聞には約100通に達したと報じられている。
 最終的に手紙の数は推定約50万通という途方もない数に上った。占領軍は翻訳通訳部隊(ATIS)を使い、すべての手紙を読み、重要と考えられたものは英訳された。マッカーサー自身、かなりの数を読んだ。
 このうち約3500通が米国バージニア州・ノーフォークのマッカーサー記念館に収められており、80年代に政治学者・袖井林二郎氏の調査によって、その内容が明らかになった。

 〈勝者を礼賛〉
 「謹テ マッカーサー元帥ノ万歳ヲ三唱」「日本を米国の属国に」「哀れなる日本を根本から救って下さい」

 〈天皇に関するもの〉
 「天皇陛下ハ我等日本人ノ生命デアリマス」「天皇陛下をさいばんしてはいけません」

 〈「やさしい父親」としての期待〉
 「マッカーサー夫人の家政婦にしてほしい」「元帥の子どもが生みたい」

 〈贈り物の申し出〉
 梨、リンゴ、マツタケ、餅などの食べ物や毛皮、太刀、肖像画。銅像建立や土地の提供まで。

 このほか、「米軍は半永久的に駐留して欲しい」という「提言」もあった。

 GHQ(連合国軍総司令部)本部として接収された第一生命館(現第一生命日比谷本社)6階にはマッカーサーの執務室が保存されている。クルミ材の壁、カーペット、机、椅子は当時のままだ。机に引き出しがなく、机上に書類をためなかった。
 マッカーサーは日本在任中、1日も休まず執務した。忙しさの原因はこの部屋で手紙を読むことだったといわれている。手紙は日本人の感情を理解し、占領政策に生かすための重要な資料だった。同時に自分を褒めたたえる手紙はマッカーサーの虚栄心を満足させた。
□   □
 占領期間中、毎年元日の新聞1面トップは「日本国民へ」と題し、日本人に教え諭すようなマッカーサーの年頭の辞と決まっていた。1月26日の誕生日には写真入りで記事が掲載された。まるで天皇だった。
 その「在世」は51(昭和26)年4月11日、トルーマン大統領による解任で突如終わることになる。日本人は「マッカーサーより偉い人がいる」ことに驚き、民主主義の文民統制を知る。彼は4月16日に慌ただしく日本を去った。「偉大なる父」のため、終身の「名誉国民」や記念館建設が検討された。
 しかし、同年5月5日、米議会上院軍事・外交合同委員会聴聞会でマッカーサーが「日本人は現代文明の基準で計った場合は12歳の少年のようなもの」と発言したことが怒りを買い、すべては雲散霧消した。日本人とマッカーサーの「抱擁」はあっけなく終わった。
(編集委員 井上亮)

 一つにまとまれるということは、長所であり短所でもある。近現代の「熱風現象」のなかに、日本人の自画像が見える。次回は「未来都市へ“民族大移動”(昭和)」です。

<遠見卓見>傲岸不遜が頼もしく映る 袖井林二郎

 マッカーサーが日本占領の最高責任者になったのは歴史の狡知(こうち)であり、天の配剤だった。彼のような個性でなければ、占領はあれほどスムーズにはいかなかった。傲岸不遜で超然としていたところが、かえって日本人には男らしさ、頼もしさに見えた。当時の日本の男たちは敗戦でぺしゃんこだったから。

 ドイツの例も少し調べてみたことがあるが、征服者に50万もの“ファンレター”を出したのは日本人だけだ。島国で逃げ場がないから、強者にこびて生きていく習性が身についているのかもしれない。
 自尊心の強いマッカーサーは、自分をたたえる手紙にまんざらでもなかっただろう。彼が1日も休みなく働いていた時間のかなりの部分は、手紙を読むことに費やされていたと思う。

(法政大学名誉教授)

<余聞>自由の女神大の銅像計画

 日本の戦後に絶大な影響を与えた人物にもかかわらず、「12歳発言」のせいか、マッカーサーを記念する施設、碑などは国内にほとんどない。記念館のほか、東京湾の「マッカーサー灯台」や浜離宮のなかにニューヨークの自由の女神と同じ大きさの銅像を建てる計画があったが、すべて実現しなかった。
 数少ない「記念物」として、米軍厚木基地に銅像、和歌山県美里町の泉福寺に「マッカーサー元帥顕彰之碑」(1967年建立)がある。また、1949年に造られた胸像のレプリカが第一生命日比谷本社のマッカーサー記念室にある。

[日経新聞12月29日朝刊P.13]

 

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コメント
 
01. 2014年1月31日 00:40:15 : 2D6PkBxKqI
マッカーサーは昭和天皇から巨額のワイロを貰ったという噂だね

昭和天皇との会見記もすべて創作だったしね。


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