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(回答先: 丹波福知山に明智光秀を祀った「御霊社」とよぶ古い神社がある。ここの神殿のみすの陰の茶箱には・・・(論考・八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 14 日 14:55:55)
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士道論考
「武士道」が「サムライ」という言葉と共に、ヨーロッパ人でも判る「chival
ry」つまり、「騎士道」という文字に訳され紹介されたのは、今はカナダのバンク
ーバー市に、「ニイトベ記念植物園」を残している新渡戸稲造が1900年に刊行し
た、そのタイトルの英文の著による。
つまり、日本が大国清と戦って完勝した後だから、「ミステリー」といった好奇心
から、この本は各国語に訳され読まれ広まったものである、とは前述したとおりであ
る。
さて、日清条約の結果、台湾と遼東半島が日本の割譲される筈だったのを、フラン
ス、ドイツ、ロシアの三国が干渉してやめさせ、ロシアのごときは遼東半島の旅順に
東洋一の軍事基地を、自分らの手で作っていたのが、丁度その明治三十三年という時
点である。
だから当時の日本には、「臥薪嘗胆」とか「会稽の恥をそぐ」といった言葉が流行
した。つまり、
「日本人の血肉によって占領し、ようやく割譲と決まった土地を横合いから奪って、
そこに難攻不落の軍事基地を作るとは何事か」
というのが連日の当時の新聞記事を賑わした。
もちろん、当時の日本人の一人ひとりが、「好戦的国民」であって、それで皆が、
「また戦争をしようではないか」と投書をしたりプラカードをたてたりして、
「戦争したい、ワショイ、ワッショイ」とデモをしたから、そこで新聞が、その真実
の報道をしたというのではない。これは、その頃の日本人全部の悔しがりだった。
現在と違って、明治時代の新聞資本は、きわめて微力だったから、日清戦争で大儲
けをした財閥からひそかにバックアックされては、「夢よ、もう一度‥‥」と煽動記
事を書かされたという説もあるが、それはあっても限られた部分的なものだったろう。
また、戦争によって一番の利得をこうむるのは職業軍人であって、彼らにとって、
立身出世を得る途は開戦の他はなかったという見方もあるにはある。
それは「軍神」と讃えられる乃木将軍でさえ、日清戦争後は予備役となり百姓をし
ていた。彼が返り咲いて第三軍司令官になれたのは、日露戦争が起ったからである。
さて、軍閥と財閥が、いくら新しい戦争の起きるのを自分らの都合において望んだ
としても、率先躬行己れらがゴボウ剣をぶら下げ、「おいちにっ」と出かけるわけで
はない。
作戦指導はプロがやるにしろ、第一線にもって行くのは、今なら七円、当時は一銭
五厘の葉書で集める「兵隊」とよぶ一般大衆のアマチュアである。
だから、これがやる気でやらない事には勝負にならない。また、当人どもは、ビン
タをとって訓練しても、その家族たちも、
「やらせる気にならない事には、銃後の励みがつかない」
という事になったのである。
つまり与謝野晶子のごとく出征する弟に「君死に給ふことなかれ」とやられたので
は、戦闘意識が低下して困るからである。なんとかしてアマチュアの徴集兵に、「き
み、喜んで死に給え」と家族が勇ましく出征兵士を送り出し、当人も、(死んで帰れ
と励まされ)といった気分で、営門をくぐってくるようなムードづくりがここに必要
となった。これがいわゆる明治軍国主義なのである。
さて、当時、現在でいえば、院外団のごとき存在が明治軍部にもあって、「満州浪
人」とか「大陸浪人」といわれていた。「国士」という言葉を自分らでは使うこの人
達の中に、頭脳明晰な豪傑もいた。明治の偉人と謳われ、「玄洋社」を率いていた頭
山満で、彼は当時の首相クラスより遥かにたち優った偉大な人物だった。
この人が神楽坂毘舎門天の祭礼をのぞきに行った時、よしず張りの高台に立って、
「でろりん祭文」とか「ちょぼくれ」と、この当時は呼ばれた浮かれ節語りの男に目
をつけ、うなずきながら、
「あれを呼んでこい」
と門下生に言いつけ、自分は馴染みの料亭「よし村」で待っていた。
やがて、その浮かれ節語りが恐る恐る伴ってこられると、いきなり開口一番、
「国民精神作興すべき明治の聖世に、案中草三とか国定忠次など外題にすべきではな
い。日本人が一つになって火の玉のようになり、外敵にあたるような読み物はないか」
と叱りつけた。
「元寇の時の北条時宗はいかがなもので」恐る恐る切り出されると、
「それは芝居や流行の歌になっているか。なるべく一応は知れ渡って、田舎のじじば
ばにも馴染みのあるものの方が判りやすかろう」
「ならば‥‥太閤の朝鮮征伐は?」
「あれはいかん。目的が尻つぼみになった。では外敵でなくともよいから‥‥仕返し
つまり復讐のために、国民が一致団結して死を怖れず突入するようなものはないか」
言われて、その男は、きっとして、
「あります‥‥芝居でやる仮名手本忠臣蔵をばらばらにして義士達の銘々伝にしまし
たら」
と言い出した。頭山満もそれにうなずきはしたが、
「あれならよかろう。ただし芝居のように、顔世御前が裸になっているところを高師
直が覗くのが発端、というのではいかんぞ」
と注意を与え、窓ごしにおりから料亭の庭の桜が散るのを見下ろしていたが、
「九州には、花はきりしま煙草はこくぶという薩摩刻みの宣伝(ふれ)歌がある‥‥
だから、それにならって、『花は桜木、人は武士』というのはいかがじゃ」
言われて、その男はしばらく口ずさんでいたが、うなずいてみせた。そして、その
まま上方へ発って修行し、その男は半年もたつと東京へ戻ってきて、
「武士道鼓吹・浪花節・桃中軒雲右衛門」の看板をかけ、明治三十二年、今の帝劇に
もあたる当時の本郷座で明治軍部やその他のバックアップで盛大な独演会を開いた。
これ以来、「花は桜木、人は武士」というさわりの名文句が一世を風靡したから、
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」と、新渡戸稲
造も、その著の第一章第一行目に採用し、第十五章にはそのまま引用し、
「知的並に道徳的日本は、直接間接に武士道の所産であった」
とまで極限している。
そして、その「武士道」という言葉を一般に流行させた桃中軒雲右衛門や、その流
行に刺激されて「英文・武士道」を書き、これを売りまくり、その中に、
「封建制の去りたるとき武士道は孤児となったが、今や現在の整備せる軍隊組織が、
それを受け継いでいる」
と軍国日本を宣伝し、よって「黄禍説」をカイゼルに叫ばせ、そして、「死をも顧み
ぬ狂信的な恐ろしい日本人」という錯覚を海外に広めてしまい、
「彼らには原爆を投下するしか、我々には他に方法がなかったのである」
と、トルーマンに言わせてしまう結果にさえなったこの本の著者の新渡戸稲造や、英
文にした英国人の夫人に対し、我等は今や何を言うべきだろう。
もちろん、軍国主義日本の聖書ともいうべきこの本に対して反駁したのは、私の前
章の「切腹論考」しか今までにはないが、
「武士道は、その最初に発生した社会階級より流れ、一般大衆に作用し、全日本人に
対する道徳的標準を供給した」
と、芝居の「寺小屋」を引用し、
「検使を松王丸が、源蔵の匿っている幼君の首をとりにきた時、彼は代用品に我が子
を殺して、そ
の首を差し出し、『女房、喜べ。伜がお役に立ったぞよ。やい』と、これは、(義務
の召命に対する従順)上よりきたる命令に対する完き服従があったのである」
とまで説明する。
だから今でも、これは歌舞伎で上演され、お年寄りよりの中には涙をこぼす人もい
る。
しかし、その人も、武士道精神に作用された共鳴感で泣いているのではなかろう。
(義務の召命という召集令状でもっていかれて、そのまま還って来なかった伜や夫)
を思い出し、身につまされているのだろう。だからでもあろうか、
「上からの命令に対し、命も捨てる完全服従つまり体制べったりの忠義」が、「武士
道なり」とする新渡戸説に対し、それが理解できないのか、
「それでは、まるで奴隷の思想ではないか?」
と、オックスフォードの歴史学者O・L・ケリーは疑問を投げかけている。
久米の子ら
また新渡戸稲造説の第十五章の「武士道の感化」においては、
「最初は選良の光栄として始まった武士たちのその精神は、時を経るに従って国民全
般の渇仰および霊感となった。しかし一般の平民は武士の道徳的高さにまでは達し得
なかった。が、島国の民族精神にまではなった」
といった表現をしているが、この発想は日本の武士たるものの発生を全く知らず、ヨ
ーロッパの騎士と混同した発想によるものではなかろうか。
「十字軍」であれ国内戦の「薔薇戦争」であれ、ヨーロッパでは王や王子、時には
王女までが騎士に守られ戦場を疾駆した。しかし、日本では神話のヤマトタケルさま
や神功皇后さま以降、天朝みずから戦場へは出られぬ。南北朝を別とすれば公家とい
えど幕末の天誅組中山忠光卿しか、その例とてないのである。
つまり日本の武士は天孫系ではなく。俘囚の裔だからである。
日本史では、「防人」という万葉集の中の字句から武士の起源を求めるが、これは、
「太政官符」の「大同元年(806)十月の勅」に、
「夷俘ノ徒ハ要害地ニ居ラシメバ、不慮ニ備ウルニタラン。ヨロシク近江国ニアル夷俘
六百四十人ヲ太宰府ニ還置シ、コレヲ防人トナセ。タダシ扱イハ平民ト同ジクスルナ
カレ、野心ハ許サズ、男女共同一ニナセ」
とあるようなのが、そのもとをなしているのであろうが、この「平民と同じくするな
かれ」というのは、
(一般の平民は武士の道徳的高さにまで達し得なかったものである)
という新渡戸説のように、武士なるものを高く評価したものだろうか。どうもそうと
は考えられない。
これは捕虜を率いていった奴隷隊長は、
「今日よりは、かえりみなくて大君の、しこの御楯と出でたつわれは」
と恰好よく自分の売り込みをして、早く京へ戻してほしいと出陣していったのかもし
れないが、
「引率されていった夷俘の徒や、その子や孫」に「選良の光栄」といった見方はおか
しいし、また「武士道精神の根源をみよ」は、とても無理である。
だいたい夷俘とか俘囚といわれるのは、天孫系が来るまで日本列島を押さえていた
原住民族の末孫どもなのである。彼らも一時は勢力を盛り返し天孫系を、「山背国の
天険長岡」へ疎開までさせたが、延暦十年(791)百済王俊哲らに討伐されてしま
ってからは投降した連中である。
そこで『和気清麻呂』の著者平野邦雄も、
「この時の桓武帝の後宮をみると、女御として百済王教法姫、百済王永継姫、尚侍に
百済王明信女、百済王教仁女、百済王貞香り女」
「そして、この後の嵯峨帝の女御に百済王貴命姫、尚侍に百済王慶命女など」
と、吉川弘文館「人物叢書」には明記している。
つまり、これでは士道といっても、「百済武士道」になってしまう。
さて、百済や唐の国には、
「良き鉄は釘にならず、良い人は兵にならぬ」
という格言が伝わっている。だから、これにどうしても突き当たらざるをえない。す
ると、いくら、「醜(しこ)の御楯」と自称しても、その初期の武士は古代ギリシャ
やローマのごとき、「傭兵」制だった事が判ってくる。しかし、こう書くと、これで
は古事記や日本書紀の中にある、
「みつみつし、久米の子らが垣もとに植えしハジカミ(にんにく・にら)口ひひく
(辛く)吾は忘れじ、撃ちてしやまむ」
といったのが援用され、古代日本の初期武士団の実在や、その忠勇性の証左とされる
かも知れない。つまり、
「にんにくを囓って、辛い辛いと言いながらも、撃ちてしやまむ」
と叫んだとか、
「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」
と剣や矛をふろって突撃した連中の、「久米の子ら」が、武士道の元祖とされてしま
うが、さて日本にあっては、歴史の面からはそれっきりで彼らは消えていき、やがて
は、「久米の仙人」の伝承としてしか残らない。つまり、
(空をとんでいた彼は、川で足を洗う女の秘所が水面に映じたのに、思わず眼をみは
った途端、その神通力を失って落ちてしまった)
といった好色物語が、久米の子らの末路とされている。しかし、これでは武士道にな
らない。
ただ、島津家久に占領された後の沖縄においてのみ、薩摩の圧政を少しでも和らげ
ようというのか、向象賢(薩摩向け用の和名は羽地朝秀)編の「中山世鑑」の別冊
「補綴語集抄」に、
「やまと琉球、これ古来同種ならん。久米の子というは当地出身。今も久米部落あり」
とする個所と、
「久米村三十六姓は<唐栄>とよばれる。ゆえあって、やまとぶり(日本風俗)を嫌
い、唐言葉のみを用い、<鎖之側(さしのかわ)>とよばれる対清対鮮の外交事務を
首里しろにて司る」
の事由が北京で自決した久米部落の長であった、「林世功遺言録」に残っている。
(これまでの、沖縄人はみな日本を慕い、祖国復帰を願っているもの)
という見地からは、
「久米部落というのは十四、五世紀に当事の明から集団で移住してきた連中で、島津
氏に反抗して当時の清国へ祖国復帰運動を計り、明治政府が琉球を合併せんとするや、
久米部落の者は、病身の中山王を東京へ拉致せんとする暴挙に対し、尊王攘夷の旗を
かかげ、湖城(こぐすく)里子ら勤王の志士が次々と、山原(やんばる)船をしたて
て清穀へ使いに行っていた」
という事実からして、
「一死ヲ以テ泣イテ天恩ヲ請ウ。日人ハ宗社(琉球王国)ヲ廃墟トシ、国王世子ハ捕
ハレテ東行(東京送リ)ス、ワレヲ尊王攘夷ハアエナク破ラレ、一死をモッテ謝サン
ノミ」
と、憤死した林世功ら久米部落の者は、
「親清派の利敵行為を計った叛逆分子である彼らが、恐れ多くも古事記に出てくる、
天皇親衛隊の久米の子らの末裔である、などとは考えられもしない」
とされているが、これを裏返し、
「傭兵として日本列島へ攻め込んだ天孫族に従い従軍した久米の子らが、その必要性
がなくなって解雇された時、また大陸へ帰ろうとして沖縄に漂着したまま土着したと
ころ、慶長十四年に、かつての被征服者隼人族の裔である島津兵に侵攻され、『うぬ
らは昔、撃ちてしやまむと攻め込んできた輩の裔じゃろ』と迫害され、そこで反島津
的になって、清国こそ我等が祖国となったもの」
と考えれば、彼らがあくまでも薩長の明治政府に抵抗した根強さも、さすが、「久米
の子らの裔」と思わされる事があり、林世功の遺書にも、「撃而将止」つまり、「撃
ちてし止まむ」の字句が残されている。だから、もし古事記や日本書紀からその解明
を求めれば、日本の士道というのは、この久米の子らの叛逆の系譜まで遡って論じな
ければならぬかもしれぬ。
だが、それでは「百済武士道」が転じて「清国武士道」になってしまう。こういう
事例は、きわめて支障が多いからして、歴史なるものは、こうした物には蓋をする。
売絵武士道
さて、絵かきさんの社会では、本絵と売絵の区別がある。前者は展覧会へ出品する
とか、自分自身のためのもの。後者は、「誰某の風景」とか、「静物の何某」という
評判をとると、それに合わせて、画商に渡し換金する目的だけで、同じ様なものを売
れるとなれば、いくらでも描きとばす代物の事である。
なにしろ、換金しさえすればよいのだから、判りやすく売りよい絵、つまり普遍妥
当性という事ばかりが大切にされる。たとえば富士山にしても、朝早くや曇りの日に
は、黒く視えもするし、夕焼け空では、「真っ赤な、赤富士」になろうとし、雨の日
も嵐の日もあるだろう。
しかし売絵の富士山は、故横山大観のものにしろ、誰もみなその構図が決まってい
る。つまり、
「判りやすく、納得させやすい為」である。そこで、武士というものも、明治三十年
代になってしまうと、ひとつの観念的な型が出来上がってきたのだろうか。たとえば、
「武士道とは、あるものに対して、ある物をという報酬主義を排斥する無私の精神」
とか、「武士道においては一貫して理財の道を、道徳的及び知的職務に比して卑しき
ものと、みなすことを固執した」
「かくの如く金銭と金銭慾とをつとめて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡
百の弊害から久しく自由であった」
などと、新渡戸稲造もその著の「武士の教育及び訓練」の個所に説くのであるが、こ
れでは、まるっきり武士道とは「無償の行為」であるし、みんな片っ端から扶持ばな
れして浪人になり、無慾恬淡に過ごすような事を意味するようにもなる。だからして、
「金に対して慾を出すのは、武士の風上にもおけない。武士はくわねど高楊枝である」
といった公式主義をこれにあてはめてしまい、
「実存ではないが、庶民的感覚で理解しやすいもの」つまり理想型の「売絵」のゆお
うな武士道が、この結果、作りものとして、武士のなくなった明治時代から発生した
のではあるまいか。
なにしろ実際の士道たるや、「続武者物語」の中の篭城の心得に、
「古き侍のいいける。城をかこみし敵は城内の糧食のつきるを待つものなり。よって
寄手に見られやしき櫓などにのぼりて、楊子にて口中をつつき、満腹のさまをつくれ
ば、寄手は当てはずれとなり、囲みをとき引き揚ぐるものなり」
といった、たあいのないものさえ残っている。
子供っぽいと今では思えるが、これは後の歩兵操典のごとく、幕末には各大名家で
教練テキストに採用したと伝わるから、ついには「いろはがるた」の中の一枚に、
「ぶしはくわねど高ようじ」
となったものでもあるらしい。もちろん、
(慾をだすのは武士の風上におけない)などの方は、武士道鼓吹浪花節の、「赤穂城
あけ渡しの場」で、慾深な武士と設定された大野九郎兵衛に対し、桃中軒雲右衛門が
正義の味方のごとく浴びせかけるため考えだされた、それは「語りのたんか」でしか
ない。
元禄頃から幕末までは、何処の大名も例外なく金に困り、理財蓄財に専念していた
から、金銭尊重だった実際の武士道と、こうした「売絵武士道」とは、大幅に違って
いたものではなかろうか。
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- 切腹論考 (論考・八切史観) 五月晴郎 2012/5/14 23:25:37
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