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株式日記と経済展望
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どこの国も、自分の国の歴史的ふるまいの正しさを過大評価し、
誤謬や非行は過小評価するか、そもそも「なかったこと」にする。内田樹
2013年6月5日 水曜日
◆歴史記述について 6月3日 内田樹
http://blog.tatsuru.com/2013/06/03_1138.php
歴史研究者協議会というところから講演依頼があり、「国民の歴史」について話すことにした。レジュメの提出を求められたので、こんなことを書いた。実際には字数の制約があって、もっと短いのだが、ブログ用に少し書き足した。
歴史認識問題というものが存在する。平たく言えば、歴史の認識が「国ごと」に違っているということである。最近では日中・日韓・日米の「歴史認識」の違いが外交関係をぎくしゃくさせている。
あらゆる国民国家は自国の起源を有史以前の遠い過去に遡らせようとし、未来永劫に存在し続けるものとして表象する。平成25年は皇紀2673年であるから建国は紀元前660年。隣国の壇君朝鮮はもっと早くて紀元前2333年の建国という話になっている。同じく、どの国も永遠に存続するという前提を採用している。中央銀行が発行する紙幣の価値を担保するのは「未来永劫に続く国家」だけだからである。
どこの国も、自分の国の歴史的ふるまいの正しさを過大評価し、誤謬や非行は過小評価するか、そもそも「なかったこと」にする。たぶん人々はそれぞれの国が勝手な歴史を書くことを当然の権利だと思っているのだろう。けれども、国民国家ごとに歴史認識が異なるというのは、一定の歴史的条件が整ったために生まれた一過性の現象であり、それゆえそれ自体が歴史学の研究対象であるべきだと私は思っている。
近代国民国家が制度的に認知されたのは1648年、ウェストファリア条約においてである。このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。誕生の日付が存在する制度であるから、いずれ賞味期限が切れる。
そして今、私たちは国民国家という政治制度そのものの「終わりの始まり」に立ち合っている。「世界のフラット化」を志向するグローバル資本主義がその障害となる国民国家を空洞化する方向に踏み出したからである。国民国家がその存立条件としているすべてのもの−国境線・固有の言語・固有の貨幣・固有の度量衡・固有の商習慣など−は資本・商品・人間・情報のボーダーレスな移動を求めるグローバル資本主義にとって単なる「障壁」以外のものではない。多国籍産業やヘッジファンドは国境を開放し、ビジネスランゲージも決済通貨も度量衡も統一することを求めている。企業が短期的に巨大な収益を上げ、CEOや株主たちが個人資産を最大化する上で端的に「国民国家は邪魔になった」ということである。
私たちの国でも、このグローバル化に即応した「歴史の書き換え」が進行している。「慰安婦問題」や「南京事件」について日本を免罪しようとする「自虐史観論者」たちの語る歴史がそれである。彼らが「慰安婦制度に軍部は関与していない」とか「南京事件などというものは存在しなかった」ということをかまびすしく言い立てるのは、その主張が国際的に認知される見通しがあるからではない。全く逆である。日本以外のどこでも「そんな話」は誰も相手にしないということを証明するために語り続けているのである。
彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。彼らは自分たちが語っている自国史のコンテンツについての同意を求めているのではなく、「誰もが自己都合に合わせて、好きなように自国史を書く権利をもつ」ことにについての同意を求めているのである。
あらゆる国家は歴史を自己都合に合わせて捏造する。だから、およそこの世に、国際社会に共有できるような歴史認識などというものは存在し得ない。「国民の歴史」は原理的にすべて嘘である。だから、誰もが歴史については嘘を語る権利がある。これが自虐史観論者たちが(たぶんそれと知らずに)主張していることである。誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。彼らはそう考えているのである。
この論法は「慰安婦制度」について、どの国にも似たような制度があると言い募った大阪市長のそれと同じである。誰もが自己利益のために行動している。私はそれを咎めない。だから、諸君も私を咎めるな。
この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。
同じことが歴史記述においても起きようとしている。誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。このシニスムが深く浸透すれば、いずれあらゆる「国民の歴史」を、自国の歴史でさえ、誰も信じない日がやってくる。彼らがめざしているのは、そのことなのである。
「国民の歴史」とはどこの国のものも嘘で塗り固められたデマゴギーにすぎないという判断が常識になるとき、人はもう誰も歴史を学ぶことも、歴史から学ぶこともしなくなる。そのとき国民国家は終わる。国民国家は「国民の歴史=国民の物語」を滋養にしてしか生きられない制度だからである。そして、それが滋養として有効であるためには、どのようなかたちであれ、「他者からの承認」が要る。他者からの承認を持たない物語、「その『歴史=物語』を信じるものが自国民以外にひとりもいないような『歴史=物語』」を服用しているだけでは、国は生き延びることはできない。
だが、今起きているのは、まさにそういうことである。ウェストファリアシステムが有効だった時代に、人々はそれぞれ自己都合に合わせて「勝手な歴史」を書きながらも、複数の矛盾する記述がいつか包括的な歴史記述のうちに統合されて、各国の自国史がその中の「限定的に妥当するローカルな真実」になることを夢見ていた。だが、グローバル化の時代には、もう誰も「包括的な歴史記述」を夢見ることはない。もうそんなものは必要がないからだ。もう国民国家を存続させる必要がないからだ。
(私のコメント)
「株式日記」では「大東亜戦争はまだ終わってはいない。思想戦言論戦が残っている」と書いてきました。なぜならば大東亜戦争の評価ですら日本ではばらばらであり、戦後教育では日本は侵略戦争をした犯罪国家として教えられて来た。その歴史観はアメリカによって書き換えられたものであり、多くの日本の思想書や歴史書はGHQによって焚書処分され、多くの学者や言論人が公職を追われてマルクス主義者が後を埋めた。
戦後の日本をアメリカは永久的な農業国に改造する予定でしたが、日本やドイツという国が無くなり直接ソ連や中国と言う共産主義国家と対峙するようになって、アメリカはようやく共産主義の正体に気がついたようだ。アメリカでは赤狩りが行なわれて国務省内にいた多くの共産主義者が追放された。戦後のアメリカ軍の占領統治には多くの共産主義者も混ざっていた。
しかし朝鮮戦争が始まると、共産主義の脅威に直面して、東ヨーロッパ諸国やアジア諸国の多くが次々とドミノ倒しのように共産主義政権が誕生した。そしてアメリカは戦前の日本と同じ局面に立たされて極東アジアとインドシナ半島で戦争をした。にも拘らずアメリカは今でも日本をアジアを侵略した国家と断罪している。「村山談話」の見直しをアメリカは認めない。
アメリカの歴史学者の中には、驚くほど率直に日本の立場を理解している学者もいるが、政治外交的にはアメリカの占領統治を続けるには、日本の正当性を認めるわけには行かない。せっかく確保したアジアの橋頭堡を手放すわけには行かないからだ。しかし中国が強大化してくればアメリカは中国に対抗できずにアジアから追い出されるだろう。
日本が一時期東アジアを支配したように、アメリカも東アジアを支配するには日本を押さえておかなければならない。戦前のアメリカはフィリピンを植民地にしていたがフィリピンでは中国に進出するには南すぎる。ヨーロッパのハートランドがポーランドであるように、東アジアのハートランドは満州にある。
このように大東亜戦争一つとっても歴史的評価は時代や国によって評価は変わってくる。歴史学では事実は何であったかを追求しますが、何年何月に何があったかを認定はしてもその評価は、思想や政治学の分野の担当になる。しかし大東亜戦争でないが起こったのかの事実認定もはっきりしない事も多く、アメリカですら多くの文書が公表されていない。
最近の従軍慰安婦の問題や南京大虐殺の問題はあったのか無かったのかの事実認定もはっきりせず、中国や韓国は証拠もなしにプロパガンダしてくる。内田氏は、「国民国家ごとに歴史認識が異なるというのは、一定の歴史的条件が整ったために生まれた一過性の現象であり、それゆえそれ自体が歴史学の研究対象であるべきだと私は思っている。」と書いていますが、国ごとに歴史的評価は異なり時代と共に評価が変わるのは当然だ。
テレビドラマでも「新撰組」がよく出てきますが、昔は凶悪な武装集団として描かれていた。ところが最近では「新撰組」はヒーロー的に描かれる事が多い。司馬遼太郎の小説の影響が大きいのでしょうが、近藤勇や土方歳三や沖田総司はヒーロー的に描かれる事も多くなりました。このように歴史的人物も評価は時代と共に変わるし、可能性としては東条英機ですら今ではバカの代名詞ですが時代が立てば英雄として評価されるかもしれない。
そもそも国民国家の歴史も、日本人には昔からあったように思っていますが、内田氏は、「近代国民国家が制度的に認知されたのは1648年、ウェストファリア条約においてである。このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。」と書いています。
日本だって日本国と認識されるようになったのは明治時代に入ってからであり、それまでは幕府や藩が国として認識されて来た。その他のアジアだって王朝はあっても国家ではなく、中国や韓国の国家としての歴史は戦後建国された国家であり、文字まで変わってしまった。アメリカも新しい国であり固有の領土と言うものは無く原住民や他国から奪ったのを領土としている。もしかしたら日本もアメリカの領土なのかもしれない。
国民国家という歴史も、長い歴史から見れば出来立てほやほやの新しい概念であり、将来は国民国家という存在そのものが無くなるかもしれない。内田氏は、「国民国家がその存立条件としているすべてのもの−国境線・固有の言語・固有の貨幣・固有の度量衡・固有の商習慣など−は資本・商品・人間・情報のボーダーレスな移動を求めるグローバル資本主義にとって単なる「障壁」以外のものではない。」と書いていますが、国家に所属しない組織が国家以上の存在になりつつある。
国民国家後言う概念は一時的なものであり、王朝的なものがグローバル企業として甦ろうとしている。日本でもトヨタ藩や日立藩やパナソニック藩が群雄割拠して、多国籍化して日本に税金も払わない企業が出てきた。アメリカやイギリスも同じでありアップルやアマゾンやグーグルは英国で稼いでも英国に税金を支払わない。
これらのグローバル企業は、地図帳には見えない帝国を形成しており、アメリカやイギリスといった国家をも植民地にしているようだ。しかしゴールドマンサックスやモルガンスタンレーなど儲かっている時は帝国としてしたい放題の事をしているのに、倒産しそうになるとアメリカ政府に泣きついて、国民の税金を救済資金として得ている。
中国や韓国は反日を国是として日本製品不買運動をしている。日本製品を買わずに国産品を買おうと言うことなのでしょうが、彼らにとっては反日=愛国であり、日本を犯罪国家とするアメリカの歴史観と利害は一致する。このような状況を打ち破るには、米中韓に対する思想戦や言論戦で打ち破らなければなりませんが、それは学者や思想家の役割であり、政治家が口出しすれば外交問題になる。
日米は同盟国でありながら、東京裁判史観で日本を従属化させておかなければならない。だから「河野談話」や「村山談話」を否定する事は許さない。しかし橋下大阪市長や河村名古屋市長などが独自の歴史観を述べるようになりアメリカ政府はいらだっている。市長の首を飛ばしたところで国政は牽制できないから、国民レベルで東京裁判史観が覆されればアメリカとしてもどうすることも出来ないだろう。アメリカはそれを恐れている。
東京では毎月のように日の丸デモが起きるようになりましたが、ニューヨークタイムズを始めとして日本批判を強めている。日本国民はネットの言論を起点として行動を起こし始めた。橋下大阪市長の発言は大きな反響を呼びましたが、米中韓に対する思想戦、言論戦の反撃は始まったばかりであり、アメリカ軍の軍事基地が日本国内から無くなるまで続けられる。でなければアメリカによる日本の植民地支配が終わらないからだ。
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