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英首相や仏大統領がインドやアルジェリアで謝罪しなかったからといって、マスコミ、識者たちが大騒ぎしているという話は聞かない
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/752.html
投稿者 TORA 日時 2013 年 3 月 17 日 13:46:41: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu284.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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今回、英首相や仏大統領がインドやアルジェリアで謝罪しなかったからといって、
地元の政府やマスコミ、識者たちが大騒ぎしているという話は聞かない。産経新聞

2013年3月17日 日曜日

◆千年経てば… 韓国、執拗な要求は未完の対日独立戦争の代わり 3月16日 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130316/kor13031611210001-n1.htm

キャメロン英首相が2月、インドを訪れ、植民地時代の1919年に北部パンジャブ州で起きた「アムリトサル虐殺事件」の現地で犠牲者の慰霊碑に参拝した。この事件は集会のインド人群衆に英軍が発砲し数百人の死者が出たもので、インド独立運動の大きなきっかけになったものだ。

 英首相の現地訪問は初めてでキャメロン首相は慰霊碑に献花し「英国史において深く恥ずべき出来事。われわれは決して忘れてはならない」と記帳したが「謝罪」はしなかったという。

 キャメロン首相は謝罪しなかったことについて「私が生まれる40年以上も前に起こったことにどう対処すべきなのか。私がすべきことは歴史をさかのぼって謝罪できることを探すのではなく、起きたことについて敬意と理解を示すことだ」と述べたという。

 フランスのオランド大統領も昨年12月、旧フランス植民地のアルジェリアを独立50周年を機に訪問し議会で演説した。演説は「われわれは植民地主義という残虐で不公正な制度の下で暴力、不当行為、虐殺、拷問などの忌まわしい事件を引き起こし、多くの苦痛をもたらした記憶を尊重する義務がある」と述べたが、ついに謝罪の言葉はなかったという。

 これはエリザベス女王のインド訪問やミッテラン仏大統領のベトナム訪問、オランダのベアトリックス女王のインドネシア訪問の時も同じだった。

 過去の植民地支配について他の国は謝らないが、日本は韓国に対し共同宣言(1998年)を含め何回、謝ったことか。それでも韓国は承知しない。ということは、この件は日本側に問題があるのではなく、韓国側に特殊な事情や考え方があるためと思わざるをえない。

今回、英首相や仏大統領がインドやアルジェリアで謝罪しなかったからといって、地元の政府やマスコミ、識者たちが大騒ぎしているという話は聞かない。結局、インドもアルジェリアもそしてベトナム、インドネシアも独立戦争(闘争)で独立を勝ち取ったため、いまさら旧支配国に謝罪を求めても意味はないと思っているのだ。

 ましてや「反省」などは、やられた方が過去を反省し、再びやられないように肝に銘じて自ら努力すべきことで、加害者に反省させても意味はないと思っているに違いない。

 日本に対する韓国の執拗(しつよう)な「謝罪と反省」要求は過去、自ら果たせなかった未完の対日独立戦争の代わりだから際限がないのだ。

 インドでのアムリトサル虐殺事件と同じ1919年、韓国でも「3・1抗日独立運動」が起きている。長期間続いたため犠牲も多かった。今年、「3・1節」の政府主催記念式典で朴槿恵(パク・クネ)・新大統領が日韓関係について「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わることはできない」と述べ話題になった。

 しかし千年も経(た)てば世界は変わる。韓国が加害者で日本が被害者になっているかもしれない。

 過去にも千年にはならないが、800年ほど前には中国(元)が韓国(高麗)を手先に日本に侵攻したことがあった(元寇)。いつ何があるかわからない将来に備えようというのが歴史の教訓だろう。相手に要求してもはじまらない。(ソウル・黒田勝弘)

(私のコメント)


韓国や中国の反日感情は、70年も前のことが持ち出されて、中国政府や韓国政府執拗に謝罪を求めてきますが、日本は27回も謝罪している。回数が多くなればなるほど日本は心から謝罪していないと言いがかりをつけてきます。確かに日本は朝鮮や中国(満州)を植民地支配しましたが、ロシアの南下政策に対抗したものであり、中国(清)や朝鮮はロシアに対抗できなかった。

今から考えれば、日本は大陸には手を出すべきではなかったが、ロシアが南下すれば中国を植民地支配していたイギリス、フランスが脅威を受ける。日露戦争前には満州をロシアは実質支配していましたが、イギリスのロスチャイルドが金を出して日本とロシアの戦争が起こった。だからこそ途中で米英の仲介で講和が出来ましたが、米英の利権を守る為でもあった。

しかし中国や韓国では、このような歴史を学んではおらず、現在の中国や韓国の歴史は日本の植民地支配から始まる。中国や韓国の近代国家としての歴史は日本の統治から始まったのであり、教育制度からインフラの整備まで日本からの投資で出来たものだ。このような歴史も中国や韓国では教えておらず、歴史記念館では警察官による拷問の場面が蝋人形で展示されている。

日本の政治家は、何度も何度も中国や韓国に謝罪を繰り返してきましたが、同じような立場にあるイギリスやフランスは旧植民地に謝罪を繰り返してきただろうか。しかし『英首相の現地訪問は初めてでキャメロン首相は慰霊碑に献花し「英国史において深く恥ずべき出来事。われわれは決して忘れてはならない」と記帳したが「謝罪」はしなかったという。』と言う事ですが、どうしてなのだろうか?

フランスも、『フランスのオランド大統領も昨年12月、旧フランス植民地のアルジェリアを独立50周年を機に訪問し議会で演説した。演説は「われわれは植民地主義という残虐で不公正な制度の下で暴力、不当行為、虐殺、拷問などの忌まわしい事件を引き起こし、多くの苦痛をもたらした記憶を尊重する義務がある」と述べたが、ついに謝罪の言葉はなかったという。』と言う事ですが、どうしてなのだろうか?

「河野談話や」や「村山談話」や「小泉談話」など日本の政治家は、事あるごとに謝罪を繰り返して来た。それは中国や韓国が何度も謝罪要求してくるからですが、それは賠償要求と絡んでいるからだろうか? 戦後において日本は賠償と言う名目で経済援助してきたからですが、だから中国や韓国は経済援助を謝罪と共に求めているのだ。

従軍慰安婦問題も個人賠償問題であり、韓国政府と慰安婦達の問題なのですが、日本に責任転嫁して来ている。しかし当時も朝鮮人による自治政府であり、地方議会議員も警察官もほとんどが朝鮮人だった。そのような状況で20万人も慰安婦が日本軍に強制連行されたというのは無理がある。むしろ朝鮮人の悪徳業者が朝鮮の娘達を売り飛ばしていた。それが朝日新聞の朝鮮版に出ている。

終戦直後は、当事者がいたから事情も分かり、謝罪もそれなりの意味があったのでしょうが、戦後生まれの政治家が多くなって、『キャメロン首相は謝罪しなかったことについて「私が生まれる40年以上も前に起こったことにどう対処すべきなのか。私がすべきことは歴史をさかのぼって謝罪できることを探すのではなく、起きたことについて敬意と理解を示すことだ」と述べたという。』のが筋だろう。

中国(共産党)や韓国が特殊なのは、「インドもアルジェリアもそしてベトナム、インドネシアも独立戦争(闘争)で独立を勝ち取ったため、いまさら旧支配国に謝罪を求めても意味はないと思っているのだ。」と言う事であり、独立闘争で勝利したと言う栄光があるが、中国や韓国が独立したのは日本がアメリカに負けたおかげであり、自分たちが独立闘争で勝利したわけではないからだ。

産経新聞の黒田記者は、『日本に対する韓国の執拗(しつよう)な「謝罪と反省」要求は過去、自ら果たせなかった未完の対日独立戦争の代わりだから際限がないのだ。』と言うのは、日本に対して勝利したと言う栄光が無いからだ。竹島や尖閣諸島を取りに来たと言う事が彼らにとっての勝利になるのだろうか。

 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年3月17日 15:11:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>そのような状況で20万人も慰安婦が日本軍に強制連行されたというのは無理がある。むしろ朝鮮人の悪徳業者が朝鮮の娘達を売り飛ばしていた。それが朝日新聞の朝鮮版に出ている。


このアホしつこいね。

専門家の意見位読んでから言えよ:

元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。


「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。

料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」
(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)


慰安所を担当した主計将校に慰安婦の選別の基準まで軍で教育していたことがわかる。

中国にいたある主計将校は師団の参謀から

「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」と命令され「塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴」き十数人を集めたことを語っている(宮谷重雄「わが戦記恥さらし」)。


アンボン島にいた海軍の主計将校の証言によると、参謀が四つの慰安所を設置し百名の慰安婦を「現地調達」する案を示した。それは

「日本将兵とよい仲になっているもの」を「密告」などによって探し出し「その中から美人で病気のないもの」を選ぶ

という計画だった。この主計将校はこのことを「慰安婦狩り」と呼び

「クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」

と回想している(坂部康正「アンボンは今」)。


元兵士たちの回想を丹念に読んでいくと、日本軍が実質的に慰安所を管理し、時には自ら「慰安婦狩り」を行い、慰安婦に性暴力を強いていたことが浮かび上がってくる。

そのことは「募集や契約にさいし(略)日本軍(国)は、その実態を知る立場になく」(秦郁彦)などという弁解がサンケイグループのトップの証言を含めて都合の悪い元日本兵の証言には頬かむりした虚像でしかないことを示している。
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper02.htm


陸軍第117師団長・鈴木啓久(ひらく)中将

「私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令してこれを設置せしめ、中国人民及朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました」

「日本侵略軍の蟠居する所には私は各所(豊潤、砂河鎮、其他2,3)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約60名であります」

(特集「侵略の証言」『世界』98年5月号)


『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020


総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。

 一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。

女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。


「慰安婦強制連行」は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた


女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。

「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」

と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。

 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。


子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母­親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・・

【資料3】(PD5591/EX1794)
インドネシア・モア島
オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書
一九四六年一月一三日

 問 貴方の氏名、年齢は?
 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。

 問 貴方の所属部隊は?
 答 タナカ部隊ハヤシ隊
 (略)

 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
 答 私でありました。

 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。

 問 何故殺されたのですか。
 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。

 問 誰がその殺すことを命令したのですか。
 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。

 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。

 問 誰が貴方の手助をしたのですか。
 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)

 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。
 (以下略)

(訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。
http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02


慰安所をつくったと自慢する中曽根康弘

「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表

2011年10月28日(金)「しんぶん赤旗」

中曽根康弘元首相が、戦時中に慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省の公開している文書の中から見つかったと、高知市の平和団体が27日、高知市内で発表しました。
明らかにしたのは、高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)ら。

今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。

資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。

中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。

研究員は資料で(1)中曽根氏が慰安所建設に積極的にかかわった(2)インドネシア人女性を集めて慰安所をつくった(3)42年3月11日に海軍基地内に慰安所が開設されたなど具体的な記述がある(4)慰安所内の配置図が明らかになった―と説明。「防衛省の所蔵文書で確証は高い。中曽根氏が慰安所設置に能動的に動いたことが分かる。中曽根氏自ら真実を明らかにするとともに、政府はさらなる調査をすべきだ」とのべました。

慰安婦の問題がなぜ、長い間表に出てこなかったのか…と言えば

それは、被害に遭われた方が声を上げるのが困難な事情があったからです

(こういう性質の被害を女性の方が自ら公にするのは、たいへんな困難を伴いますから)


けれども、この記事を読んでもろたらわかると思うんですけど

いわゆる「慰安所」というところは、いろんな所にたくさんつくられてました

だから、あの戦争で兵隊に行った人なら、

慰安所を知っている人(、あるいは利用した人)がけっこういてはると思うんですけど

そういう事を公言するのもなかなか難しいというか、不名誉なことなので

慰安所を知っていた(、あるいは利用した)兵隊さんの側も、口を閉ざしてきたわけです


そういう事情が相まって、この問題は長く表に出ることがなかったんですね


この問題の経緯を思い返してみますと

最初は、研究者の方が従軍慰安婦の存在を訴える本を書き始めましたわ

そんでも、それはほとんど無視されて、慰安所もなかったことなら

慰安婦もいなかったことになってましたよね

そんなときに、初めて慰安婦だった女性が自ら名乗りを上げて

その実体を訴えられたことがきっかけになって、この問題はやっと表にでてきたわけです


それで、あの戦争のときに慰安所があって、そこに慰安婦がいたこと

その慰安婦のほとんどが被侵略国である朝鮮の女性であったことが明らかになって

その犯罪性が世界に知れ渡ることになったんです


そんでもみなさん、思い出して見てください

慰安所とそこにいた慰安婦の存在が明らかになっても、

最初、日本の政治家は、どない言うてましたか?

あれ(=慰安所)は、民間の業者がやったことで、軍(日本政府)は関係ない

だから日本政府には責任なんかない…と、そんなこと言うてましたよね


そんでも研究者がいろんな資料から慰安所の設置について

日本軍の関与があったことを明らかにして

そういう卑劣な言い逃れも、できなくなったんです

ぼく、「関与」という言葉を不用意に使ったんですけど

上の記事を読んでもろたらわかるように、「関与」どころか、

日本軍は慰安所開設の「主体」やったんですよ

つまり、慰安所という施設は日本軍が直接つくった、あるいは

民間業者につくらせたものやったんです

(この時点で、国の責任が明確になったはずなんです)


それでも、日本政府は慰安婦にされた方に対して、公式な謝罪と賠償をしてません

アジア女性基金でしたかね…お金(償い金)はあげるけど、政府の責任はあいまいなままで

首相の手紙を添えるだけ…と、なんかようわからんやつ、ありましたよね

これ、被害者の方が一番望んでいた、公式に責任を認めて謝罪し賠償する…ということをしないまま

幕引きをはかろうとしたわけなんですけど、なんでそこまで曖昧なままで終わらせようとするのか

ぼくはホンマに理解でけへんのです


今また、安倍や橋下が、日本の責任をなんとか減らそうと、

なんや、慰安婦の募集にあたっては

「(暴行、脅迫などの)狭義の強制性はなかった。そんな証拠はない…」と

何とも意味不明なこと言うてますけど、この言い分がなんで意味不明なんか、わかりますかね?


仮にね、彼らの言う通りに、慰安婦を集める過程で暴行、脅迫などの実力行使がなかったとしても

慰安婦が何をするものなのか…の説明はおろか、慰安婦にするということさえ隠して

女性を騙して慰安所に連れてきた後、騙されたことに気づいた女性が

「日本兵の相手なんかできない、身柄を解放して」…と言ったとしたら

当時の慰安所の人間は、「はい、わかりました。帰ってもらって結構です…」って

言うたと思いますか?

慰安所の人間は騙した側の人間でしょ、

そんな人間が、騙して連れてきた女性を素直に解放するわけないやないですか

(それこそ、暴行や脅迫などの実力行使で、女性が慰安所から逃げることを許さなかったでしょう)


こんなこと、ごく普通の想像力があったら、わかりそうなもんですけど

なんでそこまで訳わからん言い逃れして、日本(軍)の責任を軽減しようとするんでしょうかね

ぼくね、こんな馬鹿げた言い逃れをすればするほど、

この国の対外的名誉が害されると思てるんですけど

彼らはその逆で、自分たちの非を認めないことが、この国の名誉を守ること…と考えてるようですわ

(ぼくは、結果的に日本の名誉を害してる彼らこそ、よっぽど「自虐的」やと思うんですけどね…)


ところで、この国の総理大臣まで務めた中曽根康弘は自ら書いた回顧録の中で

「私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある…」と書いてますわ

日本軍が攻めてきて占領されたボルネオ島で、現地の女性たちに中曽根は

「日本軍の相手をする慰安婦になってくれませんか…」と、現地女性たちを勧誘したと思います?

そんなわけないですよね

とするとね、コイツの言うてる「苦心」がどんな「苦心」やったんか、ぼくは聞いてみたいんですけど

中曽根は取材にも応じてないそうです


安倍や橋下などは、口を開けば「証拠は?」と言うてるんですけど

中曽根の所に聞きにいってみたらええんやないですかね

「中曽根先生は、どんな「苦心」をなさって、慰安婦を集めたんですか?」…ってね。。。
http://blogs.yahoo.co.jp/tubuyaki2594/6715400.html


02. 中川隆 2013年3月20日 09:04:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

まあ、さすがの中曽根先生もこんな事してました とは言えないだろうけどね:

性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。


性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた


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