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公開日: 2013/09/04
『ローザ・ルクセンブルグ』のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督と、主演のバルバラ
http://www.cinematoday.jp/movie/T0015738
配給: セテラ・インターナショナル
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
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映画「ハンナ・アーレント」/ナチス戦犯裁判報告はなぜ非難されたのか
望田幸男
「しんぶん赤旗」 2013年10月22日 日刊紙 文化欄(10面)
映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)が26日に公開される。アーレント(1906〜75年)は、ドイツ系ユダヤ人で著名な哲学者・政治学者。若き日、ハイデッガー(一時期、恋愛関係にあった)、フッサール、ヤスパースなどドイツ現代哲学のパイオニアたちに師事する。ナチスが政権を握ると亡命し、アメリカに行き、戦後は全体主義の研究などで著名となり、プリンストン大学初の女性専任教授に就任する。
普通人のなかに
悪の陳腐さ見る
それからほどなく1960年、戦時中、ユダヤ人虐殺の実行責任者で、逃亡中のアドルフ・アイヒマンが、イスラエル諜報(ちょうほう)機関によって逮捕され、翌年イスラエル法廷で裁かれることになった。アーレントはこの裁判を傍聴するためにイスラエルに渡り、その傍聴記を発表し、それは『イエルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』として単行本になった。だが、これは彼女に対するごうごうたる非難と攻撃の嵐を巻き起とすことになった。それはなぜなのか。映画はここに焦点をあてる。
その嵐はせんじつめれば、二つの点に集約される。第一はアイヒマンに対する評価である。彼女はアイヒマンを悪魔的なユダヤ人殺戮(さつりく)者としてよりも、ただただ「上からの命令」や法律に従った平凡な人間、どこにでもいる普通人と評し、まさにその中に「悪の陳腐さ」を見たのである。
世論の一般的動向では―とくにイスラエル政府やユダヤ人大衆のなかでは―アイヒマンをナチスの悪逆無道の典型として、絞首刑は当然とする風潮が支配的であった。そこにはナチスの政策・行動に対する法と正義の見地からの裁断と、個々のナチ党員や命令実行者の人間的個別的評価を、冷静に区別して評価する態度は、まず皆無であったといえよう。物事と人間の本質を考え抜く孤高の思想家の姿を、まざまざと見せつけられる思いがする。
ユダヤ人協力者
はっきりと批判
第二にアーレントに攻撃がむけられたのは、戦時中、ナチスに協力的であったユダヤ人団体指導者たちがいたことを、彼女がはっきりと指摘したことである。実はナチスが膨大な民衆のなかから数百万のユダヤ人を弁別し駆りだし、移送し収容する「巨大な事業」を遂行するには、ユダヤ人の動向に通じている者の、すなわちユダヤ人団体指導者たちの協力を必要とした。映画では触れていないが、そうした指導的ユダヤ人がいたことを、アーレントは知己でありユダヤ人虐殺問題の研究者ラルフ・ヒルバーグの研究からも知っていたのだ。
しかし、このために「同胞への愛はないのか」とか「被害者600万同胞への冒とく」とか、はては「地獄に堕(お)ちろ」「ナチのクソ女」といった罵倒の雨が降りそそぐことなった。
非難と悪罵の中
情熱こめ訴える
こうした非難と悪罵のなかに立ったアーレントが、大学の教室に押しかけた聴衆にむかって、自分がなぜ、あえてこのような論陣を張ったのか、切々と、かつ情熱をこめて説き聞かせる。映像のなかの聴衆と映画の観客が、あたかも一体となったごとく感動のなかに包まれる。見事なシーンである。思想と思想家を映像化するとは、このようなことであったのかと改めて教えられた。
(もちだ・ゆきお・同志社大学名誉教授)
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26日から東京・岩波ホールで公開、順次全国で
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