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http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books323.htm
福の神を見る前に福や幸について語源や社会経済学的定義を整理してある。人の欲望が満たされている状態が「幸せ」「福」であって、直ぐに手に入らないような障碍・距離があって欲望が発生する。それを手に入れると新たな欲望が生じ、どんどん欲望は肥大する。だから幸せの中身も時代・人・文化によって相対的である。また、幸せ獲得の仕方に物語が生まれる。
日本人は、外来思想のために抑圧することはあったとしても、古代から現代まで現世利益を追求する思想が基層信仰といえるほど衰えることなく続いていた。その現世利益を授けてくれる神仏を「福神」と呼んだ。室町時代に福神信仰が盛んになり、御伽草子の中に福神が登場する。その物語群(福神物)の例として「梅津長者物語」や「大黒舞」が取上げられている。貧しいが正直で信心深い夫婦を福神が助けて貧乏神を追い出し、七福神が勢揃いして宴会して夫婦に富貴がもたらされるという構造である。これは、寺院の修正会で催される追儺と同じ構造であると指摘する。宮中の追儺行事が寺院に伝わるや毘沙門天が鬼を追出す筋となったのである。話の構造のほかに、究極の福の形や宴席の舞の書き様から、没落貴族の周辺に集まる宗教者や門付けして歩く祝福芸人、更にその影響を受けて民俗行事となったことなどが見えてくるのである。
次に七福神となった神々が紹介されている。いずれの神様も厄を祓う力があるので福を招くという特殊な神=福神であった。多くは従来説を採るが、毘沙門天は上記の修正会や修二会の追儺行事の影響が大きいという。また、時代背景として室町末期の禅僧文化の影響で神仙的な七賢人のような神々を求める信仰もあったし、もう一方で富の蓄積を積極的に肯定する庶民の登場もあったことに注目するのである。
福神信仰が各地に流布したわけを書いている。本来は、不吉な前兆や夢見があると平安貴族は寺院に出向いて祓い除こうとしたが、やがて乞食同然の下級な僧侶に寺院参籠を代行させた。やがてそれが職業になったのが声聞師である。貴族が没落しその依頼がなくなると、自ら裕福な家の前に立って祈祷めいた事を行うようになった。この最古の所作が「千秋万歳」である。新春に大黒舞、恵比寿かき、毘沙門経などの祈祷や言祝ぎを行い謝礼を要求した。この「門付け」の下級宗教者が全国に福神信仰を流布したのである。
下級宗教者は、寺社の保護下にある場合には寄人とか犬神人と呼ばれたが、特定日の言祝ぎだけでは食って行けず、ケガレを清める仕事をした。清掃、死人や死んだ牛馬の片付け、罪人の処刑などである。要するにハレとケガレの両方に係わったのである。先の寺院の追儺行事でも毘沙門天や鬼の役として出演していたのである。修正会が終った後の余興「延年」芸能も演じた。因みにこれから猿楽が生まれた。
寺社の神仏の加護の下にケガレを清める仕事をしていたが、人々から神仏への信仰心が薄れると下級宗教者はケガレを扱っているだけと見られるようになった。人々には彼らへの忌避・蔑視の念が出てきたのである。彼らの一部は暫らくの間は寺社に従属して保護を受けていたが、江戸幕府の身分制度により下級宗教者は寺社との関係を切られ、身分制度の外に置かれたのである。士農工商の他に寺社の僧は「長袖」として身分保証があったのと対照的であった。こうして非人・穢多が生まれたと言う。
話を室町時代に戻して、「福神物」の物語中の長者とは大きな富を得た者であるが、有徳者であるため、信仰や徳を失くすと貧者へ転落するという不安定な存在と見られていた。物語の中では毘沙門天などの霊力を借りて黄金を得る。しかし、ものぐさ太郎、一寸法師、山男の草子などの筋は、乞食、非人、下級宗教者、清めなどのカガレた仕事をなす下層民が成上がる話である。これは室町末期の下克上の時代に長者が生まれたことと期を一にしている。
地方に廻ってきた門付は有力貴族・武家の邸宅で演じた。既に福があるところを好んで「福の神」は訪れたのである。そのうち祝福芸をその地の子供達が真似て民俗となる。村落が閉鎖的となり、富は村落内の交換となったのである。昔話や恵比寿祭の祝詞では、村落での富は米(栗)であり、祝とは酒であった。金・貨幣は村の外にあった。農村では富をもたらす者は福神ではなく地蔵である。村と町の境界を司る神であるからだ。地蔵に限らず鬼の場合もあるが、正直者には富をもたらし、欲張りには災厄をもたらしたのである。
醜い子である竜宮童子が富をもたらす話があるが、他にも福子・宝子・福助等の同類の話である。都市の経済的余裕のある家では障害児を育てる事ができたが、農村には福子は居なかった。物語は目前の事柄をもたらす原因を説明し、多くの者の納得が得られる原因が語りとして共有化されるのである。
同じように、経済学のない時代、長者の盛衰を説明する物語が3段階であった。先ずは、マヨイガという異界から富が授けられ、やがて吸上げられる話があった。続いて座敷わらしという精霊のようなものが移り住む事によって家が富み、去る事で富を失う話。更に、犬神などの動物霊が憑いた家は周囲から富を吸上げ一軒だけが豊かになり羨望の的になる話であった。
近代後期になると、富は貨幣自身であることが自覚され、訪れた異人を殺して金を盗み一時的に豊かとなるが、やがれ祟られて不幸なる話ができるのである。最後に、貨幣が神々を追放し、貨幣が共同体の媒介となった。ここにおいて福とは富を生み出す商品であり、娯楽・快楽のための素材となる。江戸時代の出世双六にその様が現れている。
本は、貧乏神に軽く触れて終る。「飲めや大黒、歌えや恵比寿、受けて喜ぶ福の神」この民謡がもつ不思議さが分れば、本書の内容の半分を知ったことになる。残りはボチボチ分ればよいだろう。化け物が出てこず少し寂しいが、宮崎俊男の『千と千尋の神隠し』の映像を思い出しながら読めばよい。本書は「中高生にも読めて、しかも質を落とさずに」という要求どおりとなっていて、読み応えがある。金に縁のない人向きの本である?
[モナ丼 #:323: 2012.03.10]
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