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日本・法王庁「同盟」 (太田述正コラム)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/681.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 31 日 03:23:04: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://blog.ohtan.net/archives/52141589.html

<日本・法王庁「同盟」(その1)>(2012.7.22公開)

1 始めに

 読者のべじたんさん提供の資料
http://web.archive.org/web/20080929155608/http://www.nomusan.com/~essay/essay_vatican_20.html
によると、1937年に、法王庁は、下掲のような、いわば、日本との「同盟」宣言とでもいうべき一連の意思表示を行っています。(コラム#5401)

3月:法王ピオ11世(Pius XI)(コラム#3766、4812、4846、5354、5401)、回勅『ディヴィニ・レデンプト<ー>リス 無神的共産主義』を発表して、唯物論的価値観に基づく共産主義への反対を表明。
7月:日支戦争勃発。
8月:同法王、共産主義の侵入を防ぎ(防共)、満州・中国・朝鮮のカトリック信者を保護するために、駐日教皇庁使節パウロ・マレラ大司教を通して国防献金を日本の外務省に贈った。
10月:法王庁、全世界のカソリック教会および伝道所に指令を発出。
 この指令は、「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で以下の5条からなる。

 1.日支双方の負傷者救助。
 2.日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。
 3.支那領土は厖大なるを以て容易に日本の勢力を吸収し得べきを説く。
 4.共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。
 5.日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。

2 法王庁の反共産主義

 ピオ(ピウス)11世(注1)は、1922〜39年の法王であり、1929〜39年、バチカン市国初代元首を務めました。

 (注1)「オーストリア帝国のロンバルド=ヴェネト王国デージオで工場経営者を父に生まれたアキッレ・ラッティ・・・(Achille Ratti)・・・は・・・ミラノ大司教を経て教皇に選出された。・・・諸言語に通じ、古代以来のさまざまな神学的著作に精通・・・。・・・バチカンの絵画館、ラジオ局、そしてローマ教皇庁立科学アカデミーら<を>つく<っ>た・・・。<各種>政教条約の締結で<も>知られる。19世紀以来、バチカンはイタリア政府と断絶状態であったが、・・・これを解決すべくムッソリーニと交渉し、1929年2月11日ラテラノ条約<(コラム#3766)>が結ばれた。これはバチカンがイタリア政府を認め、同時にイタリア政府もバチカンを独立国として認めるというものであった。これによって「ローマの囚人」状態が解消され、世界最小の国家バチカン市国が成立した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B911%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

 この法王が就任したころから、カトリック教会はひどい三つの災厄(Terrible Triangle)に見舞われます。
 メキシコ、スペイン、そしてソ連における迫害です。
 メキシコ(注2)とスペイン(注3)においては、標的はもっぱらカトリック教会であったのに対し、ソ連においては、全てのキリスト教宗派が標的となっていた(注4)ところ、やはり、特に厳しく迫害されたのは、カトリック教会と連携していた東方カトリック教会諸派(Eastern Catholic Churches)(注5)でした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XI

 (注2)メキシコの最高権力者であったプルタルコ・エリアス・カレス(Plutarco Elias Calles。1877〜1945年)・・大統領:1924〜28年・事実上の最高権力者:1928〜35年・・は、労農勢力を支持母体としており、(メキシコはソ連大使館が設置された世界で最初の国であったところ、)反資本主義的な社会主義政策、就中石油国有化政策を推進するとともに、カトリック教会弾圧を行った。そのため、米国では、メキシコをソヴィエト・メキシコと呼称するに至ったほどだった。
 カトリック教会弾圧は、1926年から始まり、教会は教育への関与や不動産所有権を否定され、神父達は選挙権等人権の多くを剥奪されたが、これに反発したカトリック勢力が叛乱を起こし、これを鎮圧するのに3年を要した。
 この叛乱中に約9万人が死亡し、叛乱終了後も叛乱側の約5,000人が政府によるテロによって殺害され、メキシコの神父は叛乱前の4,500人から334人(1934年)まで激減した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plutarco_El%C3%ADas_Calles
 (注3)「スペイン内戦は、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こしたことにより始ま<り、1936年から39年まで続いた。>
 共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は・・・カトリック・キリスト教、全体主義体制<等>を支持し、別れて争った。・・・
 内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。・・・
 カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、1938年6月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。・・・
 メキシコは、・・・知識人や技術者を中心に合計約1万人の<旧共和国派の>亡命者を受け入れた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%86%85%E6%88%A6
 (注4)ボルシェヴィキがロシアの権力を掌握してからの5年間で、ロシア正教の主教(bishop)28人と僧侶1,200人超が殺害され、多数が投獄されたり、亡命を余儀なくされた。
 ソ連が成立してからは、教会の不動産は国有化され、無神論が公式教義となり、宗教は弾圧され、その絶滅が図られた。
 先の大戦中に、ロシア正教に対する弾圧は緩和されたが、その代わり、大主教座([Patriarchate of Moscow and all the Rus'])はKBGのフロントにされ、戦後にはアレクシウス大主教(Patriarch Alexius I 《。1877〜1970年。大主教:1945〜1970年》) のように、自身がKGBのエージェントにされたり、僧侶達が、外国でエージェント獲得や亡命ロシア人達に対するスパイ活動に従事させられたりした。
 また、戦後には、米国との関係が疑われていたところのプロテスタントは、精神病院に送られたり裁判にかけられたり投獄されたり、親権を剥奪されたりした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Persecution_of_Christians_in_the_Soviet_Union
http://en.wikipedia.org/wiki/Moscow_Patriarchate ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexy_I_of_Moscow (《》内)
 (注5)ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会(Ukrainian Greek Catholic Church)に対する弾圧は、この教会の活動圏であったガリチア(Galicia)がソ連に併合された1939年時点では起こっていないが、先の大戦後、この教会がウクライナ民族主義と連携を始めると弾圧が開始され、司教達のシベリア送り等が始まった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Religion_in_the_Soviet_Union#Ukrainian_Greek_Catholic_Church

 このように、世界各地で共産主義勢力による実存的脅威に直面していた法王庁が、戦間期に反共産主義政策を打ち出したのは、当然のことでした。
 それが、1937年3月に法王ピオ第11世が発出した回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス(DIVINI REDEMPTORIS)』(上出)なのです。
 
 同回勅は、次のように記しています。

 「余<(ピオ11世)>の親愛するスペインにおけるように、共産主義のわざわいが、まだその理論のあらゆる結果を感じさせるにいたっていないところにおいても、共産主義は、悲しむべきことであるが、暴虐をほしいままにしたのであった。一、二の教会、どこそこの修道院を破壊したというだけではない。できることなら、キリスト教のすべての教会、すべての修道院、そのすべての形跡をも、たとえ、それが、芸術的に、科学的に、どんな著名な記念物であっても、破壊しようとしたのである。兇暴な共産主義者は、司教たちをはじめ、数千の司祭、修道者、修道女、しかも、他の人々よりも熱心に労働者と貧者のために尽くしていた者も殺したばかりでなく、さらに多数の信徒を、あらゆる階級にわたって殺戮した。これらの信徒は、今日でも、善良なキリスト者であるという一事だけで、あるいは、少なくとも、共産主義の無神諭に反対したという一事だけで、今日もなお、毎日のように、殺戮されている。そして、この恐るべき破壊は、現代では可能とは思われないほどの憎悪、残虐、蛮行によって遂行されたのである。」(法王回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス([DIVINI REDEMPTORIS]) 』(1937.3.19)(上出)より)
http://hvri.gouketu.com/diviniredemptoris.htm (べじたんさん提供)
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/74a44f2b222d4288b152b96cdd1048ca ([]内)

(続く)

http://blog.ohtan.net/archives/52141691.html

<日本・法王庁「同盟」(その2)>(2012.7.23公開)

 この回勅は、この政策はあくまでも共産主義を対象としたものであって、ロシアの人民を対象としたものではない、とを断っています。

 「・・・このように述べたからといって、余が慈父の情を寄せているソヴィエト連邦の諸民族を一括して非難するわけではない。余は、かれらの多くが、しばしば同国の真の利益に無関心な人々によって強制された首かせのもとに呻吟していることを知っているし、他の多くの人々も、まことしやかな希望に欺かれていることを知っている。余が告発するのは体系であり、その作者であり、その扇動者である。・・・」

 このような反共産主義政策の歴史は、実は古いのです。
 この回勅は、この歴史を振り返ります。

 「・・・共産主義に関しては、一八四六年、余の尊敬すべき先任者で聖なる追憶をとどめているピオ九世<(注6)>は、その後『シラブス』<(注6)>によって確認された荘厳な声明によって、これを誤謬と断定し、「共産主義と呼ばれるこの悲しむべき理論は、自然法そのものに、根本から反している。このような理論をひとたび受けいれるならば、あらゆる権利、制度、所有、および人類社会そのものまでも、全く崩壊するにちがいないと述べている。その後、余の先任者で、不朽の追憶をとどめているレオ十三世<(注7)>は、その回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス』のなかで、共産主義を「人類の心髄をおかして、これを滅ぼす致命的なペスト」と定義している。・・・

 (注6)Pius IX。1792〜1878年。法王:1846〜78年。「31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持ち、イタリア独立運動の中で、古代以来の教皇領を失い、第1バチカン公会議([1869〜70年])を召集し、[法王無謬性(papal infallibility)教義を策定するとともに、]『誤謬表』《・・社会主義、共産主義、自由主義、信教の自由の否定を含む・・》を発表して近代社会との決別を宣言。・・・『誤謬表』(シラブス《=Syllabus of Errors》)は1864年の回勅《encyclical》『クアンタ・クラ《Quanta Cura》』に付属するかたちで発表された。・・・1848年に入るとイタリアをめぐる情勢はゆれ始める。教皇はイタリア北部をおさえていたオーストリア帝国を支持していたため、これに反感をもっていた民衆によって暴動が起こるようになる。11月24日、ピウス9世は政情不安定のローマを離れて密かにガエタへ逃れた。1849年にはローマ共和国が成立、これを警戒した教皇はフランスに援助を依頼したため、フランス軍がローマに進駐した。翌年教皇はローマに戻った。1858年、ナポレオン3世はイタリアのカヴールと同盟し、オーストリア軍を攻撃。オーストリア軍をイタリアから撤退させた。ここにいたってイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇領を要求。これを拒否されると武力で進駐し、1870年、フランス軍の撤退したローマまで押さえた。ここにいたって教皇は自らが「バチカンの囚人」であると宣言し、イタリア政府とバチカンは断交状態に陥った(ローマ問題)。・・・1862年に日本二十六聖人を列聖したのがピウス9世であり、1868年には長崎での信徒発見のニュースに対して喜びをあらわす書簡を発表している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B99%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_IX ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Syllabus_of_Errors (《》内)
 (注7)Leo XIII。1810〜1903年。法王:1878〜1903年。《1878年12月28日に回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス(Quod Apostolici Muneris)』を発表し、社会主義(キリスト教社会主義を指していると考えられている)、共産主義、ニヒリズムを単一のイデオロギーの3つの側面であるとし、批判した。》また、「1864年の『誤謬表』<の悪評を>・・・憂慮し、・・・共和制フランスをはじめて認め・・・労働問題を扱ったはじめての回勅『レールム・ノヴァールム』を発表した・・・。・・・しかし、・・・イタリア王国を認めず、信徒に国政選挙の投票権を放棄するよう求めていた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA13%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Quod_Apostolici_Muneris (《》内)
 「レールム・ノヴァールム(・・・Rerum Novarum)とはローマ教皇レオ13世が1891年5月15日に出した回勅の名称である。・・・「新しき事がらについて」を意味し、「資本と労働の権利と義務」という表題がついている。・・・副題に「資本主義の弊害と社会主義の幻想」とあるとおり、「少数の資本家が富の多くを占有する行き過ぎた資本主義によって、労働者をはじめとする一般庶民が搾取や貧困、悲惨な境遇に苦しむあまり無神論的唯物史観を基調とした社会主義(のちの共産主義)への移行を渇望しているが、それで人間的社会が実現するというのは幻想である」として、・・・共産主義<と>[野放図な]資本主義<をどちらも>批判<し>た。・・・いっぽう、それまで大勢を占めてきた「教会は貧しい者には忍耐を、金持ちには慈善を説けばよい」といった考えに対し、・・・労働者の貧困や境遇の改善は(憐れみの対象ではなく)社会正義の問題であるとし、・・・資本と労働の関係や政府と市民の関係について・・・[社会主義の脅威を念頭に、カトリック教会は(それまでは王侯貴族寄りであったのを)ブルジョワ寄りへと舵を切り、トマス・アクィナスを援用して]私有財産制を<自然権として>擁護<することと>しつつ・・・、労働者に<も>労働権を認めて労働組合を結成することを支持し、階級協調を説いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A0
http://en.wikipedia.org/wiki/Rerum_Novarum ([]内)

 1934年、余が派遣した救援使節がソヴィエト連邦から帰ったとき、余は、全世界に向けて行なった特別な演説において、共産主義に抗議した。余の<諸>回勅・・・において、余は、ロシア、メキシコ、およびスペインにおいて勃発した迫害に対して、厳重な抗議を行なった。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 さて、この回勅は、以下のように共産主義の戦略を分析して見せています。

 「・・・共産主義の首領たちは、みなが平和を望んでいるのを見ると、世界平和運動のもっとも熱心な推進者、宣伝者をよそおうのである。しかしながら、かれらは、他方においては、流血の惨をひきおこす階級闘争を刺激し、平和の内的保障が欠けているのを感じて、無際限な軍備にたよるのである。また、共産主義のにおいのしないさまざまの名称のもとに、組織や雑誌をおこし、この方法によらないでは接触することのできない環境に、その思想を浸みこませようとしている。その上、かれらは、はっきりしたカトリック団体、宗教団体にまで浸入しようとして謀略をめぐらすのである。たとえば、かれらは、その好悪な原理を少しも放棄していないにかかわらず、かれらのいわゆる人道的領域、愛の領域において、ときには、キリスト教の精神と教会の教義とに完全に合致したことを提案して、カトリックの協力を要請している。その上、もっと信仰があつく、文明のすすんだ諸国においては、共産主義は、もっと穏健な姿をとり、宗教の信奉をさまたげず、良心の自由を尊重すると信じこませるほど、欺瞞をたくましくするのである。・・・
 尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。・・・
 国家は、秩序の基礎をことごとくくつがえす無神主義の宣伝が、その領土を荒らすのを全力をあげて防止しなければならない。・・・
 良心の保証が全く欠けている場合、どうして誓約が役に立ち、条約が価値を有しうるであろうか。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 つまり、共産主義は美しい言葉を掲げ、かつフロント組織を通じて勢力拡大を図り、様々な約束をするけれど、決してだまされてはならない、と注意を喚起しているのです。
 その上で、この回勅は、全世界のカトリック組織に向けて、以下のように呼びかけるのです

 「・・・敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

(続く)

http://blog.ohtan.net/archives/52141838.html

<日本・法王庁「同盟」(その3)>(2012.7.24公開)

3 法王庁の反ナチズム

 ここで、銘記すべきは、共産主義(ソ連)を非難した回勅『ディヴィニ・レデンプトーリス(DIVINI REDEMPTORIS)』は1937年3月19日に発表されたところ、同じ月の14日に、ナチズム(ナチスドイツ=第三帝国)を非難した回勅『深き憂慮に満たされて=ミット・ブレネンダー・ゾルゲ(Mit brennender Sorge)』が策定され、21日にドイツの全カトリック教会の説教壇で朗読・発表されていることです。
 つまり、法王庁は、欧州の外延に位置するロシアにおける民主主義独裁と欧州に位置するドイツにおける民主主義独裁の双方に対して、全く同時に、攻撃の火蓋を切ったということです。

 この回勅発表の背景は次の通りです。

 「プロテスタント教会ではナチスに対する態度は賛成、是々非々、拒否と枝分かれしていた・・・
 これに対してドイツのカトリック教会は・・・・・・ナチスの人種的反ユダヤ主義や旧約聖書攻撃<を踏まえ、>・・・全体としてほぼまとまって、抬頭するナチスへの拒否の姿勢を堅持していた。・・・
 <しかし、>フランス革命以来のカトリシズムの伝統の中で培われていた反自由主義、反民主主義、反社会主義、反共和主義の精神風土もあって、ヴァイマル共和国の終焉はドイツ・カトリシズムにとってスムーズに受けいれられた。ついで、これまでのドイツ司教団によるナチス拒否の姿勢を転換させる直接のきっかけとなったのは、ナチス政府による1933年2月1日の親キリスト教的声明であり、また同年3月23日の全権委任法(授権法)採決の数時間前に行われた首相ヒトラーの議会演説であった。
 その中で彼は「両キリスト教宗派にわが民族性保持のための最も重要な要素を見出し、両宗派の権利は侵害されず、国家に対する教会の地位は不変であること」を公約したのであった。
 一国の宰相が公式声明と議会演説とにおいて表明したキリスト教会尊重の公約は、プロテスタント、カトリックの両教会指導者やまじめなキリスト教徒を大いに喜ばせ、安心させ、これまで大なり小なりナチスとヒトラーに対して抱いていた猜疑心を溶解させるのに役立った。こうして1933年3月24日、中央党とバイエルン人民党・・・という二つのカトリック政党・・・もまた、全権委任法案に賛成票を投じることになった。社会民主党の反対に抗して(共産党の全議員は、すでに逮捕され、議会から排除されていた)、同法案はカトリック両政党の賛成票に助けられ、3分の2以上の多数を得て採択された。ナチス独裁の法的基礎はこのようにして与えられ、議会政治は自ら終幕を引いたのである。
 ついでその4日後の3月28日、ついにドイツ司教団は従来のナチス拒否の姿勢を転換する共同教書を発表したのである。・・・
 ヒトラー政権は連立政権として誕生したが、急速に一党独裁の色彩を強めていく。ナチ党以外の諸政党は次々と禁止され、あるいは解散に追いこまれた。・・・バイエルン人民党と中央党もまた、7月4日と5日に相次いで解散した。1870年以来、63年にわたるドイツ・カトリシズムの政界における利益代表は消滅した。ビスマルクの文化闘争<(コラム#5228)>を持ちこたえたカトリック政党は、ナチス政権の下であっけない幕切れを迎えたのである。
 折しも1933年4月、ドイツ政府の側からローマ教皇庁に対して「政教条約」締結交渉が申し入れられた。ドイツ側の全権代表は副首相のフランツ・フォン・パーペンであり、教皇庁側の代表は国務長官エウジェニオ・パチェリ(のち1939〜1958年の教皇<ピウス>12世)であった。中央党とバイエルン人民党の消滅によってドイツにおける利益表出のパイプを失ったヴァチカンはカトリック政党にかわるものを求めなければならなかった。こうして1933年7月20日、ヴァチカンにおいて「政教条約」(Reichskonkordat)が調印されたのである。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 カトリック教会は、かつてプロト欧州文明のイデオロギーたるプロト近代全体主義(=プロト民主主義独裁)の担い手であったわけですが、脱キリスト教(世俗化)運動で基本的にあったところのプロテスタンティズムには反対しつつも共存するに至ったという歴史があります。

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<脚注:コーポラティズム>

 当時、カトリック教会は、コーポラティズム(corporatism)(コラム#1165、3758、3766、4362)を掲げ、中世には存在していなかったところの、ブルジョワ階級と労働者階級を取り込んだ形での中世的秩序の回復を図っていた、というのが私の理解だ。
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 従って、どちらも近代全体主義/民主主義独裁を旨とするところの、無神論たる共産主義、及び、キリスト教以前のアーリア人の諸宗教にシンパシーを示したナチズム、といえども、カトリック教会は、両者に反対しつつも共存することもありえなかったわけではありません。
 実際、カトリック教会は、ドイツのカトリック系2党がヒットラーに全権を与える全権委任法案に賛成票を投じることを黙認したわけです。
 ところが、共産主義は、ボルシェヴィキ革命後、(カトリック教会が存在しないと言ってもよい)ロシアはともかくとして、メキシコ、スペインにおいてカトリック教会絶滅政策をとっていたところ、ナチズムも、以下のように、次第にそのカトリック教会絶滅政策を顕在化させるに至ったのです。

 「・・・政教条約は確かに法律上、カトリック教会とその関連活動の存続を保障していた。しかし現実にはナチスの政府・警察・党による弾圧・迫害・制限措置、妨害行為は衰えるどころか、ますます強化されていった。・・・
 1934年6月・・・ナチスに敵視されていたカトリックの三人の有力な民間指導者が暗殺された。・・・この事件は、起訴や裁判なしに・・・<ナチス>批判者<を>政治権力<が>抹殺<したものであって>、第三帝国が法治国家の仮面をかなぐり捨て、無法国家・テロ国家へ転換したことを示す重大な節目となった。・・・
 ローゼンベルク<(注8)>は、ユダヤ人の書=旧約聖書を継承するキリスト教を攻撃し、北方ゲルマン神話に依拠した北方人種の崇拝とユダヤ人排斥との世界観を展開していた。しかも1934年1月、ローゼンベルクはナチ党の世界観教育全国指導者に任命された。・・・

 (注8)アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg。1893〜1946年)。ドイツの政治家、思想家。ナチス対外政策全国指導者。先の大戦期には東部占領地域大臣も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 人種論、ユダヤ人迫害、生存圏(Lebensraum)、ヴェルサイユ条約破棄、退廃(degenerate)現代芸術反対、等のナチスのイデオロギーの核心部分の主要作者の一人。その、キリスト教排斥論でも知られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Rosenberg
 1934年2月7日付けでローマ教皇庁の教理聖省がローゼンベルクの『20世紀の神話』<(注9)>を《禁書》に指定してしまった 。・・・

 (注9)Der Mythus des zwanzigsten Jahrhunderts(The Myth of the Twentieth Century)。
 「1930年に公刊された・・・ナチス・イデオロギーの根本文献。[百万部以上売れ、]ヒトラーの『我が闘争』に次いで、党員に影響を与えた書物[。ただし、この本を、ヒットラーは読もうとしなかったとされ、読んだゲッペルスとゲーリングはこき下ろしている。]・・・
 ローゼンベルクはアーリア人種が、その道徳への感受性やエネルギッシュな権力への意志によって優れ、他の人種を指導すべき運命にあると論ずる。アーリア人とは北ヨーロッパの白人種[及びベルベル人と古代エジプトの上流階級]を指す。ところが現代の芸術や社会道徳を支配している[ユダヤ人等の]セム系人種の悪影響が広く蔓延し、アーリア人種は堕落しつつある<とし、>アーリア<人たる>ゲルマン人種<の>・・・ユダヤ人に代表されるとする劣等人種との混交の危険性を説き、「人種保護と人種改良と人種衛生とは新しい時代の不可欠の要素である」と断言し<た>。
 [また、イエスはアーリア人であり、アーリア的宗教を興したが、それがパウロの追従者達によって汚染されて成立したのがカトリック教会であったところ、これをルター等のプロテスタントが不十分ながら是正しようとして現在に至っている、と説いた。]」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Myth_of_the_Twentieth_Century ([]内)

 ローマ教皇庁は、こうしたドイツ国内の反キリスト教的・反カトリック的措置・行動を政教条約の諸規定とその精神とを侵害する重大な違反行為と判断し、1933年から37年にかけて約50通の外交書簡を発してドイツ政府に対して抗議し、事態の改善を申し入れてきた。・・・
 教皇ピウス11世は次のようにコメントしたという。「ナチズムは、その目標と方法においてボルシェヴィズムと異ならない。私はそれをヒトラーに言うつもりだ。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 この回勅の核心部分は、次の通りです。

 「・・・ここ数年間<、ナチスによって>行われてきた世界観教育なるもの・・・は、はじめから・・・<カトリック>教会<の>・・・根絶闘争以外のいかなる目標も知らない策謀を露呈した。・・・
 神を信じる者とは、神の言葉をことば巧みに操る者ではなく、ただこの高貴な言葉にふさわしい真の神概念を身につけている者だけである。汎神論的なあいまいさの中で神を宇宙と等置し、神を世界の中で世俗化し、世界を神において神格化する者は、神を信じる者の中には入らない。
 いわゆる古代ゲルマン的・前キリスト教的観念に従って、人格的な神のかわりにあいまいな非人格的な運命などというものを押し出す者は、『知の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてを司り』(知恵の書八・一)、すべてを良き結末に導き給う神の知恵と摂理とを否定する者である。そのような者には、神を信じる者の一人であると主張する資格はない。
 人種あるいは民族、国家あるいは国家形態、国家権力の担い手あるいは他の人間的共同体形成の基礎的価値を……偶像崇拝的に神格化する者は、神によって命じられた物事の秩序を倒錯させ、偽造する者である」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 「・・・<上掲の最後のセンテンス>を読んだ者は、この中に盛られた言葉の一つ一つがすべて当時のドイツのアーリア人種(ゲルマン人種)やドイツ民族、第三帝国、全体主義体制、総統ヒトラーなどをまさに意味しており、それらの神格化ないし絶対化が批判されているのだということを、直ちに理解することができたであろう。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
というわけです。

-------------------------------------------------------------------------------
<脚注:ナチスドイツの反法治主義>

 ナチスドイツは、授権法の成立によって議会機能を停止し、政府をして自由に法律を制定、改正させることができるようになったにもかかわらず、なおかつ、法律を無視して以下のようなことを行った。
 「1934年6月・・・ナチスに敵視されていたカトリックの三人の有力な民間指導者が暗殺された。・・・この事件は、起訴や裁判なしに・・・<ナチス>批判者<を>政治権力<が>抹殺<したものであって>、第三帝国が法治国家の仮面をかなぐり捨て、無法国家・テロ国家へ転換したことを示す重大な節目となった。」(前出)
 「警察は、・・・<回勅を印刷した>印刷所<を>・・・当時の刑法で<は>責任を問われないはず<なのに、>・・・厳しく捜索し、回勅の配布に従事した人物を捕えた。・・・また、補償なしに没収<ママ(太田)>された印刷所は全国で12カ所にのぼった。」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
 つまり、ナチスドイツは、法治主義を弊履の如く捨て去った、ということだ。
 他方、日本においては、日支戦争中はもとより、先の大戦中も議会機能は維持されたし、法治主義も維持された。
 当時の日独両国は、この点だけとっても、全く異なる。
-------------------------------------------------------------------------------

 この回勅が「・・・注目されるのは<、下掲のくだりの>人権の不可侵性の強調であ<り、>従来、「人権」は、神を排除する人間のエゴイズムの表現として、しばしば歴代の教皇たちによって非難されてきた・・・ところ・・・この回勅は・・おそらくナチスによる壮絶な人権侵害に直面して・・むしろ人権を神によって与えられた不可侵の権利として、はっきり承認し、強調している・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
ことです。

 「・・・人間<は>人格として神によって与えられた権利を所有し(der Mensch als Personlichkeit gottgegebene Rechte besitzt)、その権利は共同社会による侵害廃棄あるいは無視をめざす一切の介入から免れ続けなければならない・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf

 すなわち、カトリック教会は、それまでの反自由主義政策を180度改め、自由主義を採用するに至ったわけです。
 私に言わせれば、この瞬間に、カトリック教会は、プロト近代全体主義イデオロギーを捨て去り、自由民主主義陣営と親和性を持つ存在へと大変身を遂げたのです。

(続く)

http://blog.ohtan.net/archives/52141958.html

<日本・法王庁「同盟」(その4)>(2012.7.25公開)

<脚注:カトリック教会の自由主義への回心>

 共産主義に対して発表された方の回勅の以下のような記述から、果たして、カトリック教会が私の言うように自由主義へ回心したのか、疑問を持つむきもあるかもしれない。

 「・・・教会の感化のもとに、感嘆すべき慈善事業、あらゆる種類の職人と労働者との協同組合が出現した。前世紀の自由主義は、これを嘲笑した。その理由は、中世期の組織だからということであった。ところが、今日、これらの組織は現代人の感嘆するところとなっており、種々の国で、これを復活させようと努力している。<(コーポラティズム礼賛!(太田))>・・・
 諸民族の長たちが、教会の教えとその母心の警告をあなどらなかったならば、社会主義も共産主義も生まれなかったにちがいない。けれども、かれらは、自由主義と俗化主義との土台の上に、他の社会的建物をきずこうと考えた。・・・
 <かかる>自由主義は共産主義の道を開いた<のだ。>・・・
 ・・・社会は人間のためにつくられるのであって、人間が社会のためにつくられているわけではないからである。だからと言って、個人主義的な自由主義が考えているように、社会を個人の利己的な利用に委ねてはならない。むしろ、個人と社会とは、有機的に一致し、相互に協力することによってこそ、この地上に、万人のために、真の幸福をきずくことができるのである。・・・
 道に反する自由主義がわれらをおとしいれた破滅から今日の世界を救う手段は、階級闘争でも、恐喝でも、まして、国家権力の専制的な乱用でもなく、社会正義とキリスト教的愛徳との鼓吹する経済的秩序の回復にある・・・」 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 しかし、この回勅が否定している自由主義には、「前世紀の」、「俗化主義<的な>」、「個人主義的な」、「道に反する」という限定的な修飾語が付いてことに留意すべきだろう。
 人権の不可侵性を認めたカトリック教会は、「今世紀の」「個人主義でも全体主義でもない」「道に適った」自由主義への回心を成し遂げた、と言ってよいのだ。
-------------------------------------------------------------------------------

 そうして、カトリック教会は、全球的宗派及び主権国家として、以下のように、ナチスに対し、その同教会絶滅政策に抗議するとともに、自由主義を掲げて反撃を行ったのです。

 「・・・教皇回勅「深き憂慮に満たされて」は、<このように、>まずカトリック教会、関係諸団体、学校教育などカトリック教会に直接間接に関わる領域におけるドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害の事実を公表し、それに公然と抗議した。次に第三帝国における人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美を偶像崇拝的なものとして拒否し、ナチズムの世界観を根底的に批判していた。この二つの指摘がナチス政府への《申し入れ》という形ではなく、《公開抗議》という形をとったこと、しかもそれが《教書》ではなく《回勅》の朗読という最も高い調子の形態で行われたこと、しかもその回勅がラテン語ではなくて、ドイツ語によって書かれたことは、まさに目の前のナチス国家に対する《公然たる宣戦布告》に等しいものであった。・・・
 ドイツ語原文の回勅は後にも先にもこれ限りである。・・・
 当時すでに、この回勅は「主権を持つ機関がその職務の行使において第三帝国について行った発言の中で最も激烈なもの」である、と評価されていた。・・・
 《申し入れ》や《交渉》だけではナチス当局は動かされない、と判断し、むしろ公然たる抗議によるカトリック民衆へのアピールによって、目に見える形での力をむろん暴力ではなく平和的な意思の力を現実に示さなければならない、そうすることによってのみナチス指導者たちは動かされる・・・。こうした主張を支えたのは、「第三帝国の政治的意思決定の担い手は政府ではなくナチ党である」(シュルテ枢機卿から教皇庁国務長官あて1937年1月16日付け文書)ということ、そしてその究極的目標の一つが「カトリック教会の破壊、まさにキリスト教そのものの根絶」(1938年8月19日付けドイツ司教共同教書)であるということ、そのことの明確な認識であった。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 すなわち、カトリック教会は、「<同>教会・・・<に対する>ドイツ政府やナチ党による弾圧・迫害」に抗議するとともに、「人種や民族の崇拝、国家や権力者への賛美」について、(教義上の観点からに加え、)自由主義の観点から反撃を行った、ということです。

 このように、カトリック教会がナチスドイツと四つに組んで戦うことができたのは、皮肉なことに、同教会が、共産党やナチ党のプロトタイプ的な独裁的組織であったからこそでした。
 前に引用した下掲は、カトリック教会が、全球的に「正確<で>・・・豊富な情報」収集能力を有していたことを示しています。

 「・・・敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。・・・」(『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 また、下掲から、法王庁の指揮の下、ドイツ内のカトリック教会組織が、隠密にして一糸乱れぬ行動をとったことが見て取れます。

 「・・・カトリックの組織<は>この試練の時にも確固としており、またその戦線の連携(保管者、仲介者、配送者、印刷者)が道徳的にも堅固であって、<ナチスドイツに対する回勅の配布、読み上げに際して、>そこに何の遺漏も、伝達不十分も生じなかった・・・。・・・
 <実際、>完成された回勅のドイツ語原本は教皇庁の印刷所で印刷され、秘密特使の手で3月14日、まずベルリンのプライジング司教に届けられた。そこからさらに回勅はドイツ各地の司教の手元に、やはり特使によって3月16日までに配送された。検閲・摘発を恐れて郵便は利用されなかった。各地の司教座ではそれを大量に印刷させた。説教壇から朗読するだけでなく全カトリック世帯に配布するためである。回勅の内容が余りに長文だったために印刷されたものは冊子となり、ミサの終了後に販売された。・・・」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲

 しかし、この2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした。
 ピオ11世は、これを「沈黙の陰謀(Conspiracy of Silence)」と形容したものです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XI 前掲

 カトリック教会は、ナチズムに対する非難を、ナチスドイツが崩壊するまで、執拗に継続することになります。(共産主義に対する非難については、後で脚注で取り上げる。)
 1939年3月にピオ12世(Pius XII)(注10)(コラム#3094、4846、4848)が法王に就任します。

 (注10)エウジェニオ・パチェッリ(Eugenio Pacelli)→ピウス12世(1876〜1958年。法王庁国務長官[Cardinal Secretary of State]:1929〜39年。法王:1939〜58年)。ローマ生まれ。「<第二次世界大戦>が始まると、第一次世界大戦時のベネディクト・・・15世のやり方に倣って、バチカンは「不偏」を主張した。しかし、バチカンがナチス党政権下のドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判されることになる。・・・<ところが、>[第二次世界大戦勃直後の1939年に、ピオ12世は、(ムッソリーニの1938年の反ユダヤ法で失職していた1人のユダヤ人をヴァチカン図書館職員に採用するとともに、2人のユダヤ人をヴァチカン科学アカデミー会員に任命したし、]<1943年9月に>イタリア敗戦に伴ってドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人がバチカンで匿われ、バチカンの市民権を得ることができ、これによって戦後、イスラエル政府は「諸国民の中の正義の人」賞をピウス12世に贈っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B912%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII ([]内)

 時あたかも、同年9月1日、ドイツ軍が(、そして続いて9月17日にソ連軍が、)ポーランド領内に侵攻し、ポーランドの同盟国であった英国とフランスが9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6#1943.E5.B9.B4

(続く)

http://blog.ohtan.net/archives/52142077.html

<日本・法王庁「同盟」(その5)>(2012.7.26公開)

<脚注:第二次世界大戦の勃発を巡る疑問>

 ドイツとソ連のポーランド侵攻を受け、英仏は、ドイツにはただちに宣戦したが、ソ連には宣戦しなかった。
 ポーランドと英仏は同盟関係にあったが、英国に関しては、Polish-British Common Defence Pact(1939年8月25日)には、条約にある「欧州の国(European power)がポーランドを攻撃した場合」の「欧州の国」とはドイツを指すとの秘密協定があったのに対し、フランスに関しては、Franco-Polish Military Alliance(1921年)があったが、文字通り無視されたことになる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_invasion_of_Poland
 どうして、当時、両国がこれほどソ連(赤露)、つまりは共産主義に甘い姿勢をとるに至っていたのか、大戦後の冷戦のことを考えれば、容易に理解しがたいものがある。
 ちなみに、ドイツから、中ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、矢の催促を受けていたにもかかわらず、ソ連がポーランド侵攻をドイツより16日遅れて17日に決行したのは、日本との間のノモンハン事件の停戦がようやく9月16日成立したからに他ならない。
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
 (ついでだが、第二次世界大戦の英語ウィキペディアは、同大戦の前史の中で、張鼓峰事件についてもノモンハン事件についても、日本軍の侵攻が原因で始まり、日本側が敗北した、と断定しており、日本人有志による書き換えを求めたい。)
 1939年11月30日にソ連がフィンランドに侵攻した(冬戦争。〜1940年3月13日)ところ、これをソ連のドイツ側に立っての第二次世界大戦への参戦に等しいと受け止めた英仏が、国際連盟からのソ連の追放に与し、成功した
http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II#War_breaks_out_in_Europe 前掲
ことを考えると、両国が、宣戦はともかくとして、ソ連のポーランド侵攻時に同国の国際連盟からの追放をどうして行おうとしなかったのだろうか。
-------------------------------------------------------------------------------

ピオ12世は、最初の回勅『スンミ・ポンティフィカトゥス(Summi Pontificatus)』(1939年10月20日)を発表し、ポーランドへの侵攻、同国の占領と分割を非難しました。
 これが、ドイツとソ連両国を非難したものであることは明白です。
 英仏は、この回勅を、(あくまでもドイツに対するものと受け止めたということなのでしょうが、)驚きをもって好意的に受け止めました。
 翌1940年1月18日には、同法王は、ポーランドの一般市民多数が殺害されていることを非難しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII (前掲)
 1941年6月22日に、ドイツはソ連に侵攻しますが、同法王は、敵の敵・・と法王庁はみなしている、と少なくともナチスドイツとファシスト・イタリアは思っていた・・へのこの攻撃については、沈黙を守ります。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 
(4月5日アクセス。これ↑は、やや、典拠としての信頼に乏しいが・・。)
 そして、同年、同法王は、ピオ11世界の回勅『ディヴィニ・レデムプトリス(Divini Redemptoris)』がカトリック教徒が共産主義者達を助けることを禁止していたところ、これがソ連に対する軍事援助には適用されないという解釈を打ち出しました。
 これは、米国による軍事物資貸与(Lend Lease)のソ連への拡張に反対してきた米国のカトリック教会の姿勢を緩和するものでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲
 1943年3月には、法王庁はドイツ外相のリッベントロップに対し、ナチスによるポーランドのカトリック教会に対する迫害に抗議する書簡を送っています。
 そして、1943年4月には、ハンガリー首相のミクロス・カライ(Miklos Kallay)(注11)を引見した同法王は、ナチスは共産主義者達よりはるかに悪質であり、ナチスの勝利は欧州におけるキリスト教の終焉を意味するかもしれない、と語っています。
http://www.amazon.com/The-Vatican-Communism-During-World/dp/0898705495 前掲

 (注11)Dr. Miklos Kallay de Nagykallo。1887〜1967年。ハンガリー首相:1942年3月〜1944年3月。ハンガリーはナチスドイツと同盟関係にあったが、カライ政権は、ユダヤ人迫害等には同調せず、また、共産党を除く左翼政党の活動を認めた。そして、ドイツのソ連に対する戦争の継続は支持しつつも、連合国に対して宥和的メッセージを発し続けた。ついには、ドイツは、ハンガリーを占領し、カライ政権を打倒し、彼は強制収容所送りとなる。戦争末期に米軍によって解放されるが、戦後のソ連の占領を受け、1946年には亡命し、1951年に米国に移り住み、そこで生涯を終えた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikl%C3%B3s_K%C3%A1llay

 同法王による、このような、ナチスドイツに対する抗議「は第二次世界大戦中の1943年8月19日付け、9月12日発表の、「精神病患者・捕虜・異人種の殺害」に抗議する「第五戒(汝殺スナカレ)の解説」を中心とする共同教書まで続けられた」
http://www.seinan-gu.ac.jp/jura/home04/pdf/3402/3402kawashi.pdf 前掲
のです。

-------------------------------------------------------------------------------
<脚注:共産主義に対する1937年の回勅以降の非難>

 法王ピオ12世は、ソ連によるフィンランド侵攻に対し、1939年12月26年のヴァチカンでの講話で非難し、後日、フィンランドのために、署名し封緘された祈祷を寄贈している。http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲

 そして、同法王は、大戦後の1949年7月1日に、法王庁の検邪聖省に、共産主義に対する聖省令を発布させている。

 その内容は、あらあら以下のとおり。

一、共産党に党員として加入すること、あるいは、なんらかの方法で、これを助けることは許されるか。→いな。・・・
二、共産主義者の理論あるいは行動を支持する書籍、雑誌、新聞、あるいはリーフレットを刊行し、流布し、読み、あるいは、これに書くことは許されるか。→いな。・・・
三、 一および二に該当する行為を、知りながら自由になす信徒に、秘跡をさずけることができるか。→いな。・・・
四、共産主義者の唯物主義的・反キリスト教的理論を奉じている信徒、とくに、これを防衛し、あるいは宣伝する信徒は、カトリック信仰に対する背教者として・・・破門に処せられるか。→しかり。
http://hvri.gouketu.com/diviniredemptoris.htm
-------------------------------------------------------------------------------

4 法王庁の日本との「同盟」

 1937年の件の「2つの回勅は、どちらも、欧米の(自由)民主主義諸国では全く反響を呼びませんでした」と前に書きましたが、この2つの回勅が同年3月に発表される「つい一カ月前」(下掲)の2月に、恐らく、日本の有力政治家の誰かが、法王庁の対赤露ないし対ナチスドイツ政策に敬意を表する発言を行っていたと思われるところ、そのことに、法王庁が、共産主義に対する回勅の中でわざわざ言及したことは、興味深いものがあります。

 「・・・極東のキリスト教徒でないある偉大な政治家は、つい一カ月前、教会はその平和とキリスト教的兄弟愛とに関する教義によって、諸国家間の平和の確立ときわめて骨の折れるその維持とに、きわめて貴重な貢献を行なっていると断定してはばからなかった。・・・」
 (『ディヴィニ・レデンプトーリス』より)

 そして、同年7月に日支戦争が始まると、10月に、法王庁は、「全世界のカソリック教会および伝道所に・・・「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で・・・日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。・・・共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。・・・日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。」(前出)等を指令したわけです。
 これは、ピオ11世や(将来の)ピオ12世らは、支那等のカトリック組織を通じて、日支戦争が、文明と非文明、自由主義と共産主義との戦いであることを、中国国民党政府が赤露のフロントであるとの認識の下、精確に見抜いていた、ということであり、この時点で、日本と法王庁は、同盟関係、しかも価値を共有する同盟関係、に入ったと言っても過言ではないでしょう。
 とにかく、日本の東アジア政策、就中対支政策は、(横井小楠コンセンサスに則り、)ロシア、改め赤露抑止を目的としたものであることを、真正面から認め、日支戦争において日本の全面的支持を表明したところの、全球的宗派、というより、有力な欧米の主権国家・・カトリック教会・・があった、ということを、我々は決して忘れないようにしようではありませんか。

 (当時のカトリック教会は、共産主義とナチズムの挟撃を受け、実存的危機に直面していたわけですが、そのおかげで(?)、その歴史を通じて最も輝いていた、と言えそうです。
 この実存的危機を乗り越えた後のカトリック教会が、現在、再び、保守反動的・独裁的な存在に成り果てていることは残念でなりません。
 何度も申し上げていることですが、同教会は、主権国家であることを永久に放棄すること等、自ら、抜本的改革に乗り出す必要があります。)

 ところで、不思議なのは、日本と法王庁が国交を樹立するに至るまでに、その後、随分、時間がかかったことです。
 1939年12月には、米国のローズヴェルト政権がイニシアティヴをとって、米国と法王庁が国交を樹立しています。
 (正確には、1870年に、法王が世俗的権力を失った時点で両「国」の国交が断たれていたのが、国交が回復したもの。)
 米国に先を越された日本が法王庁と国交を樹立するのは、太平洋戦争が始まった翌年の1942年3月でした。
 これは、調べていないので断言は控えるべきなのですが、日本の方が、江戸時代のキリシタン(事実上カトリック)禁制の因縁から、法王庁との国交樹立に躊躇していた、という可能性が大いにあると思います。
 いずれにせよ、米英と戦っている日本(、しかも、法王庁の仇敵であるナチスドイツと同盟関係にあった日本)とあえて国交樹立をした法王庁の親日ぶりには瞠目すべきものがあります。(日本のナチスドイツやファシストイタリアとの同盟は、敵の敵との便宜的同盟に過ぎないことを法王庁は良く分かっていた、と言うことでしょうね。)
 興味深いのは、同じ1942年6月に、法王庁が今度は、日本の戦争相手の一つである中国国民党の蒋介石政権と国交樹立をしていることです。
 これは、法王庁が、日本から親日の汪兆銘政権との国交樹立の要請を受けていたために、この時期にずれこまざるをえなかったということなのですが、法王庁としては、日本との国交樹立の米英等に及ぼすインパクトを緩和するために、蒋介石政権との国交樹立を図らなければならなかったということではないでしょうか。
 (以上、事実関係は下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲)

(完)  

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コメント
 
01. 2012年8月01日 05:54:02 : 5Q6q4GjBkE
今回の五月様の投稿は

小室直樹先生の思想の補完たりうる内容なので拍手(キリッ



02. 五月晴郎 2012年8月01日 14:24:51 : ulZUCBWYQe7Lk : 7V9IIWTBwM
>>1

お恥ずかしい話ですが、いかに「小室直樹先生の思想の補完たりうる」のか投稿した本人が見当もつきません。
よろしかったら簡単に指摘いただけないでしょうか。
小室直樹氏の著作はだいぶ読みましたが・・


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