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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6768237.html
3年前、ミクシイ日記に書いた文章を再録してお送りいたします。
2013年9月1日(日)
西岡昌紀
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1939年9月1日 (2010年09月01日、02日、03日、05日、6日、07日、ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1573545462&owner_id=6445842
1
又、9月1日が巡って来ました。
9月1日は、1939年にドイツがポーランドに侵攻した日です。
歴史に「もし」は無い、と言はれます。
確かに、歴史は一つしか有りません。ですから、「もし・・」等と言っても、歴史が変はる訳ではありません。しかし、それでも、「もし・・」と言ふ言葉をもって歴史を考えずに居られない事は有るものです。
私にとって、1939年9月1日と言ふ日は、そう言ふ日の一つです。
この日をもって、第二次世界大戦が始まったとする見方が一般的ですが、その見方の当否はともかく、この日が、ポーランドにとって大きな悲劇であった事は言ふまでもありません。特に、ドイツの侵攻に続いて、同年の9月中旬にポーランドがソ連からも侵略され、大戦後は、ドイツの敗北に続いて、ポーランドが、そのまま、ソ連の支配下に置かれ、その状況が、半世紀に渡って続いた事を思へば、この日(1939年9月1日)と言ふ日が、ポーランドにとって、いかに運命的な日であったかは明らかです。ですから、毎年、9月1日に成ると、私が、ふと、「もし、あの日(1939年9月1日)が無かったら・・・」と思ってしまふ気持ちも仕方が無いとは、思って頂けないでしょうか?
その1939年9月1日の悲劇は、回避可能であったと、私は、確信して居ます。
つまり、第二次世界大戦は全く必要の無い戦争だったと言ふ事です。
1939年9月1日の、ドイツによるポーランド侵攻が、一体何故、 起きてしまったかを当時の諸事実に即して調べてみると、それが、実は、全く必要の無い戦争であった事が分かるのです。つまり、あの戦争は、そして、ひいては第二次世界大戦その物が、実は回避可能だった事を確信せずには居られないのです。
言ひ換えるなら、その回避可能だった戦争が現実に起き、世界中で、あれだけの人々の命と幸福を奪った大戦に繋がったと言ふ事実に直面させられて、愕然とせずに居られないのです。
そこに、この日(1939年9月1日)の悲劇性が有ります。
1939年9月1日は、その全く必要の無かった戦争が勃発し、人類史上未曽有の悲劇へと発展した歴史の重大な節目であったが故に、ポーランド人だけの悲劇とは見なせません。日本人を含めた全人類にとって、この日は、戦争と平和の意味を考える重要な日だと、私は思ひます。
(2010年9月1日(水))
2
昨年(2009年)の9月1日に、私は、この日記で、こう書いて居ます。
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(2009年9月1日ミクシイ日記より)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1271695211&owner_id=6445842
ドイツのポーランド侵攻(1939年9月1日)から、70年の年月が経ちました。
私の古い友人は御存知だと思ひます。私は、ポーランドを深く愛する日本人です。私とポーランドの出会ひについて、ここでは語りませんが、私は、この国(ポーランド)には、若い頃から、本当に深い思ひ入れを持って来た人間です。そして、ポーランドで「連帯」が誕生し、やがて、戒厳令が布告されるに至ったあの時代、親しいポーランド人と共に、ポーランドの運命を見守って居た日本人です。その事を始めに言っておきます。
その私にとって、9月1日と言ふ日は、8月6日や8月9日、或いは、8月15日と同じほど、深い感情を持って、迎える日です。日本人で、毎年、9月1日を、これほど深い感情を持って迎える人間は、決して多くない筈です。1939年9月1日は、ポーランドが、あの悲劇に突入した日であり、更に、ここが重要な事ですが、この日から戦後の「共産主義」時代を含めた50年もの停滞の時代の始まりであった日として、私は、毎年、この日を、本当に深い感情と共に迎えて居ます。
その私は、永い間、この日(1939年9月1日)の悲劇は、ドイツの一方的侵略によって、ポーランドが悲劇を体験した日であると考え、疑ひませんでした。しかし、今から20年前、二冊の本との出会ひによって、私は、そうした「公式の歴史」に根本から疑問を抱くに至ったのでした。
http://www.amazon.co.jp/Forced-War-Peaceful-Revision-Failed/dp/0939484285/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800343&sr=1-1
↑
この二冊の本を入手出来る方は、是非、お読み頂きたいと思ひますが、今の私が、この日(1939年9月1日)について思って居る事を言ひましょう。私も、開戦の責任は、当時のポーランド政府に在ったと思ひます。あの開戦は、当時のポーランド政府が、平和的に解決できた筈のダンツィヒ(Danzig)問題を、イギリス外務省の扇動に乗せられて危機にまで高め、ドイツが開戦せざるを得ない状況を生んだ事に原因が有ったと、今の私は思ひます。
ダンツィヒ(Danzig)は、歴史的に見れば、中世以来、明らかに、ドイツ人ばかりが住む、ドイツの一都市だったのです。それを、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約はドイツから切り離したのですが、これは、例えて言へば、第二次大戦後、韓国が独立した際に、九州北部が国際都市とされて、その行政の一部が韓国に委託された様な、余りにも理不尽な決定だったのです。更に、ヴェルサイユ条約は、ダンツィヒ以外の、歴史的にはドイツ人が居住し、明らかにドイツの一部であった地域を新生ポーランドに編入してしまひました。ポーランドが独立を回復した事は良いのですが、その様な、余りにも歴史的経緯を無視した国境画定をしたのですから、第一次世界大戦後、ポーランド領内に編入された地域のドイツ人が、ドイツへの復帰を求め、新生ポーランドの暴力的な支配から逃れたいと思った事は、全く当然だったのです。もし、それがいけなかったと言ふのなら、第二次世界大戦後、アメリカに統治された沖縄で、住民が日本への復帰を求めた事もいけなかった事に成る筈です。先程の例えで言ふならば、ヴェルサイユ条約が決めた第一次世界大戦後のポーランドと国境は、九州を韓国に編入した様な、滅茶苦茶な物だったのであり、ドイツ人が、これを見直す様、ポーランドに対して、平和的に交渉を申し入れた事は、全く当然だったのです。実際、当時の記録や、ドイツ政府からの提案は、平和的な申し入ればかりであり、それを、かたくなに拒んだばかりか、戦争の可能性まで明言した当時のポーランド指導者たちは、そうする事で、ポーランド国民の運命を誤ったと非難されても仕方が無いと、私は考えます。言ふなれば、当時のポーランド政府は、李承晩ラインを引いて竹島を占領した韓国以上に、常軌を逸した姿勢で、この問題に臨んだのです。(ポーランドのこうした強硬姿勢の背後には、イギリス外務省やアメリカの工作が有りました)
例えて言へば、湾岸戦争に先立つイラクのクウェート侵攻に似て、「侵攻」の前には、こうした複雑な歴史が有ったのであり、アメリカやイギリスの影が有ったのです。
(後略)
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つまり、当然の事ですが、1939年9月1日の悲劇には、その前史が有ったと言ふ事です。
しかし、マスメディアにおいては、1939年9月1日の戦争勃発については時々取り上げられる事は有っても、その前史については、殆ど全く語られる事が有りません。
その前史の中にこそ、この戦争は避けられた事を示す事実が幾つも有るにも関はらず、です。ですから、日本人を含めた多くの人々は、1939年9月1日の悲劇が、そして、それに続く第二次世界大戦その物が、実は、全く不必要な物であった事に気が付かずに居ると、私は、思ひます。
これは、私だけの見方ではありません。マスコミや御用歴史家が語らない、1939年9月1日の前史を知る人の多くは、私のこの見方に同意して居ます。その一人であるアメリカ人の言葉を以下に御紹介しましょう。
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考えてみれば、ポーランドと全東ヨーロッパの運命が、ダンチヒという小都市のために犠牲とならなければならなかったのは、言いようもなく悲劇的なことであった。 ほとんどのアメリカ人は、ダンチヒなんて聞いたことが
なかった。
第二次大戦は、不必要で誰も望まなかった戦争であり、史上、最も破壊的かつ破滅的な戦いであった。そして、それは百万人以上のヨーロッパの人々、つまり、ポーランド、チェコ、ハンガリーのみならず、バルト諸国、バルカン半島の国々にとって、自由の終焉であった。
大戦中の駐米イギリス大使であったロージアン卿は、一九三七年六月二十七日、チャタム・ハウスで行なった講演で次のように述べた。
「民族自決の原則は、かつてドイツにとって不利な形で適応されたが、もし逆に、ドイツの利益となるように適用されたならば、それは、オーストリアのドイツへの再統合、ズデーテン地方、ダンチヒ、そしておそらく、メーメルのドイツとの合併を意味するだろうし、さらにシュレジェンとそれにアクセスするための回廊について、ポーランドとある程度の調査がなされることを意味する だろう」
ロージアン卿は、すぐれて知的であり、情報通であり、 愛国的な英国人であって、この発言を、ダンチヒをめぐる危機が起こる二年前に行なっていたのだった。
戦争というのは、明らかな作為、不作為、あるいは引き延ばしによって起こる。
第二次大戦の破局は、もう手遅れになるまで引き延ばし作戦をとったポーランドの外務大臣、ジョゼフ・ベック外相にその責任の一端がある。ベック外相は、ポーランド政府は、ダンチヒ返還交渉に関してドイツと直接に交渉するようにとの、英国の外務大臣、ハリファックス卿と駐独フランス大使とボネ仏外務大臣に支援された、駐独イギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン卿からの要請に従うことを拒否した。ヘンダーソン大使は公然と、ドイツの提案は、公正で合理的なものであると発言していた。
恐らく、ベック外相は、情勢の深刻さを理解せず、戦争を阻止するのに手遅れになるまで、直接交渉を引き延ばした責任を負ってしまったのだろう。
(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP 文庫1992年)146〜147ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
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これは、アメリカで永く下院議員を務めた政治家ハミルトン・フィッシュ(1888−1991)氏が、1983年に発表した自著の一節です。1919年から1945年まで、12回に渡って下院議員(共和党)に選出されたフィッシュ氏は、当時、この戦争を回避する為に精力的に行動し、開戦直前のダンチヒを自ら訪れても居た人物です。そのフィシュ氏が、この本の中で糾弾して居る事は、まさしく、上に書かれてある通り、この戦争は全く必要の無い戦争だったと言ふ事なのです。
(2010年9月2日(木))
3
当時の状況を、フィッシュ氏は、こう要約します。
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ほとんどすべての著名人たちが、ポーランドにドイツとの直接交渉に同意させて戦争を回避させようとした。しかし、そこには一つの障害物があった。ポーランドの外務大臣、ジョセフ・ベックは、当初、ドイツ側の主張を理解していたが、やがて全く役に立たない英国の軍事保障を得てから、完全に態度を変え、交渉に対し非常に強硬な立場を取るようになったのである。
ダンチヒは住民の九〇%がドイツ人で、民族自決の原則に従った住民投票では絶対的多数がドイツへの復帰に賛成した。ドイツのチェコスロヴァキアに対する侵略は情け容赦ないものであり、弁護の余地のないものであった。しかしナチス・ドイツがダンチヒとポーランド回廊(訳注:ベルサイユ条約により、ポーランドへ分割されたドイツ領プロイセンとドイツ本国との間を結ぶ地帯)の返還を行ないたいとの希望は理解しうるものであり、英・仏によって第二次世界大戦の原因とすることが許されるべきものではなかった。
ダンチヒの復帰をめぐるドイツ・ポーランド間の直接交渉を遅らせ、妨げ、最終的に不可能とした真の理由はなんであろうか。
当時、英・仏は、首脳部を通じて、ダンチヒ問題を平和裡に解決するために、全権を与えられた使節を送るようポーランドに対し、要請していた。英・仏とも、もしドイツが、ポーランドに侵攻したら、ドイツに対し宣戦を布告する旨を、はっきりさせてはいたが、チェンバレン首相は、極端に、局面の破局を恐れており、ケネディ駐英アメリカ大使を通じて、ルーズベルト大統領に対してすら、大統領がそのために影響力を行使するよう要請していた。
他方、ヒットラーも、英・仏を参戦させないために、ダンチヒ問題を平和的に解決することに熱心であった。ヒットラーは、ダンチヒに関して何らかの譲歩を考慮したり、問題を討議するために、全権使節を任命することすら拒否するポーランド側のかたくなな態度に非常に困っていた。八月二十四日、彼はついに、ポーランド侵攻を命じたが、各方面から嘆願を受けて、最後の瞬間になって、命令を撤回したのであった。
英・仏両国からの必死の懇願、ローマ法王、ベルギー国王、米国大統領からのメッセージを受けて、ポーランド政府は、ようやく最後の瞬間になって、リプスキー駐独ポーランド大使を、フォン・リッベントロープ外務大臣に面会させ、ポーランドが、ドイツ側が提案した交渉の条件に関心があると申し入れさせることを許可した。
フォン・リッベントロープは、リプスキー大使に、「それでは閣下は、交渉の権限をお持ちでここへみえたのですか」と尋ねた。
そして、大使がそうではないことを認めると、それが平和維持のための努力の終わりであった。
あらゆる方面からもっと圧力をかければ、ポーランドが交渉に応じたであろうことは明らかであり、もう数日待つことができず、力ずくで問題を解決しようとしたヒットラーが、究極的には責めを負うべきであろう。しかし、ベルサイユ条約体制の最後の清算であるダンチヒ問題に関して、譲歩を考えることすら拒否したポーランドも責めを受けるべきである。特にほんの六日前に、ヒットラーが、ソ連と不可侵条約を結び、今や、明らかにソ連は、ドイツに味方するであろうという悲痛な事実があったことを考えれば、(ポーランドの頑固さは)残念なことであった。
(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)135〜137ページより) (原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
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これが、1939年当時の、開戦直前の状況だったのです。
関口宏氏のテレビ番組などを見て居てのでは、こう言ふ事は分からないと思ひます。即ち、1939年の開戦直前の状況において、国際世論は、今日、私たちが思ふのとは違って、この問題(ダンツィヒ問題)に関する限りは、ドイツの要求は正当であり、冷静さを欠いて居るのは、ポーランドの方だと見なして居たのです。
それにも関わらず、戦争が起きてしまったのは何故だったのか?
それこそが、問題の核心です。
(2010年9月3日(金))
4
フィッシュ氏は、1939年9月1日の開戦直前、議員として、自らドイツとポーランドを訪れ、戦争回避の為に努力をした、アメリカの尊敬すべき政治家です。つまり、フィッシュ氏は、1939年の開戦前夜の外交の舞台裏を知る歴史の生き証人だった訳ですが、その歴史の生き証人であったフィッシュ氏は、この全く不必要だった戦争が起きてしまった原因は、当時のアメリカ大統領、フランクリン・D・ルーズヴェルトに在ったと断言します。
即ち、ヨーロッパで戦争が起きる事を望んで居たルーズヴェルト大統領が、腹心のブリット駐仏アメリカ大使を通じて、裏でポーランドを戦争へとけしかけて居た事を、フィッシュ氏は、次の様に暴露して居るのです。
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ポーランドの、緩慢な行動は、第二次世界大戦を発火させるスパークの役割を果たした。ルーズベルト大統領は、平和のための偉大な功績者となるチャンスがあったが、彼は、チェンバレン首相の要請を拒否し、事態の解決を遅れさせたので、第二次大戦の勃発を防ぐために何もすることができなかった。
当時のルーズベルトの対ポーランド政策は、一九三〇年代、ポーランドの駐米大使であったイェルジー・ポトツキーの報告に詳しい。
この報告は、ワルシャワで、ドイツ側に押収されたポーランドの外交文書の中から見つかり、後に、当時、南米に住んでいたポトツキーにより確認されたものである。
以下の発言は、一九三九年一月十六日、ルーズベルトのヨーロッパにおける重要な代表であったウィリアム・ブリット駐仏大使が、パリに帰任する際に、ポトツキー大使と会談した時に行われたものである。
「英仏は、全体主義国家と、いかなる種類の妥協もやめなければならないというのが、大統領の確固とした意見である。領土的変更を目的としたどんな議論も許されてはならない。合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を同義的に確約する。」
これこそが、介入を約し、ダンチヒ問題に関して、いかなる平和のための妥協に対しても、はっきりと反対した、ルーズベルト大統領の戦前の干渉政策の忌むべき証拠である。ルーズベルトが、一九三九年の初めから「全体主義国家とのいかなる種類の妥協もやめなければならない」として、英仏に対し、影響力を行使していたのを証明しているのだ。ブリット大使は、合衆国は、
「戦争の際には、英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある」
ということを確約しているのである。
ブリット大使の発言は、アメリカの不干渉主義者たちが、ヨーロッパで戦争が勃発する前に主張していたことを、まさに裏ずけるものである。それはまた、もしルーズベルトが、余計な介入をせず、英仏を戦争に追い込まなかったならば、ヨーロッパで戦争は起きず、ダンチヒ問題も、平和的に解決されていたであろうとする、対ルーズベルト非難が正しかったことを証明するために極めて重要なものである。
チェンバレン英国首相とジョルジュ・ボネ仏外務大臣の二人も、ドイツに対して戦争を起こすよう、ルーズベルトからの圧力があったことを公に認めている。
このブリット大使との会談についてのポトツキー大使の報告は、ルーズベルト大統領が、ブリット大使を通じて、また直接チェンバレン首相に対して、強力な戦争を起こすための影響力を行使したことの明確な証拠の一つである。
合衆国大統領が、ヨーロッパの政治に直接介入し、平和ではなく、戦争を推進したのはアメリカの歴史が始まって以来の出来事である。
私は、歴史と行政学で優等の成績で卒業した後、ハーバード大学の歴史の講師の地位をオファーされたことがある。今では、それを引き受けなかったことを後悔している。しかし、私は議会の外交委員会に二十年間籍を置き、わが国の外交政策に関しては、だいたいフォローしてきていた。
その中で、合衆国大統領が、大使やその他のチャンネルを使って、ヨーロッパで戦争を起こそうとした例は知らない。われわれの大統領は、全員が不変の政策として、平和に賛成であった。かつて戦争を扇動したり、推し進めようとするために、自己の影響力を用いたような大統領はいなかった。
ルーズベルト大統領が、ヨーロッパで、枢軸勢力に対抗するために、戦争を使そうしたということは、ブリット大使の行動と発言やジョルジュ・ボネ仏外相からの手紙、またチェンバレン英国首相からケネディ大使に宛てた同様の発言、フォレスタル海軍長官宛ての同趣旨の発言−−これは長官の日誌にも引用されている−−からも明らかである。
また、第三章で引用した、ピアソンとアレンの書きものは、どうやってルーズベルト大統領が、チェンバレン首相にドイツとの戦争を強いたのかを教えている。
これらすべての記述は、ルーズベルトが、英・仏・ポーランドをヒットラーと戦わせようとして、影響力を行使したことを証明しているのだ。
(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)143〜145ページより) (原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
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ルーズヴェルトにとって、ベック外相をはじめとする当時のポーランド政府指導者達は、東アジアにおける張学良や蒋介石と同様の役割を演じるチェスの駒だったのです。
これこそが、ポーランドの悲劇の核心だったと、私は思ひます。
(2010年9月5日(日))
5
次の言葉をお読み下さい。
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"Poland wants war with Germany and Germany will not be able to avoid it even if she wants to." (Polish Marshal Rydz-Smigly as reported in the Daily Mail, August 6th, 1939)
「ポーランドはドイツとの戦争を欲して居る。ドイツは、それ(戦争)を避けたくても、避ける事は出来無い。」
(イギリスの新聞デイリー・メイル(1939年8月6日)紙上で伝えられたポーランド参謀総長ルジ・シミグリの発言)
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これは、1939年9月1日の開戦直前(同年8月6日)、当時、ポーランドの参謀総長だったポーランドの将軍が、イギリスの新聞で行なった発言です。
ダンツィヒを巡る緊張が頂点に達し、ハミルトン・フィッシュ氏をふくめた欧米の心ある政治家や外交官が、戦争を回避する為に必死に行動して居たさ中、当のポーランドでは、ポーランド軍のトップに在った人物が、白昼堂々、こうして、「ポーランドは戦争を欲して居る」と公言して居たのです。
もう一度お読み下さい。
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"Poland wants war with Germany and Germany will not be able to avoid it even if she wants to." (Polish Marshal Rydz-Smigly as reported in the Daily Mail, August 6th, 1939)
「ポーランドはドイツとの戦争を欲して居る。ドイツは、それ(戦争)を避けたくても、避ける事は出来無い。」
(イギリスの新聞デイリー・メイル(1939年8月6日)紙上で伝えられたポーランド参謀総長ルジ・シミグリの発言)
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皆さんは、これを読んでも、1939年9月1日の開戦に、ポーランドは、何も責任を持って居なかったと、お考えになるでしょうか?
1939年9月1日の開戦の悲劇は、本当に、ドイツだけが、一方的に責められるべき出来事だったのでしょうか?
(2010年9月6日(月))
6
開戦の責任がどちらに在ったか、と言ふ議論とは別に、当時のポーランド政府とポーランド軍の指導者たちが、ドイツと開戦した場合に、自分たちの国がどう成るか、について思慮を欠いて居た事には、驚かずに居られません。
フィッシュ氏は、こう述べます。
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西部国境にはヨーロッパ最強のドイツ軍がひかえ、東部国境では、膨大なソ連軍がひかえているという、言葉で言い表せないほど戦慄すべき情況だったのにもかかわらず、ベック外務大臣や他の政府首脳が、この軍事情勢について、かくも完全に判断を誤っていたとは、ほとんど信じ難いことであった。
当時イギリスは、たった二、三個師団しか動員可能ではなく、ポーランドを軍事的に助けるために、空気銃やかんしゃく玉を提供することすら不可能であった。英・仏に対し、公平を期すれば、英・仏両国とも、ポーランドに戦争を強いたりはしなかった。
両国の有する外交力を行使して、ポーランドに対し、ダンチヒ問題に関し返還交渉に応じるよう説得に全力を費やしたのであった。
(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)137〜138ページより)(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
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開戦の責任論とは別に、これが当時の軍事的現実だった訳であり、実際、9月1日に戦争が起きた際、ポーランド軍は、機械化されたドイツ軍に向かって騎兵で立ち向かひ、「玉砕」して居ます。
それにも関はらず、開戦直前に、ポーランド軍の参謀総長が、「ポーランドは戦争を欲して居る。ドイツは、それを避けたくても避ける事は出来無い。」等と発言して居た事は、本当に信じられない事です。その様な愚かな人々が、政府と軍を指導する立場に在った事こそは、当時のポーランド国民の悲劇でしたが、その背景には、ポーランド政府と軍の指導者の資質のみならず、フィッシュ氏が暴露して居る、ルーズヴェルトと、彼の圧力を受けたイギリスの扇動が有った事を忘れてはいけません。そこに、アメリカと言ふ国の恐ろしさが有ります。
フィッシュ氏は、続けます。
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ダンチヒはドイツ人の街であり、もしドイツ側に返還されたならば、ドイツは、ポーランドの独立と統一を保障する条約に署名するのに同意していたことを考えると、両国の指導者、軍上層部の政策は無益で、悲劇的であった。
ピルスドスキー元帥は、ポーランド史上、最も偉大な英雄であり、政治家であるが、もし彼が生きていたならば、ダンチヒを返還してドイツと和解し、ポーランドの独立と統一の保障をドイツから取りつけたであろう。それは、ピルスドスキー元帥が親独的だからではなく、彼がソ連を知っており、共産主義を恐れ、憎んでいたからである。
ポーランドにとって不幸なことに、元帥は、第二次大戦の始まる五年前に、この世を去っていた。元帥は、ヒットラーすら一目置いていたほどの強力な指導者で、偉大な軍事的指導者であった。
私は、数多くのポーランド亡命者たちと話したが、彼らは一致して、もしピルスドスキー元帥が健在であったら、ダンチヒ問題は平和的に解決され、ポーランド侵攻も、第二次世界大戦も、共産主義者による一万二千人のポーランド軍士官の虐殺も起こらず、自由なポーランドも共産化しなかったであろうという意見に同意した。
一九三九年八月の時点で、最も重要で議論の的となった問題は、ダンチヒ自由市の地位であった。このドイツ人の街の回復は、ヒットラーとドイツのめんつにとって不可欠の条件であったのだ。ダンチヒに対し、ドイツが正当な権利を有することは、すべての人々−−ベック外相ですら、しぶしぶと−−が認めていた。多分、そのために、ベック外相は、手遅れになるまで、ドイツと交渉するのを避けようとしていたのであろう。
数カ月後、自由を愛するバルト海諸国は、フィンランドを除いて、ソ連に支配され、しばらくして共産主義化されてしまった。このことを、私は数年にわたって警告し続けていたのだ。つまり、いったん戦争が始まるならば、貪欲な共産主義者の禿鷹(はげたか)が舞い降りて来て、東ヨーロッパの血塗られた屍体を浚(さら)って行くだろうということである。
もしポーランドがダンチヒと回廊の返還に応じていたとすれば、どうなったか考えてみよう。
ベック外務大臣は、返還に応じる意志があった。しかしルーズベルト大統領とポーランド軍将軍たちが、手遅れになるまで、それを妨げたのであった。
ダンチヒをドイツに返還していれば、ナチス・ドイツは、ポーランドへ侵攻する口実を失い、独ソ不可侵条約から方向を変え、ポーランドの共産化を防いだであろうし、ヒットラーの、ポーランド在住ユダヤ人絶滅政策を未然に防いだであろう。
(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)138〜140ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
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歴史に「もし」は無い、と言はれます。
しかし、その「もし」について考える事で、歴史の真実が何であったかのかに気が付かされる事は有ると、私は思ひます。
核時代65年(西暦2010年)9月7日(火)
西岡昌紀
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6768237.html
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