★阿修羅♪ > 近代史02 > 783.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
昭和史最大の謎・近衛上奏文 (闇株新聞)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/783.html
投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 11 月 08 日 14:41:32: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-512.html 2012年07月17日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-513.html 2012年07月18日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-514.html 2012年07月19日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-518.html 2012年07月24日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-523.html 2012年07月30日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-524.html 2012年07月31日
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-536.html 2012年08月15日


=転載開始=

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その1

 久々に「歴史もの」を書きます。三連休で、あまり旬の話題がないこともあるのですが、終戦記念日(8月15日)までに何回か「戦争」について書こうと思っていたからです。

 その理由は、当時の戦争に突き進んでいった状況と今日の混沌とした政治の状況が、少なくとも世界の情勢を正しく理解せずに矮小な動機で動いているという点では、全く同じだと思うからです。

 以前も書いたような気がするのですが、日本史には「嘘」がたくさんあります。「嘘」を信じ込まされているだけでなく、「大変重要な歴史的事実」が全く無視されていることも多いのです。

 だから日本史は「疑うことから」始まるのです。

 本日はその1つの近衛上奏文についてです。わずか67年前のことです。

 近衛文麿は五摂家(注)筆頭の近衛家の第30代当主で、1937年〜1941年の間に3度首相の座に就き、在任中に大政翼賛会の設立、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結などを行ない、戦争の開始と深刻化に大きな責任があったと言えます。終戦直後の1945年12月に自殺しています。

(注)藤原不比等の次男・房前(ふささき)を祖とする藤原北家の流れを引く近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家で、摂政・関白の座を独占していました(唯一の例外が豊臣秀吉)。

 その近衛文麿が、敗戦が濃厚となった1945年2月14日に昭和天皇に上奏したのが近衛上奏文です。近衛のみが昭和天皇に上奏したわけではなく、7名の首相経験者らが別々に昭和天皇に上奏しているのですが、この近衛の上奏文だけが「謎」とされているのです。「謎」というより、ほとんど真面目なものとして扱われていないのです。

 その内容を原文のまま引用しても理解しにくいので、現代文で抜粋だけを書きます。

 「敗戦はもはや避けられない。しかし米英の世論は天皇制の廃止にまでは至っていないため、今のうちに米英と講和するべきである。敗戦によっても国体は維持できるが、それより敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきである。軍人の中にも共産主義が受け入れられる恐れが強くなっている」

 「思えば、満州事変、支那事変(日中戦争)そして大東亜戦争(日米戦争)まで引き起こしてしまったのは、日本の革新を目的とする軍の一味の陰謀である。その一味の目的は共産革命とまでは断言できないものの、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援している」

「戦争終結のためには、この軍の一味が障害となり、その一味を取り除けば軍部を利用していた共産主義者を抑えることが出来る」

 そして「取り除くべき軍の一味」として数名の実名を挙げています。

 五摂家筆頭の近衛家当主の文麿は、確かに「お坊ちゃん」で考えが甘いところがあり、日本を無謀な戦争に追い込んだ責任は重大なのですが、3度目の首相を辞任して3年以上が経過しており(後任が東条英機)、いろいろ考えるところがあったはずです。

 特に自らのブレーンであった尾崎秀美(ほつみ)が、共産主義の国際組織・コミンテルンのスパイとして1941年にリヒャルト・ゾルゲなどと共に逮捕されているのです。

 しかし文麿は、昭和天皇と対等に口がきける唯一の存在であり、この期に及んで「いいわけ」「きれいごと」などを並べる必要は全くなく、誠の本心を昭和天皇に話したと考えられます。また文麿の地位で知り得た「真実に近いもの」だとも考えられます。

 しかしこれに対する昭和天皇の返答は「もう一度、戦果をあげてからでないと、なかなか話しは難しいと思う」と否定的でした。戦争続行となったのです。

 先程、日本史は「疑うことから」始まると書きましたが、ここで一連の戦争(2.26事件、満州事変、支那事変、大東亜戦争)は共産主義の意を受けた軍の一味の「陰謀」だったのか?と「疑ってみたい」と思います。

 さらに本当の目的は、当時の「間違い」を検証することによって、今日の「もっと大きな間違い」を見つけることです。

 いろんな話題の合間をぬって何回かに分けて書いていくことにします。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その2

 昨日の続きです。まず「共産主義」について詳しく考える必要があります。「共産主義」と「社会主義」の違いから書くと長くなるので、取り敢えず「同じような意味」として読んでください。

 1917年に第一次世界大戦で疲弊したロシアに、レーニンが指揮するボリシュヴィキ(ロシア社会民主労働党・後のソヴィエト共産党)による歴史上初めての社会主義国家が誕生しました。

 1919年には、世界各国の革命勢力を結集して「世界革命」を目指す「コミンテルン」が結成されたのですが、1924年にレーニンが死ぬと「一国社会主義」を主張するスターリンが「世界革命」を目指すトロツキーを退けて独裁体制を確立しました。

 その過程でコミンテルンの役割も、スターリン独裁のソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の「世界における勢力拡大」のためと目的を変質していきました。

 コミンテルンは、世界中で共産主義(途中からソ連)のために積極的なスパイ活動を繰り広げていました。例えば第二次世界大戦直前の米国ルーズベルト政権の中には300人ものコミンテルンのスパイが潜入しており、その中には米国財務次官補で日本を日米開戦に追い込んだハル・ノートを実質的に執筆し、戦後のブレトンウッズ体制の枠組みを作ったハリー・デクスター・ホワイトの名前もあることが、米国公文書で機密解除されているVenona Fileにはっきりと書かれています。

 米国政権の中枢に300人ものスパイを送り込んでいたのですから、第二次世界大戦においてドイツと日本の「挟み撃ち」にあうことを懸念していたスターリンにとって日本政府および日本軍の情報は非常に重要だったはずで、日本でスパイ活動をしていたのがゾルゲら数人しかいなかったということは「絶対に」無いはずですが、この辺は後で詳しく検証します。

 そういえば日本共産党は1922年に結成された、れっきとしたコミンテルンの日本支部です。現在の日本共産党は発達した資本主義国の中では世界最大の組織で、15名の国会議員、2760名の地方議員、11名の地方自治体首長がいます。

 この現状をどうこう言うつもりはないのですが、当時の日本共産党が(確かに非合法組織ではあったものの)日本政府・日本軍に対して積極的なスパイ活動をしていた形跡がほとんどありません。それどころか野坂参三や伊藤律ら当時の幹部は、保身と出世のために共産党員の仲間を売る「スパイ活動」に熱心だったようです。

 話を戻しますが、「共産主義」の世界戦略を理解する重要なヒントに、レーニンの「革命的祖国敗北主義」があります。これは「祖国の敗戦」という国難が「共産主義による革命」を引き起こすものとする考えで、まさにレーニンのロシア革命こそが第一次世界停戦で疲弊したロシアの国内事情により成功したと言えるのです。

 そう考えると中国でも(最終的には日本の敗戦で終了したものの)疲弊しきった中国を支配した毛沢東率いる中国共産党は、実は蒋介石率いる中国国民軍が日本軍と戦っている間、ほとんど逃げ回っていただけなのです(長征などと言われています)。しかし戦後の中国をしっかりと現在に至るまで支配しているのは中国共産党なのです。

 要するに共産主義とは、そのイデオロギー的なものにあまり意味がなく、また人民のために役だったのかどうかはもっと関係なく、スターリンや毛沢東のような独裁者にとって戦争などで貧困と困難にあえぐ人民からさらに搾取を続けるための「都合の良い殺し文句」なのです。

 しかしこの「都合に良い殺し文句」で日本が泥沼の戦争・敗戦に追い込まれた形跡は確かに存在し、それに気づいた近衛文麿が昭和天皇に「共産主義を利するだけ」と停戦を説いたのが「近衛上奏文」なのです。

 昭和天皇が「もう一度、戦果を挙げてからでなければ難しい」と戦争を続行させたのは、いずれ降伏することになっても、米英にもう一度打撃を与えることによって戦後の交渉を優位に進められるという東条英機(注)らの「多数意見」を取り入れたためです。

(注)近衛文麿の上奏と前後して、7名の首相経験者らが昭和天皇に上奏しています。最後に上奏した東条英機はその時はすでに首相を辞任していました。

 さて、これからは日本政府と日本軍の具体的行動を順番に捉えながら、背後に「共産主義」の影が無かったかを検証していくことにします。1928年の「張作霖爆殺事件」、満州事変のきっかけとなった1931年の「柳条湖事件」、1932年の溥儀擁立による「満州国建設」、1936年の「2.26事件」、支那事変(日中戦争)のきっかけとなった1937年の「盧溝橋事件」、1940年の「日独伊三国同盟」、1941年の「日ソ中立条約」、そして同年12月の「真珠湾攻撃」の順に、少し丁寧に見ていくことにします。

 続きますが、途中タイムリーな話題があれば中断します。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その3

 本日は、日本が中国と戦闘状態に陥るきっかけとなった3つの事件についてです。「張作霖爆殺事件」「柳条湖事件」「盧溝橋事件」の3つですが、それぞれの背景と特に「誰が最もメリットを得たか」をよく考えると、通説とは違ったものが見えてくるのです。

 当時の中国では1912年に宣統帝(溥儀)が退位して清朝が滅亡します。その後の中国は辛亥革命(1911年)で成立した中国国民党による中華民国政府(最初は孫文、1926年から蒋介石が率いる)と、各地域を制圧した軍閥が割拠するバラバラの状態でした。

 一方日本は1905年のポーツマス条約で、ロシアが満州に敷設していた鉄道(満鉄)を譲り受け、その「満鉄」を中心に南満州に権益を拡大しており、民間日本人の入植も始まっていました。ただその当時は、満州そのものを日本の領土にする考えはありませんでした。また当初「満鉄」の鉄道警備のために派遣されていた師団が増員されて1919年に「関東軍」となります。

 当時の満州は馬賊から一代で奉天軍閥にのし上がった張作霖が支配しており、そこへ蒋介石の国民軍が中国の統一を目指して「北伐」を繰り返していました。

「張作霖爆殺事件」とは、その張作霖が1928年6月4日未明に奉天駅近くで列車もろとも爆破されて死亡した事件です。

 通説では、満州における支配力を強めたい関東軍が「邪魔になった」張作霖を殺害したとされており、確かに張作霖が「満鉄」と平行する路線を建設して「満鉄」の利益を損ねていたことは事実です。

 しかし当時の満州は、北を「スターリン率いるソビエト軍」、南を「蒋介石率いる中国国民軍」に挟まれており、もっと南にはコミンテルンに支援された「毛沢東率いる中国共産軍」がいて中国国民軍と対立しており、非常に複雑な状況でした。

 張作霖は、中国国民党に対しても共産党(ソビエト共産党・コミンテルン・中国共産党)に対しても敵対しており(注)、日本にとっては「味方」とまでは言えなくとも「唯一、敵ではない実力者」だったはずです。事実、張作霖の後を継いだ息子の張学良は国民党に入党し、排日運動の急先鋒となります。つまり日本にとって「張作霖を爆殺するメリット」があったとは言い難いのです。

(注)張作霖は1927年に北京のソ連大使館を捜索し、スパイ活動をしていた共産党員80名を逮捕しました。これは地盤の満州が共産化しないためなのですが、少なくとも張作霖は共産党にとって敵だったはずです。

 2005年に出版されたユン・チアン著の「マオ」には、「日本軍の仕業に見せたソ連情報機関の実行」とはっきりと書かれています。

 しかしこの事件の直後に石原莞爾作戦主任参謀が「関東軍」に着任し、本格的に満州支配の強化・満州国建設へと進んで行きます。その満州に対する軍事行動(満州事変)のきっかけとなったのが1931年9月18日の「柳条湖事件」です。

 これは満州・奉天近郊の柳条湖付近で、満鉄の線路が「中国側」によって爆破されとして、関東軍が一気に奉天・長春・吉林・錦州ら満州主要都市を攻撃したのですが、これはさすがに通説通り「関東軍」の自作自演です。なぜなら間髪を入れずに軍事行動を起こしているからです。

 わずか1万数千人の「関東軍」で23万人の張学良軍を数日間で制圧したのです。これこそ日本陸軍の軍令(軍の作戦行動)最大の天才と言われた石原莞爾の戦果です。この石原と、同じく軍政(軍の行政組織管理)最大の天才と言われた永田鉄山については、昨年8月15日付け「永田鉄山と石原莞爾 日本陸軍・二人の天才」に書いてあります。

 石原は、当時から「米国との開戦は避けられない」と考えていたのですが、かといって満州を単に資源確保のために「植民地」にするつもりもなく、あくまでも日本と対等な同盟国としたかったようです。

 そして1932年に満州国が成立して清国最後の皇帝の溥儀が執政(1934年から皇帝)となるのですが、1937年7月7日に日中全面戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」が起こります。

 これは北京郊外の盧溝橋で演習中(中国側には通告済み)の日本軍に何者かが発砲したもので、これをきっかけに日本軍と中国国民軍が銃撃戦になり、そこから中国との全面戦争となるのですが、そもそも最初の発砲が誰によるものかが分かりません。

 これも日本軍と中国国民軍とが全面戦争になり、双方が疲弊することにより最もメリットを受けるのが毛沢東の中国共産軍とスターリンのコミンテルンのはずです。事実、終戦後に中国を支配したのは、日本軍と戦った蒋介石ではなく共産党の毛沢東なのです。

 つまりこれら3つに事件のうち、少なくとも「張作霖爆殺事件」と「盧溝橋事件」の2つは、スターリンの意を受けたコミンテルンの「陰謀」だったはずです。これによって日本は抜き差しさらない日中全面戦争に突入してしまい、その後の選択肢を狭めてしまったのです。

 次回は「2.26事件」を中心に、日本及び日本軍が直接「共産主義」に影響されていたかどうかを検証します。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その4

 しばらく中断していましたが続けます。前回の7月19日付け「同、その3」の中で「張作霖爆殺事件」は、関東軍の仕業に見せかけたコミンテルンの犯行の可能性が強いと書いたところ、いくつか異論を含むコメントを頂きました。

 日本が満州事変・支那事変(日中戦争)・大東亜戦争(日米戦争)と引きずり込まれていった最初のきっかけがこの「張作霖爆殺事件」であり、ここから日本の運命が大きく暗転し始めたのです。そこで、もしこれが通説(関東軍の仕業)通りではなかったとすると、その後の「景色」が大きく違ってくると思うのです。

 このシリーズは、あくまでも通史のつもりだったのですが、これだけはもう一度詳しく検証してみます。もちろん「客観的状況」だけを積み上げて書いていきます。

 現場写真です。上が事故直後の写真(そもそも何でこんな事故直後の写真があるのかも不思議なのですが)、真ん中は少し角度が違うのですが煙も無く鮮明な写真、下が爆破された車両の写真(張作霖が乗っていた車両だとされています)です。

 真ん中の写真で解説しますと、写真の真ん中下部の線路が張作霖を乗せていた北京からの線路(中国の京奉線)で、上の方に見えるのが満鉄の線路です。爆薬はこの2つの線路が交差するところの満鉄の(高架になっている)橋脚に仕掛けられていたとされており、満鉄の橋脚が大きく破損しているのが分かります。下の写真では車両の天井部分が大破しおり、列車より高い(橋脚の)部分に爆薬が仕掛けられていたことになります。

 素朴に思うのは「なぜこんな難易度の高い爆殺方法を選んだのだろう?」です。張作霖を乗せた車両は20両の特別仕立てで、張作霖の座席は特定できていたとしても「必ずそこを通過するときに座っているとは限らない」からです。それよりも走っている列車(奉天駅に近づいているのでスピードは落ちていたはずですが)をピンポイントで爆破して、そこに座っている(だろう)特定の人間を爆殺するのは非常に難しいはずです。

 実は張作霖の席のすぐ近くに、日本陸軍参謀本部付で張作霖軍事顧問の儀我誠也少佐が座っていたのですが「かすり傷」だったようです。これは伝聞なのであくまでもご参考ですが、儀我少佐は事故直後に「張作霖も私もかすり傷で、張作霖は車で自宅に帰った」と報告しています。この時代に車が「都合よく」近くにあったというのも不思議で、張作霖は帰宅後あるいは帰宅中に殺された可能性もあるのです。

 事件が関東軍の仕業とされる最大の根拠が、昭和天皇の激怒と田中義一内閣の総辞職です。しかしこれは田中首相が事件直後に昭和天皇に「首謀者河本らを処罰し遺憾の意を表する」と上奏しておきながら1年も放っておき、再々のご下問に対し「うやむやの中に葬りたい」と答えたので昭和天皇が激怒したのです。

 従って田中内閣の総辞職は事件から1年もたった1929年6月(事件は1928年6月4日早朝)であり、昭和天皇激怒の理由は「関東軍の暴挙」ではなく「田中首相の優柔不断」だったのです。

 首謀者とされる河本大作大佐ですが、自ら書いたとされる「私が張作霖を爆殺した(文芸春秋・1954年12月号)は、実は河本の義弟・平野零児の作で、河本本人の口述であるかどうかが全く確認できません。

 なぜなら河本大作は事件後に更迭されて(予備役に編入されるも軍法会議にはかけられていません)退役し、何と満鉄理事(大変なエリートです)に就任し、その後は国策会社の山西産業株式会社社長となり、終戦後も中国で生活していたのです。

 そして戦後は中国国民党に協力して中国共産党と戦い、1949年に中国共産党の捕虜となり戦犯収容所で1955年に亡くなっています。客観的に考えて日本のマスコミに記事もしくは口述を与える機会は無かったはずです。

 最後に、河本主犯説を決定づけたのが東京裁判における検察側証人の田中隆吉・陸軍少将の証言です。田中隆吉は数々の謀略に加担しており(川島芳子を籠絡したのも含め)、ゾルゲとも交流があり一番コミンテルンに近かった軍人ですが、自らは戦犯指定を免れています(注)。そして東京裁判では次々に検察側に有利な証言を行い、何人かのA級戦犯の有罪判決に「決定的な影響を与えた」人物です。

 この田中証言が戦後において「決定的証拠」とされているのです。

 以上から本誌は「確かに爆薬を仕掛けたのは河本大佐・東宮大尉であるが、これは単なる警告の意味で暗殺の意思はなかった。ところがその情報を何らかの形で入手したコミンテルン(あるいはソビエト特務機関)が、それに乗じて暗殺した」と推測します。


(注)実名は挙げませんが、本誌がコミンテルンに近いと「推測」する軍人は、すべてA級戦犯となっています。その辺はGHQも調査していたはずなので、田中隆吉は「コミンテルンと米軍の二重スパイ」の可能性があります。

 佐藤優氏は評価されているようですが、本誌は「日本陸軍最悪の軍人」だと思います。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その5

 少し間が空きましたが、本日は「2.26事件」についてです。

 1936年2月26日未明、日本陸軍・皇道派(後述)の青年将校らが1483名の兵を率い「昭和維新・尊王討奸」を掲げて元老重臣を殺害して天皇親政を実現しようとしたもので、斉藤実・内大臣(元首相)、高橋是清・蔵相、渡辺錠太郎・陸軍教育総監らを殺害しました。

 まずこの時代の日本陸軍は、荒木貞夫や真崎甚三郎を中心として「天皇親政」による国家改造を説く「皇道派」と、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく「国家総力戦体制」を目指す「統制派」に分かれて対立していました。

 精神論が中心の「皇道派」と、理論的に戦略を考える「統制派」の違いなのですが、1935年8月12日に「統制派」の中心人物である永田鉄山・陸軍軍務局長が執務室内で「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。「皇道派」の真崎甚三郎・教育総監が罷免された報復でした。

 つまり「2.26事件」の直前は、「統制派」が一時的に勢いを失い「皇道派」が勢いを取り戻しつつある時期でした。

 しかし「2.26事件」とは「皇道派」の青年将校が皇道派の目指す天皇親政を求めて行動を起こしたものなのですが、かといって「どうして重臣を殺害すれば天皇親政が実現すると考えたのか?」つまり近衛上奏文の言う「共産主義の影響は無かったのか?」と、「そもそも大尉クラスの青年将校が軍(皇軍)を何の権限で動員出来たのか?」つまり「皇道派の上層部が了解もしくは指示を与えていたのではないか?」という2つのポイントに絞って考えてみます。

 まず前者ですが、「昭和維新・尊王討奸」は「皇道派」の基本的な考えで、それが理論的に稚拙すぎることは明らかなのですが、かといって共産主義とも関係がありません。「2.26事件」とは共産党系青年将校の起こした軍事クーデター説が根強いのですが、単に「皇道派の理論」に沿って行動しただけです。

 青年将校に理論的影響を与えたのが国家的社会主義の北一輝であったところから出てきた説ですが、実際にはどの程度の影響力があったのかは疑問です。

 それより問題は後者です。

 確かに2月26日の行動開始は、まさに世界不況の真っただ中で特に農民の悲惨な状況を純粋に打破したかった青年将校の「フライング」ではあるものの、その考え方自体は「皇道派上層部」が日頃常に口に出していたものでした。つまり上層部が「口に出すだけ」だったものを青年将校が「実行」してしまったのです。

 しかし、いざ青年将校が行動を開始してしまうと「皇道派上層部」にはさまざまな思惑が浮かびます。ここでいう「上層部」で特に重要なのが、前述の荒木貞夫(元・陸軍大臣)と真崎甚三郎(元・教育総監)のほか、香椎浩平・東京警備司令官(中将)、山下奉文・陸軍省軍事調査部(少将)の4名です。

 まず、事件発生当日の2月26日の午後(詳しい時間は諸説あり正確には分かりません)、山下奉文が青年将校の代表に「陸軍大臣告示」を読んで聞かせたと「されて」います。

 その内容は(現代文で書きますと)、「君たちの行動は、国体の真の姿を現したものと認める。そのことは天皇陛下の耳にも入っている。軍事参議官(後述)も陸軍大臣もそう思えばこそ、心を新たにして天皇陛下のお気持ちを待つことにする」というものです。

 当然に青年将校は喜ぶのですが、「当たり前のことが確認できた」だけだったはずです。

 ところが、この「陸軍大臣告示」を起草した軍事参議官会議では、最初の「行動」が「真意」となっていたのです。全く意味が違います。つまり「真意」が分かると言っているだけで「行動」を分かったとは言っていないのです。

 ここで軍事参議官会議とは天皇の諮問機関なのですが、当日は諮問されていないため非公式に集まっただけでした。実際は当日早朝に川島義之・陸軍大臣が天皇に状況を報告し「速やかに鎮定せよ」と命じられています。従ってそもそも「陸軍大臣告示」とは何のために作られたのかもはっきりしません(単に「陸軍大臣より」だったとの説もあります)。実際は当日の軍事参議官会議で「皇道派」の荒木・真崎の主導で作成されたのですが、さすがに「行動」ではなく「真意」となっていたのです。

 つまりこの時点で「皇道派首脳」である4名は、とりあえず青年将校の「士気」が下がらないように時間を稼ぎ、その効果を最大限に利用しようとしたのです。その目的とは陸軍首脳を「皇道派」で独占するだけでなく、真崎甚三郎を首相にして維新改造内閣を主導し、(軍事行動を見せつけることによって)天皇も意のままに扱い、その威光を最大限利用して「皇道派が日本を支配する」ことだったのです。

 まさに現在まで続く「官僚組織の考え方」そのものなのですが、その思惑はたった半日で崩れ去ることになり、また新たな「思惑」が始まるのです。

 続きます。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  その6

「2.26事件」の続きです。昨日は青年将校の行動開始を受けた「皇道派首脳部」の思惑について書きました。

 ところが翌2月27日午前3時、早期の鎮定を望む昭和天皇の意向をうけて枢密院が戒厳令を施行し、九段の軍人会館(今の九段会館)に戒厳司令部が設置されます。そして何と青年将校に近い「皇道派」の香椎浩平中将が戒厳司令官に任命されます。

 当然に戒厳司令部の役割は事態の鎮定であり、そのための武力行使も求められるのですが、香椎はなかなか行動を起こしません。表向きの理由は「皇軍相撃」を避けるためですが、ついさっきまで青年将校の行動開始を利用して真崎の首相就任などを含む勢力拡大策を練っていた「皇道派」の中心にいたからです。

 天皇はイライラして遂に「自ら近衛師団を率いて鎮定にあたる」と言い出します。つまり重臣を暗殺すれば天皇親政が始まるという「皇道派の理論」は全くの絵空事だったのです。

 ここに至り荒木・真崎・山下らの「皇道派首脳」は表舞台から消えてしまうのですが、香椎だけは「努力」を続けます。翌28日の午前5時に「反乱軍」に対して「原隊に復帰せよ」との奉勅命令(天皇からの直接命令)が出るのですが、香椎はあくまでも「説得」のためと命令の実施を延期させます(結局は同日正午過ぎに実施)。

 そして翌29日の午前8時半に攻撃開始命令がでて(実際は攻撃されなかった)、午後2時ころまでに兵は原隊に復帰し、主導した青年将校は夕刻までに自決した2名を除き全員が逮捕されました。

 結局「2.26事件」とは、共産主義やコミンテルンの影響は認められないものの、不況による国民(特に農民)の悲惨な生活を打破すべく行動を起こした青年将校によるクーデターだったことは間違いありません。ただその背景となった「皇道派の理論」があまりにも稚拙であり、しかも途中から保身に走った「皇道派首脳」に梯子を外され「反乱軍」のレッテルを貼られたことなどが悲劇でした。

 その裁判は、緊急勅令による特別軍法会議が設置され、一審即決で非公開、弁護人なしという異様なものでした。これには「皇道派」に主導権を奪われていた「統制派」の強烈な反撃という側面もありました。

 判決は民間人の北一輝・西田税を含む18名が死刑判決でした。北とその弟子の西田まで死刑になっているのは、事件の構成上「青年将校に直接影響を与えた」思想的裏付けが必要だったからで、この辺からも共産党青年将校による軍事クーデター説が残るのです。

 「皇道派首脳」の荒木・真崎・香椎は間もなく予備役に編入され、山下奉文は南方戦線に転属となり終戦後にマニラの軍事法廷で死刑となります。「皇道派」は完全に消滅となりました。

 また真崎は事件の「黒幕」として翌1937年1月に軍法会議で起訴されますが無罪となりました。また特別軍事法廷の裁判を担当した匂坂(さきさか)春平・陸軍法務官は、昨日書いた「陸軍大臣告示」の「真意」を「行動」に故意に書き換えたとして香椎浩平の起訴を本気に考えていたようですが、最終的に不起訴になりました。

 その後の日本は、斬殺された永田鉄山を継いだ「統制派」の東条英機が主導することになって行くのです。

 なお青年将校らが立て籠もった赤坂の料亭「幸楽」は、その後ホテル・ニュージャパンが建ち1982年の火災で33名が死亡し、戒厳司令部のあった現在の九段会館は昨年の東日本大震災で天井が崩落して都内唯一の死者(2名)を出しています。あまりこういう表現は使いたくないのですが、何らかの因縁を感じざるを得ません。

 最後に、参考文献を明らかにせよ、とのコメントを頂いていますので書いておきます。

 書物で特に参考にしたのが、松本清張「昭和史発掘」、半藤一利「あの戦争になぜ負けたのか」、保坂正康「仮説の昭和史」上下(最近の出版です)などですが、実は一番参考にしたのが1979年2月26日にNHKで放送されたドキュメンタリー「226事件秘話」で、その後「226事件秘話続編」も放送されています。

 どちらもNHKのライブラリーに入っていますが、ユーチューブにもアップされています。
正直に思うのは「昔のNHKは良い番組を作っていたんだなあ」です。

 この「昭和史最大の謎・近衛上奏文」シリーズは、終戦記念日までにあと3回ほど書き、本誌なりの結論を出そうと思います。

昭和史最大の謎・近衛上奏文  最終回

 2日ほどお休みしてしまいましたが再開いたします。本日(8月15日)は終戦記念日なので、このシリーズの最終回を書くことにします。

 日中戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」直前の1937年6月4日に首相に指名されたのが五摂家筆頭の近衛家当主の文麿でした。本日はこの近衛文麿の戦争責任と、それがどうやって「近衛上奏文」につながっていくのかを考えてみます。

 近衛は首相就任直後から迷走します。日中戦争が始まった直後は中国国民軍との間で何度か停戦交渉がまとまりかけていたのですが、近衛はその都度「北支派兵声明」を独断で新聞発表したり、陸軍から要求も出ていない「北支関連軍事予算」を増額したり、挙句の果てに石原莞爾がセットした蒋介石との首脳会談を直前でキャンセルしてしまいます。

 結果的に日中戦争は泥沼化してしまい、蒋介石の国民軍を米国と英国が支援しているからだとの「反米英感情」が湧き上がり、第一次近衛内閣は1939年1月5日に総辞職します。

 その後を継いだのが大審院検事局検事総長・大審院長(今の最高裁長官、当時は大審院の中に検察庁と裁判所が入っていた)・司法大臣を歴任した平沼騏一郎でした。

 平沼は関東軍がソ連国境のノモンハンで大敗すると、ドイツと軍事協定を結び反共制力を結集して(平沼は国粋主義者)ソ連に対抗しようとしていたのですが、1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると狼狽して辞職してしまいました。
 
 ドイツは独ソ不可侵条約締結直後にポーランドに侵攻し、それを見た英国・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まります。ドイツはたちまちパリを陥落させ各地で快進撃を続けます。そこで日本の中には再びドイツ(イタリアも)と軍事同盟を結ぶべしとの意見が陸軍を中心に盛り上がります。勝ち馬に乗ろうとしたものです。

 そうした中の1940年7月22日に、第二次近衛内閣が発足します。

 そして就任直後の同年9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結されるのですが、これは外相に指名した松岡洋右や陸軍首脳らの「積極推進派」に近衛自身がすっかり影響されてしまったものです。昭和天皇は最後まで乗り気でなかったようです。

 同じ頃にドイツの猛攻に降伏状態となっていたフランスとオランダの植民地・インドシナへ侵攻します。石油などの資源確保のためなのですが、これが米国の対日石油輸出禁止(1941年8月1日)を引き起こして、日米開戦の直接的理由となってしまいます。

 1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻するのですが、日本はその直前の同年4月13日に日ソ中立条約を締結します。まるでソ連が間もなく始まるドイツの侵攻に集中できるように日本が協力したようなタイミングでした。

 1941年9月になると近衛は、日米首脳会談で解決を図ろうとするのですが米国に完全に無視され、また同年10月14日にブレーンの1人だった尾崎秀美(ほつみ)がスパイ容疑でゾルゲとともに逮捕され、10月18日に政権を投げ出します。

 同年11月26日に米国から最後通牒とも言えるハル・ノートが届きます。日本の中国とインドシナからの完全撤退を要求するものでしたが、このハル・ノートの原案はルーズベルト政権に入り込んでいたコミンテルンのスパイのハリー・デクスター・ホワイトが書いたものでした。

 そして東条英機内閣の1941年12月8日に真珠湾攻撃によって日米開戦となります。

 ここで「日中戦争が始まり、かつ泥沼化したこと」「インドシナ侵攻(日本のソ連侵攻がなくなり、かつ米国を刺激した)」「日ソ中立条約(前述)」「日米開戦(米国にドイツと戦争中の英国を助ける口実を与えた)」など、日本の行動はすべてソ連(スターリン)の利益となるもので、そのほとんどが近衛内閣で決定(実質的決定も含む)されているのです。

 それは近衛自身がコミンテルンの影響を受けていたのではなく、近衛の性格が「一貫した信念の欠如」「周囲に影響されやすく思い込みが激しい」「基本的に人望がない」であり、また五摂家筆頭の当主として「昭和天皇の意向も平然と無視する」「自分だけは特別と思っている」という特殊な考え方をしていたからです。

 そして敗戦が避けられなくなった1945年2月14日に「天皇制維持のため、日本の共産化を防ぐ」ために早期の停戦を上奏したのが「近衛上奏文」です。しかしこれもその直前に親しくなった吉田茂の影響がかなりあります。昭和天皇が聞き入れなかった理由は、近衛が陸軍首脳の更迭後の首脳として推薦したのが何と「2.26事件」で表舞台から消えていた「皇道派」の真崎甚三郎だったからです。これも近衛の性格をよく表しています。

 近衛は終戦後もマッカーサーに取り入り、新憲法の構想を伝えたりします。そして恐らく「夢にも予想しなかった」A級戦犯に指定され、1945年12月16日に服毒自殺してしまいます。

 結局「近衛上奏文」とは、自らの数々の「失政」が日本を戦争に向かわせたところを「共産主義にやられた」と言い訳して、さらに終戦後も天皇制と自分はそれなりの立場を維持するための「私案」だったことになります。確かにコミンテルンや共産主義の「影」もあちこちにあるのですが、やはり当時の政権と軍部(特に陸軍)首脳の責任が大きいことになります。

=転載終了=  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2013年11月16日 17:40:15 : oIjRF9fAyw
これはなかなか面白かった、勉強になりました

「日本にとって張作霖を爆殺するメリットがあったとは言い難い」 などは なるほど確かに
頷ける部分は有りますけど ただ結局 何が言いたいのか一貫していない気もします

日本が戦争の道を歩んでいったのが コミンテルンの陰謀と策略だったと言いたいのかと思うと
「確かにコミンテルンや共産主義の「影」もあちこちにあるのですが、やはり当時の政権と
軍部(特に陸軍)首脳の責任が大きいことになります」 と、締めてあるのでは
何を主張されているのか 分かり辛いものも有りますが
主観に左右されず 冷静に客観的に分析されている事は とても参考になりますね。


02. 2013年12月31日 20:37:22 : RxKLbE7qQo
元を正せば、真崎甚三郎が

予備役直前の 東京湾要塞司令官であった
林銑十郎をわが派閥にいれ、手なづけるため
陸軍大学校長という栄職に推薦したということが
大きな誤りであったということでしょうな。
それが、林をして永田鉄山を連れてくることにして
石原莞爾が出てくる。真崎教育総監罷免、そして
226事件が勃発するということですから。

人事の失敗で自ら 引き下がらざるをうなくなったのは
真崎甚三郎。そして、ついには東条英機の登場となって
しまうのですから。


  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト

 次へ  前へ

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧