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内側からみた日共’50年代武装闘争 (長谷川浩・由井誓の対談)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/650.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 25 日 22:04:52: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/yui%20hasegawa.htm

内側からみた日共’50年代武装闘争

長谷川浩・由井誓の対談

 (注)、これは、『由井誓遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、1987年、絶版)にある、同題名の対談(P.43〜57)全文です。この原文は、『朝日ジャーナル・1976年1月30日号』に掲載されました。

 〔目次〕

     朝日ジャーナル編集部コメント

   1、武装共産党時代とテロ

   2、ゲリラかゼネストか

   3、「権力者」を捜して

   4、どこかにスパイが?

   5、未解決の悲劇

     長谷川浩・由井誓略歴

 (関連ファイル)   “『五一年綱領』と極左冒険主義”のひとこま ( http://www.netlaputa.ne.jp/~rohken/yui.htm )山村工作隊活動他  由井誓 

朝日ジャーナル編集部コメント

 日本で左翼の「暴力」に何らかの妥当性が認められるか−−−この問題を考えるうえで最大の資料を提供しているのは、一九五〇年代前半に展開された日本共産党の武装闘争である。火炎ビンから爆弾まで、いま新左翼の一部セクトが行使している暴力の原型は、すべてここにあったといってもよい。この闘争がお粗末な失敗に終わったあと、日共は「極左冒険主義」を自己批判し、公式に平和革命を主張するにいたったが、一般市民の目にも触れる形で十分な総括がなされたとはいい難い。なぜ日共がああも空想的な武闘路線を採用し、いかなる経過をたどってこれを放棄したのか、その今日的教訓とは何か−−−あのころ党中央で全政策の形成に立ち会った戦前以来の元党員と、現実に火炎ビンを手にした元中核自衛隊員(元独立遊撃隊員)に話し合ってもらった。 (編集部)

―――――――――――――――――――――――――――

 1、武装共産党時代とテロ

 長谷川浩 昭和五年、いわゆる武装共産党の時代に、ぼくは『無産者新聞』の仕事をしていた。その年の七月に田中清玄の執行部が検挙された。やがて風間丈吉がモスクワから帰国して、同じクートベ(東方勤労者大学)帰りのスパイ松村などといっしょに新執行部をつくった。そのころ、ぼくは入党した。スパイの巣に入ったわけです。松村というのは、なかなか戦闘的な顔つきだったね。

 ぼくは昭和六年に逮捕された。昭和一一年に釈放されたときは宮本顕治のリンチ事件のあとで、共産党は壊滅状態。それからコミンテルンの三二年テーゼにそって伊藤律なんかと党再建運動をやり、昭和一五年にまた逮捕されて敗戦まで横浜刑務所にいたんです。いわば党組織の衰退過程を身をもって味わったわけで、極左偏向というものの土壌がよくわかるような気がする。

 こないだ早大の学生たちに頼まれて、テロ問題で講演したときにも話したんだが、もともと共産主義なら個人テロには反対するはずです。にもかかわらず共産主義者と名乗る人間がテロに走るのは、党が大衆的基盤を失って孤立するからだ。そこで焦燥感とインテリ党員などのプチブル急進主義が結びつく。田中清玄時代がその典型だね。党がだんだん極左的になる感じがして、何となくおかしいなと思っていたが、この傾向は大衆化の方向を打ち出した風間執行部の時代にも克服されなかった。いろいろ変な事件があったな。

 日本の左翼テロには、最近の企業爆破事件であれ何であれ、共産主義者のものとアナキスト系のものがあって、あとの方の論理はぼくにはちょっと理解しにくいんだが、心理的基盤は似たようなものじゃないか。発想の背景に政治的挫折とか孤立というものがある。

 由井 一つの挫折が出発点になっているという点では、戦後の日共の極左路線もそうですね。

 長谷川 二・一ストの失敗がそれです。そこで米軍による民主改革をちゃんと評価することができな〈なった。土地改革を含めて、戦後のブルジョア民主主義改革はかなり徹底していたんだが、日共は戦前の延長で封建制の残存という考え方にしがみついた。そこに中国革命の成功やら朝鮮戦争やらコミンフォルムによる五〇年の批判やらがからんで、米帝国主義による日本の植民地的支配という規定が加わるわけです。半植民地的、半封建的日本というんで、こうなると論理必然的に五一年綱領の民族解放民主革命路線を突っ走るほかはない。労働運動からはどんどん離れていって「民族独立行動隊の歌」になる。五〇年のレッドパージまでは、日共も労働運動に相当な影響力を持っていたんだけれどね。コミンフォルムの批判は日共に余計な民族主義を吹き込んだと、ぼくは今でも思っている。

 由井 当時の日共の論理的水準の低さということもありますね。五一年綱領を討議したときも、農村には相変わらず大土地所有制が残っているといったような幼稚な規定が何となく通用しちゃった。山林地主はいたけれど、これはもうかなり資本主義的な存在になっていたわけです。独立遊撃隊にいたころ、私は小河内でこの目で確かめましたよ。それでも「獄中一八年」の権威は圧倒的だった。いわば新しい天皇ですね、執行部が。こういう弱さは新左翼にもあって、戦後民主主義の評価をいまだに誤っている部分がある。

 それはそうと三位一体説というのがありましたね。第一にソ連型の武装蜂起。第二に中国型の民族解放闘争。第三に国外からの解放軍の来援。この三つで日本革命があすにも成就するといったような幻想が一時期、日共党員の意識を強く支配した。

 2、ゲリラかゼネストか

 長谷川 敗戦直後、徳球(徳田球一)は共和政府の樹立ということをとなえた。労働者の工場委員会、農村の農村委員会と、食糧難解消などを要求する市民委員会で人民協議会をつ〈り、人民民主主義を実現するという構想で、いわばソビエト方式だね。これに対して野坂参三が党内で主張したのは、天皇制に触れない民主人民政府の構想なんだ。つまりブルジョア民主主義を前提とする人民戦線方式。この根本的な戦略の違いが、コミンフォルムの批判のあと形を変えて出てくるんです。

 レッドパージの予感がつのってきたころ、野坂がぼくに軍事方針を書いてくれといった。ぼくが断ったら、紺野与次郎にお鉢が回った。彼は戦前の風間委員長のころに軍事委員長をやっていたからね。で、彼は全国の五万分の一の地図を集めて、農村ゲリラ活動と根拠地建設の一大プランをつくったんだな。ぼくはびっくり仰天した。

 これほど権力の集中した資本主義国の日本で、中国のような解放区なんてできやしない、やっぱり本命は労働者のゼネスト・武装蜂起じゃないかと、ぼくは紺野に反論したんです。これには賛成者が多くて、紺野の方は政治局で孤立した。志田重男は最後まで黙っていた。ところが、五一年の四全協で出た軍事方針案を見たら、農村ゲリラとゼネスト・武装蜂起の折衷案なんだ。折衷案とはいうものの、ゼネスト・武装蜂起の方は遠い先の話だから、武闘をやるとすれば現実には農村ゲリラ型の地域解放闘争だけになってしまう。中国流の解放区づくりみたいなことになるわけだ。

 ぼくと紺野の論争は、単なる軍事方針をめぐる論争じゃなくて、戦後の日本資本主義をどうとらえるか、プロレタリアートと農民のどちらを重視するかという、実に根本的な戟略問題をめぐる路線論争だったんだね。それ以後、ぼくと志田は一貫して対立することになる。

 五〇年にマッカーサー指令が出て執行部(所感派)が地下にもぐった。ぼくも五一年から五五年まで非合法生活に入って、もっぱら九州の党活動を指導していた。志田の軍事方針が全盛を誇った時代で、むろん九州でも中核自衛隊は組織されたけれど、ぼくは炭鉱労働者の闘争の方に力を入れた。九州では軍事行動らしい軍事行動はゼロで、警察のでっちあげた菅生事件のほかにめぼしい事件はありません。中核自衛隊は丸腰で、阿蘇地方の基地新設反対の合法集会なんかに出てきていましたよ。

 由井 日共武装闘争の経過を簡単にまとめておきましょう。五〇年一〇月に武装闘争を最初に呼びかけた論文「共産主義者と愛国者の新しい任務」が出ます。それから五一年二月の四全協で軍事方針が決まる。国際派が空中分解するのは、その直後ですね。そして五一年の八月の二〇中総で新しい綱領の草案が出て、一〇月の五全協で採択されます。

 長谷川 当時の指導部は在日と在中国の二つに分かれていた。在中国の徳球たちが五一年綱領を決めて、軍事の方も志田の方針でいいということになり、五二年一〇月の二二中総で最終的な意思統一がはかられるわけだ。

 由井 「武装闘争の思想と行動の統一について」ですね。ここで労働者階級のゼネスト・武装蜂起、農民の武装闘争、農村および都市のパルチザン闘争の統一という方針が固まる。長谷川さんのおっしゃる折衷案です。中核自衛隊は武装組織の基礎形態ということになる。

 もっとも、中核自衛隊は五一年から山村工作隊の延長のような形のものも含めて組織されていて、やがて独立遊撃隊もつくられる。具体的な武関の指針を示したのは五一年二月の『球根栽培法』第三一号(「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」)で、時限爆弾や火炎ビンの製造法などを教える『栄養分析法』だの『料理献立表』だの『新しいビタミン療法』だのという非合法出版物が続々出されます。

 長谷川 ああいう軍事方法の当否を別にしていえば、『球根栽培法』はゲリラ活動の指針としては実によくできていますよ。武器のつくり方もなかなかのもので、党中央の技術部には相当な人材をそろえていた。

 由井 この軍事方針が現実の火炎ビン闘争として実行に移されるのは、五二年一月の白鳥事件から八月の横川事件までです。わずか半年余りだった。やがて中核自衛隊は各地で孤立する。多くの隊員が食うや食わずで、栄養失調から結核になったりノイローゼになったりする状態では、相当数の隊員が自然消滅したのは当然ですね。

 五二年一一月には総選挙で日共候補が全員落選し、五三年には伊藤律の除名や徳球の死があって、党内にようやく批判の空気が流れる。徳球自身も五二年七月の論文で極左冒険主義の行き過ぎを批判しています。それでも軍事指導部は既定方針を捨てないで、逆に武器の強化をはかったりするのですが、五五年に遂に命脈が尽きる。七月の六全協で軍事方針が最終的に放棄きれてしまう。むろん中核自衛隊などのY組織(軍事組織)もご破算です。この過程で批判さたり、自己批判のあげく自殺したり、何とも悲劇的な末路をたどった関係者も少なくなかったですね。

 3、「権力者」を捜して

 長谷川 あの軍事方針を生んだ一要因は朝鮮戦争なんだな。当時、日共には今の新左翼と同じように「戦争を内乱へ」という発想があった。ぼくは不干渉を主張したんだが、あのころ祖国防衛隊を組織した在日朝鮮人の動向もあって、党は朝鮮人民支援ということを火炎ビン闘争に結びつけた。米国の始めた朝鮮戦争を失敗させる政治的決定打が全面講和闘争で、この闘争が武装闘争と一体視されたわけだ。日共と在日朝鮮人の運動が組織的に分離されるのは六全協以後です。

 由井 米軍に追われた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の一兵士が日本へ密航して、私といっしょに日本人になりすまして小河内で軍事活動をしていましたが、去年つかまりましたよ。いずれにせよ朝鮮戦争とのかかわり合いは複雑でしたね。

 ところで、私の早大入学は五〇年で、その年の夏から軍事方針が学内でも話題になった。私は五二年に早大の軍事責任者に指名されました。前年に大学職員と乱闘したのが早大細胞指導部の目にとまったからというたわいのない理由で、まるでその後の武装闘争の内実を暗示するような話でしたが、ともかく、Y(軍事)をやるからにはプチブル根性をなくさなければということで春休みに一カ月ほど小河内で山村工作をやり、四月から学内で中核自衛隊を編成しはじめた。五二年のメーデー事件にも関係して、警官隊に石を投げたり催涙弾を投げ返したりしたものです。

 メーデー事件直後の五・三〇闘争のとき、初めて火炎ビンを投げた。新宿駅東口で破防法粉砕総決起大会が開かれ、交番などを襲撃した。投げた瞬間に、うしろから腕をつかまれましてね、私服にやられたと思ったら、労働者風のおじさんが「やった、やった」というわけです。これはあとで大衆がいかに日共の軍事行動を期待しているかの例証とされたんだが、何だかむずがゆくて……。

 六・二五の朝鮮戦争勃発二周年には、市谷の在日米軍総司令部(現自衛隊駐屯地)を攻撃した。手づくりの爆弾で構内のドラム缶を爆発させようとしたんですが、実際は中身がなくて戦果は事実上ゼロ。独立遊撃隊の隊長になって小河内に入ったのは、その直後です。中核自衛隊の行動の限界を突破するためには、山岳と農村を根拠地とするゲリラ活動が必要だという。そこで早大から私ともう一人が出かけた。

 日本初のパルチザンというわけですが、実態はチャンバラ映画の助っ人みたいで、地元の細胞やシンパに迷惑をかけた遊撃隊も多い。ある村で一番悪いやつはだれだと捜し回ったあげく、ちょっとした富農に目星をつけコメ一俵をかっぱらった。ところが、それを手伝った村内のシンパが消防団具に追っかけられ、川に落ちて死んだという不幸な事件もあります。

 平野部にはもう封建的地主がいない。で、地主を捜し求めてヤマに入ったという面がある。とにかく、いたるところに権力の体現者がいる、農村には農村権力があり、大学には大学権力がある。これらをやっつけろという発想なんだな。それで大学の総長や課長クラスの職員を売国奴といって糾弾したりする。こういう傾向は新左翼にもありますね。

 長谷川 これほど交通の発達している国で、パルチザン闘争なんてできやしないよ。

 由井 実際、ばかばかしい話が多かったですね。第二次の小河内事件のとき、独立遊撃隊はトンネルの出口で警官隊のトラックに上から石を落として一挙に撃滅しようということになった。ところが、石がころがり落ちていく間にトラックはスピードをあげて通り抜けるんです。逆にこっちが追っかけられる。峠の上には警官隊が待ち構えている。逃げるのに苦労しました。

 やはり小河内にいたころのことですが、奥多摩の方ヘアメリカ兵がジープに売春婦を乗せて遊びに来る。これを昔の忍者が使ったようなパンク針で襲撃したけれども、ジープはそんなものがタイヤにささっても平気です。そこで今度は連中が抱き合っているところへ脅迫にいったら、逆にピストルでおどされる始末です(笑い)。朝鮮戦争が終わると、アメリカ兵が家族連れで来るようになった。しかし子供までは巻き添えにできない。あとで子どもは可愛いなあと発言したら、アメ公は絶対にやらなければならん、お前は民族的憎しみが足らんと批判された。討論にならないわけです。ただし基本的には、個人テロはやらない方針でした。

 長谷川 それは建前で、実際に動き出すと、そうはいかないよ。

 4、どこかにスパイが?

 由井 しかし、今の新左翼の諸君と違っていたのは、観念的にもせよ大衆との結合ということを重視した点ですね。劉少奇の『共産党員の修養を論ず』などを読んで、大衆のものは針一本借りても返すほどモラリッシュでしたよ。隊内の批判と自己批判も、そういう問題に関するものが多かった。だから暴発しても半年余りで終わったと思うんですが、これが日共党員の思考を矮小化し、権威主義的にしたことは否定できない。

 長谷川 福岡の米軍板付基地で日本人従業員が朝鮮へ行くアメリカ降下兵のパラシュートをカミソリで切り裂いておくという事件があって、見事な軍事行動の一つとして党中央で誇大に評価された。ああいうのも当時の軍事方針の欠陥を示しているんだが、それは別として、行動のパターンについていうと、由井君の参加した新宿の破防法粉砕総決起大会にしろ、六八年の新宿騒乱事件にしろ、群集心理を利用して市民を実力行動に巻き込もうとする点は今も昔も同じようだね。これはやはり邪道だけれど、その心情はわかる。

 日韓闘争のころから通常のデモは機動隊の盾に封殺されて、にっちもさっちもいかなくなった。社共両党は動かない。そうなると、人の集まる場所をねらって一揆的な行動を起こしたくもなるだろう、一種の挑発行為だけれど。

 由井 日共の火炎ビン闘争の背景には、レッドパージで労組方面の活動家が一万二千人も根こそぎにされ、日共系の革命的労働運動がしばらく窒息したという事情もあったと思うんです。そこで火炎ビンで突破口が開けるんじゃないかというような心理状態に陥る。

 長谷川 やはり大衆からの遊離に問題があるわけだ。六〇年安保闘争のあと、大ざっぱにいって左翼運動はテロの方向に走る部分と正統の労働運動に戻る部分に割れていった。いま爆弾闘争のようなテロを支えているのは、恐らく主にアナキストとブント系の若者でしょう。分散孤立した彼らは、大衆をどう組織するかという地味な課題に取り組むことができないで暴発する。大衆は最初は日和見なんですよ、家族をかかえてね。これがまともに相手にできないようじゃ仕方がない。

 由井 全部とはいわないけれど、ブントは過去の歴史と決別したところから発したでしょう。それで日共のマイナスをマイナスとして謙虚に学ぶ姿勢が欠けていますね。

 長谷川 闘争が孤立すると、組織内部にも病的な傾向が生ずるんだ。指導部は不安になり、人が疑わしく見えてくる。戦前のリンチ事件がそうです。戦後は極左冒険主義の末期に総点検運動という形で現れた。

 由井 どこかにスパイがいるということで……。

 長谷川 そう。小河内で活動していたグループの中に、そういう疑いをかけられて自殺した人がいたね。それから五二年から六全協まで、たった三年ほどの間に、東京都の地区委員会の責任者が一三回も交代した。

 由井 民主的機能がなくなりますからね。上からの命令で、都合の悪いのはいとも簡単に更迭されてしまう。

 長谷川 中央指導部は頭の中で闘争方針をひねり出す。これが失敗すると、実施面を担当した者がおかしいということになる。査問、場合によってはリンチ、それから飛ばされるか除名。これがほぼ全国に広がった。運動に疑問を持った善意の人間がやられているんだ。

 由井 連合赤軍は私たちが二〇年前にやった武闘の方式を繰り返してみせた。交通も警察機構も飛躍的に発達した今の段階で、うまくいくはずがないんです。で、ああいう悲劇的な同志殺しをやった。

 私も第三次小河内事件のとき査問されたことがあるんです。ダム工事の現場へ工作に行って暴力団に追い出された。あすは連中が本格的に逆襲に来るという。それでも仲間がどうしても飯場へ工作に行くというので、敵の中へ飛び込むつもりかと反対したら、お前は日和見だと一晩問い詰められた。結局、ひとりで岩かげに残っているところへ飯場の用心棒が来たので、大げんかをして、二、三日警察に留置されましたがね。

 5、未解決の悲劇

 長谷川 軍事方針の行き詰まりがどうしようもなくなったので、在中国指導部からも志田のやり方はおかしいという声が出て、六全協の決定になるわけです。しかし、本当の意味で階級的に問題を解決したわけじゃない。左から右へ、無原則的に揺れたということですね。これが六〇年安保闘争での共産党の日和見につながるんだ。

 五九年一一月八日の国会突入のあと、新左翼は国会再突入、共産党は請願デモという考え方に立った。ぼくは政治ストの準備を提案したんだが、党中央に一蹴された。

 由井 そこでますます新左翼との距離が開いてゆく。

 長谷川 若い人は一層ラジカルになるし、しにせは右へ右へと動〈わけです。しかし、このところ新左翼を卒業して、セクトを離れて地道に労働運動と取り組んでいる若い人たちが出てきてもいる。こういう自主的なグループは、まだ本物の革命的細胞とはいえないけれども、それを代行しているんだ。これはたいへん貴重だと思う。こういうのを中央委員会が吸収できないようでは共産党の再建はむずかしいね。

 ソ連や中国に共通しているのは党即国家、国家即党ということだ。封建的要素の強い国々の革命が持つ負荷ですね。日本は違う。それはもう常識でね。ただ、ぼくはベトナムだけは高く評価したいんだ。あの国では新しい国家形態を大衆自身の統一戦線が支えている。そこで考えるんですが、日本のようなブルジョア民主主義国で、党が将来にわたって大衆団体を支配しないという保証があるかどうか。

 これは日共の極左冒険主義が提起した問題の一つでもある。党が国家機関を握って君臨しないという実効性のある保証は、杜共両党はもちろん、新左翼からも与えられていない。イタリア共産党の歴史的妥協の方針について、新左翼の人々は右翼日和見主義だというけれども、大衆自身の統一戦線を追求しているという点でぼくは大いに学ぶべきものがあると思うんだ。

 由井 本来なら暴力革命であっさり片づけるのが簡単だと思うんだけどね(笑い)。それにしても内ゲバというのは、私たち四〇代の人間にはとてもついていけない感じですね。思想的、哲学的次元の問題と運動の次元の問題を混同したら、ああいう形にならざるをえない。殺し合いを自賛するようなことは、六全協以前の共産党にもなかった。何をやるにも一人よりは二人の方がいい。これは子どもでもわかる運動の鉄則です。

 長谷川 革命勢力内部の争いということになると、ぼくは日共で二度経験した。戦前と戦後と。本来ならば有力な活動家になるはずの若者たちが、ああいうことでだめになる。大衆から離れて、自分の意識だけの世界を構築しようとするからですね。

 アラブの先進分子を武装闘争の面だけで評価してはいけない。彼らは砂漠の開拓といったような課題にも、専門の非合法組織をつくって取り組んでいるんだ。視野が広い。アラブに奉仕するために出かける日本の若者たちも、そういうものから学ぶ過程で健全に育ってくれればと思うんですよ。

 由井 火炎ビンを投げたり、ヤマで討伐隊に追われたり、いま思えば変なことをしたものですが、それはそれで私としては時代に対する精一杯の対応だったと思うんです。生まれなければよかったなんて絶対にいいたくありませんね。六全協で万事精算というわけにはいかない。軍事活動に全生活を捧げた人たちは、みんなそうでしょう。横川事件のように、現地へ派遣されたとたんに逮捕されて七年間も服役した東大の独立遊撃隊員もいれば、妻子とも別れたまま蒸発した人もいる。ちゃんとした総括はまだなされていませんね。運動の犠牲者たちにとっては、万事は未解決です。

 二〇年前は火炎ビンがやっとだったけれど、今は武器も進歩したし、テロは国際的に拡大してもいます。それがいいことか悪いことかを形式的に論断する前に、私は変革者の魂ということを強調したい。この魂なしには、ろくな行動が生まれない。

 長谷川 ぼくは六全協のとき、九州の活動家から受け取った手紙のことをよく覚えている。極左冒険主義の時代に、革命家は子どもをつくるべきではないということで、細君に赤ちゃんをおろさせたというんだな。ぼ〈は暗然として、彼に答える言葉もない。全党が彼の苦悩を苦悩したかどうか、ぼくは今でも疑問に思っているんです。  (『朝日ジャーナル』一九七六年一月三十日号)

 長谷川浩・由井誓略歴

 長谷川浩

 一九〇七年生まれ。父は三菱財閥の執事。浩は東大法学部に在学中『無産者新聞』に関係し、一九三〇年に共産党に入党した。しかし、逮捕されて大学を中退。その後もたびたび検挙されて敗戦まで服役。戦後、再建共産党の中央委員、政治局員として労働運動の指導に専念。五〇年に徳田球一らとともに公職追放にあい、いわゆる「主流派」として地下へ潜行。六全協では中央委員を辞退。六〇年の安保闘争では党青年学生部長として羽田空港でのハガチー来日抗議のデモを指揮。六一年に党の綱領に反対して除名処分を受けた。六七年に共産主義労働者党に参加したが、「極左方針」に反対して労働者党全国連絡協議会を結成。八一年に労働者党を結成して全国委員として活動していた。八四年死去。

 由井誓

 一九三一(昭和六)年 長野県南佐久郡川上村大深山、由井虎夫同志津以の次男として生まれる。

 一九四三年 長野県立野沢中学入学。旧制野沢中学、新制野沢北高校時代は陸上競技部所属、応援団団長。

 一九五〇年 早稲田大学第一政経学部政治学科入学。レッド・パージ反対闘争の中、学生運動と政治活動に入る。日本共産党に入党。

 一九五二年 血のメーデーを契機とする早大事件後、半非合法活動に従事、小河内村山村工作隊に入る。小河内で検挙、釈放後地下活動に入る。三多摩地区、都内、栃木県下等で活動。

 一九五五年 『アカハタ』編集局に入る。以後、砂川闘争、警職法闘争、安保闘争等にかかわる。とくに六〇年安保闘争では、記者の立場をこえて他政党、労働団体、学生団体との橋渡し的役割を果たす。

 一九五八年 富原守義の次女晶子と結婚。

 一九六一年 党内論争で構造改革路線をとり離党(実際は、共産党が離党届を認めず、除名処分にした)。社会主義革新運動に参加。新聞『新しい路線』編集長となる。

 一九六七年 共産主義労働者党結成に参加、後に新聞『統一』編集長となる。

 一九七〇年 労働運動研究所に参加、以降常任理事。一九八五年より雑誌『労働運動研究』編集長。

 一九八六年十一月十七日 死去。(五五歳)  

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