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昔から私は吉田松陰という男が尊敬もできず、好きになれなかった。後に松蔭がどういう男か詳しく知って、始めの直感みたいなものが正しかったとわかったが、複雑な思いをした。
私が出た高校は、本来は小学校から大学までの一貫教育の学園であったが、私は高校3年間だけお世話になった。広大な敷地に小学校から大学まで点在していて、その中に松下村塾を復元した家屋もあり、丘と丘をつなぐ陸橋には「松蔭橋」などと名前がつけられていて、学園の創始者がいたく吉田松陰に惚れ込んでいる様子であった。
その高校には入ったものの校風にはなじめなくて、反発していたので、いっそう松蔭が嫌いになった面もあっただろう。松下村塾の家屋を復元したとて、何が嬉しいのか、と。
学園の創設者が薩摩のさらに田舎の出身だったから、「知行合一」なる教育理念に共感したというより薩長同盟のよしみで長州の吉田松陰が気に入っていたのかもしれない。
東京は世田谷区に松蔭神社なるご大層なものまであり、神奈川県の厚木にはその名も松蔭学園という学校まである。
松陰神社は、世田谷線という路面電車に毛がはえたような路線の「松蔭神社前」駅近くにある。江戸時代は長州藩の別邸があった土地に、長州藩を乗っ取った下級武士どもが師たる松蔭を祀ったものだ。山口県の萩にも松蔭神社がある由だが、東京の神社は撤収してくれないだろうか?
どういう経緯か、世田谷の松蔭神社のすぐ近所には、安政の大獄で松蔭を処刑させた大老・井伊直弼の墓がある。井伊直弼の霊に、非業の死をとげた松蔭の悪霊が暴れださないよう抑えてもらっているのだろうか…。
吉田松陰はペリーの黒船に単独で乗り込んで「俺を米国に連れていけ」と頼んだとか、いや、実はペリー提督と刺し違える気で乗船したのだとか、諸説あるようだが、どちらにしてもバカなというか、分別のない愚挙をしたものだと、初めてあの男を知ったころからバカにしていた。
しかも、幕府側に自首して出たのだから、黙っていればいいものをアホかと。
海外渡航が国禁だったことは承知していたのだから、無銭で米国に連れていってくれとは、どれだけ図々しく、無法な男だったかわかるではないか。
こんな法破りの勝手な男が、明治以降に長州が政権をとったせいで褒めそやされるようになった。これも「動機が純粋なら許される」みたいな、理不尽な話がまかり通る発端になったのではないか。後の二・二六事件の青年将校どもの一件に通じるものがある。
吉田松陰は、いかにもアヘン戦争で負けた支那が植民地にされる惨状を知って、日本をなんとかしなければと思ったかもしれないが、しょせん彼は長州の忍者組織の一員であるから、黒船の一件にしても上の指示にしたがっただけのことなのではないか。
後年、明治天皇がすり替えられたと知ってからは、余計その遠因をつくった吉田松陰が嫌いになった。孝明天皇とその息子(本当の明治天皇)を暗殺し、長州の田布施から大室寅之祐を連れてきて身代わりに据えたのは、松蔭の弟子だった伊藤博文であった。かかる不法な天皇制を生んだのは、吉田松陰にも責任はある。
なにが「知行合一」だ、馬鹿野郎と言いたい。
本当の吉田松陰については、松重楊江氏の『二人で一人の明治天皇』(たま出版 2007年刊)に教えられた。以下はこの本を参考にしている。
詳しくは後述するが、松重氏は明治維新の本質を、「松下村塾門下生の勤王志士たちが計画した南朝再興とは、北朝系の天皇グループをそっくり排除して、南朝系に代えるという王朝の変動革命であった」と説いている。
話は飛ぶけれど、現在、大阪市長・橋下徹の率いる「大阪維新の会」が、国政に討って出ようとして、衆議院議員候補を一般公募して政治塾のようなものを立ち上げようとしている。その募集が「志士を募る」というようになっている。これはただ単に幕末の「改革」を真似たからではなく、もっと歴史を知る何者かの深謀遠慮が隠されているように思えるのである。
本稿を書こうという気になったのは、まさに今日的課題としての「大阪維新の会」の台頭を踏まえてなのである。
さて。
長州藩には、「ウラ毛利」という忍者組織があった。この連中が主体となって倒幕運動をやるのである。
「ウラ毛利」とは、長州藩(毛利)が関ヶ原で敗れて以降、倒幕用の軍資金を貯めて守る任務を負った忍者集団のことである。
「ウラ毛利」には、上忍・中忍・下忍の3階級があった。松蔭は中忍であり、伊藤博文は下忍であった。下忍だったから、孝明天皇を惨殺する実行部隊を指揮し、厠に入っていた天皇を下から忍者刀で突き刺したのが伊藤である。
松重氏によると、「ウラ毛利」」の上忍は「情報局長官」であり中忍は「左官級情報員」で、下忍が実行部隊ということになる。
松蔭は、黒船に乗り込んだ当時(安政元年)、長州藩の家老は益田弾正親施であり、この親施(ちかのぶ)とその親の益田元宣に認められて、中忍に抜擢されていた。この頃に「ウラ毛利」は、尊王攘夷とともに倒幕、および南朝革命を志す同士集団となっていた。
だから松蔭は、「ウラ毛利」」の上忍・益田親施の命令で、情報収集の目的で浦賀において米艦に乗り込もうとしたのである。したがって、あの愚挙は松蔭の個人的な動向ではなかった。
松蔭は失敗して下獄し、翌年には萩に回されて謹慎処分となる。しかし幽囚の身となった松蔭は、そこから松下村塾に顔を出し始めて講義を始め、塾生が増加してゆく。
これも先だってのブログで説いたように、松蔭がもし単独の行動で萩から浦賀まで従者を連れて旅行してきて、浦賀で小舟を購入して米艦に乗り着けるなんてことをしたとしたら、どれくらいの巨額の資金が必要だったか。それを誰も言わないのではないか? 当時、江戸から大阪まで飛脚を飛ばすと今のカネで50万円くらい費用がかかったのだ。萩から浦賀まで下級武士の分際で旅費が揃えられるわけがないことくらいわかりそうなものだ。だから、松蔭にはスポンサーがついていて、その背後の勢力が資金を出して、スパイたる松蔭に情報をとらせようとしたのだ。
松重楊江氏の『二人で一人の明治天皇』は、松蔭について端的にこう書く。
「松蔭は、真に明治維新の指導者であった。明治の歴史を考えてみるに、維新政府はひたすら松蔭の理念を追い求め、道半ばにして失敗した革命だったとも言える。」
松蔭ごとき忍者ふぜいが、幕末・明治の精神的指導者であったことが、日本の悲劇であったろうか。
そもそも、黒船に不法に乗船しようとすることが出来た、というのは、彼がまともな武士ではなかった証左である。
武力で脅してきたとはいえ、曲がりなりにも外交使節として来航したアメリカ側に、「天下人」たる武士ならば堂々と対応したであろうし、仮に個人的に留学したいと思ったにしても、幕府高官に認められるよう手順を踏んで実現させていったであろう。
しかし、松蔭はまさしく忍者の卑しさで情報を取らんとして不法な乗船を試みたのである。
では、維新政府が追い求めた松蔭の理念とは何か。それは3つに分けられるという。
『二人で一人の明治天皇』からの引用になる。
* *
一つは、水戸学の主張した尊王攘夷であるが、尊王といってもそれは南朝正統論である。分かりやすくいえば、北朝である京都の天皇家を廃絶し、正統である南朝の天皇家を再興するという南朝革命論である。
吉田松陰の唱える尊王とは、偽朝である北朝の孝明天皇を指すのではなく、長州にある大室天皇家を指す。松蔭は自らが「玉」を抱えていたからこそ、南朝革命論を唱えることができたのである。
一口に尊王といっても、その対象が北朝か南朝かでは大違いである。
(中略)
しかし、革命家がそのテーゼを偽っていたのでは、革命の戦士たちは無駄な犠牲を払わざるを得ない。天狗党の暴走も、蛤御門の戦いも、この斉昭・慶喜の二代にわたる二枚舌、現代風にいえばダブルスタンダードのテーゼのために起こったのであって、志士達が水戸学をもって革命の原義としたのは無知無学による誤りだったのである。
二つ目は、徹底した民族主義と侵略思想である。松蔭は水戸光圀の影響を受けて、(中略)神道による国家支配を主張した。維新政府と神道の癒着はここに始まったのである。
また、安政元年〜二年に萩の野山獄において、松蔭は「来原良蔵に与うる書」の中で、「富国強兵し、蝦夷を耕し満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉(くじ)き、欧(ヨーロッパ)を析(くだ)かば事克(か)たざるはなからん」と書いている。これは、その後における日本の侵略戦争の道筋そのままである。
(中絡)
三つ目は、先の民族主義と矛盾するようだが、「解放」という理念であった。松下村塾出身の志士たちに指導された長州奇兵隊の中核をなしていたのは、部落解放の夢に燃える賤民出身の若者たちである。
この解放の理念は、天皇のもとで全アジアが平等だとする点で、岩倉使節団の帝国主義とは対立する。これはいうまでもなく、後年、石原莞爾らが唱えた「大東亜共栄圏」の理想であった。
松蔭は、『討賊始末』という書によって、「宮番の妻・登波の仇討」、すなわち賤民の女が長年の苦労の末、夫の仇を討つという苦心談を書き残している。これは、松蔭の理性や感性の中に、非差別民に対する理解がなければ書けなかったことである。
* *
松蔭が「玉」大室寅之祐を抱えていた、とは、毛利家には吉野から分派して逃れてきた大室家という、本当かどうかは怪しいが、後醍醐院の末裔がいたことになっていることを指す。
松蔭は、16歳で松下村塾に入ってきた伊藤俊輔(博文)が、大室寅之祐の家の近在に住んでいることを知って、伊藤を傳役(もりやく)に任命している。
伊藤は1863年に22歳で士分に取り立てられるが、それまでは武士がやらない汚い暗殺をやらされていたのであるし、孝明天皇を暗殺したのが暗殺されるのが慶應2(1866)年。長州藩は伊藤に士分にしてやるから天皇を殺してこい、と命じたのかもしれない。松蔭は、そういう下賤の者と知ってのうえで伊藤を大室寅之祐の世話役に仕立てたのである。
また。
水戸藩は本来的には将軍にはなれない家系であったが、光圀が南朝正閏説にかぶれて以来、尊王といえば実は南朝再興を意味していたというのだ。だが、そこを徳川斉昭や慶喜が二枚舌を駆使して、北朝に間違いのない孝明天皇を支持するとほのめかしたり、南朝が再興しなければいけないと言ってみたりのいい加減な態度をとったので、多くの勤王の志士たちが無駄な戦いを挑んで死んで行ったということなのだ。
それを松重氏は、勤王の志士たちを「無知無学による誤り」と書いている。その通りである。
水戸学のことは、風雅和歌集についての論考で書いたが、「学」などというものではもうとうなくて、単なる身勝手な妄想である。それが見抜けなかった志士達もアホかであった。
しかし今も、その水戸学なるものの誤りはまっとうに認められていない。だから現在も天皇家は南朝が正統だとなっているし、『風雅和歌集』は発禁に等しい扱いを受けている。
松蔭の侵略思想には驚かれた方も多いかと思うが、これが奴の正体なのだ。伊藤博文や山県有朋ら長州閥の政府要人は、松蔭のたてたいわば「オレンジ計画」に忠実になぞって戦争を展開していった。
三つ目の部落解放の思いは、松重氏は、吉田という姓が実は被差別部落の出であることを示唆していると述べている。松蔭は下級ではあるが士分であるけれども、江戸時代には実際は密かにカネで武士の身分(株)を売買していたのだ。その株を買ったのだろう。
賤民が武士の株を買えたということは、大変不自然である。そんなカネをどうやって極貧の賤民が用意できたのか? ここにもなにがしかの援助なり陰謀なりが隠されているのであろう。あるいは盗賊だったか…。
この賤民解放の思想は西郷隆盛まではどうにか受け継がれたが、西南戦争で西郷が死に、うやむやなままに捨ておかれ、大東亜戦争の敗戦まで島崎藤村の『破戒』のような世界が残ってしまい、戦後の「同和」というすっきりしない問題が残った。
引用文中に「宮番の妻・登波の仇討」とある。松重氏は書いていないが、これは八切止夫の史観によれば、「宮」とは縁民を指すのであろう。
日本最初の軍歌とされる「宮さん宮さん お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな」という官軍の行進曲にある、宮さんとは、賤民のうちでも平家系の賤民を指し、「お馬」とは源氏系の賤民を指すと、八切止夫は書いていた。
つまり、官軍は建前上は平家系と源氏系の賤民に夢と希望を与えるために「賤民解放」の旗印を掲げて幕府軍を攻めたのである。しかし当然ながら、新政府ができると賤民は利用されるだけ利用されて捨てられるのである。
西郷が下野したのち、鹿児島で蹶起させられたのも、新政府がじゃまになった薩摩の賤民らを始末するためであったとも言われる。
次回はこの賤民の「解放の夢」について考察してみたい。
長州には被差別部落ほどに差別は受けないが、農民よりランクの下に置かれた賤民、いわゆるカーストがあった。薬屋と万歳師がそれで、松蔭はどうやら万歳師の系統のカーストだったと松重氏は説く。
だから松蔭が牢固とした身分差別を是としている徳川政権を打倒して、賤民の解放を志したところまでは良かった。しかし、松蔭の志を継いだ伊藤博文は単なる殺し屋であり、とてもじゃないが高邁なる理想は持ち合わせなかった。
伊藤は自分が賤民の出で、しょせんは下忍でしかない者が、天皇暗殺の論功行賞ゆえと、多くの邪魔者を忍者刀で殺していき、また理想に燃えた優秀な志士たちが幕末の混乱で次々に死んでしまったために「お鉢がまわってきた」のであった。
賤民の出であったがゆえに、伊藤は賤民を利用して「解放の夢」に駆り立てて、官軍兵士に仕立てたが、戊辰戦争が終わってしまえばお払い箱にして、自分だけが栄達を極めていった。
お払い箱といえば、松重氏はこうも暴露している。
「伊藤博文も、大室家に度々出入りして食事の世話などになっていたくせに、寅之祐を『玉』として世に出してからは、郡役人に命じて大室家の戸籍を書き換え、ほとんど財産を取り上げた上に、その家族には一円の金を与えることなく、冷酷に無視した。
その遺命は、明治・大正・昭和と続いて、平成の今日でも宮内庁はこのことに関わろうとせず、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。」
人によっては伊藤博文を日本が朝鮮を併合することに反対していた、優れた政治家と見る向きもあるが、そういうことはなかろう。
朝鮮李王朝の閔妃殺害事件、いわゆる乙未事変で閔妃を殺害した武装集団は日本の朝鮮公使・三浦梧楼で、この男は伊藤博文が送り込んだ刺客であった。殺したうえにみんなで死姦までした日本にとって汚辱の歴史なのである。
そうした暗さが、伊藤にはつきまとう。下忍という殺し屋の出自は隠しようがなかった。
『二人で一人の明治天皇』に網野善彦氏の『異形の王権』からの引用がある。
後醍醐院の建武の中興についての論考である。
「(天皇親政の中核は)明らかに穢多・非人と関わりのある武力であった。おそらく非人をはじめ、被差別部落の人々が検非違使庁に統轄されていたと思われ、この時期の天皇家の洛中における直属武力はこのような人たちによって構成されていたのである。
(後醍醐天皇は)現職の天皇でありながら、密教の法服をつけ、象頭人身の男女抱合像である大聖歓喜天を前に、自ら護摩を焚いて鎌倉幕府調伏の祈祷を行った。
目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈、まさしくヒトラーのごとき人物であった」
大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)については以下のサイトが詳しい。読めばわかるが気違い沙汰の信仰である。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mitsukyou/kanki.htm
本ブログで「風雅和歌集論」を説いたときにも紹介したが、後醍醐院は男女のセックスを教義とする立川流密教の熱心な信者であった。
狂人に等しいのに、どういうわけか現今の天皇信者=保守派は後醍醐を崇めている。
松重氏はこれに付け加えて、以下のように解説している。
「このような後醍醐天皇の新政権は、武家と公家の強い反発を招き、わずか三年たらずで瓦解した。彼らの反発のもとになったのは、大魔王ともいうべき後醍醐天皇の、立川流密教への偏向と非人や賤民軍団の登用に対して、実は自らも差別されていたという過去を捨てて、ぬくぬくと差別する体制に安住した武士団(源氏・平氏・足利氏らのクシャトリア)の持つ強烈な差別心によるものであった。
(中略)
差別の源泉ともいうべき天皇制のもとで、後醍醐天皇が王政復古のために已むなく頼った漂白民(賤民)の勢力が、古来の差別エネルギーに敗れたのである。
しかし、天皇の南北朝における宮廷闘争は、のちの戦国時代、江戸時代、明治維新と続く賤民と忍者による権力奪取の幕開けとなった。」
これが日本の歴史である。賤民、元賤民、貴族、天皇、こういった勢力が利用したり利用されたり、権力を奪取したり追放されたりの歴史こそが真実の歴史なのである。
実際、鎌倉幕府をつくった武士団、源氏と平氏は賤民であって、中国からの進駐軍だった藤原氏とその支配体制である律令制を打倒して新政権を打ち立てた。このときも、平氏=北条氏は賤民である源氏を使って「解放の夢」を与えてこき使って、貴族化した京都の平氏を倒した。
また後の秀吉も、家康も被差別部落の出で、しかも忍者集団に関わりが深いのであるが、天下をとったあとは自らの出自を隠すために、それまで利用していた賤民集団を殲滅したりしている。
くり返すが、後醍醐院は自らが政権を奪取し、また足利氏と闘うにあたって、穢多・非人ばかりか職能集団であった「非農民」をかき集めて近衛部隊としてこきつかった。「解放」という人参をぶら下げて闘わせた。後醍醐天皇側としては律令国家が崩壊し、農地の支配権を武士に奪われている以上、そうした「非農民」=賤民を騙してかき集めて武力とするしかなかったのである。
楠木正成・正行親子などは、忠臣ということで戦前はもてはやされたが、要は後醍醐院に使い捨てにされた賤民である。
* *
だからこそ、のちに南朝再興を唱えた長州や薩摩は、「賤民」のリーダーであった吉田松陰や西郷隆盛を起用したし、また公卿たちも南北朝時代末期と同じようにこのような「賤民」の解放を求めるエネルギーを利用したのである。
しかし、かくのごとき解放の武力は、当然、公卿、武士、農民を中心とする古い体制の差別のヒエラルキーと対立するに至る。そのため、とうてい一回の革命では解決できないような混乱を生み出す。それを恐れてか、大室寅之祐の明治天皇は本来ならば自ら解放戦を戦い抜くべきであったにもかかわらず、西南戦争によってあくなき解放を求めた西郷を捨て、差別を求める北朝人のグループと連合した。
結果から考えると、このことは「すり替え後の処遇」によってスポイルされた天皇の恐るべき失敗であった。そしてその失敗は、晩年の南朝正系論によっても取り戻すことはできなかった。
* *
さらに論考は進むのであるが、興味のある方はぜひ『二人で一人の明治天皇』を手にして読んでいただきたい。この本は、鬼塚英昭氏の『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(成甲書房)でぜひにと推薦されていた本である。
大変勉強になった。
松重楊江死は、最初に明治天皇すり替え説を唱えた鹿島fの弟子にあたる。
亡くなった太田龍氏も鹿島fは「日本民族の至宝、日本で唯一人のまともな本物の歴史家である」と書いている。
今回は紹介できなかったが、孝明天皇を伊藤博文が暗殺するシーンには圧倒された。天皇を殺すために大掛かりに妾宅を改築して、待ち構えていたのだった。
また孝明天皇が殺されたのは、岩倉具視との男色関係があった(年下の天皇を女形にしたそうだ)のに、天皇が女のほうへ興味を引かれて岩倉を冷たくするようになったことも、開国派となった岩倉グループに暗殺されるキッカケになったという考察もあった。
伊藤博文が厠に潜み、孝明天皇を脱糞直後の格好のまま肛門から突き刺して殺した残忍なやり方だった。実にリアルの隠されていた闇が暴露されている。
その残忍さは、伊藤の師たる松蔭が処刑されたあと、遺体を引き取りにいった際、衣服もはがされて首と胴体が離れた血まみれの残酷なものだったため、師の死因となった孝明天皇へのやり方への復讐だったのではなかったかとも説かれていた。
ちなみに天皇は風呂に入るときも、排便するときも一切自分ではやらない、やってはいけないのだそうだ。下帯をほどくのも、肛門を和紙で拭くのも全部女官がやる。拭く回数も決まっているというのには笑った。だから暗殺されたときは「くの一」が女官に化けて待機し、排便を世話し、天皇が伊藤に刺されるとただちに血を拭き取ってから、待機させた医師に下腹部の傷を縫合させ、急いで御所に戻したという。
さて、本稿もここらで結びとしたい。
南北朝時代の後醍醐院のやり口にしろ、幕末から維新にかけての長州のやり口にしろ、ゲバルトを持たない反体制勢力がある種已むなく、賤民を利用して反乱して、やがて成功するにせよ失敗するにせよ使い捨てにする過程であった。
それが日本史でくり返されてきた本当の歴史である。
そして本稿の途中で述べたが、今また、その手口の変形が実行されようとしているかに私には思える。
それが話題の「大阪維新の会」の国政への登場である。
奇しくも橋下氏は言いにくいことではあるが、被差別部落の出と言われる。だからといって私には差別どうのというつもりはない。ただ、彼ら集団が国政に討って出るにあたって、候補者を公募してそれが「志士を募る」になっていることにも、長州のやり口を思い出させる、何か嫌なものを感じるのである。
橋下氏の主導する大坂維新の会は、私には表面的には財政基盤を持たない(政党助成金がもらえないから、衆院選は手弁当だと言っている)集団で、これが幕末のときの賤民集団のごときに見える。
橋下氏のバックには大阪の財界が、そしてその背後にはアメリカのユダ金がお定まりのようにいるらしい。
なにしろ橋下氏はダボス会議に招集されているVIPなのだ。
このことは副島隆彦氏のHP「学問道場」に、中田安彦氏らの論考があって、教えてもらった。(1296 「橋下首相を誕生させようともくろむ、関西財界ネットワークの正体とは」)
http://www.snsi.jp/tops/kouhou
つまり、橋下氏は明治維新になぞらえてみれば吉田松陰なり大室寅之祐なりにあたり、次期衆院選に大挙出馬するとされる無名の素人候補者たちは、官軍を構成した賤民集団に相応するような感じであろうか。「大阪維新の会」で立候補して、いっときのブームで国会議員になっても、まっとうな政治家として活躍できるはずはない。しょせんは素人なのだ。小泉純一郎の“郵政選挙”で刺客となった議員も、また前回の総選挙で小沢一郎が担ぎだした新人民主党議員も、実際はただの「陣笠」、つまり数合わせの一員にしかなれていないのと同様の景色がまた起きるだけであろう。
財界や官僚に利用されるだけである。
「大阪維新の会」のブームに乗せられて投票する人たちもまた、幕末に「えじゃないか、ええじゃないか」と踊り狂って、いっときの「解放」を夢見させてもらった民衆と変わりがなかろう。
作家・八切止夫によればこの乱痴気騒ぎの踊りは、エタの「え」で良い(ええ)ではないか、の意味だったという。
徳川300年の封建制への反発と解放への欲求がいかに強かったかが、この踊りに現れている。
また、長州の奇兵隊や薩摩の兵隊には、豪商から武装や食糧の補給、兵の服などへの献金・献納が盛んに行われた。これも商人達が差別への反感が強かったことを示しているであろう。
大阪維新の会をバックアップする(資金を出す)のが関西の財閥だとすれば、彼らも官僚制、あるいは東京の支配への強い反感が根っこにあるものと思われるが…。
確かに、大阪の行政の腐敗は凄まじいし、組合(サヨク)のやりたい放題は目にあまる。ザイニチらへの不当な優遇(生活保護の大盤振る舞い)も正すべき課題であろう。
しかしながら、橋下の強権的やり口は組合潰しで大衆の受けを狙って、それを利用して、大衆のエネルギーを怪しい方向へ誘導しようとしているかに思えるのです。かつての松蔭が企図し、長州の忍者どもが日本を誤った方向へもっていったように…。
日本は天皇制が続くのである。それも南朝正閏説の天皇が。
また一方で天皇制を利用した官僚制が続くのである。そのシステムをやはりユダ金が牛耳るのであって、ユダ金にとってはどちらに転んでもいいように仕掛けてある。
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