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Re: 演歌論考 (論考・八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/640.html
投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 14 日 15:34:40: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 縄張り争い / 新興やくざ / やくざ流行  /  演歌論考 (論考・八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 14 日 15:31:59)

http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1094

何故、学生は?

 さて、今や映画館はエロダクションものでなければ、白鞘の日本刀を振り回す任侠
ものが全盛である。東映の当事者などは、あれは時代劇であると言い放つが、映画館
には、「汝の敵を愛せよ」というのだろうか、やくざでない学生の観客がきわめて多
いのである。
 彼らは高倉健が映画に現れても、掛け声をかけたりカッチョイイといった声援はし
ない。おとなしい観客であるが、熱っぽい瞳でじっと見入っている。
 だからして、全共闘の学生運動と、やくざ映画についての関連性といった事も口に
される。つまり「唐獅子牡丹」においては、主人公は白鞘の短刀を厄介になっている
志村喬に預ける程に、あくまで暴力否定である。
 だが隠忍自重して自分を押し殺していても、あくなき挑発に堪りかね、しまいには
「もはやこれまで」と、背中の刺青を出して死地へのりこんでいくのである。
 また、「懲役三兄弟」は、高倉健の扮する旅人が、病気の子供を救われた恩に対し、
その子を亡妻の里へ預けて出直してゆき、中古軍袴の恰好のまま中国人の別府東洋会
の本拠へ、殺された恩人への義理を果たしに、日本刀を抱え斬死覚悟でのりこむとい
うストーリーである。
 「博徒百人」で高橋英樹の扮する主人公も、父を殺され、義兄弟の江原真二郎を倒
された仕返しに、仇の許へ単身んのりこんでゆく。
 つまり、こうした話の組み立ては、相手が「組織暴力」で、武装も優れ、衆をたの
んで向こうの方から命令一下襲いかかってくる設定になっている。
 たとえば、長屋住まい者達が広場に集まって、皆で仲良く歌など歌っていると、こ
こは立ち退きだから座り込んだり立ち止まってはいけないと、圧倒的な数で意地悪を
され、追い立てられるようなものであるとする。
 もし、そこで抗議でもしようものなら、すぐさま、
「こっちへ来い」
と、乱暴な子分にごぼう抜きにされて、叩かれたり蹴られたりする。時には親のない
子のように、娘っ子までが引っ張ってゆかれ悪親分に苛められる。
 そこで、我慢に我慢し、耐え難きを堪え、忍び難きを忍んでいたのが、
「もう、辛抱できん」
と、捕まればどんな目にあうか判っていながら、向こうの悪い親分の家まで止むに止
まれぬヤマトダマシイで突入していき、
「男なら、桜の花みたいに散ってくれよう」
玉砕精神をもって果敢な抵抗をする。もちろん映画では、相手の悪い親分は、「あっ」
と最後血を噴いた額を手で押さえて倒れるように設定されている。
 また、画面の高倉健や高橋英樹は、「いざ」という時は、もろ肌脱ぎになるが、学
生達はあべこべで、そればっかりは真似などできない。うっかり素肌なんか出して恰
好よくしようものなら、催涙ガスにかぶれて全身に炎症を起してしまうからである。
だから、夏でも、なお暑苦しくタオルで顔まで二重に覆って突っ込まねばならない。
それに、手にするものも、三尺の秋水とはゆかず、せいぜい2メートルの角材くらい
である。しかし、心情的には、(勝ち目がないと頭から判っていても、どうしても決
起し突入するしかないのだ)といった気持ちが、<任侠仁義>の、「一人ぐらいはこ
ういう馬鹿がいなきゃあ、世間の目はさめぬ」に共通するものを、ぐっと感じるらし
い。
 学生にしてみれば、文科、法科と志願学科の選択をするように、ML、革マルをサ
ークル活動にしなければならない必然性はない。ノンポリを決め込んでいても、誰か
らも「惰情」とそしられる事もない。かえって「賢明」そのものなのかもしれないの
である。
 なのにヘルメットをかぶって、あけくれ訓練しているプロに衝突してゆくのは、や
はり、(一人ぐらいは、こういう馬鹿が‥‥)の心境と同じもの、つまり連帯的悲壮
感からだろう。また規制された場合、学生側は手出しをしなくとも捕らえられ、相手
は仕事だから殴っても罰せられないという矛盾にも曝される。
「向こうは法秩序を守る任務だから当然だ」と思うのは世俗的な大人の考えで、若い
世代の学生にそれは通用せず、
「警棒とヘルメットに身を固め、大きなジュラルミンの楯を持ち、学生の足を突き、
頭をボカスカ殴る。こんな恰好のよい仕事はない」
などと、彼らは<機動隊ブルース>を合唱しつつ、
「車の衝突でも人間の喧嘩でも、先にぶつかった方が悪いに決まっとるじゃないか」
殴られながらも不条理をおおいに訴える。つまり彼らがすぐ、カエレカエレと一斉に
シュプレヒコールを始めるのも、
(一人ぐらいは、こういう馬鹿が)とは思っても、殴られれば痛いし持ってゆかれる
のも辛い。だからして、(無病息災、帰路安全)を願い、(お祓い)の意味でのシュ
プレヒコールとは祝詞で、「退散」を祈る呪文に他ならないようにも見える。
 が、そんな呪いをかけたからとて、
「帰れ、帰れと蛙が鳴くから帰ろ」とは、それまで給料をとっている連中が「ピイッ」
と口笛一声、引き上げる筈もない。職務に忠実な側は、あべこべに、「わあっ」とジ
ュラルミンの楯をかざし、アーサー王の騎士の如く勇ましくかかってくる。
 時と場合によるだろうが、一度捕らえられると、後は向こうのペースで処理される。
学校みたいにエスケープもできない。
(危険率が高い割には効率の少ない、目先の判断では、無償みたいな行為)とは、学
生達にも判っている。そこで、(一度死んだら二度とは死なぬ)と、やくざ映画を手
本みたいに瞼に浮かべ、突入する勇気を奮い立たせるのではなかろうか。
 つまり、映画の高倉健や若山富三郎の扮する主人公が、成功報酬を貰いためとか、
金で雇われた殺し屋として殴り込むなら、とても「共感」は呼ばないだろうが、任侠
映画のヒーロー達は皆言い合わせたように、「馬鹿を承知で」淋しく微笑んでみせ、
多人数の中へきわめて少数、時には単身で孤独な斬り込みをかけてゆく。ここに観客
である学生層は若い血潮をたぎらせ、「おのが姿を影とみて」つまり高倉健や高橋英
樹の主人公に、自分の顔や姿をオーバーラップさせてしまい、主義主張とはまったく
隔絶した物語とは承知しながら、いざとなった時、整列して合唱したり、その幻想の
中に、「行くか血の雨、男の意気地」とつっこんでゆくのではなかろうかと想像され
るのである。


孤独の点と点

 昔の髷ものの任侠映画では、
「死んだ親分さんにはお前も厄介になっている。さぁ、後はかまわず男らしくやって
おいで」
と気丈に励まし、その後ろ姿を泣いて見送る母親の場面もあったが、ここ二十余年は
「出征」という現象はないし、今時、危なっかしい所へ出かけてゆく伜を、大いに励
まして出してやるような母親もいない。そこで、
「親でさえ手を出さずに育ててきた息子を、他人さまにぶん殴られる所へなどやれま
すか」
と止めるか、または、
「頭を叩かれたらバカになる‥‥後遺症が残ったらどうしますか」
と、息子をつかまえて、親は医学的に反対する。
 父親だって、『巨人の星』は漫画の世界の話で、ああいった男親なんか滅多にいな
いし、「自分の信念でしっかりやれ。捕まったら、俺が酒をやめても息子達のために
保釈金は作ってやる、安心しろ」と、そこまで物わかりのよいのもいない。
 だから、母親とも父親とも結び付かないまま、
「男がこの手を振った時は、腹を決めたという事さ。泣いてくれるなおっかさん、俺
は俺らの道をゆく」
と、やくざ映画のバックミュージックに流れる演歌に、すうっと心をもってゆかれ、
(俺の事を唄っているようだなぁ‥‥)
と、ほろりとする学生がいるのもこの為であろう。
 なにしろ日本は四面を海に囲まれている。国外への脱出は殆ど不可能だったため、
遥か昔から家畜の如く飼い馴らされ、「長いものには巻かれろ」式で、生きてきたこ
れまでの伝統の諦めをもつ親が、お上に追われるような運動に、己れの子女を加えた
がる筈がない。権力へ従順なのが良民とされ、少しでも反対意志を示せば、これまで
の日本では、「非国民」という烙印を押された過去もあったから、どの親でも、みな
心配して反対するのである。だから、当人達にしてみると、「親は何故ああなのか」
と恨めしくなり、
「俺の親が‥‥はたして彼らなのか?」
といったエスカレートした疑問までもってしまい、「時には母のない子のように」と
いった歌が、かつて流行したのもこの背景があったからであろう。つまり絶望にも似
た孤独感から、「親はあっても、なきに等しい」といった観念がどうしても生まれて
くるものらしい。だからして、現在のやくざ映画では、主人公やその同調者は、これ
ことごとく、親に死別したり生別したことに設定がなされているのも、やはりこれに
迎合する為であるらしい。
 つまり、戦後のやくざ映画や、そのジャンルの演歌は、家畜の仔としてでなく野生
の生物として解放された世代の「孤独」に合致させるため、彼らの類は類をもって集
まるというか、同じ境遇の孤独の個と個の繋がりを、しきりに強調しその連帯感を、
「親の血をひく兄弟よりも、固い契りの義兄弟。こんな小さな盃だけど‥‥」
といった表現、つまり同志的結合を義兄弟といった形で表現し、また最近の若い世代
は、男も恰好よいのに憧れるから、
「俺の目を見ろ、何にも言うな。男同士の腹のうち‥‥」
といった歌詞でそれを支える。
 もちろん親に反対され周囲の大人からも、
「そんな事をしていると、大会社や官庁に就職できなくなるぞ」
と言われて、時には自分でもむなしく感ずる事がないでもないだろうし、同じように
デモっても、運悪く捕まる者と逃げられた者とでは両者差もきつい。だから、
「ばかと阿呆の兄弟がらす、あばよで別れてゆこうじゃないか‥‥」
自嘲というか、自虐めいたのも流行するが、さて、この「義理」とか「人情」といっ
たものは、NHKなどでは浪花節で復活させようとしているらしいが、また日本には、
これが時代に逆行してカムバックする機運ができているのであろうか。演歌が怨歌に
ならぬようしみじみ考えざるをえない。  

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