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今日は5月8日です。
5月8日は、ヨーロッパで第二次世界大戦が終結したとされる日です。
その日にちなんで、或る逸話を紹介したいと思ひます。
それは、ドイツの国歌が、戦後、どの様にして、再び演奏される様に成ったか、と言ふ逸話です。
戦後、連合軍によって演奏を禁止されて居たドイツ国歌を最初に演奏したのは誰だったのか?
その時、その場に居た日本人の回想をお読み下さい。
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今から47年前のことです。当時、厚生省の社会保険局庶務課長だった私は、国連の招きで社会保障の勉強のため半年間、ロンドンに滞在する機会を得たんです。あちらに着いて草々、新聞でフルトヴェングラーとベルリン・フィルの来英を知り、一緒に来ていた同僚とふたり、さっそく切符を購入しました。決して音楽通じゃない私でもその名前は知っていましたからね。お金がなかったから買ったのは桟敷席。当時10シリングほどだったでしょうか。
1953年4月22日、ロイヤル・アルバートホールは満席でした。日本人は我々だけだったでしょう。舞台に姿を現したフルトヴェングラーの顔は異常に青白く、どこか悪いのだろうか、と思ったのを今も覚えています。それから2年もせずに亡くなったのですから、この頃からすでに体を悪くしていたんでしょうね。
欧米では外来演奏家の場合、まずホストカントリーの国歌、続けて自国の国歌を演奏し、聴衆はそれを起立して聴くのが慣例ですが、いまだ反独感情の根強く残っていたこの時代、ドイツ国家の演奏は禁じられていました。ですから、英国国歌の演奏が終わると聴衆はみな着席し、この日のプログラムの第1曲目を心待ちにしたのです。ところが、フルトヴェングラーの指揮一閃、続いてベルリン・フィルが奏でたのは、「ドイッチュランド・ユーバー・アレス(世界に冠たるドイツ)」でした。いまだ戦禍のあとも生々しい旧敵国に乗り込んでのこの所業、イギリスの聴衆がどんな反応を示すか−−。かたずをのんで見守る私の目の前で繰り広げられたのは信じられない光景でした。ホールを埋めた千人以上の聴衆が次々と起立し、ドイツ国歌に敬意を表したのです。私たちも、いつのまにか彼等にならっていました。フルトヴェングラーの毅然たる姿勢、気迫に圧倒されてしまったんです。
その後、フルトヴェングラーは何ごともなかったかのように、バッハ「組曲第2番」、ラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」、シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ブラームス「交響曲第2番」のプログラムを予定通り演奏しました。ですが、どんな曲よりも強烈な印象を残したのは、あのドイツ国歌です。
これはフルトヴェングラーであればこそなしえたことで、他の演奏家だったら、暴動になっていたかもしれません。実際、イギリスの新聞にはフルトヴェングラーの行為、さらにそれを是とした聴衆を批判する論文も掲載されました。
後にわかったことですが、これが戦後初のドイツ国歌公式演奏だったそうです。クラシック好きの友人は「音楽のわからんお前にだけは聞かせたくなかった」と随分くやしがっていましたね。
(伊部英男(いべ・ひでお/1921年生まれ。財団法人年金総合研究センター理事長))グラモフォン・ジャパン(新潮社・2009年9月号))
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これが、ドイツ国歌が、戦後初めて演奏された際のいきさつだったのです。
毎年、5月8日が来ても、日本人の大多数は、この日を意識する事が有りません。私は、それを残念に思ふ少数派の日本人ですが、ドイツ国歌が、戦後初めて演奏された時、そこに日本人が居た事を誇りに思ひます。
2013年(平成25年)5月8日(水)
西岡昌紀
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