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要は、アメリカとイギリスは敵対していたということですね。英米は常に対立していたし、アメリカは最終的にイギリスを追い落とす
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/731.html
投稿者 TORA 日時 2012 年 12 月 24 日 12:42:07: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu278.html
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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要は、アメリカとイギリスは敵対していたということですね。英米は常に
対立していたし、アメリカは最終的にイギリスを追い落とそうとしていた。

2012年12月24日 月曜日

◆「アメリカ観の新しい展開」(四) 12月17日 西尾幹二・福井義高:対談
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1244

福井 そうです。だからアメリカは基本的に勢力均衡を認めません。1940年の大統領選挙で共和党候補でありながら、現職のルーズベルトとほとんど同じ主張を繰り広げ、大戦中はその特使として活躍したウェンデル・ウィルキーの大ベストセラーの題名が『ワン・ワールド』。アメリカは植民地主義や帝国主義から解放された「ひとつの世界」を実現する使命を帯びているのです。

西尾 要するに、各国が同盟を結んでその相互の均衡で平和を保つという第一次世界大戦までのヨーロッパのやり方を否定して、国際連盟をつくるというのは、自分がその主人公になるという発想でしたからね。世界政府志向ですよね。

福井 そうです。「きれいごと」ではありますが、彼らはそれを信じ切っている。信じ切っているからこそ強いと思うんですね。単なる建前であれば、あれだけの力は出ないでしょう。

西尾 自分の善を信じ切っている。信仰だからです。それだからこそ困る、厄介なんだ。宗教的信条なんです。彼らが、その「きれいごと」を言い続けてこられたのは、まず資源が豊富であり、人口が過剰ではなく、むしろ移民を必要とする国であること。そして下層労働力を国内に抱えているので、過剰な領土の獲得意欲に駆り立てられることもない。だから中国に進出しようとしたときも、中国を割拠しかけていた各国の動きを、むしろ不便だと感じていて、手出しをしないでしばらく様子を見て、それから干渉して中国分割を止めさせようとした。そして、金融支配を通じ丸ごと中国を遠隔操作で支配しようとしたわけです。

 その遠隔操作の手段の一つはドルです。他国に対するドルによる遠隔操作が可能になったのは、実際には第二次大戦後だと思いますが、早い時期にそういう志向性を示していた。ペリーの来航から十九世紀にかけての時代は、暴力的なことをアジア・アフリカ諸国でやっているイギリスの後ろにくっついて、自分は手を汚さず、しかし同じ条約をきっちりと結んで利益だけは得ていた。

 開国期の日本では、それがオルコック(イギリスの駐日総領事・公使)とハリス(アメリカの駐日公使)の対立になって現れます。オルコックはイギリス流で日本に厳しいことをガンガン突きつけたのに対し、ハリスは優しくソフトな物言いで、しかもいかにも日本のためになるようなことばかりを言っていた。

◆「アメリカ観の新しい展開」(五) 12月20日 西尾幹二・福井義高:対談
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1245

「英米は常に対立していた」(福井)
「英に変わってスペインにとどめを刺した」(西尾)

福井 『天皇と原爆』でこう書かれています。「アメリカはイギリスから独立したのですから、『兄弟国家』ではあります。しかし独立戦争で激しく衝突しイギリスを痛めつけていましたので『敵対国家』でもあります。イギリスは大英帝国といわれたくらいですからその力は強大でした。そのイギリスを少しずつ押さえ込み、倒さない限り、アメリカは大をなす時代は来ません。二十世紀史の最も重要なモチーフだったと考えられます。ペリーの来航もイギリスとの競争を考えてのことだったと思います」(四二?四三ページ)

 要は、アメリカとイギリスは敵対していたということですね。日本では保守派の間でも、英米をセットで考えている人がいますが、実はそれは違う。英米は常に対立していたし、アメリカは最終的にイギリスを追い落とそうとしていた。それが分からなければ、第二次世界大戦における、ルーズベルトのチャーチルに対する異常に冷たい態度は理解できないわけですよね。ここは、重要な指摘じゃないかと思いました。

西尾 優しかったはずのアメリカの対日態度が一九〇七年ぐらいから突然、変わって、日本は説明のできないアメリカの変貌、未知の国の国家意志の壁にぶつかる。アメリカの政策がぐるぐる変わって理不尽になり、日本は戸惑ってその真意が分からなくなるという局面を迎えます。

 これは何でしょう。一八九八年の米西戦争でアメリカはスペインを倒しました。何世紀にもわたったスペインとの対立にイギリスはとどめを刺す力がなくて、結局はアメリカがそれを成し遂げた。これが西太平洋からイギリスの艦隊が静かに撤退し始め、覇権がアメリカへ移動していく第一幕になった。そうして、太平洋がスペインの海からアメリカの海になることによって、日米の対立構造が産声を上げます。その後一九〇四〜〇六年に日露戦争がある。そして一九〇七年に、日本に対するアメリカの態度が豹変する。この背景にイギリスとアメリカの力関係もあるのではないかと考えています。

「『正義が受けて立つ』スタイル貫く」(福井)
「なぜアメリカのやり方を見抜けなかったか」(西尾)  

福井 『天皇と原爆』四六ページには、こう書かれています。 「一八九八年二月、キューバのハバナ港に碇泊していたアメリカ戦艦メーン号が爆破され沈没し、二百六十人の乗組員が死亡しました。アメリカはキューバ内戦の鎮圧を口じつにスペインに宣戦布告しました。この沈没事件はアメリカの謀略によるものだという説が燻っています。(真珠湾攻撃もルーズベルトの謀略に乗せられた、という説がそれなりに有力になるのはアメリカ史にこういう背景があるからなんです)」 これについては、当時の標語が「リメンバー・ザ・メーン」だったわけですよね。しかし、今では内部爆発説がほぼ確定しています。つまり、メーン号の爆沈にスペインは関係なかったということです。

西尾 アメリカの自作自演ですか。

福井 アメリカが意図的に爆発させたのか、あるいは偶発的事故で爆発したのか確定されていないと思いますが、とにかく爆発は船の内側から起きていて、スペインが外側から爆発させたということはあり得ないと考えられています。 この「相手に先に手を出させる」というのは、リンカーンの北軍も同じことをしています。南軍が先に手を出さざるを得ないような状況に南部諸州を追い込んだ。アメリカは常に「やむをえず正義が受けて立つ」というスタイルを貫いてきたわけです。 第一次世界大戦でも、一九一五年にイギリス客船のルシタニア号がドイツの「Uボート」に撃沈され、アメリカ人を含め、女性と子供が多数死んだことがその後のアメリカ参戦のきっかけとなりました。実はルシタニア号は事前にイギリス海軍から武力抵抗を命じられており、しかも弾薬を積んでいましたから、撃沈は国際法上、必ずしも違法だったとはいえません。しかし、「敵はひどいやつだから、アメリカは受けて立つ」というプロパガンダを繰り広げた。アメリカは常にそのパターンで戦争を始めていて、日米開戦もその構図にあてはまっている。

西尾 アメリカ通であった山本五十六に、なぜそれが見抜けなかったのか。情けない話ですね。

福井 それと、英米不可分論というのが日本にもあったわけですが、じつは不可分ではなくて可分だったわけです。

西尾 そうです。少なくとも一九三八(昭和十三)年ぐらいまでは可分でしたね。

福井 イギリスやオランダが植民地としている南方の石油を求めるというだけであれば、アメリカを攻める必要はなかったわけですよね。

西尾 そうです。だから、私が研究している思想家の仲小路彰は、日本海軍の末次信正大将と、富岡定俊大佐らとタイアップして海軍をインド洋に動かし、中東で南下してくるドイツ軍と連携して、イギリスを倒して、そしてアメリカのソ連援助をそこで封鎖するという計画を考案していました。そうすれば、ドイツも助かるし、アメリカも日本と戦争をする根拠を失うと考えた。英米は別と見なしていたからです。日本の大本営も考えていた作戦で、作戦名もあった。ところが、突如として真珠湾攻撃を実施する計画になってしまった。このあたりの経緯が分かりませんが、山本五十六の勇み足ではないですか。

福井 アメリカの世論は、イギリスを支援することはよいけれども、参戦には反対するという声が圧倒的で、アメリカから日本に宣戦布告をすることは政治的にはおそらく不可能でした。それがなぜ、日本人には分からなかったのか。

西尾 ハル・ノートを通告されても、その内容をアメリカのマスコミに暴露させる手もあったとよく言われていますよね。

福井 のらりくらりとかわせばよかった。ハル・ノートで日本の撤退を求めた「中国」には満洲が含まれるのかどうか議論して時間稼ぎをするという手もあったはずです。それは日本人の性には合わないということでしょうか。

西尾 できなかったんでしょう。石油の残量を考えて、いま開戦しなければ勝ち目はないと焦ってもいましたね。いずれにせよ、真珠湾攻撃後にアメリカで言われた「リメンバー・パールハーバー」という言葉は、「リメンバー・ザ・メーン」という言葉が以前にあったから、容易に流布したということですね。

福井 そうだと思います。

(私のコメント)


日本人は戦時中の「鬼畜米英」と言う標語から分かるように、アメリカとイギリスを一体として考えています。しかしアメリカはかつてはイギリスの植民地であり、独立戦争を戦ってアメリカは独立した。だから基本的に仲は悪い。日本と韓国や中国と仲が悪いのと同じであり、フランスとアルジェリアが仲が悪いのと同じだ。今でもイギリスはスコットランドや北アイルランドと分離独立などで揉めている。

日英同盟で一番脅威を感じたのは帝政ロシアであると同時に、アメリカも日英同盟を脅威に感じていた。太平洋と大西洋を押さえられればアメリカは封じ込められてしまう。だからアメリカは大英帝国に劣らぬ大艦隊を作って米西戦争を仕掛けてスペインの大艦隊を沈めてしまう。そうする事によって大西洋を大英帝国の海からアメリカが支配する海へと変えていく。

残る太平洋には日本の連合艦隊がありますが、メーン号事件のようにスパイである山本五十六に戦争を仕掛けさせた。当時のFDルーズベルトは日本に難題を吹っかけてきて挑発していましたが、日本は石油も鉄も工作機械もアメリカに頼っていたから対米戦争などできるわけが無い。にも拘らずアメリカのパールハーバーを山本五十六は攻撃させた。だから山本はアメリカのスパイなのだ。

本当に石油だけが欲しいのならインドネシアや中東に石油があったのだから、インド洋の制海権を取ればイギリス軍とオランダは補給路を立たれてインドとインドネシアは戦わずして陥落する。シンガポールの攻略成功でそれは容易になった。中国への補給路もたつことができたから蒋介石も降伏しただろう。にも拘らず山本はアメリカを先制攻撃した。この意味が分からない。

西尾幹二氏が対談で語っているように、「私が研究している思想家の仲小路彰は、日本海軍の末次信正大将と、富岡定俊大佐らとタイアップして海軍をインド洋に動かし、中東で南下してくるドイツ軍と連携して、イギリスを倒して、そしてアメリカのソ連援助をそこで封鎖するという計画を考案していました。そうすれば、ドイツも助かるし、アメリカも日本と戦争をする根拠を失うと考えた。英米は別と見なしていたからです。日本の大本営も考えていた作戦で、作戦名もあった。ところが、突如として真珠湾攻撃を実施する計画になってしまった。このあたりの経緯が分かりませんが、山本五十六の勇み足ではないですか。」と指摘している。

当時の大日本帝国海軍がよほどバカだったのか、山本五十六がアメリカのスパイだったとしか考えられません。要するにアメリカに戦争の口実を作らせなければいい訳であり、ハルノートを突きつけられても時間稼ぎをしていればアメリカのほうから動いただろう。当時既に中国から日本を空爆する作戦が練られていましたが、山本がパールハーバーを攻撃してくれたおかげで計画は中止になった。

その前にシンガポールを攻略してインド洋の制海権を握れば、アジアと北アフリカのイギリス軍は孤立して、中国への?援ルートも遮断される。まさに一石三鳥の作戦だったのですが、全て山本五十六がぶち壊した。当時の日本海軍はイギリスと戦争すればアメリカも参戦してくると思っていたからだろうか? アメリカは石油や鉄などを禁輸して制裁をかけてきましたが、石油や鉄はインドネシアにあった。

イギリスはオランダやスペインやフランスと戦争して勝っても、植民地を全部取り上げたり戦争当事者を処刑する事はなかった。当時のヨーロッパでは戦争のルールが出来ていて、アメリカのように無条件降伏を要求したり戦争当事者を処刑ばしなかった。そうすれば後始末が厄介になり双方に遺恨が残り戦争が再び起きかねない。だからナポレオンも処刑されなかったし、普仏戦争でもナポレオン三世は処刑される事はなかった。

戦争と言うのは正義と正義の戦いだから、勝敗がつけば領土の割譲や賠償金で済んだのですが、アメリカは無条件降伏するまで戦争して、敗者を裁判にかけて処刑した。さらには広島長崎に核爆弾まで落としましたが、アメリカがイギリスのような国だったならレイテ海戦あたりで講和が結ばれていたはずだ。しかしアメリカは日本全土を焼け野原にして無条件降伏を飲むまで戦争を続けた。しかしそんな事をすればアメリカは永遠に日本から恨まれる事になる。アメリカにはヨーロッパのような戦争常識が無いからだ。

西尾氏は対談の最後に次のように話しています。「ところが、それが、その後も繰り返される。アメリカは第二次大戦に参戦する前の一九四一年八月には、早くもそういう計画を立てている。大西洋憲章です。今度の戦争では二度目の戦争犯罪国ドイツを徹底的に法の名の下に、普遍的な人類の名において裁くと約束する。それが終戦後のニュルンベルク裁判として実現するわけですが、日本は関係ないのに側杖を食って東京裁判をやられた。そして正義と悪の対立関係を持ち込まれて裁かれ、それが日本悪玉史観として今もなお日本を縛っている。敗北者を法の名の下に裁くという発想は、リンカーンから始まっているんですよ。リンカーンの時代には、敗軍の将、敗れた南軍の南部連合国大統領デーヴィスに足かせをつけて、残酷な見せしめまでした。」と言うように、アメリカはイギリスとは異質な国なのです。

バランス・オブ・パワーは大英帝国の戦略であり、勢力の均衡を図ることで平和を保つ戦略ですが、だから大英帝国はスペインやオランダやフランスと戦争しても、アメリカのように敵を徹底的に叩きのめす事はせず、戦後の均衡を保つようにした。それに対してアメリカは「神に選ばれし国家」として敗戦国を犯罪人として裁く。東京裁判では日本は戦争犯罪国家として裁かれましたが、この事が歴史的に長く怨念となって残るだろう。

 

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コメント
 
01. 中川隆 2012年12月24日 15:07:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

山本五十六はアメリカのスパイではない、昭和天皇の命令通りに動いただけだった


昭和天皇にはどうしてもアメリカに日本を占領して欲しい理由があったのですね。
そして東京裁判は戦犯を裁く為ではなく、昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍に肩代わりさせる為に行われたのです。

従って昭和天皇が直々に命令したとされる南京大虐殺、731部隊の人体実験、従軍慰安婦強制連行、食料と女性の現地調達、占領地の金品の組織的略奪等の戦争犯罪についてはアメリカによる徹底した隠蔽工作が行われ、それが現在の南京大虐殺否定説・従軍慰安婦強制連行否定説に繋がっているのですね。

従軍慰安婦強制連行の証拠は東京裁判で多数提出され、日本軍関係者も全員それを認めていた様なので、歴史学会で従軍慰安婦強制連行を疑っている研究者は一人も居ないんですけどね。

ドイツ人がナチスの戦争犯罪を裁いた様に、日本人も昭和天皇の戦争犯罪を裁いていれば、中国人や朝鮮人がここまで反日になる事もなかったのです。


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昭和天皇はルーズベルト、マッカーサーとグルだった

真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証
通信記録を九大教授発見 外務省の故意か 2012/12/8付

1941年12月8日の日米開戦をめぐる新事実が明らかになった。最後通告の手直しが遅れ、米国に「だまし討ち」と非難された問題で、修正を指示する日本から大使館への電報が半日以上を経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった。これまで不明だった発信時刻が判明。「在ワシントン大使館の職務怠慢による遅れ」とする通説に一石を投じそうだ。

 米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で9月末、記録を発見したのは九州大学の三輪宗弘教授。外務省が東京中央電信局からワシントンの大使館に向けた電報の発信時刻や、米海軍がそれを傍受した時刻などを記録した資料だ。
 開戦直前に外務省が大使館に送った公電は901号に始まり、911号まである。中核となる電報は902号で、米政府が戦争回避のための条件を日本に突きつけた文書、いわゆるハル・ノートに対し、これ以上の交渉を打ち切るとした覚書がその中身である。それ以外の電報は、誤字訂正や暗号解読機の破壊を命じた訓電などだ。


■誤字など175カ所

 902号電報は長文のため14部に分かれ、第1部から第13部までほぼ予定通りの時刻に発信された。しかし、12月7日午前1時(日本時間)までに発信するはずの14部は15時間以上遅延した。

 しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、外務省は175カ所に及ぶ誤字などの訂正を903号、906号の2通に分けて大使館に送信した。
 外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが、三輪教授が今回の調査で2通の発信時刻を突き止めた。前に送った電報に誤りなどがあれば直ちに訂正電報を打つのが通例だが、調査結果によって、2通の発信時刻は前の電報(902号第13部)から十数時間後と大幅に時間がたっていることがわかった。

 当時は文書の清書にタイプライターを使っていた。ワープロと違って、字句の修正や挿入、削除があると最初から打ち直さなければならない。つまり訂正電報が届かない限り、大使館は通告文書を清書できないが、この2通の遅れが、最終的に米政府に通告文書を手交する時刻が遅れる大きな要因となった。

なぜ2通は遅れたのか。訂正電報2通の発見は、通告遅延の真相解明に大きな意味を持つが、三輪教授は「発信の大幅遅れは、陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」と語り、外務省が故意に電報を遅延させた可能性が高いという。

 元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏は、こうした問題を長年にわたり追究、戦後の極東軍事裁判での証言、関係者の手記などを基に902号第14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、これに外務省が協力した結果と推定している。今回、見つかった新資料はそれを補完するものとなる。

 米国の通信会社が、日本からの暗号化したこれら電報を大使館に届けたのは7日午前9時前後(米国東部時間)とみられ、大使館が暗号を解読してタイプで清書、コーデル・ハル国務長官の手に渡ったのは真珠湾攻撃が始まった後の7日午後2時20分(同)だった。

 遅くとも真珠湾攻撃の30分前と設定していた最後通告が攻撃の後になったのは、大使館の怠慢によるとされてきた。米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、米政府に手交する通告文書作成が遅延したというものだ。
 が、井口氏はそれを否定。「真実を歪曲(わいきょく)した開戦物語が一人歩きして国民に誤った印象を与えている」と指摘する。

■奇襲成功“支援”

 近年の研究によって様々な事実も明らかになっている。開戦直前の緊迫した状況だったにもかかわらず、大使館宛てのこれらの訓電の「至急」の指定が取り消され、「大至急」を「至急」に引き下げたものがあった。

 また、大佐の葬儀も、遅延には無関係だったことが長崎純心大学の塩崎弘明教授の研究によって明らかになった。

 さらに今回とは別に、三輪教授は国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」を発見している。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料だ。目的は東郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためとされる。

 今回の資料発見について、塩崎教授は「真珠湾の奇襲を成功させるため意図的に電報を遅らせたことがこれで明らかになった。打電時間についての新資料自体は細かなことだが、正確な歴史認識を得るためには、こうした史実を丁寧に掘り起こしていく必要がある」と語る。

 また、東京大学の渡辺昭夫名誉教授は「通告の前に攻撃が始まったという問題の本質は(新資料によっても)変わらないと思うが、隠されていた事実を明らかにし、政策決定における問題を追究するのは学問的に意味がある」と評している。
http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/591.html


最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。  ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されて

いた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。

 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。

戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相(スパイ名「ヨハンセン」)に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人であった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html


ルーズベルトやトルーマンは単なる飾り物で、原爆を落とす命令はすべてスティムソンによってなされた。その情報は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html

日中戦争で昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには絶対に勝てないという事だったのです. 今のイラクやアフガニスタンと同じですね:


そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.

そして,昭和天皇が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.

しかし,昭和天皇は凡人には想像を絶する程の賢かったんですね.

昭和天皇が考えた天才的アイデアとは:


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

原爆投下まで


@第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。
原爆の開発目途はついていたので、それを使用することが目的のひとつであった。

Aその決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。

B日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。昭和天皇は命令どおりに動かされただけだ。

C昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。戦争が長引いたのは、原爆の開発が思った以上に遅れたからだ。

D広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。

E長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。

F日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/02/post_b7ff.html

マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。 天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。 東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html


昭和天皇の身代わりに処刑された東条英機

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 
そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。

裁判長(ウェッブ) 
今の質問がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。

  グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。グルーはトルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物である。
 
 原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であった。 それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html

アメリカは皇居も財閥の工場も攻撃しなかった。国会議事堂も霞ヶ関も残った。

ドイツ戦ではヒットラーが標的になり、イラク戦でもフセインが殺された。対日戦では日本人は虫けらのように殺されたが、天皇は標的ではなかった。変な戦争だ。そして支配層はアメリカの単独占領を歓迎した。

支配層は日本人民が革命をやり、自分たちの地位を失うことを恐れていた。米英に支配の地位を守ってもらうために、戦争で日本国民を犠牲にし民族的な利益をみな売り渡す道を進んだ。

米に負けるため南進 目的同じ日米司令部

最初からアメリカに負けるために南進したのだ。日本人民の経験でも市民は焼き殺すが、軍や三菱は無傷だったというのが実感として語られている。

最近の史料で明らかになったことで、戦前に駐日米大使をしていたグルーなどが「日本の軍需工場を攻撃するな」と主張していた。それがウォール街の共通認識だったという。グルーはJPモルガンの利益代表だが、彼が駐日大使だったときに三菱や住友と深い関係を持ち、アメリカ資本が日本の大企業に相当投資してインフラを整備しており、今から日本の資本主義を段階を画して発達させ、収奪していくんだという狙いを持って戦争に臨んでいた。だからみずからが投資してきた三菱などの軍需工場への攻撃を避けていた。これに対して日本側の三菱などは日米開戦のときに、

「米英はこれまで通り友人だ。だから資産をきちっと守って、戦後も同じようにやっていけるよう、みんなもそのつもりでおれ」

と岩崎小弥太が檄を飛ばしていた。ウォール街の意向と一致している。

「鬼畜米英」といわせながら、日米両方の司令部が同じ目的で動いていたのだ。中国に侵略してひどいことをしたが、日本民族もさんざんに殺させる。そして民族の利益を売り渡すことで自分たちの支配の地位を守る。それが唯一の道だと。日本の支配階級の卑劣さも少少ではない。売国奴、かいらいの道を進んだわけだ。

天皇が原爆を落としてほしかったのだ。8月15日の終戦の詔勅にある「原爆が投下されたからだ」という理由ができた。

武器も食料もなしにどんどん輸送船を出すというのは「殺してください」ということだ。南方にはとり残され、戦争能力がもうないのだから、本当は戦争をやめるほかはない。みんな「おかしな戦争だった」というが他のどの戦争を見てもあんな戦争はない。


戦争なら皇居を狙うのが普通だ。将棋でも王将をとるかとられるかだ。しかし下町ばかりが焼かれた。


ドイツの場合は「ドイツ国民はわれわれと同じ人種で良識ある国民だが、悪いヒトラーをやつけないといけない」というスタンスだった。だからドイツではドレスデン空襲はあったがほとんど空襲はやっていない。

しかし日本の場合は「天皇が敵だ」とはいわず、日本人全体を「ジャップ」といい、野蛮な未開の人間ではないジャップを殺せというのが最初からの姿勢だ。インディアンと同じ扱いだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/genzainitudukunihonminzokuzetumetusakusen.html


そして、昭和天皇は名優となった:


戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、昭和天皇は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、昭和天皇の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0

マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。


@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。


ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm

負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、
海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。
ぇええ?
山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官?
日本連合艦隊司令長官が奴らの手先?

何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。

3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。
多くの日本人が無念のうちに死んでいった先の大戦は奴らが最初からシナリオを作り、そのシナリオ通りに動いた日本人たちによって引き起こされた。
信じたくなくても事実なのだからしょうがありません。

必ず戦争にはシナリオがある。ご多聞にもれず、山本五十六さんたちは、日本を敗戦に導くようにわざと戦略上の失敗を繰り返します。

ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。
あの戦争は、結局のところわざと負けたのですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-275.html

日本帝国海軍の中枢は欧米派であった。このため、日本海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。

宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任については吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で戦死する。
http://watch-fr-br.iza.ne.jp/blog/entry/926847/


___________
___________

参考

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

アホに広田弘毅が、長州憲法(明治憲法)が元凶と言った意味を教えてやるよ
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/278.html

悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html


2. 2015年7月24日 14:26:57 : oHM83drRyQ

アマカナタ
2013年9月29日日曜日
http://www.amakanata.com/2013/09/blog-post_29.html

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る


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