http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/762.html
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これまで「政治板」に投稿していたシリーズですが、内容が近代史的要素を強く含むようになったので投稿する板をこちらに変更させていただきました。
「政治板」に投稿したものは次の通りです。
「尖閣諸島領有権問題:X氏の批判に応える1:尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」( http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/729.html )
「尖閣諸島領有権問題:X氏の批判に応える2:関係改善が見えてきた日中関係:日中両国民の多数が納得できる解決策を」
http://www.asyura2.com/13/senkyo151/msg/749.html
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■ 尖閣諸島領有権と「カイロ宣言」及びサンフランシスコ講和条約
今回は、シリーズの最初に書いた「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」をもう少し詳しく見ていく機会としたい。
尖閣諸島に限定した視点ではなく、X氏も取り上げている近代日本史と日本の領土変遷という観点を意識しながら考えていきたい。
尖閣諸島の領有権問題について、明や清の時代の古文書などを根拠として議論することを否定はしないが、それは、現時点での尖閣諸島に対する日本の領有権を認めたうえで取り上げられるべきテーマだと考えている。
「尖閣諸島に対する日本領有を正当化できる根拠」は、尖閣諸島に対する日本政府の主権行使が、71年に中華民国が異議を唱えるまでのおよそ70年間、国際的に平穏なものであったという事実につきる。
とりわけ、大敗北を喫した先の大戦(「アジア太平洋戦争」と呼びたい)の戦後処理では、それまで日本の主権が及んでいた領域について、領有に至った権原の正当性が考慮されることなく取り上げられるという事態も発生したが、その過程においてもなお、尖閣諸島の領有について中国側から異議が唱えられることはなかったという歴史的事実は重要であろう。
日本に対する戦後処理の現実を考えると、戦勝国のなかに日本の尖閣諸島領有に異議を唱える国家があったなら、日本は尖閣諸島を放棄させられ、尖閣諸島は連合国によって正当な権利を有すると認められた国家に引き渡されていたと推測できるからである。
当時、国際的に中国を唯一代表していた中華民国政府が、日本の敗戦処理過程で日本の尖閣諸島“窃取”(「カイロ宣言」的表現)に言及していれば、“窃取”の歴史的真偽性は別として、尖閣諸島は台湾に付属する島として日本が放棄すべき領域になっていた可能性が高いと思う。
(尖閣諸島問題が生じさせている日中間の軋轢に嫌気をきたしているひとなら、戦後処理の一環として、台湾ともども中華民国に引き渡されていたほうがよかったと思われるかもしれない)
中華民国と中華人民共和国の両政府は、敗戦から26年後の71年に日米間で締結された沖縄返還協定をきっかけに日本の尖閣諸島領有に対し異議を唱え始めたが、連合国によって日本の領土・領域の問題が最初に取り上げられた43年の「カイロ宣言」から51年のサンフランシスコ講和条約(以降サ条約)及び日華平和条約(52年)の締結へと至る過程で、尖閣諸島の帰属(日本領有)を問題視することはなかった。
愛国主義者でもない私がなぜ尖閣諸島に対する日本の領有権に関する正当性を強く主張するかと言えば、尖閣諸島周辺の「二重権力」状況を憂い解消すべきと考えるとともに、好悪は別として近代国際法にそぐわない論理でそれを否定すれば世界中で“ちゃぶ台返し”のような事態が頻発する可能性があるからである。
尖閣諸島は小さな無人島の集まりに過ぎないが、世界中を見渡せば、先住者が共同体を営んでいた地域を含め、近代国際法に拠った“正当性”(無主地先占の論理)で“窃取”された領域はあまた存在する。
私は根拠がないと考えているが、尖閣諸島の本島とも主張されている台湾そのものにも、中華民国及び中華人民共和国に正当な領有権があるのかという問題が潜在化している。
米国は、中華民国と断交した後、連邦議会が国内法的位置付けの台湾関係法を制定した。台湾関係法も、サ条約の曖昧な条文とシンクロすることで、台湾地位未定論の根拠としてしばしば利用されている。
実に愚行だと思っているが、実際、2009年、日本の在台湾窓口機関である「交流協会」の斎藤代表(実質的な大使に相当)が「台湾の地位は未確定」という趣旨の発言を行ったことで問題となった。斎藤氏は、結局、発言を撤回し代表を辞任するに至った。
(歴史の倫理的論理的“ちゃぶ台返し”を否定するつもりはないが、それが悲惨な武力衝突や内戦的状況を招くことを危惧している)
● 日清戦争にまで遡って領土問題を扱った「カイロ宣言」と戦後処理の基礎となった「ポツダム宣言」
X氏が尖閣諸島領有権問題絡みで「カイロ宣言」について触れているので、X氏への問いに応えるかたちで、「アジア太平洋戦争」の結末が日本の領土・領域に及ぼした過程を説明したい。
X氏は、私の「台湾でさえ、侵略によって手に入れたわけではなく、日清戦争というアジア秩序をめぐるガチンコの戦争で勝利し割譲を受けたものである」という説明に対し、次のような疑念を投げかけた。
【引用】
「???一体、貴方は、本当に、「カイロ宣言」を読んだ事があるのですか?
或いは、これは、次の様な問いに変えてもいい。
国際政治的な視点からみて、近代と現代の違いは、それでは何でしょうか?」
今こうして読み返すと、X氏の問いかけは、なかなか失礼なものと思える。ご自身の見解はまったく示されないまま、私に対して?マークを連発しているだけだからである。この文章を読んでも、推測はともかく、私のどの部分に疑念を持たれているのかさえわからない。
※ なお、「国際政治的な視点からみた近代と現代の違い」については、別立ての投稿で回答させていただく。
「アジア太平洋戦争」において、連合国が戦後日本の領土に関する扱いを最初に取り上げたのは「カイロ宣言」である。
1943年(昭和18年)12月1日に米英中の首脳がカイロで会談し発した宣言である。そのなかから、外務省が翻訳した日本の領土にかかわる部分を示す。
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「カイロ宣言」
「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
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「カイロ宣言」は、冒頭で連合国の戦争目的が私利私欲や領土拡張ではないことをうたいながら、満州は別として、「アジア太平洋戦争」が勃発する前に日本が国際的承認のもとに権原を得た領土や委任統治領の一部さえ奪うと表明している。
「カイロ宣言」は、自国の利益や領土拡張が目的ではないと言った舌の根が乾かないうちに、台湾など中華民国(清)がかかわる領域ならまだしも、関係があるとしたら日本と同じ敗戦国ドイツである領域を日本から剥奪することを恥ずかしげもなく持ち出したのである。
インドをはじめ世界最大の植民地帝国であった英国政府もかかわった「カイロ宣言」で、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態」という非難がましい表現を使っていることには目をつぶろう。
日本は、1914年に勃発したWW1の戦勝国として、ヴェルサイユ条約に基づき敗戦国ドイツが支配していた太平洋諸島を引き継ぎ、国際連盟から委任統治領として追認を受けた。現在のマーシャル諸島・ミクロネシア連邦・パラオ・米自治領北マリアナ諸島であり、WW2後に「カイロ宣言」に従うかたちで米国の信託統治領となった。
WW1後の委任統治制度は、それまでの植民地主義的領土拡張の亜種でしかなく、今なお続く中東地域の“混迷”はそこに深淵があるとも言える。オスマントルコの解体後、英仏が中東を分割支配する根拠としたのが国際連盟の委任統治制度である。
「文明の神聖なる使命」に基づき、「福祉及び発達」を目的として、ある領域について独立できるようになるまで“先進国”が分担して統治を代行するという“盗人にも三分の理”をよく表現したものが“委任統治”制度の内実である。
現在、ムスリム同士の悲惨な殺戮戦が長期に続いているシリアも、トルコ軍を追い払ったアラブ人がアラブ臨時政府を樹立していたにもかかわらず、軍事的に占領したフランスがそれを解散させ、「独立の援助をするため」と称して委任統治を始めた。その統治を通じて、お得意の分断&対立を醸成するため、少数派であるアラウィ派のアサド一族を地元支配層として育成していった。
「カイロ宣言」は、冒頭で「自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」と高らかにもっともらしくうたいながら、戦後の米国領有を企図したものである「太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スル」を領土関連文言の最初に持ち出した恥ずべき文書である。
アジア太平洋戦争中に発せられた連合国の日本領土に関する宣言としてはもう一つ、敗戦間際の1945年(昭和20年)7月26日に出された「ポツダム宣言」がある。そのなかで領土に関する内容が書かれている第8項を外務省の訳文で示す。
※ オリジナルの宣言は米英中の3ヶ国によって発せられたが、9月2日の休戦協定(俗にいう日本の“降伏文書”)でわかるように、8月9日に対日参戦したソ連が追加的に「ポツダム宣言」の主体国として加わった。
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「ポツダム宣言」
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
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43年12月の「カイロ宣言」が連合国勝利後に日本から取り上げる領土・領域を特定するかたちで書かれたとすれば、45年7月の「ポツダム宣言」は、敗戦後の日本が領土として保証される範囲を特定するかたちで書かれた。
日露戦争で奪われた領土の回復と新たな領土拡張を目指すソ連の対日参戦が予定されていたこともあるが、日本にとって戦況がますます悪化していった1年半ほどのあいだに、領土にかかわる対日態度もより厳しいものになっていったことがわかる。
「ポツダム宣言」の受諾により、極端に言えば、日本の主権が及ぶ地理的範囲(領土)が本州・北海道・九州・四国に限定されてしまう事態さえ受け容れなければならなくなった。
連合国の意思によっては、伊豆大島でさえ譲り渡さなければならない立場に日本は置かれたのである。
「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」から、領土をめぐって敗戦後の日本に突きつけられていた内容をみてきた。
X氏の問いとの関係では、「カイロ宣言」の「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」が“読むべきもの”に該当しそうな記述なのかもしれない。
ここでも、無人の小さな島々でしかない尖閣諸島だから当然かもしれないが、尖閣諸島という名称は明示されていない。そのため、「カイロ宣言」だけでは、尖閣諸島が下関条約で日本に割譲された台湾に付属する島嶼かどうかわからず、問題はふりだしに戻る。
ご自身の見解を示さないX氏の「???一体、貴方は、本当に、「カイロ宣言」を読んだ事があるのですか?」が、私の「台湾でさえ、侵略によって手に入れたわけではなく、日清戦争というアジア秩序をめぐるガチンコの戦争で勝利し割譲を受けたものである」という説明のどの部分に疑問を抱いているかわからないが、尖閣諸島の中華民国への引き渡しは、連合国の対日戦争目的として明示されているわけではない。
まず、X氏は、まさか、「台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」という表現が、日本が台湾本島や尖閣諸島を含む台湾領域を盗んだことを意味していると主張したいわけではないだろう。
問題の尖閣諸島は脇におくとして、満州国の成立(独立)については、国際連盟でも合法性や正当性について疑義が提示され、国際的承認もなかなか進まなかったが、日清戦争の戦後処理の一つである日本への台湾割譲については、国際的な疑義が提示されることはなかった。
それをはっきりわかりやすく浮かび上がらせてくれる歴史的事実が、日清戦争の戦後処理をめぐって起きたあの有名な「三国干渉」である。
日清戦争で敗北した清は、下関条約で台湾とともに遼東半島を日本に割譲すると約した。しかし、日本に割譲されたはずの遼東半島は、仏独露による「三国干渉」を受けたことで、還付条約を締結するかたちで清に戻された。(還付報奨金として、賠償金の15%に相当する3千万両を獲得)
同じ日清戦争の戦後処理でこのような経緯があったことに照らせば、台湾の割譲=日本の領有が国際的に承認されていたことは明瞭であろう。
(※ ことの是非はともかく、日清戦争の戦後処理の一つである遼東半島の日本への割譲が実現されていれば、日露戦争が起きていない可能性や起きたとしても歴史的経緯とはまったく違うものになっていた可能性を指摘することができる。日露戦争最大の激戦地であった旅順港や港を俯瞰する203高地は遼東半島の先端に存在するからである)
日清戦争の戦後処理にまつわるこのような歴史的事実を鑑みれば、「カイロ宣言」にある“盗取シタ”という表現は政治的プロパガンダに過ぎない妄言であり、尖閣諸島どころか、台湾に関してさえ歴史的事実とは異なる不穏当かつ対日侮蔑的な表現である。
(このような政治的プロパガンダの妄言は、ヤルタ協定(米英ソ首脳会談)でも、「二 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ 」というかたちで使われている。そして、ヤルタ協定として合意された「(甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ 」と「三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ」という内容が、敗戦後の日本に樺太南部や千島列島を放棄させる要因となり、今なお続く「北方領土」係争につながっている)
ともかく、尖閣諸島の領有権をめぐる問題については、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」に解を求める手掛かりが存在していないことがわかる。
それゆえ、敗戦で日本が当事者能力を限定されまな板の上の鯉になってから、日本の領土がどのように処理されていったのかをみていかなければならない。
● 「ポツダム宣言」受諾から「休戦協定」=“降伏文書”署名まで
敗戦で国際的な当事者能力を限定された日本政府が、まな板の上の鯉とも言える厳しい状況に置かれていたことは、尖閣諸島問題を考える上でも極めて重要だと考えている。
1945年9月2日、東京湾に浮かぶミズーリ号艦上で、日本と連合国のあいだで「休戦協定」が締結された。連合国側の呼称に従い、日本でも一般的には“降伏文書”の調印と語られている出来事である。
この「休戦協定」の締結により、日本軍は正式に連合国軍に無条件で降伏し、戦闘状態が終結した。そして、「ポツダム宣言」も国際法的に有効なものとなり、日本は、講和条約が発効するまでのあいだ、連合国による占領支配を受け容れることになった。
ミズーリ号艦上で署名された「休戦協定」(降伏文書)の一部を抜粋して示す。
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「日本国と連合国の休戦協定」
合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス右四国ハ以下之ヲ聯合国ト称ス
日本帝国大本営竝ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス
「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス
天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
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「休戦協定」で領土問題に関係する重要規定は、「「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト竝ニ右宣言ヲ実施スル」という部分であろう。
先に引用したように、「ポツダム宣言」には、「八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とあり、「休戦協定」は「カイロ宣言」の内容をも包摂している。
「カイロ宣言」については三首脳の署名もなかったことからその有効性に疑義が出されたりもしているが、「休戦協定」(日本(政府及び軍)・連合国最高司令官・米国・中国・英国・ソ連・豪州・カナダ・フランス・オランダ・NZの各代表が署名)により、「カイロ宣言」の法的有効性が明確になったと言える。
これは、先ほど説明したように、今でも一部で語られているWW2後の台湾の地位が未確定である考え方を排除する一つの根拠となりえるだろう。
「ポツダム宣言」受諾後の経緯として、8月17日に発令されたGHQ一般命令1号で、台湾にいる日本軍は、連合国軍中国戦区総司令官蒋介石に投降するものとされ、中華民国は、台湾行政長官として陳儀氏を派遣し、10月25日、日本軍の投降の手続きを行うとともに光復の宣言を行った。翌46年1月12日、中華民国政府は、台湾および澎湖諸島の住民の中華民国国籍の回復を宣言し前年10月25日に遡ってそれを発効させた。
中華民国によるこのような主権行為が国際的に異議を唱えられることなく進められたことから、連合国において、下関条約で日本に割譲された台湾は、中華民国に引き継がれるという合意があったことが推定できる。
であればなおのこと、当時の中華民国政府が、尖閣諸島を台湾の付属島嶼と考えていたり、尖閣諸島を回復すべき領土と考えていたならば、沖縄県に属していた尖閣諸島について、台湾省への編入を行うなどの行動を起こしえたはずである。
しかし、小さくしかも無人の島の集まりでしかないせいなのかはわからないが、中華民国政府により、尖閣諸島が沖縄県から切り離され台湾に編入されるということはなかった。
中国は、こののち内戦を経て、49年に、旧中華民国領域のほとんどを支配する中華人民共和国と戦後支配権を引き継いだ台湾・澎湖諸島と金門馬祖を支配する中華民国とに分裂する。
● 戦後日本の領土を確定させたサンフランシスコ講和条約
47(昭和22)年頃から日本独立(講和)に向けた動きが始まったが、49(昭和24)年の中華人民共和国成立と50(昭和25)年の朝鮮戦争勃発を受けたかたちで、米国を中心とした一部(多数派)の連合国との講和で日本を独立させる交渉が加速化し、51(昭和26)年9月にサンフランシスコでの講和会議が開催され、9月8日に講和条約の締結がなされた。(49ヶ国が署名)
サ条約が発効し日本が独立したのは、米国の批准書寄託が終わった52(昭和27)年4月28日である。(旧)日米安全保障条約も同時に発効した。
サンフランシスコ講和条約から領土条項を引用する。
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第二章 領域
第二条
(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
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領土に関する第二章の条項を読むとすぐわかるのは、対日講和条約を主導的にとりまとめた米国に関連する領域については“日本が放棄した後”が明確に記されている一方、それ以外の領域については、“日本による権原放棄”が記されているだけというバランスの悪さである。
日本の委任統治下にあつた太平洋諸島そして日本であった沖縄奄美・小笠原など、米国が信託を受けたり支配権を確保したりする領域については、あとからクレームが入る余地を残さないようその後の帰属について書かれているが、「樺太南部と千島列島」そして「台湾及び澎湖諸島」などは、日本が権限を放棄した後どこに帰属するのか明確にされていない。
日本が放棄した後の帰属先は、戦中戦後の連合国内の合意や秘密協定などから推量するしかない。それゆえ、米国政界や日本の一部から、千島列島や樺太南部の領有権は定まっているわけでなくソ連(ロシア)が不当に占領しているという論が提起されたり、台湾についても国際法的地位は未確定という論が主張されたりすることになる。
対日講和を主導した米国は、記述を曖昧にすることでサ講和条約に将来の紛争のタネを埋め込んだとも言えるのである。
(朝鮮半島については、なぜかとってつけたように、権原を放棄した日本国が朝鮮の独立を承認するという不可解な文言が付加されている。朝鮮についてルーズベルト大統領は、43年のテヘラン会談で「40年間は信託統治にすべき」と提案し、45年のヤルタ会談でも「20〜30年間は信託統治にすべき」と主張している。戦後、米英とソ連は中国を加えた4カ国で、朝鮮を5年間の信託統治を経て独立させることで合意した。サ講和会議は朝鮮戦争の真っ只中に開催されたが、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の二つの国家が既に存在していることを考慮したのか、将来の統一国家を含意したものかはわからない。この余分とも思える文言は、「台湾の国際法的地位は未確定」と主張する台湾独立派にとって不利な解釈になる可能性がある。台湾及び澎湖諸島について書かれた(b)項には“独立”云々という表現はないからである)
講和会議にはソ連も参加したが、既に出来上がっていた講和条約案は、領土問題ではヤルタ協定で合意していたソ連の意向をある程度盛り込んではいるものの、ソ連を除外することを想定した内容で修正もされなかったことからソ連は署名しなかった。ソ連が講和会議に出席した目的は、樺太南部と千島列島の放棄(ソ連のものになることを含意)が最終条文にもきちんと残るかどうか確認しにきたものと言えるだろう。
(戦後世界秩序の盟主となった米国は、サ条約第二条(c)がソ連への譲渡を含意している根拠であるヤルタ協定について、アイゼンハワー政権時に「ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効」という“奇妙で不埒な”米国務省公式声明を出した。ヤルタ協定はソ連を対日戦に引き込むための米英ソ合意事項であり、それを“大統領個人の文書”とするような国際秩序破壊言動を平然とできるのは、唯一の超大国となった米国のみと言っているだろう。その声明に日ソの離間を図る意図がどれほどあったかはわからないが、日ソ(露)は今なお領土をめぐって係争を抱え続けている)
ほぼ米国とだけ講和交渉を行った日本は、49(昭和24)年の時点で、ソ連を除外する米国主導の講和条約になるとの見通しをもっていた。
なんとか一日も早く独立し国際社会に復帰したい日本とアジアにおける世界戦略の要石として日本を抑えつつ活用したい米国の思惑が交錯したりシンクロしたりするなかで、日米は講和に向けた交渉を続けた。
日本政府上層部は、この交渉過程を通じて、対米従属意識をしっかり植え付けられた。
それは、沖縄・小笠原諸島の“信託統治”(将来の独立を含意する)条項についてさえ抵抗をやめ、米国が日本の防衛責任を負わない(日本に自衛力がないことが理由)かたちでの米軍駐留を認める「日米安全保障条約」を受け容れたことでよくわかる。
敗戦した日本は、占領期を通じて、現在なお続く政治的権力の対米従属の基礎がしっかりと固められたのである。
日本の「戦後レジーム」は、まさに、占領期間に出来上がったものである。
安倍氏は「戦後レジーム」の解体を語ってきたが、「戦後レジーム」は米国との関係性を軸とするものだから、その解体を叫ぶことで解体することはできない。
「戦後レジーム」の解体は虎の尾を踏む危険な話であり、貧弱な野党ならともかく、政権を担うような有力政治家がそれを取り上げれば確実に潰されることになる。
「戦後レジーム」を本気で解体したいのであれば、それを広言せず、日々の政治過程で気がつかれないようにゆっくり対米従属から離脱していく方法しかない。
安倍首相の表立った勇ましい「戦後レジーム」解体発言は、愛国右派を気取るための空虚なセリフでしかないのである。
対米従属を特質とする「戦後レジーム」にどっぷり浸ることで政治的権益を手にしている政治家たちが中心となって、より過激な国家主義的右派保守的発言を繰り返しているところに日本が抱えている宿痾を見ることができる。
彼らは、自らの対米従属的特性を覆い隠したり、対米従属で鬱屈した国家間関係の憂さを晴らしたりするために、露骨なまでに国士や愛国者を気取った言動を行っているのである。
戦勝国が、占領から離脱して独立国家になった敗戦国に、軍隊の駐留を認めさせるなど従属的立場を強いるような政策を強制することは、国際法に照らすと難しい。
生殺与奪権を握っている占領支配期に、一般国民もだが日本の支配各層を精神的な鎖につなぎとめ、独立と支配権の継続をエサにして対米従属を利と考える支配層を育成しておかなければ、現在に至る日米関係は構築できなかったはずである。
(今の日本では日米同盟=米軍駐留こそ日本の安全保障と語る愚劣な政治家も多いが、当時の日本で、独立した後も外国の軍隊が国内に駐留し続けることを認める政策を心から認める人はごくわずかだった。だからこそ、米国は、ずぶずぶの“親英米派”であった吉田茂首相をサ講和会議に出席させるよう強く求めたのである。賠償問題(フィリピンやインドネシア)などもあるが、他の“まっとうな”全権が講和会議にやってきて、沖縄・小笠原諸島の“信託統治”条項に疑問を呈して紛糾させたり、サ条約だけに署名して、そのあとの日米安全保障条約締結からは逃げてしまうような事態を憂慮したのである。サ条約だけの締結であれば、サ条約第六条の(a)項に書かれている「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない」という規定に従い、米国も、軍隊を日本から撤退させなければならなくなる。サ条約も批准されなければ発効はしないのだが、米国側が安保条約の非締結を理由に批准をサボタージュすれば、国際的にみっともない姿をさらすことになる。日米安全保障条約は、サ条約の署名が終わったあと、米陸軍第六司令部で日本側として吉田首相全権ひとりが署名するかたちで締結された)
ソ連は対日講和会議に出席しながら講和条約への署名に至らなかったが、米英ソと並ぶ連合国の主要メンバーである中国は、中華人民共和国・中華民国のどちらも講和会議に招請さえされなかった。
沖縄などを米国の生殺与奪に委ねるサ条約第三条は、尖閣諸島の領有権問題と大きく関わるものである。なぜなら、米国は、サ条約第三条を根拠に、72年まで尖閣諸島を含む南西諸島への支配を継続したからである。
中華民国や中華人民共和国の政府は、今現在主張しているように、沖縄県に属する尖閣諸島が台湾の付属島嶼と判断し日本から返還されるべきものと考えていたのなら、51年の時点でサ条約第三条が適用される領域をきちんと確認すべきだったし、53年の琉球列島米国民政府布告第二十七号で、尖閣諸島がアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることが明確になった時点できちんとクレームをつけなければならなかったはずである。
たとえ小さな無人島群のことであるにしても、それが、近代主権国家の政府に課された重要な役割の一つであり義務でもある。
(サ条約第三条では、南西諸島などについて、「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」となっているが、実質的に占領支配と言える状態が続くかたちになり、信託統治については移行を図ることさえなかった。信託統治に移行すれば軍事基地の強化が困難になるという点で躊躇もあっただろうが、穿った見方をすれば、対象領域の将来的独立を含意している信託統治をちらつかせることで、日本政府の対米従属度をより深めさせる意図があったとも言える。日本政府は、米国に対し、該当地域を信託統治に移行しないよう働き続けたはずである)
中華人民共和国は、対日講和問題について、サ講和会議が開催される直前の8月15日に周恩来外相の名で声明を発している。
その声明は、サ講和会議について、「中華人民共和国を除外している限り、これまた国際義務を反古にし、基本的に承認できない会議」であり、「連合国宣言は、単独で講和してはならないと規定している」ことに反するものと糾弾している。
そして、日本の領土に関する条項についても、「領土条項における対日平和条約アメリカ、イギリス草案は、占領と侵略を拡げようというアメリカ政府の要求に全面的に合致するものである。一方では草案は、さきに国際連盟により日本の委任統治の下におかれていた太平洋諸島にたいする施政権の他、更に琉球諸島、小笠原群島、火山列島、西鳥島、沖之鳥島及び南鳥島など、その施政権まで保有することをアメリカ政府に保証し、これらの島嶼の日本分離につき過去のいかなる国際協定も規定していないにもかかわらず、事実上これらの島嶼をひきつづき占領しうる権力をもたせようとしている」などと、極めてまっとうな批判を展開した。
前述したが、中華人民共和国の声明も、「台湾及び澎湖諸島」や「千島列島及び樺太南部」についても、日本が一切の権利を放棄すると規定しているだけで、中華人民共和国やソ連に引き渡すという連合国における合意について一言も触れていないと米国の意図を強く批判している。
現在南シナ海領有権問題と言われ騒動になっている南沙諸島や西沙諸島についても、「西沙群島と西鳥島とは、南沙群島、中沙群島及び東沙群島と全く同じように、これまでずっと中国領土であったし、日本帝国主義が侵略戦争をおこした際、一時手放されたが、日本が降伏してからは当時の中国政府により全部接収された」と述べ、それらの島々に対する誰も犯すことのできない中国の主権を宣言している。
これだけの批判を展開した周恩来氏の声明だが、尖閣諸島についてはまったく触れられていない。
日本の領土処理に関する興味深い文書として、サ講和会議に出席したソ連が提議した領土の規定内容に関する修正文書がある。
サ講和会議で9月5日に示されたもので、領土規定の第二条について、「(b)及び(f)項の代りに次の項を含めること。すなわち、「日本国は、満州、台湾及びこれに接近するすべての諸島、澎湖諸島、東沙島、南沙群島、マクスフィールド堆、並びに、西鳥島を含む新南群島に対する中華人民共和国の完全なる主権を認め、ここに掲げた地域に対するすべての権利、権原及び請求書を放棄する」という内容である。
サ条約に較べるとずっと具体的で、日本が放棄した後の帰属先も明確になっている。
最終のサ条約第二条(b)は、「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」というもので、(f)は、「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」というものである。
最終のサ条約は、日本政府により台湾の高雄市に編入されていた新南群島及び西沙群島の領有権について、台湾及び澎湖諸島と切り離し別立ての項としており、米国の“深慮遠謀”が窺える。
ソ連案では「台湾及びこれに接近するすべての諸島、澎湖諸島」と書かれているので、ソ連案が採用されていれば、“台湾に接近する諸島”を特定する段階で、尖閣諸島がそれに該当するかどうか議論の対象になった可能性がある。
※ 西鳥島は、日本名で、南威島とも呼ばれる。現在、ベトナムが実効支配している。中国は、最近、ベトナムとのあいだで、南威島の領有権問題を棚上げすることに合意した。
● 米国の差配に従って締結した「日華平和条約」
敗戦した日本の独立を認めるサンフランシスコ講和条約は、アジア太平洋戦争で最も長く戦った相手である中国との講和が除外されているという実に異様なものである。
そのため、日本は、サ講和条約が発効する52年4月28日、中華民国とのあいだで日華平和条約を締結することになる。
このシリーズの2つ目である「関係改善が見えてきた日中関係:日中両国民の多数が納得できる解決策を」で書いたが、日中戦争の災厄に見舞われた数億の人々が暮らす肝心の大陸を支配する中華人民共和国政府を敵対視し、日中戦争の一つの当事者であるにしても、内戦に敗れかつて日本領であった台湾をほぼ全領域とする中華民国とのみ平和条約を締結することで、日中の戦争状態に決着をつけたと主張した当時の日本政府は、米国支配層の意に従ったとは言え、恥ずべき態度を世界にさらしたと言えるだろう。
国会のサ条約批准審議の過程でも取り上げられたが、まっとうな政治家や外交官は、政治的立場の違いは別として、先の大戦にきちんと決着を付けるためには大陸中国を実効支配している中華人民共和国との平和条約締結が必要不可欠と考えていた。
日本政府が中国との講和条約の交渉・締結の相手として中華人民共和国もしくは中華民国のどちらを選択するかという問題について、米国と英国は、日本の決定に委ねるとしていた。
しかし、狡猾な米国トルーマン政権は、対外政策でタカ派のダレス氏を対日講和条約について国務長官を補佐する特別大使として日本に派遣し、米国議会でサ条約の批准審議がスムーズに進むという説明を付けて、中華民国を講和交渉の対象とする意思があるか日本政府に質した。
中国との講和について中華民国と交渉することに依存がないと回答した「吉田書簡」は、米国議会上院外交委員会でサ条約の批准審議が開始されるタイミングで公表された(52年1月15日)。
我が国の支配層に対して好意的過ぎる見方かもしれないが、独立に向けサ講和条約の批准を人質に取られている日本は、米国連邦議会の意向をダシに、中華民国との講和条約締結を迫る米国政府の意向を受け容れるしかなかったとも言える。
「日華平和条約」締結は、対米従属の大きな証の一つである。米国支配層は、このように、大きな政治的節目の一つ一つで対米従属を受け容れるしかない状況をつくり、その積み重ねにより、日本政府が“自ずと”対米従属を深めていくよう仕掛けたのである。
「日華平和条約」は、サンフランシスコ講和条約を受けるかたちで残された主要交戦国である中国のある部分との講和を意図したものである。
サ条約では第三条で尖閣諸島を含む領域が米国の施政権もしくは信託統治に置かれるものと規定しているので、「日華平和条約」は、日中間で尖閣諸島の領有権問題が浮上する隙間がほとんどなかったと状況で締結されたと言えるだろう。
言い換えれば、世界の盟主である米国のものになった領域に異を唱える国家は希少で、とりわけ、米国の庇護下で生存を図る中華民国が米国に異を唱えることは難しい。
そのようなわけで、「日華平和条約」はどのようなものだったのかを確認する目的で取り上げたいと思う。
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「日華平和条約」
第一条
日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。
第二条
日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、台湾及び澎湖諸島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される。
第三条
日本国及びその国民の財産で台湾及び澎湖諸島にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で台湾及び澎湖諸島における中華民国の当局及びその住民に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする。国民及び住民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。
第四条
千九百四十一年十二月九日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつたことが承認される。
第五条
日本国はサン・フランシスコ条約第十条の規定に基き、千九百一年九月七日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される。
第十条
この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含むものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす。
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第二条でわかるように、「日華平和条約」でも、日本が領有権原を放棄した台湾及び澎湖諸島の帰属先は明記されていない。
連合国に対し放棄を認めた日本側にすれば、その先どうなるかは連合国次第で日本の預かり知らぬことだから、放棄した領域の帰属先を“勝手に”明確化するような条約に署名するわけにはいかないと考え、中華民国側にすれば、日華間の平和条約でわざわざ取り上げたことで、実質的に、台湾及び澎湖諸島が中華民国に帰属すると両者が認めたことになると考えたのであろう。
そうは言いながらも、第十条の規定で、日本も、間接的に台湾及び澎湖諸島に対する中華民国の主権=領有権を認めている。
第十条には、「中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含む」とあり、台湾及び澎湖諸島に対する中華民国の主権行為を日華双方が認めている。
日華平和条約は、第四条で、1941年12月9日より前に日本と中国との間で締結されたすべての条約類は戦争の結果として無効になったとしているが、日本を含む多国籍軍と清の戦争であった義和団事件(北清事変)の最終議定書の取り扱いについては、わざわざ第五条で別に取り上げている。
このような取り扱いになったのは、中華人民共和国との関係になるので現実的な実効性は別として、最終議定書にある「公使館周辺区域における警察権の戦勝国への譲渡」や「海岸から北京までの諸拠点での戦勝国駐兵権」といった中国の主権制限条項が、日華平和条約時点でなお有効であったことを示唆する。先の大戦の敗北により、日本だけがその権利を喪失したわけである。
清の時代のえぐい戦争に起因する戦勝国の権利が、中華民国そして中華人民共和国と50年の歴史を経てもなお生きているほど、近代国際法は厳しいのである。
尖閣諸島の領有権問題が日中間の係争として火を噴くのは、沖縄返還協定の交渉内容が明らかになった時点である。
中国が1895年以降初めて尖閣諸島の日本領有(支配)に抗議したのは、中華民国が、沖縄返還協定の調印(71年6月17日)直前の6月11日である、中華人民共和国が、その年の暮れ12月30日なのである。
この期に及んでとも形容できる抗議が起きた理由として、二つの要因が考えられる。
一つは、 1968年に、尖閣諸島周辺の海底にそれなりの規模の埋蔵量を有する油田がある可能性が指摘されたことである。これは、小さな無人島群でしかなく、せいぜい米軍が一部の島を射爆演習場としているところと思われてきた尖閣諸島を大きくクローズアップさせる契機となった。
もう一つは、サ条約第三条に従えば、日本に返還されることにはなりにくい領域が返還される現実が生じ、いわゆる地政学的条件が変わる可能性を見たことである。
中華人民共和国は、ソ連というより自国を標的にしていると思える軍事基地機能強化を伴う米国の沖縄支配に反対し、日本に返還すべきとも主張していたが、かつての宿敵日本が中国大陸の南岸沿い領域を再び手中にし、台湾本島近くまで迫ることをこころよくは思わなかったはずである。
中華人民共和国は、日本の尖閣諸島領有に抗議の声明を出す直前の71年10月には連合国(国連)での代表権を獲得している。米国との関係改善が進むなか、米国よりも日本のほうを脅威と考えるようになっていた。米国より日本を脅威と考え、米国に日本を抑え込む役割を期待する考えは今なお続いている。
沖縄返還協定は、米中関係がちょうど変わるタイミングで締結されたのである。
中華民国にしても、“沖縄返還協定”は東アジアにおける米国の軍事的プレゼンスが後退していく傾向の一つと映った。
沖縄返還協定が発効し沖縄が日本となった72年、新たに首相となった田中角栄氏が訪中し「日中国交正常化」を果たした。
「日中平和条約」の締結は78年だが、田中訪中での「日中共同宣言」が、日中間の戦争状態を最終的に終わらせたと言えるだろう。
尖閣諸島領有権問題が取り上げられ“棚上げ”にされたという有名な話は、この田中訪中時の周恩来首相(当時)との打ち合わせに関するものである。
“棚上げ”問題は2で既に取り上げているので詳しくは書かないが、中華人民共和国政府(中国共産党指導部)が尖閣諸島に対する領有権に正当性を確信していたのなら、実効支配をしている日本政府に“棚上げ”を言う日和見主義的な対応はしなかったはずである。“棚上げ”はすなわち現状維持だからである。
最近行われた民間世論調査で、日中両国民の90%以上が相手国に否定的な印象を持っており、その原因が尖閣諸島をめぐる領有権の対立にあると見られている。
日中の友好関係をことさら演出する必要はなく、それぞれが、日常的な付き合いのなかで生じる感情やイメージに基づき相手国に対する好悪を判断すればいいと思っているが、統治者やメディアの“煽り”的言動で両国民が憎悪を募らせるのは愚の骨頂である。
「雨降って地固まる」ではないが、ここまでこじれた日中関係を改善するにあたっては、その場しのぎや小手先の妥協ではなく、多くの国民が問題の本質を理解できる内容で解決を図ってもらいたいと切に願っている。
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