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(2010.12.2公開)
1 始めに
NHK-Hで、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト(The Pianist)』(2002年。ポーランド・英仏独合作映画)(A)を鑑賞したのは10月18日の夜ですが、その直後にmixiの太田コミュで「ウーム、映画評論の対象にするかどうかビミョー。」と書き、翌日、ツイッターで「ダワーにせよ、昨晩TVで鑑賞した『戦場のピアニスト』の監督のロマン・ポランスキーにせよ、結局のところ身内びいきの史観を露呈してしまっている。弱き者、汝の名は人間なり。」とつぶやいたところです。
本日、ガーディアンの書評(G)で、この映画の原作である体験記の著者のピアニストのウワディスワフ・シュピルマン(Wladyslaw Szpilman。1911〜2000年)を貶める本 'Accused: Wiera Gran' が紹介されており、これを読んで、やはりこの映画評論を書くべきだという気になりました。
明日が祝日だということもあり、このシリーズには一人題名のない音楽会的要素もあります。
まず最初に、(BやAを読んで)この映画の粗筋を頭に入れておいて下さい。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Pianist_(2002_film)
(11月2日アクセス。以下同じ)
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AE%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88
C:http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Jews_in_Poland
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Polanski
E:http://en.wikipedia.org/wiki/W%C5%82adys%C5%82aw_Szpilman
F:http://en.wikipedia.org/wiki/Wiera_Gran
G:http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/01/wladyslaw-szpilman-pianist-collaboration-claims
なお、この映画は、カンヌ映画祭では最高賞であるパルムドールを受賞し、また、アメリカのアカデミー賞でも7部門にノミネートされ、うち監督賞、脚本賞、主演男優賞の3部門で受賞しています。(B)
2 背景事情
(1)シュピルマンの偉大さ
シュピルマンは、ユダヤ系ポーランド人だったわけですが、戦前クラシックとポピュラーのピアニスト兼作曲家としてポーランドで既に有名な人物でした。
彼は、1935年にポーランド放送に入り、クラシックとジャズのピアニストとして活躍します。
戦後は、1945年から63年まで、このポーランド放送の音楽局の局長を務めますが、その間、いくつかの交響曲、約500の歌、及びラジオ劇や映画のための音楽を作曲します。
この交響曲や歌は、今でもポーランドで人気があります。(E)
つまり、シュピルマンは、単に名の知られたピアニストであったのではなく、偉大な音楽家であったということです。
そのことは、彼の演奏や、彼の作曲したクラシック曲を聴けば、すぐに分かろうというものです。
まず、彼の演奏についてですが、ユーチューブに載っているものは、以下でおおむね網羅していると思うので、ご自分のお好きな曲でも知っている曲でもいいですから、少なくともどれか1曲以上を聴いてみてください。
いずれ劣らぬ名演奏ですよ。
(実のところ、この映画で有名になった、ショパンの「遺作」をこれまで(コラム#3095、4261で)とりあげた時、シュピルマンによる演奏は紹介しませんでした。
彼の演奏は、あっさりし過ぎているように思ったからです。
しかし、改めて聴いてみたところ、実にいぶし銀のような名演奏だと認識を新たにするに至りました。)
バッハ シャコンヌ(ブゾーニ編曲)ニ短調
http://www.youtube.com/watch?v=YiBaeBE1cU4&feature=related 以下
ショパン 夜想曲第20番「遺作」 (0:26と1:43の音は原譜と違うのでは?)
http://www.youtube.com/watch?v=C8ECpeex5hc&feature=related
同 幻想ポロネーズ 作品61
http://www.youtube.com/watch?v=kmQ1pBl1s-8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=tSvMhdb4WYE&feature=related
同 マズルカ 作品17第4番
http://www.youtube.com/watch?v=FHFipSOjRys&feature=related
同 ポロネーズ 作品53
http://www.youtube.com/watch?v=SLNrm3KNMSs&feature=related
同 バラード 作品52第4番
http://www.youtube.com/watch?v=U47UhgvQk_A
ラフマニノフ 前奏曲作品32第12番
http://www.youtube.com/watch?v=ZqRCcAJZWgE&feature=related
同 チェロ・ソナタ チェロ Ciechanskiと
http://www.youtube.com/watch?v=9gdfcv_Ckag&feature=related 以下
同 パガニーニの主題による狂詩曲 ワルシャワ国立フィルと
http://www.youtube.com/watch?v=NEqxKMF_a5A&feature=related 以下
クライスラー Liebesleid(ラフマニノフ編曲)
http://www.youtube.com/watch?v=IxE30lAQ9eo&feature=related
アルベニス コルドバ
http://www.youtube.com/watch?v=vLgbF0Of43I&feature=related
次に、彼が作曲した曲ですが、残念ながら、ユーチューブにアップされているのは次の2曲だけです。
どちらもクラシック曲であり、彼のポピュラー曲、とりわけ歌がアップされていないのは残念です。
とまれ、この2曲、なかなか結構でしょう。
Concertino for Piano and Orchestra (ワルシャワのゲットーで1940年に作曲)
http://www.youtube.com/watch?v=tWYY-gYvt4w
Little Ouverture(1968年作曲)
http://www.youtube.com/watch?v=SJPmkt4bwf8&feature=related
(2)ヴィエラ・グランとシュピルマン
上出の'Accused: Wiera Gran' は、シュピルマンがナチ(ゲシュタポ)への協力者であったと非難しています。
ヴィエラ・グラン(Wiera Gran。1916〜2007年。ユダヤ系ポーランド人の歌手・俳優)に関する本にどうしてそんな話が出てくるかと言うと、彼女自身が、ワルシャワのゲットーで一緒だったシュピルマンについて、生前、そう書き記しているからです。
彼女は、シュピルマンがギャングを募って彼女を殺そうとしたとまで記しています。
しかし、それはどう考えても言いがかりというものです。
というのは、シュピルマンは、この映画の原作となる体験記を戦後すぐ出版しているのですが、これまで、同ゲットーで生き残ったユダヤ人の誰もシュピルマンを指弾したことなどないからです。
同ゲットーの生き残りで後にポーランドの外相を務めた人物は、とんでもない言いがかりだと非難しています。
この本の著者及び出版社は、映画のお陰で超有名人となったシュピルマンを利用してこの本の宣伝をやっている、と見られても仕方ないでしょう。
逆にグランの方は、ナチへの協力に関し、濃厚な疑惑がある人物なのです。
グランがゲットーにいた頃、彼女及び彼女が活躍していたキャバレーの音楽家や俳優達は、シュピルマンと対立関係にあったところ、彼女はゲットーから逃亡しますが、ポーランド人及びユダヤ人の地下運動のメンバー達によって上記キャバレーの音楽家や俳優達のうちの2人かが戦争中に死刑を宣告されています。(1人は処刑され、もう1人は逃亡。)
上記体験記で、グランについて、「K夫人」として肉感的だが道徳的に疑問符の付く人物として描写したシュピルマンは、戦後の1947年に、ナチへの協力の廉でグランに対して提起された裁判において、検事側の証人として証言をしていますが、結局証拠不十分のままこの裁判は終わっています。
その後グランは、移住先のイスラエルでも裁判を提起され、やはり証拠不十分で裁判が終わっています。
イスラエルにも居づらくなったグランは、結局、フランスでモーリス・シュヴァリエ(Maurice Chevalier)やシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)の下で歌手として働くことになるのです。
(以上、F及びGによる。)
ここで、彼女の歌唱をどうぞ。
Fernando 彼女の有名な持ち歌(F)
http://www.youtube.com/watch?v=v0jgya7Ck4s
Trzy listy 同上
http://www.youtube.com/watch?v=0gcUMAkWZL8&feature=related
Gdy odejdziesz 同上
http://www.youtube.com/watch?v=fb0vR7J2P84&feature=related
La vie en rose これは彼女の持ち歌ではありませんが、誰でも知っている曲ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=J-j4v5dbUI8&feature=related
思うに、普遍的才能のあるユダヤ人には敵味方双方から助けの手が伸びたけれど、グラン程度の才能では、きれい事だけでは生き残ることができる可能性はなかったのに対し、シュピルマンくらの才能の持ち主となると、きれい事だけで何とか生き残れる可能性があった、ということではないでしょうか。
(3)ポーランドにおけるユダヤ人迫害
ポーランドでも、カトリシズムに由来するユダヤ人に対する偏見と容易に同化しないユダヤ人に対するナショナリスティックな反感から根強い反ユダヤ人意識がありました。
ユダヤ人は、ロシア革命をその多くが支持した、という印象を持たれたことから、第一次世界大戦後、独立を回復したポーランドにおいて、反ユダヤ人意識が一層高揚しました。
にもかかわらず、頻発するポグロム(ユダヤ人虐殺)やロシア内戦を逃れてウクライナとソ連からどんどんユダヤ人がポーランドに流入して来ました。
戦前のポーランドでは、約10%のユダヤ人しか同化していたとは言えず、80%はすぐにユダヤ人と分かる人々だった、という説があります。
例えば、1931年時点のデータですが、ポーランドのユダヤ人でポーランド語を第一言語とする者は12%しかおらず、大部分の者の第一言語はイーディッシュ語でした(一部がヘブライ語)。
ユダヤ人に対して理解のあった首相が1935年5月に亡くなると、ポーランドにおけるユダヤ人迫害は更に激しくなります。
例えば、ポーランドの大学はユダヤ人枠をしぼったため、1928年には大学生の20・4%を占めていたユダヤ人は、1937年には7.5%まで減ってしまいます。
また、ユダヤ人は公的な仕事に就くこと等を禁じられていたため、彼等はそれ以外の仕事に就かざるをえず、実に、医者の56%、教師の43%、ジャーナリストの22%、弁護士の33%をユダヤ人が占めました。
ただし、ポーランドのユダヤ人には貧しい者も多く、戦争直前の段階で、350万人弱にという、欧州最大規模に達していたところの、ポーランドのユダヤ人は、西欧のユダヤ人の中で、概ね最も同化しておらず、かつ貧しいと言ってよい状況でした。
さて、第2次世界大戦中に約600万人のポーランド国籍の人が亡くなりましたが、その半分がユダヤ人です。
ドイツがソ連に対しバルバロッサ作戦を開始すると、ソ連占領下のポーランド東部のユダヤ人の虐殺をナチが敢行しますが、その中にはポーランド人が協力して、あるいはポーランド人の積極的参加の下で行われたものがあります。
ポーランドは、ナチスによって占領された国の中で唯一、ユダヤ人をかくまったり助けた者は誰であれ、死刑を科された国です。
しかも、家族、隣人達、そして場合によっては村全体が連座して死刑を科されました。
このような過酷な状況下であったことを考慮しなければならないわけですが、戦争の間、迫害されていたユダヤ人に対してカトリック教会は一貫して否定的態度を維持しましたし、また、一般のポーランド人の中にも否定的な態度をとるものが少なからずいました。
ロンドンのポーランド亡命政府の中にさえ、反ユダヤ感情がわだかまっていました。
他方、杉原千畝が授与されているところの、自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に授与されるヤド・バシェム(Yad Vashem)賞
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%A0%E8%B3%9E
を、諸国の中では最も多く、6195人ものポーランド人が授与されている、ということもまた事実です。
戦後、ポーランドでは、生き残ったわずかのユダヤ人と、ドイツやソ連から流入したユダヤ人を合わせてもユダヤ人人口は18万から24万人にまで縮減してしまっていました。
ところが、そのユダヤ人にポーランド人による迫害が再開され、たびたびユダヤ人殺害事件が起きるのです。
これに加えて共産主義ポーランドへの忌避感等もあり、機会をとらえてユダヤ人で国外移住する者が続出し、ユダヤ人人口はその約半分にまで減ってしまいます。
1967年の中東戦争によってソ連圏が支援していたアラブ側が壊滅的敗北を喫するとポーランド政府は反ユダヤ政策をとり、ユダヤ人人口は国外追放によって更に減ります。
こうして、ポーランドの共産主義政権が倒れた1989年時点におけるポーランドのユダヤ人人口は、わずか5,000〜10,000になってしまっていたのです。
(以上、特に断っていない限り(C)による。)
このように、ポーランドにおいても、ユダヤ人は、20世紀の間も、一貫して迫害され続けたわけです。
(脚注)
ポーランドのユダヤ人で有名な人に、エスペラントを創案したルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ(Ludovico Lazzaro Zamenhof。1859〜1917年。眼科医・言語学者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%95 (英仏独語のウィキが存在しない!)
)、1978年にノーベル文学賞を授与されたイーディッシュ語作家アイザック・バシェヴィス・シンガー(Isaac Bashevis Singer。1902〜91年。1935年に米国に移住
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Bashevis_Singer
)、2007年にノーベル経済学賞を授与されたレオニード・ハーヴィッツ(Leonid Hurwicz。1917〜2008年。経済学者・数学者。ドイツのポーランド侵攻時にロンドンにおり、結局米国に移住
http://en.wikipedia.org/wiki/Leonid_Hurwicz
)がいるほか、イスラエルの首相になったところの、どちらもワルシャワ大学で学んだベギン(Menachem Begin)とシャミール(Yitzhak Shamir)がいる。
(4)ロマン・ポランスキーという人物
ロマン・ポランスキー(Roman Polanski。1933年〜)は、ロシア生まれのユダヤ人の父親とカトリックの母親の下にパリに生まれますが、1936年に両親とともにポーランドに移住します。
戦争中、父親はMauthausen-Gusen強制収容所に入れられますが、生還を果たすも、アウシュヴィッツ強制収容所に入れられた母親はそこで亡くなります。
ポランスキー自身は、クラクフのゲットーから1943年に逃亡し、ポーランド人の複数の家族に匿われて生き延びます。
彼の最初の結婚は、1959年であり、その相手は彼の映画で主演したポーランド人女優でしたが、1961年に離婚します。
1968年には、やはり彼の映画に出演した米国人女優のシャロン・テート(Sharon Tate)と再婚しますが、彼女は、ポランスキーとの間の子供を身籠もっている身でチャールス・マンソン(Charles Manson)らによって翌1969年に惨殺されます。
1976年には、15才だったドイツ人女優のナターシャ・キンスキー(Nastassja Kinski)と愛人関係になり、それが1979年まで続きます。
1989年には、フランス人の元ファッションモデルで女優兼歌手と三度目の結婚をし、彼女との間で女と男の子をもうけ、現在に至っています。
ポランスキーと彼の子供達はポーランド語で会話をしています。
ここまでなら、彼は、女性遍歴の多い人物、というだけのことです。
しかし、1977年、つまりはキンスキーと愛人関係にあった頃、ポランスキーは、米国で、13才の女の子にシャンペンと睡眠導入剤を飲ませた上で、いやがるこの子に性交を含むありとあらゆる淫行を行い、大陪審によって起訴されるも、米国から逃亡し、現在に至っていることは、ご存じだと思います。(D)
結局、ポランスキーはまだ裁かれていないわけですが、彼は、ほぼ間違いなくこのような犯行を行ったと思われます。
確かに、ポランスキーはホロコースト体験、そしてテートの悲劇的死、と大変なトラウマとなっても不思議ではないところの、他者によって自分や自分の近親者が殺害されるという経験を二度もさせられています。
しかし、だからこそ、抵抗できぬ弱者たる他者に自分が危害を加えるようなことだけは絶対避けるべきところ、ポランスキーは取り返しの付かない悪行に手を染めてしまった上、卑怯にも裁きの場を回避して逃げ回っている、と強く非難されてしかるべきでしょう。 フランスの戯曲家で政治活動家のジャン・ジュネ(Jean Genet。1910〜86年
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Genet
)は犯罪を繰り返してあわや終身刑を科されかけた人物ですが、その犯行とはこそ泥、男娼等であり、ポランスキーの犯行の方がはるかに悪質です。
3 映画の評価
シュピルマンは、戦前、戦中、戦後を通じて、ポーランドのユダヤ人の中では最も恵まれていた一握りのうちの一人であり続けました。
この間、戦前と戦後はポーランド人から、そして戦中は主としてドイツ人から、ユダヤ人は死を含む迫害を受け続けました。
ポーランドのユダヤ人の数が、1939年から89年までの50年間に350分の1ないし700分の1に減ったことが、その累積的迫害の凄まじさを物語っています。
これは、前述したように、シュピルマンの普遍的能力が傑出しており、ユダヤ人、非ユダヤ人双方から敬意を抱かれていたからこそですが、彼の抜け目なさや精神的・肉体的たくましさのたまものでもある、と考えられます。
しかし、映画で描かれるシュピルマンは、どこにでもいるプロ・ピアニストであるところの、トロくてひ弱な人物です。
まず、これでは、どうしてユダヤ人もポーランド人も、はてはドイツ人までもが彼に救いの手を差し伸べたのか説得力が乏しく、私自身、映画を見ていて首をひねりました。
(戦中、シュピルマンは立派な大人であり、ポランスキーのような小学生の可愛い盛りではありませんでした。)
たまたまシュピルマンが酔狂なユダヤ人、ポーランド人、とりわけドイツ人とばかり関わりを持ったということなんだな、と自分を納得させた次第です。
次に、それにしても、よくもまああんなにトロくてひ弱な人物が生き残れたものだ、と首をひねりました。
これについては、シュピルマンは、ツキに恐ろしく恵まれていたということなんだろうな、と自分に言い聞かせましたね。
結局、私が実際のシュピルマンについて知った時、ようやく全部の疑問が氷解しました。
より根本的な問題は、ポランスキーが、シュピルマンの戦中だけを切り取った映画をつくったことです。
シュピルマンの体験記は戦中を対象としたものであったところ、それ以外にシュピルマンは自伝を書いていなかったわけですし、いずれにせよ、彼の人生の中で最もドラマティックなのは戦中です。
ポランスキーが、自分自身の戦中体験を、シュピルマンの体験と重ね合わせ、シュピルマンを通じて描きたかった、ということも当然あるでしょう。
それはそうなのですが、(話が完結した形にならないため、戦前や戦後もほんのちょっとは映画に出てきますが、)戦前、戦後をまともに描くと、ポーランド人によるユダヤ人迫害に触れざるを得ないところ、ポランスキーにしてみれば、それは絶対に避けたかったに相違ありません。
一つは、彼自身が、その善意のおかげで戦中を生き延びることができたことに対してポーランド人にいささかなりとも感謝の念を抱いているであろうため、もう一つは、恐らくより大きな理由であると思いますが、彼が現在米国による国際手配の対象となっているスネに傷のある存在であり、活動の拠点としている(彼の出生地であるとともに現在の奥さんの国でもある)フランスと、自分の古里であ(り自分の第一言語の国でもあ)るポーランドとが彼の心の拠り所になっているため、ポーランド人のご機嫌を損ねるようなことはしたくない、ということでしょう。
しかし、ポランスキーによる以上のようなメーキングや配慮の結果、この映画は、悪玉であるナチスドイツと善玉であるユダヤ人・ポーランド人・ドイツ人とがせめぎあう、超一級品の、しかし平板な、(珠玉の音楽を刺身のツマとするところの)お涙頂戴のメロドラマ(soap)として提供されることとなり、数々の賞を総なめするのです。
いささか厳しすぎるかもしれませんが、この映画にパルムドールやアカデミー監督賞・脚本賞等を授与した審査員達は、生来的犯罪者とおぼしき人物に、その程度を見透かされ、まんまとしてやられた、といったところでしょうね
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